花降る世界(二)

 レレクロエはそれからしばらく、どこかへふらりと居なくなってしまった。

 その間、あたし達は森の中で、ああでもないこうでもないと言いながら、尽きないお喋りに勤しんでいた。こんなにも他愛のない話をしたことも、笑い転げたことも、きっと今までなかったと思う。とても楽しかった。どうしたって、ここにハーミオネがいないことが悔やまれた。ミヒャエロも、モンゴメリも――、皆がいてくれたらいいのにと、どれだけ思っただろう。

 終わりが近づいているのに、あたし達はようやく柵から解放されていたのだった。不思議な話だ。皮肉な話だ。あんなにも一緒にいたのに、あたしたちはずっと怯えていた。終わりをただ怖がるだけの子供だった。

 やがて月日が経って、レレクロエが帰ってきた。久しぶりに見たその顔は、少しだけ疲れていて、けれどどこか楽しそうににやりと笑っていた。

「なあに、どうしたの?」

 あたし達が首を傾げると、レレクロエはくすりと笑った。

 まるで、種明かしをするのが楽しくて仕方がないと言う風に。

「ついてきて」

 あたしとケイッティオは、顔を見合わせた。



 あたし達は、ミヒャエロのオーロラに――今はレレクロエのものとなったそれに乗って、長い時間を移動した。

「こんな使い方もできるのね」

 ケイッティオが感慨深く呟く。

「便利だよねえ」

 レレクロエが応える。

「あいつ、もったいないことしたよな。色々使い道があったんだろうに」

 まあ、そう仕向けたのも僕だけど、とレレクロエは呟く。あたしはその背中を静かに見つめていた。

 ふと、その首筋に小さな双葉の芽がくっついているのが見えた。

「いたっ!?」

「あ、あれ……? 取れない……」

 あたしはそれを引っ張ろうとしたけれど、それは取れなかった。レレクロエの体に根を張っている。ぞっとした。

「あー……その、ミヒャエロの力の影響でさ、気をつけないと、草の種とかが根付くようになっちゃってるんだよ。元々僕の力って植物の成長を助ける働きもあるし、ミヒャエロの力は、境界を曖昧にして溶かしてしまう力でもあるし……って、いたっ! なんで抜くんだよ! 痛いんだってば!」

