星降る世界
空に浮かぶ、黒い光の手が絡まりあった糸玉を、レレクロエは忌々しい心地で見上げた。
得体のしれない、気味の悪い虫のように、それは
こんな姿になるまで人の作った毒を飲みこんだのかと、目の前のミヒャエロのことを、哀れにさえ思う。
「何が君をそこまで追い詰めるの。何がしたいの。こんなことをしたって、ハーミオネは喜ばないよ。大体、そこまで絶望することでもないんじゃないの。僕には理解ができない」
「よく言うよ」
ミヒャエロは、毒々しい黒の隙間からレレクロエを見下ろした。
「君も、おれと同じ立場になってようやくわかるだろうさ。だっておれ達はよく似ているから。まあ、君の方が幾分かましか。君は認めているものね、自分の気持ちを」
「なんのこと」
「……ねえ、こんな時まで、そうやって君の心を騙すつもり?」
ミヒャエロは苛立った声をあげた。レレクロエは目を細める。
「君ったら、随分と性格が悪くなったね」
「お生憎だよ。元からだ。単におれは、ケイッティオに嫌われたくなかった。だからいい顔をする癖がついてたんだ。でも、そんなのって杞憂だったかもしれない」
そう言って、遠くを見つめるミヒャエロの視線をレレクロエは追った。小さな二つの影が、揺らめいている。こっちへゆっくりと、向かってきている。
「あの子はさ、こんな時でも、こんな風に自暴自棄になっただけのおれを、ちゃんと迎えに来てくれるような子だったんだ。大事な妹だった。おれ、なんで見失ってたんだろ」
「自暴自棄だって自覚はあるんだね」
「もちろん。そこまで馬鹿じゃない」
「馬鹿がよく言うよ」
「君には言われたくない」
ミヒャエロは棘のある声で答える。
その体は、融けかけていた。崩れていく身体を繋ぎとめるように、混沌のオーロラが彼の体を侵食する。再生が追い付かないのだろう。彼は、何かを伝えるためだけに、必死で【ミヒャエロ】という個を保っている。
「ねえ、そんな姿になってまで、君は何がしたいって言うの」
レレクロエは、もう一度尋ねた。ミヒャエロは、レレクロエを小馬鹿にしたように笑った。
「いつか、君は言ったよね。おれ達が、モラトリアムを引き延ばそうと足掻く滑稽な道化だって。ピーターパン気取りのがらくただって。そのモラトリアムを終わらせてあげようとしているんだよ。もう、あの雨は降らないからね」
そう言ってミヒャエロは、隈の深く刻まれた目をすっと細めた。
「誰かが、
「随分な言いようだよね」
「君にこんなこと言ってやれるの、おれしかいないでしょう? 君と同じように、世界に自棄になっているような、おれくらいしか」
「僕は、自棄になんか、なってない」
レレクロエは声を震わせて、ミヒャエロを睨みつけた。
「どうだか。本当にそう言える?」
「君こそ、自棄の果てに死んだって、そんなの誰も望まない。君を想う人を
「じゃあ、誰がこんな役、してくれるってんだよ!」
ミヒャエロは叫んだ。
「誰が好き好んで、やってると思ってんだよ! 誰が真っ先に消えたかったよ! 君は知ってたんだろ? ハーミオネが、一番最初に死ぬんだって、知ってたんでしょう! あの人が死んだことも、いなくなってしまったことも、悲しむのは後にして今やれることをさっさとやれって言ったのは誰だよ! お前らは、お前らは……結局、誰かが動かないと、動いてくれないじゃないか。誰が一番辛かったと思ってんだよ。おれが一番、時間が欲しかったに決まってるだろ!」
泣きそうな顔で、そう叫ぶ。
レレクロエは、顔を背けて唇を噛みしめた。まだ何も始まっていない。これくらいで辛いだなんて思う資格はないのだ。
「別に……おれは……自棄で消えようだなんて、してないよ……するわけが、ないじゃないか」
ミヒャエロは、疲れたように笑みを零す。レレクロエを憐れむように、自分を蔑むように。
「おれなりに考えた……だけだよ。おれにしかできないことを、考えただけだよ」
「君のその姿は、結局ただの何の役にも立たないがらくたのままだよ。馬鹿」
レレクロエはミヒャエロを睨みつける。けれど、ミヒャエロはそれさえも受け止めるようにレレクロエに笑いかけた。
「そんな、悲しそうな顔しなくていいよ」
そう言って、深い溜息をつく。
「これは、おれ一人じゃできないんだ。だから、待ってる。だからギリヴに頼んで、君とモンゴメリを呼んでもらったんだ。二人に、最期のお願いがあるから」
