花舞う世界

「ばあちゃーん、この辺に咲いてた白い花どこ行ったぁ?」

「ああ……それはもう、枯れてしもうたよ。時期が時期じゃからのう……」

「えー。去年は生えてたのに」

 アビゲイルは口を尖らせた。その不満そうな顔を、まだ小さな弟ジルが、不思議そうに見上げる。

「じゃあ、別の花でもいいや。どこか生えていないかなあ」

「にいちゃん、にいちゃん」

 小さな手を伸ばすようにして語りかける弟に微笑ましさを感じながら、アビゲイルは腰をかがめてジルと目線を合わせた。

「ん? 何?」

「あっちの岩の隙間に、紫の小さなお花、咲いてた」

「まじで。じゃあそれにしよっか」

「うん」

 ジルは花のように笑う。老婆は二人を穏やかに見つめている。

「そう言えば、お前はずっとそうやって一年に一回、花を集めているのう。お前達の母親も、ずっとここでそうしていた。懐かしいのう。その父親も、そのまた母親も、ずっと、そうしておった」

「あ、そう言えばばあちゃん、おれのばあちゃんやじいちゃんたちのことも知ってるんだっけね」

「ずっと、この場所で共に生きてきたからの」

 天井に敷き詰められた岩の隙間から、日の光が零れ落ちて、老婆の頬を照らしている。老婆は眩しそうに目を細めて二人を見つめた。

「これはね、約束なんだよ、ばあちゃん」

「約束?」

「そう。ずっと遠い昔に、おれとジルのご先祖様が託したお願い事なんだよ。必ず毎年、同じ日に、四つの花束を手向けるんだよ。まあ、もうそんなに花なんて生えてないし、おれなりに四本花を用意することにしてるんだけど」

 そう言ってアビゲイルは――少しだけ大きくなった手でジルの頭を撫でた。

「誰かのじいちゃん、ばあちゃん、お母さん、お父さんの分なんだって。その人の代わりに、ずっとおれ達は死ぬまで花束を用意するんだ。ずっと。それが、その人の願いだから。まあ、おれが知っているのはそれくらいだけど。でも、大事なことなんだ」

「そうか」

 老婆は穏やかに笑った。アビゲイルはジルを抱っこして、奥へと歩いていく。

 埃っぽい、涼やかな洞窟の中。

 六人の使徒がこの土地を去ってから、もうすぐ二年が経とうとしていた。使徒様は――レレクロエ様は、結局おれが花束を手向けるのを一度も見ることなく行ってしまったな、と、ふとした時にアビゲイルは考えてしまう。

 自分がこうして花を摘むのを、自分にとって大事なこの一つの慣習を、レレクロエには見てもらいたかった。レレクロエには、自分の大切なものを全部見てほしかった。なぜ、それがレレクロエだったのか、アビゲイルにも説明はつかない気持ちなのである。寂しかったのかもしれない。父親も、母親も早くに亡くして、ジゼルと二人きりでこの小さな洞窟で生きてきた。レレクロエと過ごした時間は短かったけれど、アビゲイルはレレクロエのことが好きだった。宝物を何も持っていない、人とは違う使徒様に、自分の宝物をたくさんみてもらいたかったのだ。

 そんな風に思うのが、どうしてかだなんてそんなことはわからなかったけれど。

 あの寂しそうにしていた二人の使徒様が、幸せだったらいいと思った。そんなことを願うのは間違っているかもしれない。けれどアビゲイルは、二人のことが好きだった。二人がいた時間が、大好きだった。

 岩の隙間に、小さな菫が咲いている。

「摘むのはもったいないけど……ごめんね。ほらジル。お前も一本摘んでやって」

「うん」

 ジルはおとなしくうなずいて、その細い茎をぶちり、と千切ろうとした。一緒に、土を纏った根っこがついてくる。アビゲイルは思わず微笑んでいた。

 アビゲイルが母と一緒に過ごした時間は、あまりにも短すぎた。けれど、アビゲイルは幼い記憶を辿るように、母親の思い出を抱きしめて生きてきた。母親がしていたように。話してくれていたように。