「こんなの、体に害にしかならないでしょ? 安心して。根こそぎ破壊してやった」

「……たまに怖い」

 レレクロエは嘆息する。

「まあいいや……ほら、見て。下」

 レレクロエは指を差した。ケイッティオと二人で乗り出して見る。

 海の真ん中に、広い緑の大地が浮かんでいた。

「森がある……」

 ケイッティオが小さく呟く。目をまんまるにして。

「あれ、南極」

 レレクロエは事もなげに言った。

「は? え? 南極? え、南極って氷で覆われてたんじゃ……」

 あたしは少し混乱する。

「なんだよ、君達が言ったんじゃない。南極を緑で覆われた大地にしたいんだってさ」

 レレクロエは少しだけ不機嫌そうな声でそう言った。

「うそ……」

 あたしは口をぽかんと開けることしかできない。

「これが、そうなのね」

 ケイッティオは、なんだか泣きそうな表情で笑っていた。

「君たちがずっと気にしてるからー、作っといてあげましたよー。感謝してよね」

 レレクロエがそっけなくぼやく。

「うん」

 ケイッティオは目尻を指で拭った。

「うん……ありがとう、レレクロエ」

 あたしは、なんだかどうしようもなく複雑な気持ちで、その大地を眺めていた。

「まあ、まだ緑は生やしたばかりだから、生き物が生きていけるようになるのはもう少し時間がかか――聞いてる? ギリヴ」

 レレクロエが、あたしの顔を窺うように覗き込む。

「えっ、あ、うん。聞いてる」

 レレクロエはなんだか気分を害したように眉をひそめて、ふい、と顔を背けた。


 あたし達のいる意味が、なくなってしまった。


 あたしは苦しくて、胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。

 きっと、レレクロエはただあたし達を喜ばせたかったのだ。喜んでいる顔が見たかったのだ。だって、レレクロエはあの空の星を作った時も、そして今だって、ずっとあたし達の反応を気にしていた。あたし達を、こんなにももう何もなくなってしまった世界で、まだ彼を見捨てないで傍に居るあたし達を喜ばせたいとでも言うように。ケイッティオは素直に喜んでいる。だって、それがこの子の留まる理由だったのだから。せめてもの、いなくなった三人への、手向けだったのだろうから。

 でも、あたしはどうしたって、素直に喜べないのだ。

 レレクロエ一人で、なんでもできるのだと、大丈夫なのだと言われたようで。示されてしまったようで。

 一人でも大丈夫だからと。この優しい世界を守っていけるのだと、目の当たりにしてしまったようで。

 レレクロエが、またあたしを見ているのがわかった。けれどあたしは振り返ることができなかった。

 なんて優しい人だろう。弱い人だろう。こんなことできなくったって、してくれなくったって、あたし達はあなたのことを嫌いになったりなんかしない。いらないだなんて言ったりしない。あたしは、ただ、もう少しだけあなたといたかっただけなのだ。

 涙を堪える。肩が震えた。いっそ泣いてしまってもいいのかもしれない。あまりにも感動してしまって涙が出たのだと、誤魔化せるかもしれない。でも、それでも。

 あたしは、ようやく自覚したのだった。

 この不器用な人のことが、好きなのだと。

 あたしだけが、この人を大切にできるのだと。たとえそれがあたしの思い込みだったとしても。

 あたしだけがこの人に、痛みを残してあげられるのだと。



     *



『ハーミオネの心を抱えて、とても苦しいと思った。何日くらい、そうしていただろう。蹲っていただろう。とてつもなく長い時間だと思った。気が遠くなりそうだと思った。だけどきっと、大した時間は経っていないんだろうなとも思っていた。


 これを、あと四人分、抱えるのだ。

 もっとずっと長い時間を、長い未来を、抱えて、生きていかなければいけないのだ。


 最後のマキナレア。


 最後に遺される、マキナレア。


 そりゃ、おれには荷が重かっただろうなと思った。おれが最後の子供になれなかったのは当然だった。だっておれは、ハーミオネだけで手一杯だと思っているのだから。

 ハーミオネ以外の心なんてもう抱えきれないと、こうして愚痴をこぼしているのだから。』



     *



 考える。考えている。

 あたしにできることは何か、考えている。

 あたしにしかできないことが、あればいいと願い続けている。

 あたしは泥に浸って、蓮華草の茎を無造作に握りしめる。

 どうしたらいいのか、まだ答えは出ない。

 ケイッティオが笑うのが聞こえる。穏やかな時間だ。きっと二人は、あたしがいなくても大丈夫だろう。ケイッティオは、ちゃんとお別れを言える子だ。踏み出す勇気が、まだないだけ。

『君達ってば、優先順位を間違ってる』

 そう。レレクロエは、そう言っていた。あたしの本当の気持ちは何だろう。何が一番大切だろう。優先順位を間違ってはいけないのだ。もう二度とやり直せないのだから。あたしはもう二度と、彼の下へ帰ってくることはできない。

 あたしの正直な気持ち。本当の気持ち。

 あたしは、レレクロエに、あたしを好きになってくれたレレクロエに、同じだけの心を返したいのだと。

 そう、思っていた。


 あたしは、レレクロエが好きだ。

 今更過ぎる。遅すぎる。どうしてこの心は、もっと早くに気付いてくれなかったんだろう。馬鹿だ。本当に馬鹿だ。傷つけられるのが怖くて、きっと嫌われているんだろうと思い込んで。好かれないと好きになっちゃいけないんだと思い込んで。あたしはただ、自分が傷つくのが怖かっただけだ。誰かを好きになることがこんなにも痛いだなんて、苦しいだなんて知らなかったのだ。あたしは何も知らなかった。こんな未来まで、あたしを追いかけてきてくれただけ、それだけの彼の痛みを返さなければならない。けれど、それは本当にあたしの願いだろうか? 一番の願いだろうか。

