Death Mask

@0TryokuY0

第1話 新たなる獣人

 藍色の闇で満たされた空間は粒子が舞い、薄汚れた閉鎖空間であることを思い出させる。空間のちょうど中心には円形のステージがせり出し、静寂を保っていた。頭上から降り注がれる光がスポットとして舞台を照らしている。披露されるのは俗世から切り離されたパフォーマンスの数々。血と肉が湧き起こる刺激的な夜。演目が終わるたびに熱量は蓄積され、粒子と同様にこの空間を占領していた。


 カツン、カツンと高い音が空間に響いていく。口元に笑みをたたえた男がヒールを鳴らし、光の中へ歩み出た。シルクハットを被り、襟の立ったシャツにコルセット、目元を隠す仮面。男が身にまとうモノとして、どれもが異質さを放っているが、なぜかその男に馴染んでいた。手元に握られた黒く長い鞭も、顔の縦断するように刻まれた歪んだ皮膚の形跡もまた異質そのものであったが、観客はそれらを当然のものとして受け入れた。いっそう大きく音が鳴り、男は立ち止まる。しかし、男はそのまま舞台の中央から動かない。指先ひとつも動かさず、微動だにしない。その佇まいは、どこか作り物を思わせる。固唾をのんで見守っていた観客は、次第に隣人達と疑問の声を交わしだす。そのざわめきは徐々に広がっていった。そして、ざわめきの中に不安の声が混ざるようになった刹那、鋭い一音が周囲の雑音を取り上げた。男の鞭から繰り出されたその音によって、舞台の時間は再び動き出す。舞台奥の暗闇から低い音を鳴らして、檻が運び込まれる。身長や体型もバラバラの黒子達は男の隣にまで檻を寄せると、体をしならせ、奥へ消える。檻の中には何かがうずくまっているようだ。トウモロコシの粒ように並ぶ客たちは一斉にその中身を確認しようと目を凝らす。その最中、男は静かに口を開いた。


「ただ今皆様の目前におかれた檻。こちらにおりますは、一頭の獣。」

 まるで歌うような声は、静かな空間に重さを持って響いた。

「しかしながら、ただの獣ではございません。異形として生まれた、この世でただ一頭の孤独な獣。その異様な姿を持ったが故に仲間などおりません。」

 あぁと嘆くような一声が、漏れる。心からそう思っているのならどんなに良いか。

「人の手で摂理から引き剥がされ、独りで生き、そして独りで死に行く運命です。そうしたのは我等が人間。その事から、これが覚えた事はただひとつ。自らを独りにした人を恨み、襲い、“喰い”荒す事。いやはや、神は異形のモノにも感情を与えたもうた。それでは皆様にご覧いただきましょう、これは躾を終えたばかり、私とて気を付けなくては―」


 紡がれる仰々しい文言に耳を傾けながら、観客はじっと檻と男を見ていた。しかし、男の言葉はこれ以上続かなかった。檻が度号をあげて揺れたのだ。一度、二度、三度。ほら、また揺れた。檻は、内側からの衝撃が伝わる度に、嫌な悲鳴を上げている。


“檻が壊されようとしている”その場にいる誰もが、その意図を感じ取った。人を喰う獣が今まさに自由になろうとしている。檻の鉄が曲がる、蝶番が割れる。厚い扉が―。


 観客席から女性の悲痛な叫び声が上がる。スポットライトに照らされる、光に満ちたステージ。檻を割って、体躯をしならせ転がり出たのは一頭の――獣。栗色のたてがみを振り乱し、覗くのは深緑色の瞳、それは酷く歪んで見えた。太い四肢を強く地面に踏み込む。獣は明らかな敵意を持って眼前に躍り出た。突然の出来事に呆然としていた人々の心に徐々に恐怖が湧き上がる。『この獣によって自分たちはどうなってしまうのか』その答えは、誰かに聞くまでもなく、自らの本能がいち早く教えてくれる。なんということだ、理智とは対極に存在する獣が、たった今自由を手に入れてしまった。


 刹那、空間に重い金属音が鳴り響く。そこで初めて観客の視線は獣から逸れた。大の男の腕程の太い鎖が、檻と獣の首をしっかりと繋いでいた。鋭い牙が覗く口から、大粒のよだれを落としながら、獣は恨めしそうに低く強く唸る。獣の上半身を黒い拘束具が覆っている事に何人の人が気づけただろうか。反射的に立ち上がる者、また呆然と座ったままの者、じっと見据える者、笑みを隠せぬ者、様々な反応を見せる観客の耳に、男の声が静かに届く

