第2話
「おはよう」と飛び交う明るい声が聞こえて、ようやく顔を上げた。
鯉が泳いでいる澄んだ池の向こうには煉瓦造りの校舎がそびえ立っていた。正面の大きな扉には精巧な藤枝の模様が刻まれている。赤チェックのブレザーにグレーのプリーツスカートの制服を身に纏った女の子たちが少しずつ塊をつくりながら下駄箱に向かう。小鳥みたいな声がアメーバのように増殖していく様子を耳で感じながら、私は真新しいハルタのローファーに目を遣った。
人の気配を避けて歩いていた。誰とも目を合わせないようにしながら。これから始まる新しい生活のことをできるだけ考えないようにしながら。
「きえちゃん、お母さんと一緒に受験がんばりましょう。良い学校に行くには今が大事なのよ。…それに、私立の女子校ならきっといじめなんてする子いないから」
レースのランチョンマットが広げられたダイニングテーブルにはお母さんの集めてきた高校のパンフレットが幾つも並べられていた。その中から一番地味なパンフレットをひとつ選び指差すと、お母さんは飛び上がるように喜んだ。
引きこもりになった負い目のある私はお母さんの要求を強く拒否できない。お母さんの本棚には子供や育児や教育についての書籍が失敗作の私を責めるように並べられている。その色形文字を思うと私はいつも、お母さんの言うことを何でも聞いてあげなきゃって気になってしまう。
「なあなあ、お前、何中?」
隣の席の少女に身を乗り出すように話しかけられる。
一拍置いて、東中、と答える声が震えた。頭の中で黄色の信号が点滅する。少女は変なものを見るような目つきをしながら席を立って何処かに去ってしまった。
背後で猫の交尾中のような笑い声が重なって聞こえる。誰かと笑って話をするという簡単なことが、私にとってはひどく難しい。難しくなったのは中学3年生のある事件からだった。随分遠いことのように思えるけれど、それまでは私だって普通の女の子だったのだ。退屈な毎日をそれなりに楽しく過ごしている普通の女の子の一人。
子どもの頃からの親友を自殺に追いやったということについて、ここに居る推定25名のクローンみたいに姿形が似ている女の子たちに知られてしまうわけにはいかなかった。机に突っ伏して耳をふさぐと、教室に響くざわめきが遠くなっていく。もう誰のことも傷つけたくないし、誰からも傷つけられたくなかった。
私は透明人間。私は透明人間。私は透明人間。
そう言い聞かせては、あまりに脆くできている自分の心を守ろうとしていた。
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