終章

花捧ぐ世界

 砂浜に寄せる波に足を浸す。

 ぴちゃり、ぴちゃりと雫が跳ねて、七色に煌いた。

 この海の水が、こんなにも青くて綺麗なのに、かつては毒の水だっただなんて信じられない。

 こんな風に素足をつけてしまえば、皮膚が爛れてしまうくらいの猛毒だったなんて。

「アムリタを吸い込んでいたからね。元は海の水だって害のないものだったんだよ。まあ……からいけど」

 口元まで跳ねた波の雫に顔をわずかにしかめて、エストがそう言う。

「これだから外に出るの嫌だったんだけど」

「何言ってんだよー。ていうか家の中じゃないんだから、森の中に居ても海に来たって外に変わりないじゃん。変なこと言うなあ」

 僕がそう言って笑うと、エストは嘆息した。

「まあ、そうだけど」

「ていうか、世界を造りかえたようなそんなすごい神様みたいな人なのに、波でびしょ濡れになったからって不機嫌になるなんて……なんだかほんとに変なの」

「子供は無邪気でいいね」

 エストは憮然とした表情でそう言って、顔にかかった海水を袖で拭う。それを、なんとなく楽しい心地で僕は眺めていた。

 彼はかつて救世主だった。

 彼自身はそれを否定する。ただ巻き込まれただけだと言う。何も救ってはいない。世界を救いたかったというわけでもない。ただ、やるべきことをやっただけ。

 それでも、僕はこの世界を綺麗だなと思う。

 空を仰ぐと、僕がかつて住んでいた空の星が見える……はずだ。実際にはどこにそれがあるのかよくわからない。だってたしかに、僕の住んでいた世界は空色で、地面と空の区別なんかつかなかったのだから。

 僕はしゃがみこんで海の水面に指で触れた。この先に、この遠い深い向こう側に、一人の少女が眠っている。

「ねえ、エスト。僕達の国では、海の世界はサグゼオナって言うんだよ。本当に、ここに生き物がいるの?」

「そりゃ、いるでしょう」

「え? 知らないの?」

「僕は海に関しては何もしていないよ。ギリヴに任せたから。まあ、浄化はしたけれど」

「ふうん。ねえ、人魚とかいるかなあ」

「は?」

「人魚。体が半分魚で、半分が人なんでしょ? おとぎばなしにあるよ」

「……まだそんな物語ものが残ってるんだ」

「なんだよー」

 エストはくすり、と笑った。

「でもさ、もしも頭の方が魚だったらどうする?」

「えー……」

「むしろ、海の中で生きるならえらがないと」

「うえー……」

 とことん子供の夢を壊してくれる。

「でも、そっか、」

 エストは空を見上げて呟いた。

「あの星では、海の中も一つの新世界なんだね」

「まあ……海なんてなかったからさ。本では読んだことあったんだ。魔法の世界だって。知らない生き物が沢山いる、人間のいない幻想世界だって。本当に、海の底はどうなってるんだろう……?」

「あんまりお勧めしないよ。どうせ君、大して泳げもしないでしょう。人間なんだから」

「エストは? 泳げるの」

「……やったことがないからよくわからない」

「あれ? エストも海なんて見たことなかったの?」

「そう、だね」

 エストは水平線を見つめる。

「僕自身は、ミヒャエロが砂まで吸い込んでしまうまで見たことは無かったかな。僕の生まれた場所は全部砂で覆われていたし、僕はそれ以上の世界へ足を向けたこともなかったから」

「ふうん。全然想像つかないなあ。僕もエストの記憶が欲しい」

「馬鹿なこと言わないで」

 エストはそう言って僕の頭を撫でた。

 僕よりずっと年上なのに、ずっと長い時を生きてきたのに、僕と一緒に話してくれる人。綺麗な人。優しい人。孤独な人。

 この綺麗な――綺麗すぎる世界で一人きりで生きるのは、どんな気持ちなんだろう。

 僕は、いつか来る一人きりの未来を想った。

 エストは――かつてレレクロエと言う神様の使徒だったその人は、もうじき死ぬと言っていた。世界を全て綺麗にしてしまったから。もう、世界は救世主なんて必要としないから。

