愛された少女

「ヨーデリッヒ。どうしてミヒャエロとレデクハルト様は、わたしなんかのことが好きだと言うの」

「……は?」

 ヨーデリッヒは、呆れたような声を漏らした。

 冗談でも言っているのかと思って彼女と視線を合わせれば、当の本人はいたって真面目な質問だったらしく、いつも通りの無表情でまっすぐに自分を見つめてくる。

「あのさ、今、君に質問しているのは僕だよ。これの意図分かってる? どうして質問に質問で返そうとするかな……」

「あなたの質問にちゃんと関連しているつもりよ」

 ケイッティオは静かに言った。

「あなたは、わたしのこの力が――奪う業が、わたしの心理的なトラウマから来るのではないかと言ったわ。だったら、それは避けては通れない疑問なの。だってわたしは――、わたしにとっては、それがずっと疑問だったのだから」

「はあ、そうですか」

 さして興味もないようにヨーデリッヒは羽ペンを指で回した。

「ていうか、何? ちゃんと君はあの二人が自分に懸想してるって知ってたわけだ。それでそれを何故かと聞いてくるわけだ。僕に。よりにもよって、この僕に」

 ヨーデリッヒの投げやりな声に、ケイッティオは眉根を寄せて首を傾げる。

「どうしてなんだか拗ねているの」

「拗ねてねえよ」

「口が悪いわ。レデクハルト様の言葉遣いはあなたから移っただなんて、本当のことだったのね」

「は? 何の話」

 ヨーデリッヒは嘆息する。

「レデクハルト様の気持ちは、つい最近になって知ったの。だから、それまでは本当に……ただの物珍しさでわたしに構うのだと思って、嫌だった」

「で? だから何。嫌だったのが嫌じゃなくなったからなんなの。話が見えない」

「だから……どうしてわたしは、あの二人に好かれているの」

「……それを僕になぜ聞くの」

「あなたなら、わかると思ったからよ。あなただって、同じでしょう?」

 そう言って、ケイッティオはまっすぐにヨーデリッヒを見つめる。

「ふざけんなよ」

 ヨーデリッヒの喉が低く震える。

「二人には聞けないけど、僕になら聞けるって? その根拠とやらを教えてほしいもんだね。君の言っていることは正直、自分が愛されていることをひけらかしているようにしか聞こえないよ。とんだあばずれだ」

「それは、あなたがそういう気持ちで聞いているからだわ。あなたならわかると思ったから聞いたの。二人の気持ちが、じゃなくて、わたしがこんな風にしかこのことを尋ねることができないことを」

 ヨーデリッヒは苛々しながら机を蹴った。ケイッティオはまた眉をひそめる。

「ものに当たる人は嫌い」

「お前に嫌われても痛くも痒くもないよ」

 ヨーデリッヒは窓の外を見つめる。

「ほんとに、どういう意図でその質問を僕にしたの?」

「どうしてそんなに苛々するの? わたしにはその方がわからないわ」

「お前は一旦生まれ変わって人間の気遣いを勉強してこいよ、この家畜」

「だから、」

 ケイッティオは掌を膝の上でぎゅっと握りしめた。

「それがわからないから、だからこそ聞いているのよ」

 ヨーデリッヒはケイッティオをしばらく睨みつけていた。

「知らないよ。僕は二人じゃないんだから」

「何のためのカウンセリング? もう、わたしの前に二人とは話したんでしょう。だから聞いたの」

「は? これはあくまでお前達の力の原因を予想するために話を聞く場を設けただけであって、お前に関する話を聞くためじゃないよ。そんなこともわからないの? 自意識過剰もいい加減にすれば」

