ある時点での振り返りーそれは冬のこと
事私がUに掛けた情熱は、一言では語りつくせない。
彼女は天才で会った。文章を書くということについて、鬼であった。
駄文をまず許さない。一から百まで、或いは一千まで、一億一兆と文字を一週間に書いていたのではないだろうか。
彼女は文盲であった。
とある一冊の文庫本に魅入られたのが五歳の頃、それからその美文に憑りつかれ、彼女は生きる幽鬼になり、この世をさ迷い歩くこととなった。
子供たちが遊ぶ日の中で、彼女は本ばかり読んでいた。その文の一文字一文字食い入るように見つめては、自分の筆跡を正していく。
初めて彼女に手紙をもらったときは、私はいつものファンレターかと思った。
しかしそこに書かれている崩し字の筆文字を見た途端、私はぞくり、と背中を何者かが冷たい手で撫でたような快感に襲われた。
このようなお手紙、急に差し上げて大変申し訳ありません。
かの三越八重先生の小説を先日読み上げたのですが、あの甘美なる美しい文章の源泉たる先生に一目お会いしたく思い、せめて生きておられるうちに、とこの一枚書かせていただきました。お許しくださいませ。
十一月八日の正午に、喫茶マゼランにてお待ちしております。
写真は添えません。先生がそうとなら私はわかりますから。
三琴果
みつきんか、と呼ぶらしい。不思議な名だ、彼女のペンネームだろうか?
私は手紙をひらひら裏返したり中身をめくったりして確かめたが、肝心の写真が無い。
美貌家で知られる私に、一見で出会おうというのだから、それなりの覚悟は必要な筈。
私はなんだかその手紙に何か憑いているような気がして、灰皿の上で火をつけて燃やしてしまった。ライターがかちりと鳴った途端、その手紙は燃え上がった。
美しい崩し字が、炎にめらり舞い上がる。
約束の日、マゼランに入ると、「あ」と声がした。
立ち上がった無邪気なその様子を見て、私は「まだ子供ね」と思い、それから絶句した。
こんな子供が、あの美しい字を書いたのか?
長い髪を背中まで垂らし、前髪をどこにでもあるようなピンで留めた少女は、色が白くてさっき来たばかりなのだろう、頬が赤くりんごのように上気していた。
「先生、先生」と私に懐き、あの小説を読みました、あのところが良かった、どうして二人は違う惑星に行ってしまったのですか、好き合っているのに、とぴいぴいとかしましく、私は微笑みながらええ、とかそうね、と言って頷いてコーヒーを飲んだ。
ミンクの襟巻が私を美しく見せていたことだろう。手袋の上から嵌めた紫のルビーも。
ピンピンと若気の至りで、彼女はしゃべり続け、それから私の家に転がり込んだ。
先生私には誰もいないんです、と泣きついた才能ある彼女を誰が寒空の下放り出せようか。
それから彼女と私の日々が始まった。
彼女はかいがいしく私の世話を焼こうと必死であった。
早朝から私の灰皿を洗い、ごみをまとめ、掃除機を掛けて床や窓を磨き上げ、水回りなどはいつ見てもぴかぴかであった。
私はいつ彼女が原稿用紙を持って現れるのかと待ったが、彼女は私へ手料理やその日に使うソープを憧れに満ちた目で包装紙から取り出す私を見つめながら、先生お風呂は何時に入られますか、などと母のように問うので、そうね、じゃあ今から沸かしといて頂戴、と私もつい返答してしまい、昼日中から薔薇の香りのするよく磨かれた黒のタイルの風呂の中、浴槽で彼女の、せんせーい、湯加減は如何ですかー?という声に、ちょっとぬるいわねー、あなた後で入りなさいねー、と間延びした声を出しては、またしまった、と思うのであった。
彼女の文章を、かれこれ三カ月は見なかった。
それから、彼女に私は仕事を与えた。
あれだけの美文字を書くのだ、ちょうど人もいなかったことだし、と私はファンレターへの返事を書かせていたのだが、ある雑誌の取材で、ところでF先生は、最近ますますお美しくなられて、誰か意中の男性でもおられるのですか、と記者に尋ねられ、そうねえ、そんな子ならいるにはいるけど、別にそういうのじゃないわねえ、と答え、ええ?でもとある筋からは、先生は常にUという思い人がいる、と情報がありましたよ?なんでも、同じ家に住まわせて、出かける前に靴の先に接吻を、帰宅するとまたお帰りなさいまし、と靴に接吻して先生が車に跳ねられなかったことを感謝するのですよね、それから、と続けるので、ちょっと待って、なんなのそれは!と私は手で記者の言葉を制し、続けて聞いた話に思わず口をあんぐり開けた。
なんでも、私は常に動物の毛皮を纏い、殺された動物たちの霊魂を慰め、そして血肉として受け取るためにリビングのカーテンを閉め、真っ暗な中蝋燭を灯して狐やミンクの襟巻、兎の毛皮などを並べ、シロクマの絨毯の上で百獣の王者に祈りを捧げながら毎食肉を食し、仕上げに血に見立てた赤ワインを飲み干すとき、このUに言ってカーテンを開けさせ、日の光に輝く惨状を見て悲しみの涙を一筋流す、そしてその場で裸になり、Uに手を取られて薔薇の散る浴槽へ入り、うっとりとそのぬるま湯へ三時間は浸かり、その間涙を流し続ける。Uはそれを見て祈りをささげ続ける。
そして寝る前はUに現実へと戻らせてもらうため、爪に赤いマニキュアを足の薬指に塗ってもらい、それが終えたら、なんと顔を思いっきりビンタさせ、左の頬と右の頬を一発ずつ打ったら、それで出た鼻血をUに「自分でお拭きなさい!」と罵倒させてまた涙を流しながら、延々と続く人間社会の闇に打ちひしがれそうになる心を立たせ、チン!と手鼻を噛み、手に着いたその血を自分で洗いに行き、その間Uは冷たい目で腕を組んで私を階段から見下ろし、「目は覚めましたか、永遠の夢想家さん」と私をまた罵倒し、私は幼い少女の様な心持になりながら、「ええ、王子様のお陰でね」と、涙と水と絡まった髪でぐしょぐしょになった顔で笑い、そして鏡の中の自分の老けた顔を見て、美しく、そして無力な妄想家として、儚げに且つタフにほほ笑むのだという。
はー!?はー!?