 レレクロエはいつだって、あたしに偽善者だと言っていた。恐らくそれは本当のことだ。あたしは偽善ばかりを抱いて生きている。それがあたしの弱さだ。そしてきっと、この力の本懐だ。あたしは目を背けてはいけない。醜い部分を。あたししか知らない、あたしだけが分かってやれる、この自分自身の醜さを。

 あたしはただ、レレクロエをあたしだけのものにしたいのだ。

 他の誰かと同じになりたくない。もしかしたらレレクロエは、とっくにあたしが特別だと言ってくれるかもしれない。思っていても、言わないような性格だけれど。でも、それじゃ意味がない。あたしはあたしの自己満足で、彼を独り占めしたいのだ。忘れてほしくない。酷く、傷を残したいのだ。痛みという形で、彼の中に残りたいのだ。


 ああ、そうだ。あたしは――。


 大好きになった人を、いつか大切な人を、思い切り傷つけてやりたいと、思っていたのだ。

 そうやって、ただ一人の特別になりたかった。

 好きになるということは、傷つくことなのだと思い込んでいたから。好きな人から傷をつけられてしまうのが恋なのだと、思っていたのだ。

「何してるの」

 レレクロエの、呆れたような声が降る。あたしはばっと体を起こした。

「泥でも飲みたいの? 変な子」

 本当に、不思議そうな顔で、眉をひそめてそう言う。

 我慢しようとしていたのに。

ぼろぼろと、涙がこぼれた。

 レレクロエがぎょっとしている。それでも止まらなかった。あたしはただひたすらにレレクロエを見上げながら、声も上げられずに泣いていた。

 この人は、知っていたのだ。

 あたしが、そういう痛みしか受け止められない人間だったことを、知っていたのだ。

 こんなにも優しい人を、見たことがない。あたしが出会った全ての人で、きっとあなただけが、優しすぎる人だった。だからあなたはずっと、あたしに棘を向け続けたのだ。あたしが痛いと言ってあなたを恨めるように。あなたはいつだって、あたしに心を向けてくれていた。

 気づかなかった。取り返しがつかない。あたしはあなたを置いて行かなければならない。

 ああ、ミヒャエロ。

 あなたも、こんな気持ちだったの?

 あたし達は確かに、似た者同士だったわ。

「どう、したのさ……なんなの? 発作? わけわからないんだけど」

 レレクロエが戸惑ったようにあたしの顔を覗き込む。そういえば、これだって癖だった。

 レレクロエはいつだって、あたしの顔を覗き込んだ。あたしの心を、きちんと受け止めようとしていた。誰よりもよく、あたしのことを見ていてくれた。

 あたしは目を固く瞑った。ぼろぼろと、収まりきらなかった涙が零れ落ちる。レレクロエの手に指を絡めて、ぎゅっと握りしめた。温かい。あたしよりも骨ばって、けれど男の人にしては小さな手。華奢な手。そんな手で、守る力もなくて、ただ追いかけてきた。