 皮肉な話だ。それを、彼は僕が彼の下へ辿り着いたせいで知ってしまったのだ。僕はようやく見つけた大事な人を、僕自身が彼を見つけてしまったせいで、やがて失ってしまう。

 僕はあの空へは帰れない。だから僕は、この世界に一人きりだ。この、海に囲まれた世界に一人きりになってしまう。

 エルロンド――かつて南極と呼ばれたその世界には人間もいるそうだから、いつか一人で行ってみるのもいいかもしれない。とてつもなく遠いのだそうだけれど。

 エストは、レレクロエと呼ばれるのを躊躇う。僕はレレクロエと言う響きがとても好きだったのだけれど、彼は「それはもう僕の名前じゃないから」と困ったように笑っただけだった。

 ケイッティオと言うもう一人の救世主に、預けたからと。

 彼の語った物語は途方もなく長く深く、苦しくて、僕は何度も暗い夜空が薄く明るく色づくのを見た。

 彼が全てを語り終える頃には、僕はどうしようもなく泣いてしまっていた。ついでに母さんを亡くした悲しみも一緒に洗い流してしまったことは僕だけの秘密だ。

 始まりの救世主レデクハルト。彼の本当の名前は、彼がその声で呼んで欲しかった女の子の手にちゃんと渡ったのだ。僕はそのことだけがどうしようもなく辛かった。他にもたくさん、辛い話はあったというのに。

 どうしてだろう。僕にも誰か好きな女の子が、大好きな女の子が見つかったら、わかるようになるだろうか。

 まあ、僕にはもう、そんな人と出会う機会はなさそうだけど。

 僕の気持ちに、エストは「まあ、それが始まりと言うか、きっかけだったんだろうしね」と言った。つくづくいい加減だ。

 エストの皮膚は、もう殆ど蓮華草の花と葉で覆われ尽くそうとしていた。彼が世界の土に還る未来も、もう遠くはないだろう。

 僕はただ、間に合ってよかったと思っていた。

 本当にぎりぎりのところで、彼を見つけることができてよかった。

 不思議な話だ。僕の落ちた先が海ではなくて、あの蓮華草畑だったこと。

 こんなにも海が広いのに。

 まるで引き寄せられるように、僕は彼の下へ辿りついた。

 まるで導かれたみたいに。

「そう言えば、つくづく僕は赤毛の子と縁があるな……」

 不意に、エストがそう呟く。僕はよくわからなくて眉を思い切りひそめてしまった。

「急になんだよ?」

「いや、そうやって海にいると、君のその真っ赤な赤毛がとても目立つんだよ」

「……なんか嫌な感じがする」

「そう? 別に嫌みは言ってないよ」

「これでも僕、この赤毛気にしてるんだからな」

「ふうん」

 エストは全然興味がないように言う。そうしてにっこりと笑った。

「青い海にその夕焼けのような赤が映えてとっても綺麗だよ?」

「うわやめて」

 なんだかぞぞぞ、ときた。エストは半眼で僕を見る。

「だろ? 下手に言葉を飾るよりも、素直に端的に言う方が物事はうまくいくんだよ」

「それにしたってもう少し言い方があるじゃんか」

 エストは楽しそうに笑った。

 陽が落ちる。

 世界が一気に茜色に染まる。

 空も、海の水面も、深い赤に染まる。まるで、世界が本当に僕一人になってしまったような、そんな感覚。

 僕は目を閉じて、潮の香りを思い切り胸に吸い込んだ。

 さらさらと聞こえる波の音。

 ふと、違和感を感じた。

 体が、軽い。

 足の指先が、ぽたぽたと雫を垂らす。冷たさが抜けていく。風が吹く。風が吹く。ふわりと、まるで、羽根のよう――。

 僕ははっとして目を開けた。エストは笑って僕を優しく見上げている。エストの姿が小さく見える。離れていく。どんどん離れていく。花が枯れる。エストにまとわりつく蓮華草の赤い花が黒ずんで、落ちていく。砂が染まる。黒でどんどん染まっていく。エストの頬がまるで花弁みたいに――。

「なにやってるんだよ!」

 僕は叫んだ。

 エストは笑っている。ずるい。こんなの、聞いていない。嬉しかったのに。あなたに会えて嬉しかったのに。あなたの痛みを教えてもらったから、僕はあなたを見送ろうと思ってたのに。こんなの聞いていない。こんなことができるなんて聞いていない。このための逆さまの力だったなんて聞いていない。