「孤独を抱え、他を寄せ付けぬ、猛然たる仔を新たに躾けるのも又一興。皆様が再び来場された際には、さてこの獣はどう変わっているのでしょうか」

 男は会場に向かって、語りかける。

「貴方様に一粒の刺激的な恐怖を」

 大衆の悲鳴に負けぬほどに大きく、獣の咆哮が響き渡り、空間にこだました。


 今日も、ひとつの灰色の夢が終わる。



 倉庫を区切っただけのバックヤードは年がら年中、埃っぽい。表の華やかさを作り出すために、様々な物が所狭しに置かれている。光に照らされていないだけで、それはただの”物”に成り下がる。奥まったその場所は淡いオレンジ色の光に遠くから照らされ、ざわめきは遠くに聞こえるほどになっていた。バックヤードと外を繋ぐ裏口のすぐ近くに、ひとつの檻が置かれていた。その檻は、先程ステージで壊された物よりずっと大きく、見るからに頑丈な造りになっている。その中に先程と同じく、何かが入っていた。しかし、その動きは怠慢そのもので、全く覇気が感じられなかった。


 檻の中、自身を縛っていた重い拘束具から解放され、獣はようやくといった様子で伸びをする。地を踏む四本の脚とは別に二本の腕をもったこの獣は、一見するとケンタウロスの様にも見える。右半身は傷だらけであるが、その体には万遍なく栗色の毛が生えていた。獣が動くたびにふわふわとしたたてがみが揺れる。頭の上には二対の角が生えている。狼と馬と空想上の動物を足して割ったような姿。現実ではまずありえない体の造り、自然の摂理に沿って生まれた獣ではない事は、誰が見ても明らかだった。その非実在の獣が、確かにこの檻の中にいた。

 獣は何度か床を確かめるように足踏みをして、四本の脚を折り曲げ座り込む。身体を休めるための形をとって、獣はそっと目を閉じる。そうして、思い出すのだ。ステージに出たその瞬間の、刺さるような光源の熱さ。耳をつんざく悲鳴、強い照明に目が慣れ、そして見つけてしまう、観客のひきつる様な恐怖を。そうさせているのは他でもない毛にまみれた身体を持った自分自身なのだと。思考が悪い方向に行く前に、獣は長く息を吐いた。そして自由に動かせる二本の腕、その内の一本で獣は自らの肩を、肉球を携えた手で揉んだ。

 まるで人間がする様に。

「…疲れたな」

 獣は牙を携えた口で流暢に言葉を吐き出した。今この場面に『とある研究施設』の研究員が迷い込んだとしたら、感激のあまり奇声をあげ、即座にこの獣を施設へ連れ帰り、様々な観察と実験を行うだろう。獣自身はそんな事になろうがなるまいが、今はどうだってよかった。ひとつの仕事を終えたという実感が彼の中に確かにあった。倦怠感を示す言葉は、誰にも届くことなく冷たい鉄の檻に吸い込まれるだけ。


「舞台にあがる事は、練習とはまた違いますからね」

「うわっ!」

 男はいつの間にか檻の前に佇んでいた。完全に油断していたが為に、獣は思わず肩を跳ねさせた。一方の男はしてやったりと言わんばかりの顔で満足そうに笑っている。演者の一人であるこの男は、ちぐはぐな衣装を身に着けたまま、顔の装飾品をすべて外していた。仮面を外した状態では、顔の半分を占める火傷跡が薄明りのもとにさらけ出されてしまっていた。顔の大半は酷く焼けただれており、生半可な熱で形成されたものではない事が分かる。彼の両目が均等にしっかり開いている事が不思議に思えるほどだ。


「…おいムッチー、驚かせんなよ」

「僕はチョコさんを驚かせるつもりで近づいたので、反応頂けてよかったです」

 皮膚のひとつ下、爛れた肉を晒した男はムッチーと呼ばれ、獣の渋い声にも特段悪びれる様子もなかった。獣も唐突に目の前に現れた火傷男に不服を示すものの、それ以上言及する事をしなかった。このふたりは先程同じステージに立っていたもの同士である。ずっと前から苦楽を共にしてきたような気軽さ、親しみを覚えるよう声色。少なくとも、獣と人間との関係性を超えたものの様にも感じられた。

「物販や片づけもだいぶ終わりましたよ、お疲れ様でした」

 男は手に持ったジャケットを差し出した。獣はそれを格子の隙間から受け取る。手に取るとおひさまの匂いが舞った。

「そっか、手伝えなくて悪いな…檻の修理もあるんだろう?」

 獣は受け取ったそれを羽織る。男の目はスッと細くなり、再度獣に笑いかける。

「今の貴方は“上客に好かれやすい”見た目をしている。ひょいと好奇心で覗きに来られたときに、獣は檻の中にいなくてはね」

「…あぁ」

 獣はそのジャケットに袖を通しながらやっとのことで、返事をした。男が言っている事も理解できるし、実際そうなった際に、迷惑をかけてしまうのはどうしても避けたかった。男は獣が服を着終わったのを見計らって、頑丈な檻の柵を鞭の柄でコツンと鳴らした。