「……っ、最期とか言うなよ!」
レレクロエが叫ぶ。俯いたままのその顔にどんな表情が浮かんでいるのかなんて、ミヒャエロには推し量ることはできない。
「あのさ、レレクロエ。おれね、ハーミオネの力をもらっちゃってんだ。さすがにそんなところまで君は知らないだろ」
レレクロエが顔をあげる。ミヒャエロは思わず吹きだした。
「そんな、捨てられた猫みたいな顔してんなよ。本当に、変なやつなんだから」
ミヒャエロは深く息を吐く。
「だからね、つまりさ、おれ達は、死んでいく度に、残された誰かに自分の力を残して逝かなければいけないんだ。それって酷だよね。それにさ、その人の感情も、思い出も、全部受け取るんだよ。おれ、ハーミオネがおれのこと、あんな昔から知ってたなんて知らなかったんだ。ひたすらに、おれを助けなきゃ、傷を洗ってあげなきゃって。苦しんでいるんだ。死んでしまう、死んでしまうって。おれにひたすら懺悔を繰り返す彼女の声が聞こえる。今もずっとだ。そんなにも苦しめていたって知らなかった。あの感情が、この力の源だったのかな。だとしたら、おれのこの力だって、おれの毒みたいな感情の賜物だよね。おれは、それをさすがにケイッティオとギリヴには託せやしない。少なくとも、今は」
「だから………僕に、貰ってほしい、ってわけ?」
「そうだよ。できるだろ。だって、最後まで残るんだから。どうせ、全部君のものになるんだから」
「はは」
レレクロエはくしゃりと頭を押さえて力なく笑った。
「そんなの……お願いですら、ないじゃないか」
「残酷なことを言ってごめんね」
ミヒャエロは穏やかな眼差しでレレクロエを見つめる。レレクロエはかっとなった。
「だから、そんなこと、お前に言われたくなんかない……!」
「はは。レレクロエっていつもすましてたから、どんな子なのか不思議だったけど、案外ただの短気な小物だったね」
「お前……」
「でも、嫌いじゃないよ」
ミヒャエロは穏やかに目を細めながら、地平線を見つめる。
「君がおれ達を叱ってくれなかったら、こうして一緒にはいられなかった。こうして、逃げることはできなかった。いつだって君は、おれ達を引っ張っていてくれたよね。あれはとても負担だったんだろうなと、今ならわかるよ。いつも、君にばかり背負わせて申し訳なかった」
レレクロエは何も言えなかった。ミヒャエロは、悪戯の成功した子供の様に、笑った。
「おれ、意外とちゃんと考えているでしょう?」
「馬鹿じゃ、ないの……」
「馬鹿だよ。馬鹿だから、大事なものも守れない。大切な人も……失った」
ミヒャエロは、いつかも呟いた言葉を零す。
「ねえ、レレクロエ」
「なんだよ」
「君は、結局、何者だったの」
ミヒャエロはもう、レレクロエを見てはいなかった。焦点が合っていない。体は淡い輪郭だけを残して、黒い靄と同化していく。
「おれはね、方舟になりたいんだ。いつか、生まれ変わった世界に放たれる命を、しばらくの間守ってあげる、しばらくの眠りを、暗闇を与えてあげられる、方舟になりたい。ハーミオネはこの世界を愛していたから。あの子は別に、人間だった自分や世界を厭ってマキナレアになったわけじゃなかった。あの子はこの世界を愛していたからこそ、自分にできることをしたんだ。それが本当は、初めて好きになったおれに近づきたかったからっていう、ちょっとした我儘だったとしても、可愛いものじゃない」
声はくぐもって、くすりと笑う。
「だからおれは、おれ達が生きたのと全く違う新しい世界よりも、綺麗になった世界で、息を吹き返した世界で、また同じ命が生きていくことを望むよ。そのために、すべてをおれの中に飲みこむんだ。だけど、おれだけじゃ足りないや。おれには引力を造れないから。世界の全てを惹きつける力は、まだおれのものじゃないから」
レレクロエは、ミヒャエロの声の届く先を見つめた。モンゴメリは、ケイッティオの手を引いていた。前髪を引きちぎったような成りで、目を隠すことなく覗かせ、ミヒャエロの混沌をまっすぐに見つめている。その柘榴色の瞳は、宝石のように瞬いた。もう、揺らがない、そう決めたみたいに。
モンゴメリは、レレクロエに声をかけた。
「なんだよこれ。気色悪いな」
そう言いながら、楽しそうに笑っている。
「気色悪いとは随分だね。君も大差ないよ」