私は開いた口がふさがらず、記者の首をがっくんがっくん揺らしながら、Uが、あのUが言ったの?!それをUが言ったの?と詰め寄り、記者はだ、だからある筋の情報ですよう、と苦し気に呻いたので、だからそれは誰なのよ!!と私は叫んだ。
外で烏がアハハハハハ、と笑った。
帰宅して、私は優雅に襟巻と帽子を脱ぎながら、先生お帰りなさい、と出てきたUに、ただいま、とにっこりとしてから、すっと足を持ち上げた。
え、とUが見ている前で、すすすすっとそのままUの顔の高さまでつま先を持ち上げ、さあ、お帰りのキスをして頂戴?と我ながら子猫もうっとりとしそうな美しい声音で優しく囁いた。
Uは、あ、あの、先生、と震えて、それからごめんなさい!!わっと泣き出した。
私は無言で足を上げ続け、しゃがみこむUの顎をつま先でくいっと持ち上げると、だから、キスをして頂戴と言ったのよ、聞こえなかった?と冷たく笑ってまた囁いた。
Uは、あの、とか、その、とか言って目をうろうろさせた後、無言で微笑み続ける私の美しい足にそっと手を添え、チャコールのピンヒールの先に恐る恐る接吻した。
誰が永遠の夢想家なの、と私が訪ねると、しばらく目に涙を溜めて黙ったので、私は急にバキッ!とUの頭を床に踏みつけた。
ごめんなさいごめんなさい!!とUが泣きだし、私はあらどうしてしまったの王子様?と続けてぐっと踵に力を込めると、じわっとUの茶色くなった髪に血が滲んだのが分かった。
Uはごめんなさいを繰り返した後、静かになり、それからだって、だって、としゃくりあげ始めた。
私は足を降ろし、靴を脱いでから、お風呂に入るわ、と言い、Uはぐしゃぐしゃの姿のまま立ち上がり、はい、先生、と震える声で返事をして、両手を胸の前でぎゅっと握りしめていた。
キュッとシャワーの栓を締めてから、Uが先生、私も一緒に入っていいですか、と弱弱しく声を掛けてきたので、私はええ、いいわよ、いらっしゃい、といつもの返事をした。
Uが真っ赤に腫れた目をして入ってきたので、私はまず頭と顔を洗いなさい、それから体ね、と浴槽に浸かりながら言い、はい、とUが頭を洗い始めてから、私はスポンジにソープを出し、その背中を泡でこすってやった。
そしたらUはしくしくと泣き始め、また「ごめんなさい、出来心だったんです」と告白を始めた。
Uは、幼い頃から醜く肥えた母親に失望して暮らしてきた。
母親は八百屋で声を張り上げ、声も太くて逞しく、かつて美しかった姿は写真の中にしかなく、Uはいずれ自分もああなるのかと半ば自分の将来像に恐怖を抱きながら、小遣いも無くただ学校で手に出来る本を読み、雑誌でふと見た私の写真を見て、ふと憧れを抱くようになった。
東京に行き、この人にさえ出会えばまた自分の人生も変わるのでは無いだろうか?
Uがそんな幻想を抱いたのも無理はない。
母親は陰ながらUの夢を応援しており、行ってこい、一度会ってこいと背中を押してくれ、Uはお母ちゃん行ってきまーす!と電車に飛び乗り、そうして民宿に泊まりながら計画的に私に出会い、自分の才能を発揮して(家事も含まれる)私に取り入ったということだ。
あのねつ造話は、Uの作家としての第一号となる作品となった訳であるが、それをまさかファンレターに書くとは思わなかった。出来たら自分の作品として原稿用紙に書いてほしかった。
知人の作家など、にやにやしてあの美しい字を書く王子様は今どこでどうしてるだろうね~などと言っては、さあ、今頃八百屋で元気にしてるんじゃないの、とつれなく答える私に冷たい女だ事、と嘲笑し、助けてあげても良かったんじゃないの、とバーのカウンターで身を乗り出してきたが、私はそれを交わしてハイボールをくぴりと飲んだ。
プライバシーの侵害も守れない田舎娘にやる金など、一銭も無いのである。
こちとら慈善事業じゃないのだ。
作家とは、誰かを罵って名を上げることだけは禁忌なのだから。
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