「壊した檻の件でしたら、心配には及びません。人食い獣がステージ上で暴れ出し、牙をむかんと檻を壊す…そういう演出ですから。ある程度、直しやすい様に作ってあります」

 獣が自らの足でサーカス団を訪れてから、もう数か月になる。人間として生きていけなくなり、見えない誰かから逃げように生活していた。しかし、ふとした時にこの団の存在を知り、男に団に来るよう誘われた。もうどこにも居場所が見いだせずにいた獣は、見世物としての役割を果たすつもりで、入団した。男には、不思議と驚かれはしなかった。遠い昔馴染みが獣の姿になって再度会いに来たというのに。

「…なぁ」

 獣は言いづらそうに牙をもごつかせた。そして一呼吸の後に、意を決して口を開いた。

「あの拘束具ナシにしないか?」

「でもつけた方が客ウケいいんですよ」

 特に悪びれる様子もなく男はあっけらかんと答える。そういったものを喜ぶ客が多いのだという話だ。獣はそれ以降の言葉を紡ぐことを早々に諦めた。


〈フリークサーカス:Death Mask〉このサーカス団は、一般的にそう呼称される。演者の珍奇さや禍々しさ、猥雑さを売りにして、日常では見られない品や芸、獣や人間を見せる興行である。人々が金を払って見に訪れるのは、日常からかけ離れたモノ。日常には生きられないモノ。ここに訪れる者達は、皆どこか歪んでいるのだ。そして見に来る者達もまた、歪んでいるのだ。


「少し尾を引くかもしれませんが、支障は出ませんよ。そういう風に縛りましたから」

 言葉を続けずとも、難しい顔をしている獣に男はそう言って笑った。確かにこの男の縛りの技術は相当のものだ。男の言うとおり、今までも、腕の痺れが公演の次の日まで長引く事はなかった。しかしながら、獣は、このまま縛られ続けると、獣自身の根本的矜持が揺らぐ未来がなんとなく想像できたのだ。もうすでに遅い気もするが。

「その痺れを楽しめる様になったら、悩まなくて済みます。手っ取り早いですよ」

「ムッチーのレベルまでいきたくねぇな…」

 獣の口から、即座に返答が漏れた。物事には限度があるほうがよっぽど良い。際限なく楽しむことのできる、少なくとも楽しもうとする、目の前の男と同等になる気はなかった。

 男はそうですか、とどこか残念そうな声をあげた。

「そうだ。物販してたら、チョコさんのグッズ無いか聞かれたんですよね」

「…そマ?」

「マです。需要はあると判断しました。今度新しく作りましょう」

 獣は信じられないと言った顔をしていたが、目の前の男は至って真面目に、商品化を検討している様だった。このやりとりを雑談と呼称しても問題はないだろう。目的はあれど、さほど重要ではないそんな会話が繰り広げられていた。

 格子越しの親しげで不可思議な会話は、後ろからの声に遮られた。

「団長!」

 舞台の方から声がかかる。照明に照らされた向こう側からシルエットがこちらを覗いていた。男が振り向く間に、そのシルエットからもうひとつ小さい影がひょこんと生えた。

「チョコちゃんの調子どうです?そっちいってもいいです?」

「もちろん」

 鈴のような軽やかな声色に対し、男が了承を返すと、ふたつのシルエットは駆け寄ってきて、形を露わにさせた。

「チョコちゃんお疲れさま!」

「ちょこ…」

 ひとりは、とても小さい。クラウンの化粧をした少女。サイズとしては女児といっても良いかもしれない。小さなその全身から人懐っこさが溢れていた。しかし話し方はどこか落ち着いてさえ聞こえた。おどおどと声をかけたもうひとりは、対照的に体格の大きな踊り子の恰好をした女性だった。近づかれると分かるが、檻の前に立つ男の身長をゆうに超し、目測でも2mあるかないかといったところだ。その手は斜め掛けのバックの紐をぎゅっと強く握りしめており、緊張している様子がうかがえる。視線さえも斜め下に固定されたままだった。当の獣はその顔を交互に見るだけにとどまった。