 靄がかかったように殆ど思い出せない記憶の中で、不思議なほどにはっきりと、母が毎年この日に四つの花束を作っていたことだけは覚えていた。誰かのために捧げる花束なのだと。それが約束だからと。

 ――私のおじいちゃんも、おばあちゃんも、そのおじいちゃんやおばあちゃんも、ずっとずっとそうしてきたのよ。それが、フォルダ家に生まれた人間の、ずっとずっと続いていく大事な役目なの。

 だから、その唯一の思い出を、母の愛を、ジルにも少しずつ教えてやらなければならない。ジルを守れるのは、自分しかいないのだから。

 ジルの手から、菫の花がぽとり、と落ちる。

 地響きだった。恐ろしい音が耳をつんざいて、心臓を震わせる。ばらばら、と音がして、小さな石のかけらが降り注ぐ。アビゲイルは必死でジルの頭を庇うように抱きしめ、岩の割れ目から少しずつ滲んでくる青空を睨みつけた。

 何が、起こっているというのだろう。

 サラエボに取り残された無力な人々は、身を寄せ合って、それを眺めるしかできない。

 上空に、恐ろしいほどの鉄の塊が幾つも飛んでは消えた。

 その遠い向こう側で、黒く輝く靄が見える。

 ぞくり、とする。

 反射的に、アビゲイルは駆けだしていた。ジルを抱えたまま、石の壁を這い上る。爆弾は、次々にその靄の中へと吸い込まれていった。爆弾だけでない。地上のあらゆるものが、破片となって、大地から削り取られるように空へと舞いあがる。それらは帰る場所を見つけたかのように、その黒い靄へゆっくりと揺蕩ってゆく。ジゼルが、空を舞う花弁を手に取ろうと小さな手を伸ばしていた。

 ――どうして、あれを攻撃しようとするの?

 信じられなかった。あれは人間がどうこうできるものなんかじゃない。神様の力。大自然の力。子供でも分かる。あれに近づいてはいけないと。どうして大人にはわからないのだろう。どうして、そんなにも、悪意を向けようとしているのだろう。

「アビゲイル! 危ないわよ!!」

 足下で、幼馴染のメリーが不安そうに叫ぶのが聞こえる。けれど、アビゲイルはどうしても世界から目を逸らせなかった。何か恐ろしいことが起ころうとしている。世界が割れていく。切り取られていく。吸い込まれていく。

 悲鳴が聞こえる。

 振り返るのと、ぐらりと傾く身体を必死で繋ぎとめようと壁に掴まったのは同時だった。吸い込まれていく。体が。あの黒い靄が呼んでいる。絡め取ろうとしている。人々の体が、塵が風に舞うように軽やかに浮かんでいく。逆さまの世界で、誰もが怖がって叫び、怯えた。

 必死で壁を掴むけれど、片手が塞がっている状態では、いくらも耐えきることができない。

 他の人々と同じように、空へと吸い込まれていく。なす術がなく、恐ろしくて、どうしようもなくて、アビゲイルはジルをただ抱きしめた。

 悲鳴。唸り声。風の音。花の香り。緑の匂い。頬をかすめる花弁。土の匂い。睫毛にまとわりつく、石の粉。

 地面がどんどん離れていく。頬に何か冷たいものがあたる。目を開けると、ジゼルが大泣きしている。その涙が、唾液が頬にひたひたとぶつかる。けれど、もうどうすることもできない。

 黒い靄が――光の帯が、雫となって二人を包み込む。嫌だ、死にたくない。おれは、まだ花束を手向けていない。ジル、ジルだけでも、どうか。

 見ると、ジルは少しだけ泣き止んで、何かをじいっと見つめていた。見慣れない紅紫色の花を、掴もうと手を伸ばしている。

 ――蓮華、草?

