第三章 ジャンビルの谷とアロタオ砂漠

18

 ドーレンミール山脈の反対側には、荒野が広がっていた。

 大地は赤土に覆われ、ゴロゴロとした岩や、人の姿にも見えるサボテンが、ぽつぽつと存在する。


 その荒野でも、遮蔽物がなく、特に平坦な場所で、バレ・ド・リュシュテリア五日目の競箒レースが始まろうとしていた。

 開始スタートの旗の下、総勢九七六名の飛箒士たちが、今か今かと合図を待っていた。


 風の抵抗を軽減し、あるいは体を保護するために身につけている飛箒服と飛箒帽はお馴染みであるが、一様に大きな背嚢を背負っている。

 中には、競箒中に必要な魔力回復薬や、食糧、着替え、簡易天幕と毛布といった生活用品も入っている。


 これは、今日から四日間に渡る長距離競箒ロング・ライド――大陸の中央部、東西三分の一強の距離を行くためである。

 過去の大会でも、全日程中、最多の棄権者を出しており、バレ・ド・リュシュテリアにおける最大の難所と言っても過言ではない。


 その経路を今朝の打ち合わせで教わったジノが、頭の中で何度も確認していたところ、隣に並ぶ飛箒士に肘でちょいちょいと小突かれた。


「よう、〝ほうき星〟。調子はどうや?」

「え? あ、その、普通です……っ!?」


 振り返り驚いた。深紅の飛箒服と飛箒帽で身を固めるのは、『オルコック』の主力飛箒士の一人、〝空騎士〟エイブラハム・テンパートンその人である。

 防塵眼鏡ゴーグルとスカーフはまだ外したままであり、美形な素顔が覗く。


「あほ、今のは『ボチボチでんな』やろ」

「す、すいません……」

「謝らんでえな! 冗談や、冗談!」

「は、はぁ……」


 豪快に笑い始めるエイブラハムに背中を叩かれたジノは、堅苦しそうな二つ名と違って、随分気さくな人だな、と彼の印象を改めた。


「ま、昨日のアレで、いろんなとこから目ぇ付けられとるやろうけど、同じ〝キトリ使い〟同士、仲良うしようや」

「え? あ」


 エイブラハムが跨がる箒の柄先には、キトリ制作の証である紋章が刻印されてある。

 現在、ジノが跨がっている黒い短箒ショートにもそれはある。


 昨日の時間計測タイム・アタックの後、部屋に訪れたキトリに渡されたのだ。

 短箒はどこも故障しておらず、まだまだ使える。

 受け取る理由がないと断ろうとしたが、「いいモノを見させてもらった礼さね」とキトリに押し切られたのである。


「しっかし、最新のヤツはかっこええなぁ! オレももう一本欲しいわ」


 ジノとしては、もっと落ち着いた色の、木目の美しい箒が好みであるが、禍々しいことこの上ない。

 跨がっているのもちょっと気恥ずかしさを覚えるので、あまりマジマジと見ないでほしいところだが、エイブラハムは遠慮なしに箒を覗き込む。


「いい加減になさい」

「あたっ!? 何すんねんっ!」


 前から叩かれたエイブラハムが頭を抑えた。


「競箒前だというのに、はしたない……」


 振り返る『オルコック』のもう一人の主力飛箒士、〝つむじ風の君〟ことセーラ・スウィングラーが呆れかえる。

 彼女もエイブラハムと同じ深紅の飛箒服であるが、体の線が強調されており、女性を強く意識させる。


「オレは〝ほうき星〟が緊張したらあかんと思ってやな……」

「敵に塩を送ってどうしますの?」

「〝キトリ〟持っとらへんからって僻むなや! これやから婚約者に逃げられた女は……」

「ひ、僻んでなんかありませんし、ぎ、ぎぎ、ギースのことは関係ありませんでしょうっ!?」


 エイブラハムの切り返しに動揺するセーラが少し可哀相だ。見ていられなくなったジノはそっと視線を逸らした。


「ちょっと、あなたっ! 今、わたくしのことを不憫に思いましたねっ!? そう思うのなら誰か紹介しなさいな!」

「へっ!?」

「なんなら、あなた自身が立候補してもよいのですよ?」

「はいいっ!?」


 なりふり構っていられないのか、セーラが無茶苦茶なことを口にする。

 確かに「結婚したい」空気オーラが半端ない。


「前途ある若者を毒牙にかけるのはやめえや!」

「人を毒婦扱いしないでくださいましっ!?」


 今度は拳でエイブラハムを叩いたセーラは、血走った眼でジノに向き直る。


「こう見えても、わたくし尽くしますのよ。お料理も得意ですし、掃除や洗濯だって完璧にこなしてみせますわっ!」

「いや、その……」


 そう必死に自己主張アピールされると気が引けてしまう。

 しかし、セーラの猛攻は終わらない。


「それで、好きなお料理はなんですの? ご趣味は? 貯蓄はいかほどございますのっ?」

「あ、あのっ」

「やめないかっ!」


 顔が近づいてきてジノが仰け反り始めたところで、後ろから柄を伸ばしたモニカが割って入る。


「なんですの? 邪魔をなさらないでくださいな」

