白砂の棺

 灰色の煙が、体中にまとわりついている。

 苦しく咳込みながら、ヨーデリッヒは霞む視界に目を凝らした。

 汚れた硝子窓。その向こう側に映る姿に、はっとする。

 ――レディ。

 なぜ、あなたが、ここに。そう呟きかけた瞬間、身体がぐらりと後ろへ傾く。ポチャリと音がして、目の前を揺れる青い水面が覆った。

 揺れる視界。青の向こう側で、どこかわからないところを見つめるレデクハルトが見える。

 水面越しに映る彼の姿と、その隣に影を落とすもう一人の人物には、見覚えがあった。

 ――あれは、僕だ。

 レデクハルトは水面を見つめている。けれど、決してヨーデリッヒと視線が交錯することは無い。ヨーデリッヒは気づいた。これは、僕が彼と共に乗った電車の窓だ。それを、海の中から見つめている。ヨーデリッヒの体は海の中でただゆらゆらと揺蕩った。

 時折耳に擦れて届く柔らかな汽笛。

 視界が鮮やかな青に彩られる。水の中に居るはずなのに、ちっとも苦しくはなかった。

 あれは、僕とレディが、最初で最後の逃避行をした思い出。

 あの時、僕は、とても暗い感情に包まれていた。あの旅は、ちっとも幸せじゃなかった。レディが死にたいがための、静かな死に場所を探すためだけの旅。僕達は何もかもから逃げ出した。僕は逃げることなんかできないとどこかで思っていた。そしてきっと、レディもそれをわかっていた。それでも、最後の旅に僕を連れて行ってくれたことがどこか嬉しくて、けれどそれが幸せな旅でないことが悲しくて、僕はずっと、あの汚れた透明な窓を睨みつけていたのだ。

 この記憶は、僕にとって、不幸の始まりだったとずっと思っていた――

 この青が滲む風景で、レディはようやく生きる意味を見出したのだ。依存ではなく、怠惰でもなく、慢心でもなく、自棄でもない、希望を見つけた。

 そして僕は、それが嬉しくて、どこか苦々しかった。それを叶えてあげられる世界でないことが悲しかった。彼のための世界を造ってあげたいと思った。けれど僕には時間がなかった。きっと、彼にも時間はなかった。希望を抱けば抱くほど、失望は膨らんでいく。いつでも弾けてその毒をまき散らす準備をしたためているのだ。レディが希望を抱いた分だけ、彼は直に絶望するだろう。失意のまま死を選ぼうとする彼を、もう二度と見たくなかった。

 だから、僕は自分自身の幸福を対価としたのだ。

 自分の幸せと、レディの幸せ。二つを天秤にかけて、それでも僕は、レディの幸せを望んだ。天秤は歪に歪んで、僕の望みを叶えた。僕はこの時の選択を、とてつもなく後悔した。間違っても、レディを恨む日が来るなんて思っていなかったのに。僕は、大切なものを幾つも取り零してしまった。青い水を掬い取ったはずの掌には、もう何も残されていない。

 僕にとって、この海の記憶も、どこか間の抜けるような汽笛の音も、咳ばかり強いる灰めいた煙も、潮の香りも、全てが、苦々しさだけを呼び起こす硝子だった。

 けれど。

 ヨーデリッヒは、水の中で思うように動かない腕をゆっくりとレデクハルトへと伸ばす。その手が届くことなんてないと知っているのに。ただ美しかった思い出に、手を伸ばしていた。ああ、青。なんて綺麗な色だろう。なんて、美しい色だったんだろう。僕は、初めてこの記憶を愛おしいと思った――小さな波を抱えた水面のような心が、ヨーデリッヒに泣く必要はないと告げる。

 あの僕は、確かに幸せだった。



     *



 はっと目を覚ます。天窓から、灰色の光が射しこんでいた。

 もう、この窓が青い空を映すことは無い。あの青にずっと救われていたのだと、ヨーデリッヒ今、ようやく理解していた。けれど、もうあの空さえ曇らせてしまった。僕にはもう、何も幸せになる術が残されていない。

「起きたの」

 生意気そうな声がする。けれど、首さえ思うように動かすことができなくて、ヨーデリッヒは、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。声の主は深く嫌味を多分に含んだ溜息をついて、その腰を上げる。

「日に日に、動けなくなってるね、ヨーデリッヒ」

 レレクロエは、事もなげにそう呟いた。けれど、ヨーデリッヒの額を撫でるその手は小さく震えている。

 難儀な子だ、と思う。そして、そんな子を選んでしまって、申し訳なかった。

 ヨーデリッヒは、静かに瞼を閉じた。暗闇の中で、くちゃくちゃ、と音がする。レレクロエが、薬を食んでいるのだ。僕のための薬。僕が、短時間だけれど、少しだけ動けるようになる劇薬。