「ほらシルク、一緒にあげよう」

「…ん」

 シルクと呼ばれた女性はそう声をかけられたものの、もじもじとしていたまま立ち尽くしていた。隣にいた少女がちいさな両手でその太もも辺りを押してやる。シルクは意を決して、斜め掛けしている大きなバックを開く。布を切って縫い合わせただけの簡素なバックには沢山の物が入っているようでパンパンだ。黄色いアヒルのキーホルダーがチャリと揺れた。取り出されたのは黄色の水筒だ。

「…これ」

「チョコちゃんの好きな牛乳だよ~」

 コックに黙ってキッチンから拝借したのだという。男はその言葉を聞きながら苦笑いする。コックは自分の食材に対して完璧な管理を目指しており、他人の手が入ることには良い顔をしない節がある。拝借したことが彼にばれなければいいのだが。

 何処かから、ぱたぱたぱたぱた、とはたきをかけるような音が聞こえる。

 男は改めて少女たちに向き直って声をかけた。

「ティンクさん、シルクさん。彼の好物を知っていたんですか」

 ティンクと呼ばれた少女は得意げに親指を持ち上げ、もちろんと答えた。

「牛乳を前にしたチョコちゃんの尻尾の動き見たら一発!」

 ぱたぱたぱた……はたきの音が止まる。獣自身も自分の尻尾の動きにようやく気付いたようだった。尻尾が短いが故になかなか目に留まることが少ないが、自分の意志とは別に動いているのは確かなようだった。

「チョコちゃん、ちょっと待っててね」

 そう言うとティンクはシルクのバックに顔を突っ込んでなにかを探し始める。ティンクの体の半分はバックに乗り上げ、足も完全に地面から浮いているのだが、シルクは何事もないような顔をしている。

「どのコップがいいかなぁ?ピンク色か青色か赤色」

「あかは…しるくの…」

「あぁ~そっかぁ、じゃあチョコちゃんはピンクね!」

 小さな手が檻の隙間からずいっと入り込み、プラスチック製のコップが差し出される。チューリップの柄がついた、いかにも女児用のそれだ。しかしデザインがいくら子供っぽくとも目の当たりにすれば分かる。これはまるで背の低い大ジョッキだ。ふたりの視線におされるようにして、大きなコップは獣の手に収まった。

「ほら、シルクが注いでくれるって」

「うん…そそぐ」

 一定のリズムで注がれた牛乳は、最初からこの状態だったと言わんばかりに静かに揺れる。男はその様子を静かに横から眺めている。格子越しに変わらずじっと見つめてくる視線に耐えかねて獣はコップを一気に傾ける。もちろん獣の口は、コップの淵を咥えることできても、液体をそのまま口内に含める様にはできていない。液体の大半は、重力に従って牛乳が口元から零れ落ちてしまった。

「大変だ!」

「あ」

 いの一番に声を発したのは女性陣であった。拭かなきゃ!濡れちゃった!と声を上げ、わたわたと動き回り裏の積み上げられた荷物の中から布を持ってきたと思えば、身体の小さなティンクが檻の中にするりと入り込み、獣に飛び掛かった。男が止める暇も、獣がコップに残った牛乳を死守する暇もなかった。暇があればこの勢いを遮ることができたか、と言われると、できなかっただろう。


「あたしたちチョコちゃんともっと仲良くなりたかったの…」

「ごめん……」

 零れたものが雑巾に吸われ、すっかり毛も乾いた頃には、ふたりは揃って意気消沈した様子で檻の前に居た。シルクに至っては大きな体が幾分か小さく見えるほどだった。今日の客入りは特によかったなぁという団員の話声が遠くから聞こえた。