「レレクロエ……って……雛鳥、みたい」

「はあ? 何それ……」

「なんて、伝えたらいいのか……わからないよ……」

 レレクロエは、あたしに目線を合わせてくれるように、腰をかがめた。

「あーあ。泥だらけ。どうすんのさ」

「へへ……どうしよう」

「知らないよ」

 レレクロエは小さく嘆息する。

 ああ、なんて優しいんだろう。声音だって、この掌だって、あたしを見てくれる眼差しだって。冷たい言葉さえ、優しさに溢れている。

 こんなに大事にされる資格なんて、あたしにあるのだろうか。

 何をどう返していいのか、わからない。

 レレクロエは、何度目かの溜息をついた。そうして、泣きじゃくるばかりのあたしの手を引いて、立ち上がらせる。

 二人で手を繋いで、ただ手を引かれるままにあたしは歩いた。黒く光るオーロラが、あたし達を包みこんだ。



     *



 降り立った場所は、あの塩の星だった。

 オーロラが雲を模した形になって、雫を降らす。

 星が、夜空を映す鏡になる。

 月明かりの中で、レレクロエの顔は半分しか見えない。

 あたしは、鼻が詰まってしまって、鼻をぐすぐすとすすりながらぽかんと口を開けていた。

 レレクロエは何も言わずにあたしの手を引いて、のんびりと星の大地を歩いた。

 裸足の裏に当たるひんやりとした、胸がすうっとすくような香りのする塩の床。

 足をあげる度に跳ねて飛ぶ水の雫。

 ぱちゃり、ぱちゃ、と音を立てながら、二人で歩く。

 あたしは足元を見つめるのをやめて、僅かに欠けて少しふっくらとした月を見つめていた。

 淡い光、濃紺の世界。白い星屑。

 あたしは、無性にたまらなくなって、レレクロエの背中に抱きついていた。

 あたたかい。

 いい匂い。

 大好き。

 大好き。

 他に、伝える術を知らない。

 あなたは名前を教えてくれたけれど、あたしは思い出すことができない。

 あたしが元は人間だったこと。本当は違う人間だったこと。なんとなく、薄々と感じてはいた。だって、みんなそんな話ばかりするから。なんとなく、覚えていたから。だけど、どうしても実感だけが沸かないのだ。あたしは、マキナレアであるあたししか知らない。レレクロエしか知らない。

「な、に」

 レレクロエの声が震えている。

 あたしはレレクロエの手を取った。くるりと向かい合わせる。レレクロエは戸惑う。あたしは彼の右手をあたしの腰にあてさせた。彼の左手に指を絡める。音楽はないけれど、右に、左に、体を揺らす。