「やめてよ! 置いて行かせないでよ! 帰る場所なんてないよ! この世界から離れたくないんだ! こんなことしなくていいよ! 消えないで……消えないでよ!」

 エストの口が、ありがとう、と動いた気がした。

 砂の花びらになって、霧散する。

 緑の馴染んだ砂が、ふわりと風に乗って、海へと落ちていく。染みこんで、沈んで、海の底へと零れていく。

 僕はそれを、何も言えないままに見つめていた。

 どうしようもない。

 僕はまた泣いていた。本当に、何度も何度も僕を泣かせるどうしようもない救世主様だ。大嫌いだ。

 吸い込まれていく。吸い込まれていく。空が僕を引き寄せる。

 僕は遠ざかっていく紅紫の花畑を見ていることしかできない。

 やがて、広い海が僕の視界を覆い尽くす。こんなにも、この世界は大きかったのだ。これをたった一人で、六人で抱えてきたのだ。

 この痛みをどうしたらいいのかわからない。誰にも伝える術はないと思っていた。だって僕は独りきりでも生きていく覚悟をしたつもりだったから。こんなの聞いていない。笑えない。本当に笑えない。どうして彼はあんなに笑って逝ってしまえたのだろう。僕にもいつか解るんだろうか。彼と同じように長い時を生きたら、少しはあなたの気持ちに近づくことができるんだろうか。

 泣き疲れて、蹲る。

 あの世界の砂浜のような、浅い水底にふわりと足が届いた。塩の大地。街の灯り。


 僕は、帰ってきてしまった。


 泣いていた。どうすることもできなくて、泣いていた。道行く人々が、珍しいものを見るかのように僕の周りへと集まってくる。僕は泣くばかりで何も話すことができない。喉から零れ落ちるのは嗚咽ばかりだ。痛い。痛くてたまらない。心が痛い。胸が痛い。

 誰かが僕の名前を呼ぶ。僕は顔をあげることができない。こんなに短い時しか彼と一緒に居られなかった。この空の星で、誰かが僕の名前をまだ覚えていられるほどのわずかな想い出時間だった。

 夕暮れを告げる鐘が鳴る。家に帰りなさいと誰かが言っている。帰る家なんかない。帰る家なんかないのだ。どうやって生きて行けと言うんだ。どうしたらいいんだ。

 ふと、誰かが、とても温かな手で僕の指を握りしめた。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげる。

 小さな女の子が、不思議そうに僕を見つめて、僕の顔を――涙の貼りついた顔をぱしぱしと叩いた。

「痛い、痛いよ」

 痛い。痛いんだよ。

「どこ行ってたんだよ。探したんだぞ」

 学校の友達の声が聞こえる。顔をあげてと。さあ、立ち上がって、と。

 誰かが僕の体を抱きしめる。涙で滲んで誰なのかわからない。

「探しましたよ。よかった、無事で」

 ああ、そうだ。これは先生の声だ。学校。僕の、居場所。僕が、生きていかなければならない、世界。赤い世界。空と同じ色の夕暮れの世界。あなたはそれを僕のようだと言った。だとすればこの赤い髪も暮れ泥む世界も、ただ泣くためだけに生まれたのだ。僕はただあなたを哀しいと思った。僕を哀しいと思った。結局僕はこの赤さをこれからも到底好きにはなれそうもない。それでも赤い色が僕の瞳に滲んで消えてくれない。さようなら、さようならと泣いている。

 僕を見つめる知った人たちの、辛そうな眼差しが僕を取り囲んでいる。

 何も知らないくせに、と僕は憤って、また泣いた。

 この心を伝える術を、僕はまだ知らない。



     *



「そうですか、君はもう、逆さまの力はなくしてしまったのですね」

 かかりつけだった医者が、ふむ、と考え込むようにそう言う。

「ええ。だから、もう僕は医者は必要ありません」

「ふふ。君も言うようになりましたね」

「先生、中ツ国はありました」

 先生は首を傾げた。

「僕の心にあります。僕の心に、飛び込んできたんです。だからもう僕には、あの世界の力は要らなくなったんです。そういうことなんです」

 僕は笑った。

 先生はよくわからないと言ったように眉根を寄せたままだ。戸惑うような顔。僕は笑顔で頭を下げると、病室を後にした。

 青空が広がっている。硝子窓の向こうで、一面の青に埋もれてはしゃぐ子供たちの姿が見える。年はそう変わらないはずだ。だけどもう僕には、彼らは酷く幼く見えた。僕はもう、何も知らなかった頃の僕には戻れないのだ。元々、悲しみを抱えていたような人間だったかもしれないけれど。

