青に歩む世界

 誰かが、わたしを呼んでいる。

 わたしは真っ白に輝く世界にいた。

 真っ白なワンピースを着て、空を踏みしめて、佇んでいる。

 雲が頬を霞めて通り過ぎる。

 こんな世界は、嘘だ。頭のよくないわたしにだってそれくらいは分かる。

 どうしてこんな夢を見ているのだろう。七色の虹が透けている。誰かの姿が、影が、遠くにぽつんと見えた。五つの影。わたしは、あの影へと走っていかなければならない。

 わたしは何をしに、この場所へ来たのだろう。

 夢なんて、見ないはずだった。だって、わたしはもう、人ではないのだから。

 人の必要とする安息を、必要としないのだから。

 空に、何を探しに来たのだろう。誰を、探しているのだろう。

 ――ケイ……ティ……。

 まただ。

 誰かの声が聞こえる。声が反響して、蜂の巣のような六角形のプリズムが、わたしの足元に流れ星のように降り注いで跳ねる。

 わたしは瞼を閉じた。

 これは夢。わたしが造りだした、わたしにとって都合のいい世界。

 だとすれば、会いたい人なんてたった一人のはずだった。

 思い出せないその名前だって、夢の中なら。

 思い出せるはずだ。喉から、零れ落ちるはずだ。喉が今ここで焼け落ちてしまってもいい。もう、この手が、足が、灰になって崩れ落ちても構わない。

 あなたに、わたしは伝えなければいけないことがある。

「……ーデリッヒ」

 わたしは、弓で飛ばした矢のように、自分の声が色となって弧を描き空の世界を舞うのを見た。

「ヨーデリッヒ!」

 姿が見たい。わたしが覚えているあなたの姿で構わない。わたしは結局、あなたが死ぬのを見届けられなかったのだから。

 どうか、夢なら、覚めないで。

「ヨーデリッヒ!」

「馬鹿な子」

 わたしの声が落ちて弾けた先で、彼は陽炎のように揺らめいて、苦しげに微笑んで、立っていた。

「せっかく、思い出さないようにしてあげたのに」

 ヨーデリッヒはどこか、穏やかに笑っていた。

 あちこち包帯で巻いて、杖に寄りかかるようにして、儚く佇んでいた。

 わたしは黙っていた。

 彼が何を言うのか、聞きたかった。

 わたしに何を伝えたかったのか、聞きたかった。

 ヨーデリッヒは後ろを見やって、口を歪める。

「行かなくていいの?」

「すぐに、行くわ」

「そう」

 ヨーデリッヒとわたしは、しばらく見つめ合っていた。わたしの心は、とても穏やかだった。痛くはない。悲しくもない。嬉しいと思っていた。たとえこれが偽物の王国だとしても、そこで、もう一度あなたに会えたのは、とても嬉しい。

 わたしは、あなたからようやく離れられるわ、ヨーデリッヒ。

「ありがとう」

 ヨーデリッヒは、静かに言った。わたしは笑った。そうだ、きっと、こんな他愛のない言葉をわたしは望んでいたのだ。きっとあなたがわたしにそう言ってくれると、信じていたかったのだ。

 わたしは、あなたに愛されたかったわけではなかった。

 あなたの願いを叶えて、ありがとうと、ただそれだけを言ってもらいたかった。

 ありがとうと言ってもらえるだけで、わたしはあなたの願いを叶えることができたのだと、喜ぶことができる。

 馬鹿な子――本当だ。わたしは馬鹿な子供だった。

 答えなんてわかりきっている。彼がそう言ってくれるだろうと信じたかった、それが、わたしそのものの業だった。

 ミヒャエロを引きずり込み、ハーミオネを孤独に埋め、レレクロエを苦しめ、モンゴメリの心を閉ざし続けた、業だった。

「わたしは、ヨーデリッヒに認められたかった」

 わたしはヨーデリッヒの幻想に話しかける。ただ伝えたかった。わたしの心に、伝えたかった。

「わたしを馬鹿な子だと、気持ち悪い子だと、嫌いだとばかり言うあなたに、ただ認めてほしかった。あなたに、ちゃんとわたしはわたしなんだと、見てほしかった。我儘だったわ。そして、確かに、わたし馬鹿な子だったみたい」

 ヨーデリッヒは、何を今更、とでも言うように鼻で笑った。そのニヒルな笑顔が、なんだかとても好きだった。あなたと話すのはとても楽しかった。あなたと居る時間は、あなたはどうだったかわからないけれど、わたしは楽しかったのだ。