「はは、違いないや」
ミヒャエロの悪態に、モンゴメリは笑う。
「で? どうすればいいの? 呼んでたろ、俺のこと」
「よく言うよ、白々しい。だからあんたのこと嫌いなんだよ。最初の子供なんだから、何だってお見通しだろ、おれなんかの思いつくことくらいさ」
ミヒャエロも笑った。
「助けてよ、モンゴメリ」
言葉が降る。
モンゴメリは静かに振り返って、ケイッティオを見つめた。ケイッティオは、いつものような無表情で、必死で笑おうとしていた。それをどこか悲しげにモンゴメリは見つめる。モンゴメリは何も言わなかった。やがて、二人の手は、指先を触れさせ、離れていく。
「ミヒャエロ」
モンゴメリはにやりと口角を釣り上げた。
「何」
「ごめんな」
「何それ。それは何に対して謝ってんの? ケイッティオのことなら、別にどうでもいいよ。あんたのことは嫌いだけど、別におれは、あの子の幸せまで厭ったりしないよ」
ミヒャエロは柔らかい声で言った。
モンゴメリは、黒い光の手に腕を伸ばす。手はモンゴメリを絡め取った。体が宙に浮いて、黒い渦に飲まれていく。
「モンゴメリ」
レレクロエは、小さな声でその名前を呟いた。
「何?」
「君の名前を、返すよ」
「はぁ? んなの、もういらないよ。それより、お前こそ、名前返してもらったら?」
「違う。……いや、そう、だね。じゃあ、返してもらうよ」
モンゴメリは、レレクロエを見て、ただ笑っていた。
「エスト」
レレクロエは、そう呟いた。
「エスト、だよ」
「そっか」
モンゴメリは嬉しそうに歯を見せた。
「じゃあな! エスト!」
モンゴメリは、誰も見たことがないような、心から楽しげな様子で笑って、世界を見つめた。その瞳から、紅い輝きの欠片が、流れ星のように弾けて降り注ぐ。世界が芳しい香りで満たされる。雨を降らすことを忘れた世界に、星の雨が降り注ぐ。
ぱらぱらと。ばらばらと。ぼろぼろと。
やがて世界は淡く色づいて、ゆっくりとその身体をもたげた。
吸い込まれていく。
かつての救世主に魅せられて、惹かれて、世界が彼を愛すように、吸い込まれていく。
世界の破片を、ミヒャエロは次々に飲みこんでいった。
やがて、モンゴメリもまた、その黒に侵食されていく。
花が降る。花が降る。
空を、たくさんの色が覆い尽くす。
ずぶずぶと頬を染め上げる黒の中で、モンゴメリはケイッティオを探した。
榛色の目は、瑞々しく震えて、モンゴメリを見つめていた。
笑いたくても、もう、笑う口がない。
手を伸ばしたくても、その腕が、もうない。
触れた指さえ、もう感じることができない。
モンゴメリは、目を柔らかく細めた。そうして、睫毛を震わせて、目を閉じた。
意識が、黒に滲む。
二人の意識は、そこで途絶えた。
*
レレクロエはくるり、と背を向けた。
耐えられない。
まだ僕には、耐えられない。
酷いじゃないか。
せっかく、僕が僕なりに準備していたのに。
そんなの全部ぶった切って、勝手な行動ばっかりして。
心の準備が、追いつかない。
「どこへ行くの」
ケイッティオの静かな声が追いかけてくる。
それに一瞬だけ足を止めて、またレレクロエは歩き出した。
空を仰ぐ。人間も、家畜も、植物も、有機物も無機物も。
みんな、吸い込まれていく。
抗いようのない力で。
何かに惹かれるような心地がして、レレクロエは振り返った。
「化け物みたい」
何もかも呑みこんでいく黒い方舟を見つめて、レレクロエは呟いた。
「化け物みたい……」
喉の奥からせりあがってくる何かを堪えるように、その景色に背を向ける。
馬鹿みたい。馬鹿みたい。
こんなもの、わからなかったなんて。覚悟が追い付いて行かないなんて。
僕ってなんて、役立たずなんだろう。
――使徒様。
誰かが、呼んだ気がした。
もう一度、今度はどこか諦めたような心地で振り返る。
ふわりと、水と泥の匂いがした。
蓮華草が、はらはらと風に舞って、泥を零しながら飛んでいく。
何もかも、残した世界が壊れていく。
――ギリヴは、どこにいるだろう。
ぼんやりと、そんなことを考える。
レレクロエは鼻を鳴らしながら、世界から目を逸らして歩き続けた。砂が頬を切り裂く。砂さえも吸い込まれていく。足が沈んでいく。ずぶずぶと。このまま砂に呑まれて、あの方舟に紛れてしまうのもいいかもしれない。もう、疲れた。何も考えられない。僕はまた置いて行かれてしまう。置いて行く覚悟も、置いて行かれる覚悟も持てきれないまま、取り残されてしまう。