「邪魔をしているのは貴様だ、スウィングラー! 貴様のせいで背嚢と穂の隙間から覗くジノの尻を堪能するという、私の貴重な時間が台無しだっ!」


 神妙な面持ちのモニカであるが、言っていることが台無しである。


「何やってるんですかっ、モニカさんっ!?」


 そういえば先ほどから妙に強い視線を感じると思っていたジノが、全身に鳥肌を立てながら腰を折り曲げるようにして少しでも体を前に持っていく。


「そうですわよ! 人の新しい婚約者になんてことをっ!?」

「いや、僕、婚約者になるなんて一言も言ってませんからっ!?」

「そうそう、〝つむじ風の君〟なんてお呼びじゃないのよ! だって、坊やはワタシとイクところまでイク予定なんだもの!」


 モニカのさらに後ろからヘルマンが際どい発言を投げてくる。


「そうなのかっ!?」


 ガバッと振り返るモニカにヘルマンが艶めかしく頷いた。


「違いますっ!!」

「そうか……そうだな。私というものがありながら、この変態男に靡くはずがないものな」

「変態だなんて、モニカにだけは言われたくないわ」


 ジノの否定に胸をなで下ろすモニカに、ヘルマンが膨れた。


「っつうか、いい加減にしろよ、お前ら!」


 ジノの二つ前にいるウーゴが、どうにもしびれを切らした様子で向き直る。


「競箒前にうるせえんだよっ! 周りの迷惑を考えろ!」


 ウーゴの言葉に、周囲の者たちも頷く。


「す、すみません!」

「ったく……だいたい、ジノよりもいい男はここにいるだろうが!」


 最後、やけに格好の良い姿勢ポーズを取るウーゴを、セーラとモニカが白い目で見た後で互いに顔を寄せ合う。


「聞きまして! あの男、自分で自分のことを良い男と宣いましてよ!」

「察してやれ。きっと鏡を見たことがないんだろう」

「くぅ……!」


 一蹴されたウーゴは逃げるように前に向き直った。


「あら、可哀相に……ワタシでよければ今晩――」

「謹んでお断りだっ!」

「まぁ、つれないわねぇ……でも、そこが燃・え・る・わ」

「ひぃいっ!?」


 ヘルマンの投げキッスは、ウーゴのみならず、他の男性飛箒士らまでもが身の毛をよだたせる。


「もうその辺にしておくんじゃ」

「んだぁ、早く競箒が始まんねえとテッテが収まらねえ」

「グンター、離す! テッテ、星の人、一緒っ!!」


 前列からオッジが振り返ると、箒ごとジノに飛びつこうとするテッテを捕まえているグンターが嘆息した。


「ジノのくせによりどりみどりだとっ!? くそっ、どうなってやがるっ!?」

「まったくや。ジブン、ちぃとモテすぎやで?」

「そうだ、そうだ! 〝ほうき星〟ができるからって調子乗ってんじゃねえぞっ!」


 ウーゴとエイブラハムの嫉妬に、だいぶ後ろからゲルハルトが便乗すると、それまでずっと黙っていたアリスが口を開く。


「時間よ」


 小さくも、その場を凍りつかせるような彼女の鋭い声と同時に、旗振り役が開始線横に姿を現す。

 ジノが慌てて防塵眼鏡とスカーフで顔を覆うと、アリスがちらりと見てくる。


「ジノ」

「はい?」

「……ううん、なんでもないわ」


 向き直り、素早く防塵眼鏡とスカーフを装着するアリス。


(……やっぱり変だ。どうしたんだろう……?)


 ジノがアリスの様子を訝しんでいると競箒が始まる。


「わっ!?」


 飛び立つ頃合いを見誤ったジノは、派手に突っ伏した。

 立て直し、再度飛び立とうとするも、すぐ上を後続が通り過ぎていくため、頭を上げることもままならない。


『なにやってんだ、バカ野郎っ!!』


 伝心石からすぐさまウーゴの罵声が飛んできたので、「すみませんっ!」とすぐに返す。


『怪我はないな?』

「はい」

『そうか。ならば慌てず、落ち着いて追いかけてこい』

「はい」


 オッジの指示に返事をし、ジノは地面に頭を飛箒帽越しに打ち付けた。


(本当に、何やってるんだ、僕は……)


 つい今し方のゲルハルトの言葉が胸に刺さる。

 昨日の〝ほうき星〟だって狙ってやったものではない。

 しかし、周りが騒ぎ立てるものだから、気が大きくなっていた。

 たった一度の成功で浮かれていては、先が思いやられる。


 ジノが猛省していると、とうとう最後尾までもが通過する。

 それでもジノは立ち上がらない。

 起き上がれないほどの怪我をしたのか、と係の者たちが不安げな視線を向けてくる。


 ジノは赤土の匂いが鼻腔いっぱいに広がるほどの深呼吸を二回ほどし、ようやく立ち上がった。

 すでに最後尾は豆粒ほどの大きさまで遠ざかっていた。

 文字通り、後塵を喫したわけだが、まだ挽回できる。


 ジノは箒が折れていないことを確認し、「いきます」と一番近い係の者へ手話ハンド・サインを送り、飛び立った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る