 レレクロエの、ものすごく困っているような表情が新鮮で、どこか懐かしいような心地がする。

「ダンス。してみたかったの」

「はぁ? ていうか、僕やったことないんだけど」

「いいの」

 くるくると回る。

「いいの。こうしてるだけで」

「あっそ」

 不満そうにレレクロエは応えた。

 レレクロエがよろける。もちろん、支えきれるはずがない。あたしたちは、塩湖の水面にぱしゃりと倒れこむ。

「ちょ、」

 レレクロエが戸惑うけれど、あたしは笑っていた。レレクロエの髪が濡れている。あの雨が降っていたころは抜け落ちていた髪。もう今は、濡れたって千切れることは無い。

「もう……やめてよ、こういうの」

 レレクロエは困ったように目を伏せた。ぽつ、ぽつと、雨の雫のように、レレクロエの髪を伝ってあたしの頬に雫が零れる。

 あたしは笑うばかりで、何も言うことができない。

 胸が痛くて、声が出ないのだ。

 いっぱい伝えたいことはあるのに。

 どう言えば、あたしがこんなにもあなたに惚れてしまっただなんて、大好きだって、伝えることができるんだろう。

 笑い続けるあたしの手を引いて、レレクロエが二人分の体を起こした。あたし達は二人で、水の中にぺたんと座り込んでいる。

「ほんと、変な子」

「毒舌にキレがないわよ、レレクロエ」

 あたしは笑う。

「うるさいな」

 顔をしかめる。

 体が温かい。

 熱があるみたいだ。

 レレクロエはいつまでも困ったような顔で戸惑っていた。月明かりなのが惜しい。けれどきっと、日の下だったらこんなに素直にもなってくれないのだろう。

 身動きができないほどに、睫毛が触れ合うほどに。

 レレクロエは目を泳がせていた。あたしはその目をずっと見ていたいと思った。

「近い」

「うん」

「ギリヴ」

「何」

「近い」

「うん」

「熱い」

「うん?」

「ギリヴ、熱い」

「手が?」

「うん」

「あたしも」

「何が?」

「ねえ、レレクロエ」

「何」

「あたしのこと、好き?」

 眉が、ぎゅっと寄せられる。

「あのさ、」

「うん」

「そういうことはもう、言わないって――」

「言わないの?」

 レレクロエは唇を噛みしめた。

「だから、」

 苛立たしげに。

「近いんだって!」

 腹立たしげに、そう言って。

 レレクロエの手があたしの頬を包んで、強く引き寄せた。

 涙がまた零れ落ちる。

 泣かないようにしてたのに。

 泣いたら、だめなのに。

 啄むように口付けないで。

 くすぐったい。

 あたたかい。


 あたしはようやく、本当に幸せなキスをした。






     *






 あたしにできること。

 あたしがしたいこと。

 あたしだけが、できること。

 あたしは、花冠を編んでいた。

 静かな時間だ。独りで編み続ける。あたしは思いの外不器用だったみたいで、全然うまく編むことができない。

 何本も何本も無駄にして、指先を緑色に染めながら、祈るように蓮華草を折り続ける。

「何をしてるの?」

 ケイッティオが、レレクロエみたいにそう尋ねるから、つい吹きだした。ケイッティオは不思議そうに首を傾げる。その表情が、とても可愛いと思う。

 残していくのが、この二人でよかった。

「花冠をね、作りたくて。でもだめだ、下手すぎて」

「……貸して」

 ケイッティオが小さくため息をついて、そっとあたしからそれを受け取る。

「ねじらなきゃ、だめ。ほら、こうして、」

 ケイッティオはぶつぶつと零しながら、手伝ってくれる。

「すごい。ケイッティオ、作れたんだね」

「うん……昔は、こういうことしか、することがなかったの」

 どこか遠いところを見つめるように、目を細める。

「はは、なんだかいっぱいお花無駄にしちゃった」

「無駄なんかないわ」

 あたしが笑うと、ケイッティオは重ねるように呟いた。

「無駄なんか、ないわ」

「うん」

 わたしは穏やかな気持ちで笑いながら、何度も何度もケイッティオに教わって、ようやく一つの花冠を作り終えた。

「さ、行きますかね」

 花冠を夕焼けにかざしながら、あたしは呟いた。

 幸せだ。

「うん……」

 ケイッティオが目を伏せる。

 あたしは、花冠を潰さないように彼女を抱きしめた。

「ありがとう、ケイッティオ。置いて行くの、許してね。あたし、一緒に目覚めたのがあなたでほんっとうによかった。不安定で、ごめんね。しょっちゅう癇癪起こして、あなたを困らせちゃった」