「そう……」

 ケイッティオは目を伏せる。

「わたしは、そういうのが、わからないのよ」

「何が」

「人の心が、わからない」

「そんなの、自分の決めつけでしょうが」

 ヨーデリッヒは鼻で嗤う。

「そんな風に思ってるからますますわからなくなるんだよ」

「そうかもしれない」

 ケイッティオは静かに応える。

「けれど、わたしは、本当にわからないの。わかりたいと願っているのに、わからない。あなたが言うように、わたしはあばずれなのかもしれない。けれどそれでも、わたしには二人がどうしてわたしにこだわるのかわからない。わからないことが辛い。わからない自分が苦しい。だからこそのこの力なの。わたしが今まで見ない振りをしてきたもの、目を逸らしてきたもののせいで、わたしはこんな力を手に入れてしまった。あなたの言うように、わたし達の力が私たち自身の心に由来するというのなら、わたしはそれしか考えることができない。二人に愛される自分がわからないからこそ、わたしはこんな、嫌な力を手に入れたの」

「そんなの、自業自得だろ。いつまで悲劇のお姫様ぶっているの」

「ぶっていないわ」

「言い返すってことは図星ってことだよ、馬鹿」

 ヨーデリッヒは鼻を鳴らす。

「そんなに、虐待されていた自分に縋りたいの?」

「……それ、誰から聞いたの」

「ミヒャエロがぺらぺらと喋ったんだよ」

「そんなはずない」

「何が? お前の信じているミヒャエロって何? お前があいつの気持ちがわからないのは、単にお前があいつをちゃんと見てやっていなかったことの証拠でしかないんだよ。それを、虐待を受けていたせいにするなよ。自分の過去に酔ってるんじゃないよ。お前くらいの痛みは多かれ少なかれ誰だって抱えて生きているんだよ」

「わたしは、虐待なんて受けていない」

 ケイッティオは静かな声で言った。

「は? 認めたくないくらい図星だったわけ?」

「違う。あなたは誤解している。ミヒャエロも、誤解している。けれど、わたしはその誤解を解くことができないままここまで来てしまった。どんなに説明しても、ミヒャエロはなぜかわかってくれなかった。わたしの言葉は届かなかった。だから、わたしは……この人には届かないんだな、と思ったの。わたしは、あの人が求める妹であることが役目なのだと思ったのよ。そんな、意地の悪いことしか思えないわたしを、あの人はどうして好きだと言うの。レデクハルト様だってそうだった。わたしはあの人が大嫌いだった。わたしに、わたし自身の惨めさを突き付けてくるばかりで、一方的な思いやりのない人だと思ったの。わたしは心からあの人を恨んでいたの。あの人からわたしなんかに関わってこないでくれていたら、わたしはこんな風に醜い気持ちで苛まれなくて済んだのにって。どうしてそんなわたしを好きだと言うの? それは、どういうことなの?」

 ケイッティオは睨むような眼差しをヨーデリッヒに向けた。

「わたしはいい子でもなければ、可愛い子でもない。わたしは愛されるには相応しくない。わたしは虐待なんか受けていないわ。虐待は、痛いから虐待なのよ。痛くて、辛くて、愛されたいのに愛してもらえないから、虐待なの。おかあさんはいつだって泣いていたわ。愛してほしいのに殴られる日々に、ずっと悲しんでいた。痛いと言って泣いていた。けれどわたしは違う。わたしは一度だって痛みを感じたことは無かった。痛くないのなら殴られたことにはならない。苦しくないのなら首を絞められたことにもならない。助けてほしいと思わないのなら、おかあさんがわたしをかばって殴られたって、そんなのは嬉しいだなんて思わない。わたしはね、痛くなかったのよ。だって、あの男、全然痛くしないんだもの。おかあさんは殴るのに、わたしには痛くしなかったの。だからわたしは別にあの日、――おかあさんが死んでしまった日、殴られたままでもよかったのよ。だってわたしは痛くないから。あの男はなんだかんだでわたしには手加減をしたのだから。なのにおかあさんはわたしを庇った。そうして死んでしまった。わたしはおかあさんのことを恨んだのよ。どうして、わたしを苛むのって。おかあさんが死んだのはわたしのせいだって、わたしはずっと自分を責め続けなければならないのかって。今考えたらとてもくだらない論理だわ。論理ですらない。けれどわたしは子供だったから、そうとしか思えなかったの。こんな汚い感情しか持っていないわたしを、どうしておかあさんは愛したのだろうって。ミヒャエロは誤解しているわ。どうせ、わたしのこの力は、わたしが虐待を受け続けていたから、痛みを何も感じたくなくて心を閉ざした結果だとでも言ったんでしょう。彼はずっとわたしにそう言い続けていたわ。慰めているつもりで。そうして、どうせあなたも、そう捉えているのでしょう。知っているわ、あなたって、意外といい人なのよ。根はいい人だから、意地の悪い考え方ができない。そんなことができる人なら、こんなことはしていない」