 はっとする。その視線の先に、遠くに。

 忘れもしない姿が、孤独に佇んでいた。

 草よりも明るい、黄緑色の髪。

 汚れた茶色の外套。この強烈な引力を、まるで何ともないみたいに地面にそっと佇んでいた。

「使徒様!」

 アビゲイルは叫んだ。

「使徒様あ!!」

 気づいて。どうか。

 どうして、そう呼び続けたのか、自分でもわからない。

 助けてほしいとは思わなかった。助からないと、頭の隅でいつしか理解してしまっていたのだから。

 けれど、ただその姿に。何かを堪えるようにただ一人で立つその人に、手を伸ばしたかった。

「使徒様!! 使徒様!!」

 いつしか、ジルもつられたようにきゃっきゃとはしゃいで、同じ言葉を叫んでいた。ジルはもう、彼のことなんて覚えていないかもしれない。幼い子供は、忘れるのも早いのだ。アビゲイルは初めて、自分がこの年まで無事に生きてこられたことに感謝していた。

 あなたのことを、覚えていられる。

「使徒様! レレクロエ様!!」

 ふと、彼がこちらを振り返ったような気がした。そんなはずがない。だって、到底、子供のおれの声が届いてくれるような距離ではないのだから。

 レレクロエは、再び歩き始めた。どこかへ、まるで、いつか消えてしまうみたいに。

「いつか会いに行くから! 使徒様! おれ、まだ話してないことあるよ! おれ、まだ花を集めてない……」

 ふわり、と花の香りがする。

 どこに、これだけの花が生えていたのだろう。

 世界中の花が、アビゲイルを包んでいた。独りにはしないよと、慰めてくれるみたいに。

「花束――」

 こんな花束、見たことがない。

 ジゼルを抱きしめて、堪えるように顔をその肩に埋める。

 黒い光の帯の手は、二人を鳥かごに閉じ込めるように編み合わさった。

 母さん、ごめんなさい。

 これが、おれにできる精一杯だった。


 いいんだよ、と言うみたいに、柔らかな白い腕がおれを引っ張った。


 息苦しさが、消えていく。







     *







「あなたは、レレクロエに懐いていたわね」

 七色に揺れる暗闇の中で、鈴のような、綺麗な声がアビゲイルを包み込んだ。

 だれ、と問いかけようとして、その声はただの擦れた音になって零れてしまった。

「覚えてる。だって、とても綺麗な赤毛だった」

 きっと声の主は、優しく微笑んでいるのだろう。それは聞き覚えのある声だった。だけど、記憶にあるその声は、もっと無機質だった。

 微かに瞼を開ける。睫毛の向こう側で、真珠のような白い髪の少女が、アビゲイルの顔を覗き込んで、頬を撫でてくれている。

 彼女の頬についた小さな針の孔のような火傷の跡を、アビゲイルも手を伸ばして、そっと撫でた。とても、痛そうだと思ったら、涙が出た。彼女が少しだけ苦しそうに目を細めた。

「あなたに、お願い事をしてもいい?」

 その人は、儚い声でそう言う。

「いつか、レレクロエを迎えに行ってあげて。それまでどうか、命を繋いであげて。わたしには、それができないから。あの人が、独りぼっちにならないように」

 そう言って、彼女は微笑んだまま、ぽろぽろと真珠を零すように涙を流した。

「それが……わたしと、モンゴメリの、願い」

「使徒、さま……」

 アビゲイルは、震える声でいいよ、と言った。彼女はアビゲイルの小さな手に自分の手を添えて、すり、と頬を摺り寄せた。

「あなたの大事なものを、あなたの子供たちの大事なものを、わたしが奪ってあげましょう。そうしたら、きっといつか。いつか新しい世界で、あなたの誰かが彼に会えるように」

 彼女はそう言って、アビゲイルの体に触れる。

 アビゲイルは腕の中に抱いたままのジルを見つめた。気を失っているだけの様で、柔らかな寝息を立てていることにほっとする。

「でも、ジルだけはあげられないよ、使徒様」

「構わないわ」

 彼女は、そう言って笑った。

「さようなら、アビゲイル。いつか目覚めるその時まで」

 彼女が、アビゲイルの手を放す。

 アビゲイルは、再び黒い手に奪われた。

 そうして、何もかもわからなくなって、夢の中に堕ちていった。






     ***






 その日、世界はすべて、闇に呑まれた。

 広大な更地を残して。全てを洗い流して。全てを、箱舟に閉じ込めて。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る