「パリシア。退院するの?」

 背中に、可愛らしい声がかかった。同じ病院に入院していたシシーがお花を抱えていた。車椅子の隙間からぽろぽろと零れていく。

「シシー。お花がたくさん零れてる」

「あっ」

 シシーは体を思うように動かすことができない。僕は彼女の代わりに零れた花達を集めて彼女に返した。

「今日、退院するんだ。まあ元々大したことなかったんだけどさ、皆が心配するから」

「ふうん。そうなのかぁ。いいなあ、じゃあパリシアはもう学校に行けるわね」

 シシーはどこか寂しそうに笑った。彼女は生まれつき体が弱くて、この病院からほとんど外に出たことがないのだそうだ。学校にも憧れているのだと。

「これからどうするの?」

 シシーはどこか遠慮がちにそう尋ねてくる。彼女でなくても誰でも知っているのだ。僕がもう、親のいない、家なき子だと言うこと。

「とりあえず施設に入るよ。学校はそこから通わせてもらえる。いつまでも居るわけにはいかないから、直に働くよ。そうなると、もう学校は行けないかな」

「あまり急いで大人にならないでね」

 シシーはどこか不安そうに言った。

「僕、そんなに焦っているように見える?」

「うん」

 シシーは困ったように笑った。僕は目を伏せた。この、少女のあどけなさを残したまま、死んでいくだろう女の子のことを見ているのが辛かった。彼女の命は長くないと聞いている。大人になるまで生きられるかわからないと。

「僕は、大人にはなれないよ」

 僕はようやく、それだけを言った。

「大人になるなんてできない」

「うん」

 シシーは笑う。

「あなたのお話は楽しいから、また聞かせてね」

 シシーはそう言って僕に花束を差し出した。退院のお祝いだと言って。

 お話だなんて。本当に他愛のないことばかりを聞かせていただけだ。なのにこの子は楽しかったと言ってくれる。胸が痛んだ。心が行き場所を無くしたまま、どうでもいいことばかりをぽろぽろと零しただけの僕に、楽しかったと言ってくれる。

 僕はいつか、僕の心の整理がついた時、この女の子になら、あの世界の話を、

 幸せに消えた草色の救世主の話を、僕の痛みを、話してもいいような気がした。

 きっと、柔らかい微笑みを浮かべて、最後まで聞いてくれるだろう。この子なら。

 何も知らないまま死んでしまう事しかできない、この可愛い女の子なら。

 シシーはどこかはにかんだような顔をして、僕が花束を受け取るのを嬉しそうに眺めていた。

「お花を風に乗せて飛ばすんでしょう? あなたはいつもそうしているんでしょう? だから、そのお花を使ってね」

「それ、誰に聞いたの?」

「あなたの学校の先生がそう言っていたわ。あなたは小さい頃からそうしてたんだって。お花を集めるのが好きだったって。だから、喜ぶと思ったの」

「そう」

 僕は、また鈍く痛み始めた胸を押さえるようにして、微笑んだ。

「母さんがやっていたんだ。母さんの母さんもやっていたんだってさ。楽しそうだから、僕も真似をしていたんだ」

「素敵だわ」

 シシーは柔らかく笑う。

「じゃあ、ね」

 僕は彼女に背を向ける。シシーはいつまでも僕を見守っていた。

 僕は初めて、彼女がいつか死んでいくことを哀しいと思った。




 風が吹いている。

 青いペンキで塗られた風見鶏がくるくると回る。

 白い羽根を伸ばして、風車が穏やかに回り続ける。

 もうこの世界では、あの世界の色も、音も、何も感じることができない。


 僕は空に向かって、彼女からもらった花束を解きほぐした。

 ふわふわと舞っていく。空へ吸い込まれていく。まるでかつての僕のように。


 空があの世界の海だというのなら、届けばいい。

 僕に普通をくれた救世主。


 あなたは確かに、僕の大切な救世主だった。






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