 ケイッティオは荒んだように目を細めて笑った。

「あなたは、知っていたんでしょう? だから、わたしのことを嫌おうとした。あなたはいつか、わたしのことを気持ち悪いと言ったわ。だからわたしは傷ついた。だけど同時に嬉しかった。ああ、この人はわたしのことをちゃんと見てくれるって。惑わされたりしないって。だからわたし、あなたに好かれてみたかったの。そうしたらわたしは、やっと幸せになれる気がした。人を表面だけでしか判断できない、浅はかで、嫌な人間であるわたしに気付いていたのはあなたくらいだった。そしてあなたは、わたしとは真逆だったのだわ。嫌な言葉を吐いて、意地が悪いように見せかけて、本当はただの弱い人だった。あなたの心は綺麗だわ、ヨーデリッヒ。わたしはそれがわかっただけでも、こうしてあなたに出会えてよかったと思うわ。あなたのことを本当にわかってやれるのは【最後の子供レレクロエ】だけなんでしょう。知っているわ。あなたはモンゴメリに、『すぐに追いかけるよ』と言ったわね。でもあなたがわたし達と来る気がないことくらい知っているわ。あなたは、あなた自身の代わりをわたし達に寄越すんだわ。ねえ、ヨーデリッヒ。どうして、あなたはわたしをレデクハルト様と同じ場所へ送ろうとしたの? こんな人間だってわかっていたでしょう。あなたが、わたしなんか彼に相応しくないって思っているのは知っているわ。彼のことが大好きなことも知っている。それなのに、どうしてわたしを彼と同じものにしようとしたの? 彼が喜ぶから? 記憶をすべて奪われるのに、彼が喜ぶなんてことあり得るの? どういうこと? あなたの気持ちも、ミヒャエロの気持ちも、レデクハルト様の気持ちも、わからない。どうして、そんなことをしてわたしを苛むの? わたしはね、そのことをあなたに言いたかったの。だからわたしは、わたしもマキナレアになることを望んだのよ。ただのアルケミストとその発明品の関係になったら、あなたは教えてくれるんじゃないかと思った」

「御託は終わった?」

 うんざりしたように、ヨーデリッヒは言う。ケイッティオはむっとした。

「言っておくよ、僕は本当に、君なんかに興味はない。だから君自身の浅はかで自己中心的で偏った毒を僕に吐きだされたところで、僕は君をどうしてあげることもできないし、どうしてやる気もない。結局だらだら言ったところで君が性格が悪いことも、ただの馬鹿で浅はかな女だってことも何にも変わらない。僕の中での君の評価は寸分たりとも変わらないよ。レデクハルトとミヒャエロがなぜ君を好きかと言ったね? 答えはただ一つだよ。君みたいな悪女にたぶらかされるような馬鹿だったってだけさ。ただそれだけの話。わかった?」