長い月日、埋もれていた海が、濃紺の海が顔を覗かせる。
水面はレレクロエの体を支えることはできなくて、レレクロエは海に呑まれていった。水面がゆらゆらと光の網目を浮かべて揺れている。
それを、目頭に熱を感じながら、喉を震わせながらぼんやりと睨みつけていると、誰かの白い手がレレクロエの腕を掴んで、引き上げた。
「何してるの」
ケイッティオが、柔らかく言って首を傾げる。
両手を繋いで、向かい合うように水面に降り立った。
「目を逸らさないで」
その声に思わず顔をあげる。ケイッティオの瞳にレレクロエの姿が映る。子供の様な、寄る辺の無い姿。
「君――」
「ミヒャエロの意見なんか、知らない。わたしにさよならも言ってくれない。わたしにとっては、いつまでもあの人は、大好きなお兄ちゃんなのに」
そう言って、少しだけむくれたように、けれど晴れやかに、笑った。
痛いだろうに、苦しいだろうに。そう言って、笑った。
モンゴメリは確かに、この子の笑顔を残していった。
レレクロエはその場に崩れ落ちて、肩を震わせる。
信じられない。
守るつもりだったのに。見届けるつもりだったのに。
ヨーデリッヒの未来を守るつもりで、その覚悟で、この世界を選んだ。
ケイッティオの最期を看取ることは、自分の役目だった。
けれど、この少女は。
モンゴメリと同じ光を瞳に浮かべて笑う少女は。
「わたしはあなたを世界に置いて行くから。だからせめて、最期まで、あなたに何かを返させて。わたしの生きる意味は、それなのだわ」
ケイッティオはそうやって笑う。
――僕は結局、レデクハルトから贈り物をもらったってわけだ。
笑えて来た。
彼の願いをかなえるために、ヨーデリッヒが彼女を差し出したのに。
そんなヨーデリッヒの代わりに、この世界に来たのに。
なのに、逆に与えられてしまった。
「ずるいよ、それ、その二つ、僕が貰うことになってたのに」
「逃げ出すから、悪い」
ケイッティオはそう言って、水面を踏みしめた。
「さあ、帰ろう。ギリヴが待ってる」
僕は乾いた笑いを浮かべながら、真っ青な海を渡った。
緑が見える。紅紫の、淡い絨毯が見える。
見渡す限りの、何もない海の上で。
その場所だけが、残っていた。
「馬鹿みたいだ」
ヨーデリッヒが、彼らに遺したつもりの宝物は、彼らの手で、ヨーデリッヒに贈られたのだ。
レレクロエは今初めて、ヨーデリッヒの呪縛から解放されたような心地がした。
僕という誰かが、二人の死を悲しんでいる。
僕は確かに、あの二人のことが好きだった。
ミヒャエロが僕のことを卑怯者だなんて言ったのは、あながち間違いでもなかったらしい。
結局僕は、ヨーデリッヒを言い訳にして、自分の心から目を逸らしていたのだ。
僕なんかよりもずっと、二人の方が、わかっていたのだ。
僕は、彼らといる時間が好きだった。
六人でいられた時間が、宝物だった。今更気が付くだなんて。
案外、ミヒャエロの叱咤が、堪えているのかもしれない。
今なら、僕はギリヴを素直な気持ちで見れるだろうか。
緑の隙間から、ギリヴの鮮やかな頭が小さく覗いている。
青い海に、とてもよく映えている。
ギリヴは、二人をずっと見つめていた。思いつめたように。安堵したように。
目が合う。ギリヴが苦しげに顔を歪める。
たまらなくなった。
レレクロエは、掌で顔を覆った。爪を皮膚にくい込ませるように、強く。
止まらなかった。
泣かないと誓ったあの日が懐かしい。
――泣き虫エスト。
エリーゼが、幼い頃の声でそう囁いた気がした。そうだ、そもそも僕は、泣き虫だったのだ。
死なせてしまった。逝かせてしまった。始まってしまった。もう止まらない。止めることができない。
随分と、柄にもないことばかりしてきたものだ。今なら、ギリヴに触れられる気がした。心を曝け出す怖さも、この痛みに比べたら、どうと言うことは無い。
君が、無事でいてくれてよかった。まだ、生きていてくれてよかった。
ギリヴ、僕は、まだ君に何も伝えていない。
どうか。どうか、もう少しだけ。僕に、時間を頂戴。
ケイッティオの指先に、力が込められたような気がした。
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