 何度も突き放されて、何度も嫌な言葉を言われた。嫌な顔をされて、貼りつけたような笑顔で白々しく微笑まれた。けれどわたしは、それらを今愛おしいと思う。

「大好きな時間を、ありがとう、ヨーデリッヒ」

 わたしは顔を歪ませた。泣きたくはなかった。笑顔でいたかったから。

 もう二度と、会うことは無い。この夢が、モンゴメリが見せてくれた夢だと言うなら。もう二度と見ることは無い。

「わたし、モンゴメリが好き。大好き。遠回りさせてくれて、ありがとう。時間を作ってくれて、ありがとう。モンゴメリを好きになれて、嬉しい。好きになってもらえることが、こんなに嬉しいんだって知らなかった。あなたのおかげだった。ありがとう。この世界を守ってくれてありがとう。ここまで、守ってくれてありがとう。わたし達はもう、大丈夫だから。あとはもう、大丈夫だよ」

 わたしのために、わたしの身勝手な我儘のために、あなたの身勝手な我儘のために、この世界未来は造られた。

 ヨーデリッヒは、ようやくほっとしたように、嬉しそうに笑った。その顔はまるで、悪戯が見つかった子供みたいだった。

 そうしてヨーデリッヒは消えた。わたしの夢から。偽物の世界から。わたしの想いから、解放されて。

 わたしは空の上を見上げた。今なら泣いたっていいのに、涙が零れそうで零れない。夢なのだから、零れるわけもない。

 泣きたくなるような気持ちを、初めて知った。

 さあ、目を覚まさなければ。

 わたしは皆の背中を追いかけて、足を踏み出した。




     *




 瞼を開けると、瑞々しい梢の影が見える。

 鳥籠のよう。わたし達を、守ってくれた。

 まだどこかだるさの残る体を動かそうとして、わたしは左手に感じる温もりをぎゅっと握りしめた。それに気づいて、体を起こして座っていたモンゴメリがこちらへ顔を向ける。

 モンゴメリは、何も言わなかった。ただ、わたしの額をそっと撫でて、露を拭いてくれた。

 モンゴメリはもう目を隠そうとはしなかった。わたしは、その瞳をずっと見つめていた。

「眠れた?」

 モンゴメリが不思議そうに首を傾げる。

「うん」

「そ」

「ねえ、モンゴメリ」

「ん」

「わたし達が、世界を造り替えるのね」

 わたしの言葉に、モンゴメリはただ穏やかな眼差しで返す。

「わたし、あなたについてきてよかった」

「なんで?」

「だって、世界を造るだなんて、なんだかとても楽しそう」

「変なやつ」

 モンゴメリは笑った。

「そう言えば、前にも言ってたな。俺が世界を救う人なら、自分も同じことがしたいんだってさ。本当に変なやつ。あんなの、告白みたいじゃんか」

「告白?」

「病める時も健やかなる時も、って知ってる?」

「知ってるわ、それくらい」

「……そう言われた気持ちがした」

 モンゴメリはくすくすと笑う。

「そう? だって、本当に、あなたがわたしの知らない世界を教えてくれる気がしたの。友達になりたかった。一緒に世界を造れるなら、楽しいなって思ったの」

「それ、俺もヨルダに言ったよ」

 モンゴメリは穏やかに呟いて、空を見上げた。

「お前って、本当に変なやつだな。普通そう言うのは、何も知らない子供の無邪気な空想ゆめものがたりって言うんだぜ。仮にも俺はあの頃、お前が好きだったってのにさ、友達って思ってたわけじゃないのに。あんなこと言われたら、毒気も抜かれてしまうじゃん」

「わたし、欲張りみたい」

「貪欲すぎて、笑っちゃうよ」

「ひどい」

「つまり、恋人より、友達が欲しかったわけだ。馬鹿がやれるみたいな、さ」

 モンゴメリは、子供の様に悪戯っぽく笑みを浮かべる。

「そう。そうかもしれない。わたし、あなた達がうらやましかった。あなたと彼は、本当に仲が良かった」

「はは、そうだな、そういう未来だったら、造ればよかった。お前と、ヨルダと、俺でさ、ああでもないこうでもないって言いながら未来の世界を空想してさ、一緒に遊べばよかったな。俺、もったいないことした。多分きっと、その方がずっと楽しかった。でもそうなってもきっと、俺もヨルダも、結局お前に振り回されるんだろうな。お前、意外とじゃじゃ馬だもん」

「心外だわ」

 わたしはむっとしたけれど、モンゴメリが幸せそうに笑うから、それ以上何も言えなかった。

「知ってる? 空想ってさ、終わりのない世界なんだよ。だから、想像するだけならただだよ。変なの。ようやくお前とこうして話せるようになったってのにさ、なんだかずっと三人で一緒にいたような気がする」