 ケイッティオは目に涙を溜めてヨーデリッヒを見つめていた。案外、本人は今自分が泣きそうになっていることすら気づいていないのかもしれないとヨーデリッヒは思った。

 単純なことだ。レデクハルトやミヒャエロと、この子が、どれほどに違うと言うのだろう。

 ヨーデリッヒはケイッティオのことを素直に気持ち悪いなと思った。正直、こんなことさえなければ関わり合いになりたくないタイプだ。面倒なことばかり考えて、ただがんじがらめになっているだけ。彼らと何も変わらない。その望みはただ一点しかない。そして、その理由を問われたところで、ヨーデリッヒは答えなど持ち合わせていなかった。

「誰かを愛する理由なんて、僕が知りたいくらいだよ」

 ヨーデリッヒは静かに呟く。

「だからそれを、僕の代わりに君が見てきてくれるんでしょう? そのために君の記憶も消してあげるんだから。まっさらな状態で、やり直してきなよ。君は単に、自分で膨らませ過ぎたその妄執に囚われて、捨てることさえできないでいるだけだよ。捨て方がわからない、と途方に暮れて駄々をこねているだけの子供ってだけだ。そんなの、僕みたいな人間が分かるはずないだろ。馬鹿だね」

「じゃあ、質問を変えるわ」

 ケイッティオは本当に泣きそうだった。

「泣かないでくれる? 面倒くさいから」

「この顔のどこが泣きそうに見えるの」

 怪訝そうな顔をする。

「あなたは、どうして、わたしのことが好きなの」

 好きじゃない、と言うことができなかった。

「僕は、」

 ヨーデリッヒは震える声で呟いた。

「レディが好きだから、君のことが嫌いなんだよ」

「知っているわ」

「そんなの……僕がただ、君に――」

 ヨーデリッヒは俯いた。

「ただ君に、救われたことがあったからだよ」

 ケイッティオは黙っている。ヨーデリッヒは深く胃の中のものを吐き出すように息を吐いた。

「別に、君じゃなくてもよかっただろうさ。それでも、救われたことがあったら、ただそれだけの理由じゃ、好きになるのもいけないっていうの。君が言っているのはそういう事だよ。残念ながら僕は君を救えない。僕は君と違って浅はかじゃないから、君とは根本的に反りが合わないんだよ。浅はか同士、せいぜいモンゴメリと仲良くしてやってよ」

「彼のことを好きだと言う癖に、随分な言いようね」

 ケイッティオは顔をしかめる。

「気は済んだ?」

 ヨーデリッヒもまた、荒んだ眼差しでケイッティオを見つめた。

「僕には君を助けられない。そんな気も端からない。君も僕を救えない。君の最優先はあくまで君自身だ。僕のことは二の次でしょ? それくらいじゃ君に僕は救えない。どうしても、どうしても救いたいって言うんなら、」

