蒼撫ぜる世界
重力に身を任せ、大地を目指す。
頬を切る風は、身体をただ凍えさせるように熱を奪っていく。
ギリヴはぎゅっと自分の体をかき抱いた。
腕の中にはまだ、レレクロエの温もりと、血の匂いが残っている。
初めて見た、レレクロエの表情だった。寄る辺をなくしたような子供。荒んだ眼差し。……思わず、その身体を抱きしめていた。その時に胸の奥から湧き出て、心臓を満たすようにじわりと広がった感情の名前がわからない。
これでも、一線を引いているつもりだった。ハーミオネやケイッティオならともかく、他の三人――男の子に抱きつくなんてこと、したことがなかった。しようとも思っていなかったのだ。ミヒャエロの苦しい表情を見た時も、抱きしめたいとは思わなかったことに、今更気づく。だのに、レレクロエのことは、躊躇うことなく抱き寄せた。そして、腕の中にある温もりと、ほんの少し土や雨の匂いが混ざったレレクロエの匂いに、とても安堵した。不思議なほどに。まるで、そうすることが、当たり前だったように。望んでいたかのように。心の奥が騒がしい。泣き出して、叫んでしまいたい。
――あたしは、レレクロエを誤解していたのかもしれない。
結局、彼の言った言葉の意味を、それ以上聞くことはできなかった。彼は口を噤んでしまった。あれはきっと、照れていたと思う。絶対に、恥ずかしくなっていたのだと思う。レレクロエにもそういうところがあったのだと、ギリヴはどこか安堵していた。
『ねえ、さっきの、どういう意味? レレクロエって偽名なの? そういうこと?』
『あー、そうなんじゃない?』
『何それ。それじゃわからないわよ。どういうことよ』
『煩いよ。さっさとモンゴメリでも迎えに行って来れば』
『かっわいくな……じゃなくて、ねえ。もしかして、照れてる?』
レレクロエは黙っていた。気まずそうに顔を歪めると、ギリヴを振り切るように踵を返して、ミヒャエロの下へと向かったのだ。
『ほんと……君と居ると、本当に、飽きが来ないよ』
『ねえ、それ、褒めてんのー?』
『褒めてるんじゃないの。知らない』
「はは……」
ギリヴは乾いた声で笑った。
あまりにも、残された時間が少ない。
ハーミオネは逝ってしまった。ミヒャエロも……多分、これから死ぬつもり。
時告げ鳥が、
「短い、逃避行だったなあ」
ギリヴは笑った。
まだあたし、
これからのあたしには、何ができるだろう。
胸のポケットに入れたミヒャエロの日記を、服の上からそっと撫でる。
あなたの死を、見捨てるあたしを許してね。
ああ、やっぱりあたし、どうしようもない人間だ。
あたしのことを好きでいてくれるかもしれないレレクロエを、好きになりたいと思ったよ。
本当に、都合のいい、気が多いばかりの、どうしようもない女だなあと思うんだよ。
でも、レレクロエはいつだってあたしのことをそう言って貶していた。だから、もう、今更だよ。
きちんとお別れを言えるように、考えるから。
あなたに、ちゃんと、お別れを言うから。
どうか、もう少しだけ。
*
レレクロエと別れてから、三回大地を蹴った頃、ギリヴは探していた二人の姿を見つけた。
モンゴメリとケイッティオは、手を繋いで歩いていた。まるで、見えない線路の上をどこまでも歩くかのよう。そこだけ時がゆっくりと揺蕩うみたいに、おだやかで静かな景色だ。
ギリヴは、今更二人の邪魔をするべきかどうかとても迷った。だって、その線路は、そのままマグダへと続いているような気がしたのだ。
最後のお別れをするために、二人は歩いている。それがギリヴにも、わかるのである。
まるで、今から幸せになるために。
ギリヴは、堪えきれずに泣き出した。風が、涙を忙しなくふき取ってくれる。
あの邪魔をする意味はあるのだろうか。
ギリヴの心は跳ねていた。二人が手を繋いでいるその景色に、ただ喜んでいた。