「お二人の気持ちはきちんと伝わりましたよ、ありがとうございます」

 無言の獣を前にして、数分。とうとう男が代わりに声をあげた。

「そっかぁ、だと嬉しいなぁ。チョコちゃんまたね」

「…また来ていいかな」

「えぇ、そうしてください」

 獣は最後まで特に何も言わず、受け答えをする事を男に任せて終わった。


「ふたりに何か声をかけてあげればよかったのでは?」

 ふたりが去った後で、男はコンと檻を叩いて、獣に声をかけた。

「…いや、声かけるにも喋っていいのかって思って。あと獣として声出すのもなんか違うかなって…唸るわけにもいかねぇっていうか」

 獣はぼそぼそと答え、新しく持たされた青いコップで、ピチャと音を立てて舌で牛乳をからめとった。どうしても、喋る獣が気味悪がられるという意識が根底にあった。

「うちの団員にそこを気にする人はいませんよ」

「いや、良く考えろ。喋る獣だぞ俺は…」

「確かにそうですが、それも今更と言いますか……」

 男は困ったように眉を下げた。そして「あぁ」と納得の声を漏らした。

「もしかして、チョコさん。女性とお話しするのが苦手なんです?」

 男はどこか確信を持ってそうのたまった。

「は?」

 もちろんこの発言は獣云々という以前に、雄という存在にとっては聞き捨てならないものだった。

「僕の周りにもいるんですよねぇ」

 女性であるというだけで遠ざけたり、挙動が怪しくなる人物をこの男は何人か知っているのだと、獣と自分の友人たちとを重ねながら、男は赤べこのように静かに頷いていた。

「違うからな」 

 眉間にしわを寄せた獣の反論は再度男によって遮られた。

「まぁそれはそれとして。彼女たちよく見ているなと思いまして」

「良く見ているって…」

「貴方をですよ、恐らく元気づけたいと思って騒ぎに来てくれたんでしょう」

「…騒ぎに、ねぇ」

「最近、元気なかったでしょう」

 舌先によって招かれた牛乳が喉を通る。男が言うように、獣自身も気が滅入っているという自覚があった。そしてそれは、新しくなった環境に慣れていないだけだと確信していた。人間として生きていた時には、要人の後ろに控え、身を挺してその人物を守る。守るために自分を捨てる、個のない職に就いていたのだ。それが一転して急に表舞台に、しかも獣として立たされて戸惑わないわけがない。そして、ステージ上の自分に向けられるのは例外なく、恐怖と畏怖の眼差しだ。恐ろしい獣の姿。この怪物まがいの姿なったことが自身への罰であるという考えにどうしても拍車がかかってしまっていた。

 先程のふたりに対してもそうだ。人間であった時の獣は、ずっと親しい人を極力作らないように生きてきた。仕事の事もあり、いつ死ぬか分かったものではないからだ。何よりもそれを免罪符として掲げ生きてきた。今目の前にいる男も含めたほんの数人。幼馴染として関係がある。逆に言うと、それ以外を作ってこなかったという事になる。新しく作る、ということがどうも苦手になってしまっていた。

「そうだ、明日の昼公演、一緒にいきましょうか」

 唐突な男の明るい声色に、牛乳を楽しんでいた獣の喉は不意に狭くなった。この場所に来てから昼公演、その名も〈Life mask〉について耳にする機会があった。フリークサーカスとしての〈Death mask〉はその特殊から、夜公演限定の方式をとっていた。そこだけで十分に利益を出すことができるのだが、技術促進や客前での所作を学ぶことを狙い、昼公演も定期的に行っていた。昼公演では、人を楽しませる技術だけを抽出し、イレギュラーをなるべく削ぎ落とした状態で、養護施設や病院、児童保育施設を格安で巡っている。

「いや、無理だろ」

 獣は肺に入りかけた牛乳をやっとの事で追い出し、言葉を返した。これまでの公演を通じて、自身が恐怖の対象に成りうる事はもう十二分に理解していた。それに、日の光をあびる自分の姿が全くと言って良い程、想像できなかった。

「愛らしい見た目をしているんですから人気出ますよ。何だったら、きぐるみだと思わせればいいんです」

 男は獣の否定を気にせずに男は言葉を続ける。歪な身体を拘束して人食い獣として売り出そうと言った口が、今度は愛らしいと評価してくる。困った顔をするのは獣の番だった。

「こういうので重要なのはイメージです。昼にはマスコットとしての顔を作ればいい。貴方はそれに足りる見た目をしているんですよ。」

「いや…無理だろ…」

 幾度押されても、どうにも決心がつかない。首を縦に振る気にはなれなかった。獣にとって、この反応は致し方ない事だった、獣はこの姿に変化した瞬間から日の下を歩くことを避け、影となるように過ごしてきたのだ。この団に来るまでも、それより前も。獣自身も、あの遊園地から一歩出た瞬間からそうやって生きていこうと心に決めていた。自分はもう日の下を歩いてはいけない。あの子が夜に閉じこもったように、自分たちがそうさせたように。自らもそうあるべきだと―


「チョコ」

 不意に名を呼ばれ、獣の耳がぴくりと小さく動く。

 獣はこの声を知っている。これは静かで強い、”命じる”声だ。

 自然と目が相手の顔へと向けられる。男の目は細められ、視線には責めるような色さえ感じられた。

「できるね?」

 

「――はい」

 あれだけ否定を念頭に置いていた獣であったが。この瞬間、たった一言返すだけで精いっぱいだった。先程まで空間に鎮座していた対等であるという意識はもうどこにもない。一頭の獣としてこの男から受けた訓練の日々が獣の中を占拠していた。


 この瞬間、男は紛れもなく、団の長であった。

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