「なんてことないわよ」

 ケイッティオがあたしの背中をそっと撫でる。

「楽しかったもの」

「先に行くね」

「うん」

「レレクロエのこと、よろしくね。あ、でも、長居はだめだよ。すっぱりぱすっと切っちゃってね」

「もう」

 ケイッティオは笑った。そうして、穏やかに目を細める。

「いってらっしゃい」

 あたしは頷いた。

 足元に散らばった蓮華草たちを抱えて、花冠を手首にかけて、背を向ける。

 ごめんね、最後に、

 あなたを選ばなくてごめんね。



     *



 レレクロエの姿はすぐに見つけられた。本当に、往生際の悪い人だ。

 ここ最近、ずっとあたしのことを避けていた。失礼してしまう。

「見つけた」

 あたしがにやりと笑うと、レレクロエは目を伏せた。

「何か用」

「うん」

 あたしはレレクロエの頭に、その冠を乗せた。

「……何、これ」

「あげる」

「は?」

「いつだったか、この蓮華草畑、あたしみたいで気色悪いって言ってくれたわよねえ? これからもあたしに塗れて暮らすといいわ!」

 満面の笑みで笑うと、レレクロエはくしゃりと髪を掻き上げて溜息をついた。

「ほんっとに……変な子」

 そう言って、あたしの手を引いて、膝に乗せた。

「何?」

「別に」

 瞼にレレクロエの唇が触れる。頬に、唇に、首に。

 そうしてレレクロエは、あたしの首に顔を埋めた。

 震えている。あたしはきつく抱きしめられて、身動きが取れない。

「失敗した」

 不意に、レレクロエが低く呟く。

「何が?」

「先に消えとけばよかった」

 その声がとても甘えたような声で、あたしは体を震わせた。

「ごめんね」

 レレクロエはもう、何も言わなかった。

「ごめんね、あたしの力は、あげられない」

 レレクロエは腕を緩めて、あたしの瞳を覗き込む。困ったような、戸惑うような顔をして。

「あのね、この間海に潜ってみたの。思った通りだったよ。まだ海の中にたくさん、嫌なものがあるの。たくさんの兵器が眠っているの。きっと、見つけられないくらい眠っている。それもそのはずだわ。だってたくさんの国が海に沈んだんだから」

 レレクロエはすっと目を伏せて、あたしの髪を撫でる。

「もしかしたら、もう使えはしないかもしれない。だけどね、あたしは……無駄なあがきかもしれない、また誰かが同じものを作ってしまうかもしれないけれど、この世界にあったそれは、もう全部消してしまいたいの。あたし、嫌いなんだ。随分苦しめられたから。嫌だったから。あんなもの」

 レレクロエは、せっかく編んだあたしの三つ編みをほどいてしまった。少しむっとしてしまうけれど、もう気にしないことにした。

 この髪を好きだなんて言ってくれるのは、この人くらいだ。

「だからあたし、海に行くよ。あたしの力の全てを使って、必要のないものを壊していくよ。あたしは海に帰る。だから、あなたの力にはなれない」

「構わないよ」

 初めて、レレクロエは穏やかに笑った。

「むしろ、君の力なんてもらったら僕が一生苦しめられそう」

 あたしはレレクロエに対抗して、彼の若草色の髪を指で梳いた。

「綺麗」

「そう?」

「うん」

「別に、男が綺麗って言われても嬉しくないけど」

「ひねくれてるなあ」

「うるさい」

 レレクロエはあたしを拒絶するように、遠ざけた。

 もう、彼は立ち上がることはしない。

 あたしは立ち上がって、唇を噛みしめた。

「じゃあね」

 彼は、何も言わない。

 ただじっと、あたしの姿を見つめていた。

 あたしはこの瞳を、忘れないだろう。

 今度こそ。

「じゃあね、エスト」

 そう言って、あたしは大地を強く蹴った。

 掌に抱えていた蓮華草を放す。

 はらはらと、レレクロエに花が降り落ちる。

 どうか、どうか。

 あたしの遺した痛みが、あの人を苛みますように。

 あの人が生きていく力になりますように。

 空を仰ぐ。

 青の中にぽつんと浮かぶ白い塩の星。

 見渡す限りの青い海。

 赤く色づく蓮華草の絨毯。

 この世界に生まれて、よかった。

 風であたしの髪がゆれる。

 ――あれ? 三つ編み……?

 解かれたはずのあたしの髪は、綺麗に編み直されていた。

 二つの房の先に結ばれたそれに、あたしは唇を噛みしめる。

 綺麗な、向日葵みたいな色の、リボンだった。

 ――馬鹿。

「遅いよ。もっと早くにくれたら、お礼が言えたのに」

 可愛くないこの口は、そんな言葉ばかり零して落とす。

 ――嬉しい。嬉しい……!

 あたしは声をあげて泣いた。

 涙は海に融けて、消える。

 あたしは、自分自身を、跡形もなく破壊した。

 二つのリボンを握りしめて。

 融けていく。融けていく。

 あたしが最後に目に焼き付けたのは、どうしようもないほどの海の青と、

 向日葵のような黄色だった。






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