よかったね、よかったねと。喜んでいた。
ギリヴは、最後にもう一度だけ、二人の姿を目に焼き付け、そのまま落ちて行った。風の流れに任せて。二人を邪魔しないように。自身はただ、泣き顔を見られないように。
二人とも無くすかもしれない。どちらか一人は残るかもしれない。早くお別れを言わなければならない。けれど、あたしにはまだ心の準備ができていない。
ギリヴはそのまま、逃げるようにあの蓮華草の咲く森へと帰った。
そのまま、崩れ落ちるように泥に埋もれて、声をあげて泣いた。
あたしには無理だよ。見送るのなんて、無理だ。
もう終わってしまうなんて、心の準備が間に合わない。
いつまでも一緒に居たかった。何も言いださなければ、ずっと続いていられると思っていた。
だけど、皆、あたしと違って、ちゃんと覚悟をしていたみたいだ。
ただただ、駄々をこねるように泣いた。
終わってしまう。いなくなってしまう。
もう、戻れない。
「嫌だよ。嫌だよ……」
声が、吸い込まれていくようだ。ギリヴはいつしか泣き疲れて、震えを増す大地の上で、体を起こして、梢を見上げた。
ぶちり、ぶちり、と音がする。木が、根っこから剥がれて、空へと吸い込まれる。蓮華草も、まるで絨毯の端切れのように連なって、泥も水も、虫も花も、全て吸い込まれていく。ギリヴを泥の竜巻が包み込む。吸い込まれていく。吸い込まれてしまう。剥がれて、手の届かないところへ行ってしまう。待って。やめて。この場所だけはどうか、奪わないで。お願い。お願いよ。
ギリヴは手を伸ばして、蓮華草を掴んだ。
体が熱を持つ。目を見開いて、空の向こうを睨みつけた。
許さない。あたしはまだ、許さないわ。
初めて、ミヒャエロとモンゴメリに、抗った。
あなた達なんかに、惑わされない。
この場所だけは、まだ。
「うああああああああああああああああああ!!!」
全力をかけて、自分を、森を纏う引力を、黒い雫を破壊する。
あんた達の方舟に、この場所だけは乗せない。新世界にだって、この場所は必要ない。これは、あたし達だけのもの。譲らない。あげない。渡さない。
まだ、帰ってくるから。
きっとまだ、あたしを見送ってくれる人が、帰ってくるから。
やがて、引力は止まった。地鳴りはまだ続いている。この場所だけが、世界の異変から切り離された。
ギリヴは森の入り口に佇んだ。
青。
見渡す限りの、海が見える。
全ての命を食らった黒い方舟は、海の表面を撫ぜた。
もう何も、残っていない。
残っているのは、わずかばかりの大地と、砂と、海だけ。
青い世界だけ。
ギリヴは新世界に立っていた。
いつか、誰かが願った世界に、佇んでいた。
しばらくそれを呆然と見つめて、やがて、その白い地平線の向こうに、二つの人影を見つけた。
水面の上を歩いている。
壊れかけの線路を踏みしめるように、歩いている。
「ケイ……ティオ」
ギリヴは足を踏み出そうとして、やめた。
ケイッティオは、レレクロエを支えるようにして歩いていた。
ギリヴは、一言も発することができなかった。ただ、祈るように、思いつめたような気持ちで二人を見つめ続けた。レレクロエが、伏せていた顔をあげた。色もなく、その瞳でギリヴを見つめる。
やがてレレクロエの顔は、歪んだ。レレクロエは、空いた左の手で自分の顔を隠そうとする。
ギリヴは、レレクロエが泣くのを不思議な気持ちで見つめていた。
こんな顔を、もう一度、残された二人分、彼に強いるのだ。
ケイッティオはギリヴに気付いて、花が開くように笑った。
ギリヴも笑い返した。
新世界で、みんなで、寄り添った。
青い海。青い空。ぽつんとのこされた、紅紫色の絨毯。空に浮かぶ、生き物のように蠢く黒い光の渦。
世界が、産声を上げる。
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