「あなたの救いになるなら、何だってやるわ」

 ケイッティオは、凪いだ声でそう応えた。

「じゃあ、僕のものになって」

 ヨーデリッヒがそう言った瞬間、ケイッティオの顔が歪んだ。苦しげに俯く。ほらね、だから君は、だめなんだ。そんな風に僕が、君を見限らないといけなくなるんだ。

「どうせ、『そんなことを言うくらいならどうしてこんなことをしたの』とか思ってるんだろ」

「人の気持ちを決めつけるのはやめて」

「もう人じゃないでしょう?」

 ケイッティオは唇を噛みしめた。固く瞑った瞼から、睫毛の合間を縫って涙がぼろぼろと零れて落ちる。

「そんな風に、すぐ考えるような子だから嫌なんだよ」

「そうね。わたしも、そう、思うわ」

 ケイッティオが鼻をすする。ヨーデリッヒは机の引き出しから、黒いベルベットのリボンを取り出した。

 ケイッティオの傍に寄って、その髪に結び付ける。

「な、に……」

「はい、これで僕のもの」

 ケイッティオは顔を両手で覆う。肩が震える。ヨーデリッヒは再びケイッティオから遠ざかって、椅子に静かに腰を下ろした。


 それが、さよならだった。



     *



「結局、あのリボンあげたんだね。やるつもりないとか言ってたくせに」

「言ってない」

「嘘ばっかり。君の心はそう言ってたよ」

 レレクロエの生意気そうな声に、ヨーデリッヒは顔をしかめた。窓の外を眺める。

「もう、それで、終わった?」

「全員棺に入ったよ。あとはあんたの部下がやってくれるんでしょ? あの蓮華草の咲く場所を囲うようにして、眠らせるんでしょう。本当に用意周到だよね。よくその口からもっともらしい言い訳がすらすらと出てくるなと思うよ」

「嘘は得意になったんだ」

 ヨーデリッヒは静かに応える。レレクロエは首を傾げてヨーデリッヒの顔を覗き込んだ。

「どうかしたの」

「何が」

「さっきからずっと上の空だよ」

「ここのところずっと上の空だよ」

「……返答がいちいち捻くれてるよな」

 ヨーデリッヒは鼻で嗤う。

「僕には……やっぱり、荷が重かった」

「は?」

 レレクロエが素っ頓狂な声をあげる。

「今更? ここで? それをいう訳? もっと早くに気付けよ!」

「違えよ。ケイッティオのことを言ってんだよ。お前らのことは言ってねえよ」

 ヨーデリッヒは不機嫌そうに声を荒げる。

「僕にはあれくらいが精いっぱいだったんだよ。僕はあの子を重いなあと思ってしまったから」

「はぁ? 君がそれ言う? 僕は君ほど重い人間を見たことないけど」

 ふん、とヨーデリッヒは嗤う。

「ねえ、レレクロエ」

「何」

「もう一回、記憶を受け取ってくれないか」

 静かなその声に、レレクロエは訝しげに眉根を寄せた。

「なんで」

「お前に預けたいから」

「何それ。重たいから? 抱えきれないって?」

「違う」

 ヨーデリッヒは椅子の背にもたれて、これから失われていく青い空を見つめていた。

 小さな雁が飛んでいる。

「あの子の、幸せを願うから」

 ヨーデリッヒは静かな声で呟く。

「案外、僕も、ミヒャエロも、レディも、結局は似た者同士なのかもしれない」

 レレクロエは黙っている。

「それで、いつかあの子が道に迷った時、君が預かったその名前は、レディの名前だったって教えてやってほしいんだ。きっとレディは、あの子に何も残してやらないから。あいつ、気が利かないから」