 モンゴメリはそう言って、わたしの隣にごろんと横になった。

「好きだよ」

「うん」

「ケイッティオ」

「何?」

「ありがとう」

 わたしは一瞬、何も言えなかった。モンゴメリの腕がわたしを包み込む。わたしは素直に、彼の胸へと頬を寄せた。

「わたしこそ……」

「ん?」

「ありがとう」

「はは、何それ」

「ひどい。モンゴメリが先に言ったんだから」

 モンゴメリはからからと笑った。わたしは、とても不思議な気持ちでそれを眺めていた。

 この人は、こんなにも明るく、元気に笑う人だったのだ。

「どうしようかなあ」

 不意に、モンゴメリが呟いた。

「何、が」

 わたしの声は震えていた。身動きが出来なかった。モンゴメリが、わたしを隙間なく抱き寄せていたから。

「ん? いや、どうしようかなって」

「それじゃわからない」

「むくれるなよ」

 モンゴメリは相変わらずくすくすと笑っていた。

「どんな世界にしようかなあ」

「どうして?」

「だって、好きにできるじゃない。六人もいるんだから」

 わたしは、何も言えなかった。もう、ハーミオネはいなくなってしまったよ、なんて。

 言えなかった。だって、そういう事だから。

 世界を造るって、そういう事だから。

「そう言えばね、」

 わたしは、声が震えないように、身体が震えないように、モンゴメリの胸に顔をこすりつけた。

「ハーミオネは、南極が豊かな森になればいいのになあって、言ってた」

「は? 南極が? なんで」

「なんかね、南極は、地球の端っこで、冷たすぎて、誰もいけない厳しい不思議な大地だからって。もしも森になったら、南極は素敵な世界になるに決まってるって。誰も知らなかった世界を、歩けるようになるからって」

「なんだろうなあ」

 モンゴメリはどこか呆れたような、そしてどこか、憧れたような声で言った。

「女って、男より冒険心に溢れてるのか?」

「それ、誰と比べて言ってるの」

「さあ?」

 モンゴメリはわたしの髪をそっと指で梳いた。

「それもいいけどさ、俺は、空を歩けるようになったらいいなと思うけど」

「空を?」

「うん。ほら、お前って重力をうまく利用して、まるで階段を上るみたいに空へ上がっていくじゃん。空を歩くことができるじゃんか。羨ましいなって思ってたんだ。……小さい頃から思ってた。こんな砂だらけで喉が渇いてばかり見たいな世界じゃなくて、あの青空で、瑞々しい世界で、眠ることが出来たらいいのにって」

 そう言って、モンゴメリは空に手をかざした。

「まあ、空の青色もー目の錯覚なんですけどー。結局雲だって、人間は触ることもできないんですけどー」

 そう、大声で言って、ぱたり、と腕をおろす。

 拗ねたようなその仕草がなんだかかわいく思えて、わたしは笑っていた。やがてモンゴメリもつられて、わたし達は随分と長い間、大笑いをした。止まらなかった。温かな気持ちと、苦しい気持ちがどこまでもどこまでも湧いては流れて、止まらなかった。

 風が、森を吹き抜ける。

「行かなきゃ」

 モンゴメリが、静かに、低い声でそう言った。

 わたしもわかっていた。

 二人で、手を取り合って体を起こす。しばらく二人で見つめ合っていた。森の滲むような深緑の中で、モンゴメリの紫の髪が、とても綺麗だと思った。モンゴメリの唇が、わたしのそれとわずかに触れて、離れた。わたしは目を閉じた。泣かない。泣いてはいけない。

 後は何も言葉を交わさなかった。わたしは、モンゴメリに手を引かれる様にして、森を出た。


 さようなら。


 そう呟いて。


「変なの」

 モンゴメリがそっと呟く。わたしは何も言わずに、彼の言葉を待っていた。

「ヨルダと逃げるために線路を辿って、あの場所を見つけたのに」

 モンゴメリの髪が、日の光を透かしてわたしを瞬かせる。

「同じ線路を、今度はケイッティオと一緒に歩くんだな。今度は、本当に、世界に帰るために」

 この白い砂の大地を歩く足跡を、線路、という気持ちはよくわからなかった。

 けれど、もし線路だというのなら。

 必ず終わりがあるだろう。

 わたしは、もう、この人と同じ道を歩くことは無い。

 ふいに、ふわりと風がわたしの頬を霞めて通り過ぎた。わたしははっとして後ろを振り返る。小さくなった森が見える。

「どうした?」

 モンゴメリが優しく呟いた。わたしは首を振った。

 誰かが――わたし達が置いてきた誰かが、あの場所へ帰ったような気がした。線路を正しく進んで。砂の線路を逆走するわたし達を、送り出すように。

 わたしは、モンゴメリの広い背中を見つめ続けた。その紫も、ゆれる髪も、風が運ぶ匂いも、覚えておきたかった。もっと一緒に居たかった。あまりにも、一緒にいられる時間は少なすぎた。神様の砂時計は無慈悲に傾いて、時を刻んでいく。世界中に揺れるこの砂は、いつだってわたし達と共にあった。過去にだって、今だって――そして、これからだって。だとすればきっと、この砂はわたし達の時間そのものだ。いつかどこかへ吸い込まれて、戻ってこないだろう。それでも構わない。わたしはこの砂の世界に生まれ落ちたことを、生きてきたことを、幸せに思う。


 わたしは、青空の中にうごめく黒のオーロラを見つめた。



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