 レレクロエはわざとらしく深々と息を吐いた。

「わかりましたよ、わーかーりました」

 ヨーデリッヒはその声にくすりと笑った。

「最後に、気づくといいなあ」

 小さく、レレクロエにでさえ届かないような声で呟く。

「結局、僕達は皆、愛に飢えているんだ」





     **





 何も音が聞こえない。

 蹲ったまま、動くこともできない。

 喉が痛くて、息が苦しくて。えずいたりするけれど、気持ちの悪さだけは一向になくならない。

 周りに散らばった蓮華草と、濡れた草の葉を眺めていると、そこに灰色の影が伸びた。

 べちゃり、と泥を踏む音。音が帰ってくる。風が囁いている。

 顔をあげると、ケイッティオが表情のない顔で僕を見下ろしている。

「行っちゃったね」

 僕は、ようやくそれだけを言った。

 ケイッティオは笑わない。けれど、どこか不気味に目だけを細めた。

「苦しい?」

 その声は、とても低く擦れている。

 僕は、ああ、ついにこの日が来たんだな、とぼんやり考えていた。

 皆を見送る日が。

 この子を終わらせてあげる日が。

 ケイッティオはただ笑っていた。それは、僕らが六人だった頃には一度も見せなかった表情。彼女が彼女自身の狡さで、巧妙に隠していた感情の泥だ。

「もしも、あなたが、痛くて、辛くて、苦しいと言うのなら、」

 ケイッティオは歪んだ口元を小さく開いて僕を見つめていた。

「わたしなら、奪ってあげられる」

「生憎」

 僕はにっこりと笑った。意外にも穏やかでいられるものだ。ギリヴは確かに、最後の最後で、僕の心の空洞を埋めてくれたのだ。

「そう」

 ケイッティオは目を更に細めた。

「あなたにも、伝わらないのね」

 泣きそうな顔で言う。

「あなただけが残るなんて狡いわ」

 ケイッティオは震える声で言った。

「わたし達は誰もそんなこと頼んでいないのに、あなただけが残ろうとするのね」

「それが、僕の役割だからね」

「でも、そうだとしたら、わたしはモンゴメリのこの記憶でさえあなたに奪われてしまうのね」

 ケイッティオは胸を押さえるように掌を握りしめた。

「ミヒャエロも奪ってしまったのに、モンゴメリまで奪うのね」

「あれは仕方なかったでしょ。だって君は下手くそなんだもの。それとも、あの空の星は気に食わない?」

「いいえ」

 ケイッティオは、目を細めて、涙を一筋零した。

「いいえ、あんなに、あんな風にちゃんと叶えてくれる人なんて、あなたくらいしかいないわ」

 レレクロエは柔らかく笑った。

「奪ったりしないよ。君じゃないんだから。君がくれるんだよ。そう、決まってる」

「誰が決めたの? そんなこと」

「僕と、ヨーデリッヒだよ」

「馬鹿」

 ケイッティオは背を曲げて、蹲るように肩を震わせた。

「ミヒャエロの声が聞こえたの。力を受け取った時に。モンゴメリの声も聞こえた。わたしね、あんなにも、あの二人が愛されたがっていたこと、気づかなかった。ううん、本当は知ってたの。だけどね、他人事だった。わたしにはそんなのわからないと思っていたの。でもね、違った。わたし達は、最初から、ずっと最初の方から、一緒だった。同じ願いを抱えていたの。わたし、気づくのがなんて遅かったんだろう」

「じゃあ、それを君に気付かせてくれたのは、やっぱり君を大好きだったミヒャエロとモンゴメリだったってわけだ」

 レレクロエは穏やかに笑う。

「あいつら、最後の最後でとんでもないもの残していったね」

「本当」

 ケイッティオは泣きながら笑った。

「わたしは、愛されたかった。それを認めることができなかったのが、わたしの業」

「僕だって大差ないよ。僕はね、ケイッティオ。ギリヴに心をもらえなくてもいいって思ってたんだよ。ただ僕は僕自身のエゴで、彼女の最期を看取りたいだけなんだって頑なに思っていたんだ。傷つきたくなかった。傷つくのが怖かった。だけど、やっぱり心がもらえないのは辛いや。僕は結局、それが欲しかっただけなんだから。まあ、結局、最期も看取らせてはもらえなかったけど。お相子かな。僕はやっとあの子に好きだと言えたから。誤魔化したりしないで。本当に大好きだったんだって」

「わたし、は」

 ケイッティオは顔を歪める。

「ちゃんと、伝えられたかな」

「どうだろー? 僕はさすがに、君とモンゴメリがどんな話をしたのかよく知らないし」

 ケイッティオは笑う。

「わたし、いつも遅すぎるのね。本当は置いて行かないでって言いたかったの。もう少し待ってって言いたかった。だけど言わなかったの。言えなかったんじゃなくて、言わなかった。そんなこと言ったら困るかもしれないからって、勝手に決めつけてしまった。わたしって本当に、決めつけてばかり。恥ずかしかったの。わたしはあの世界で確かにヨーデリッヒが好きだったはずなのに、記憶がなくなったことを言い訳に、あんなにも嫌いだった人を簡単に好きになった。そんな自分が恥ずかしかったの。でも、そんなのやめて、もっとちゃんと伝えてお別れすればよかった」

「あーあ。ほんとにケイッティオって馬鹿だね。でも、これでわかったでしょ? 好きになるとか、そんなのに理由なんてないんだよ。いつの間にか好きになっちゃってる。そう言うものだろ」

「うん」

 ケイッティオは涙を拭いた。

「ねえ、レレクロエ」

「何?」

「もう一度聞くよ。どちらが残る?」

「僕に決まってる」

 レレクロエは笑った。

「ていうか、君が耐えられるような気がしない」

「そうね、そうかもしれない」

 ケイッティオは目を伏せて笑った。

「せっかく、猶予をあげたのになあ」

 そう言って、ケイッティオは笑った。

「猶予? 何の?」

「あなたが、残るか、やっぱり辛いと諦めるか、よ。だってみんな、レレクロエに押し付ける気持ちしかなかったんだもの。わたしはね、別にあなたが望むならわたしが残ってもいいなあと思ったの。皆の思い出を抱えて生きることは辛いかもしれないけれど、わたしは痛みが嬉しいから」

「歪んでるなあ」

「ふふ」

「それに、後始末をするからちょっとそっちに逝くのが遅くなるだけだよ。どうせ僕も、また君達を追いかける。まあ、待っててくれるなら、だけど」

「待つに決まってるわ。ギリヴだって、そのためにその花冠を残したんでしょう?」

 ケイッティオは、レレクロエの頭に乗せられたそれにそっと触れた。

「本当に、変な子。あなたに種が根付くのを怖がってあの時小さな草の根を抜いたのに、自分からあなたに遺そうとするなんて」

「だよねえ」

 レレクロエは海を見つめる。

「この場所に残り続ける限り、僕の体に蓮華草が芽吹くのは時間の問題だ。だからきっとあの子は、自分で残そうとしたんだろ。ほんっと、浅はか」

「口元が笑ってるわ」

「へへ」

「じゃあ、もうわたし、行くね」

「うん」

「今行かないと、ずるずる残ってしまいそう」

「そうだね、君の性格ならね」

 ケイッティオはレレクロエに手を差し出した。

 レレクロエもまた、その手をそっと握る。

「じゃあね」

 ケイッティオは笑った。

 モンゴメリの色。ハーミオネの色。

 ケイッティオ自身の声。

 全てが流れてくる。

 レレクロエは目を閉じた。

 染みこんでくる。滲んでくる。

 僕が僕でなくなるような――。

「…………ケイッティオ……!」

 レレクロエははっと瞼を開いた。

 ケイッティオはもう泣いてはいなかった。凛とした眼差しでレレクロエを見つめている。

 頬の皮膚が、腕が、白い真珠のような花弁になって舞い上がる。

 吸い込まれていく。吸い込まれていく。

「ケイッティオ……!やめ……」

 最後にケイッティオは、可憐に笑った。


 その場に膝をついて、崩れ落ちる。

 最後の最後で、一番大事なものを奪われてしまった。

 本当に、小狡い子だ。ヨーデリッヒが惹かれたのもよくわかる。レデクハルトが騙されたのもさもありなんだ。あんな笑顔で、何も言わないで。さっさと消えてしまった。

 僕は結局、君のどれが本当でどれが嘘なのか、よくわからないままだった。

「はは……」

 レレクロエは前髪をぐしゃりと握って乾いた声を漏らす。

「ほんっとうに、油断がならないや」

 最後の最後で、ケイッティオはレレクロエを目に留めた。

 ヨーデリッヒの記憶を、心を抱えて。

 ヨーデリッヒの記憶に映る、レデクハルトの姿を手に入れて。


 漸く僕は、解放された。


 捨て置かれた子供の様に。


 生まれ落ちたばかりの赤子のように。


 僕となった者達が、僕自身が、


 愛してくださいと哭いている。


 これはそんな、愛の物語だった。



 歪で小さな、愛の物語だった。


















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