 レレクロエはヨーデリッヒの口を大きく指でこじ開けた。この辺りが、エルと違ってぞんざいだ。ぐちゃり、と苦くて匂いの強いものが、ヨーデリッヒの咥内へと流れ込む。

 レレクロエの唾液が混じったそれを、ヨーデリッヒはごくり、と飲みこんだ。

「別に、エルみたいに口移しする必要はないんだよ? レレクロエ」

「口移しなんかしてないよ。あんたの口の中に吐いてるだけ」

 レレクロエは鼻を鳴らした。

「こんなことまでさせてたら、そりゃ君に執着するようになるだろうさ。本当に、どこからどこまでも計算ばかりだよ」

「そんなこと言っても、それは唾液が混じらないと、溶けないのだもの。僕はもう、自分で噛むことさえできない」

「そんな麻薬を使ってまで生きようとしなきゃいいじゃない」

 レレクロエは暗い声で呟く。

「もうすぐ、死ぬから大丈夫だよ」

「何が、大丈夫だよ。それだって僕をけしかけることが前提だろ。ほんっとうに、どこまでも、どこまでも……誰かを巻き込むのが好きなんだな」

「どうだろう」

 よくわからない。考えたこともない。

「青い色って、綺麗だったんだね。忘れてた」

 ヨーデリッヒが、不意にそう呟くと、レレクロエはしばらく訝るように黙っていた。

 どう反応したらいいのか、わからないのかもしれない。

 ヨーデリッヒはずっと、青い色が嫌いだった。レディを苦しめた色だから。僕の手に罪を抱えさせた色だから。

 だけど、あれはきっと、とても美しい色だったのだ。今なら素直に、そう思える。

 あの景色は、確かに美しかった。青い海の真ん中で、白い砂の上に咲く小さな王冠のような花。錆びたトタン。灰色の煙。

 あの場所を、残そうと努力している。海の中に佇むあの僅かな土地には、レレクロエに、雨を吸い込む葉を茂らせる特殊な木を植えさせた。ヨーデリッヒは、その木が育っていく未来を見ることはできない。それでも、あの場所がいつか、彼らが目覚める未来で残っていればいいと思う。そして、願わくば、あの海を、またレディが見てくれたらいい。

 もう忘れてしまったその瞳で。

 閉ざしてしまったその目で。

「木は……育ちそう?」

 ヨーデリッヒが静かにそう尋ねると、レレクロエはどこか嫌そうに答えた。

「育つんじゃない? 知らないけど。大体、本当に残したいなら、僕なんかじゃなくて他のアルケミスト達にでも協力を頼めばよかったんだよ。何かもっともらしい理由をこじつけてさ。君たちの思い出の場所で、僕以外に踏み込まれたくないのもわかるよ? だけど、僕はもうすぐ眠りにつくんだ。あの木の世話はできない」

「いいんだ」

 ヨーデリッヒは静かに笑った。

「種を、撒くだけだから。絶対じゃなくてもいいんだ。いつか、いつか、レディがあの場所を見つけて、そして、またあの日のように、あの青い海を――あの人を苦しめたあの青さを、君達と眺める未来があったらいいな、と思うだけだ。きっと、そこは美しいから。それだけは、信じているから」

 そう言って、天窓からの光に目を細めた。


 眩しい、世界だ。







     *








 ずぶずぶ、と体の内側から鈍い音が脳髄へ響く。

 ――ああ、痛いなあ。

 ヨーデリッヒは、自分の脇腹に深く刺さったそれを見つめながら、微かに笑っていた。

 まだ、躊躇いがあるようだ。

 ヨーデリッヒが翻弄し、無残に捨て置いた哀れな赤毛の青年は、どこか置いて行かれた子供の様な目で僕を見つめながら、がちがちと歯を震わせていた。

 僕を殺したくなるほどに狂わせたのに、まだ、躊躇いがあるのだ。

 僕を死なせることに。

 僕が目の前で死ぬことを、見てしまうことに。

 周りの声が、遠くで聞こえるような錯覚。

 誰かがエルをヨーデリッヒから引き離した。恐らく、つい先刻まで話をしていたアルケミスト達の一人だろう。

 エルは、泣き喚いて、ヨーデリッヒを恐れるように見つめていた。

 馬鹿な子。僕なんかに捕まって。

 僕が愛するのは、一人だけだよ。君なんか、いらない。

 この時を待っていたんだ。これを、待っていた。

 このためだけに、君を傍に置いたんだ。過剰なほどに、置いたんだ。

 ヨーデリッヒは、床にふらりと崩れ落ちる。その時、刺さる短剣の柄が床にぶつかるよう、体勢を変えることをちゃんと忘れなかった。

 ばきり、と何かが砕ける音がする。

 ずぶり、と奥深く、それは埋め込まれるように、ヨーデリッヒの中へと侵入して。

 ああ、痛い。痛いなあ。

 ヨーデリッヒは、脇腹を抑えるような恰好のまま、もう動くことはできなかった。


 さようなら。

 さようなら、僕の大事な、マキナレア。


 彼の意識は、そこでとうとう、消えた。






















     ***




 白い砂と、塩を混ぜた棺。

 緑色の、ステンドグラス越しの光が射しこむ部屋で、ヨーデリッヒが眠っている。

 白い棺の中、色とりどりの花が、その体中に添えられ、ヨーデリッヒは花に包まれる様にして、瞼を閉じていた。

 蝋燭の光が、揺らめく。

 レレクロエは、誰もいないその静かな空間で、ヨーデリッヒをフードの下から見下ろした。

 もう、動かない。

 ヨーデリッヒの肌はどこまでも白いまま。まるで人形のように、固くなった皮膚が花の隙間から見えている。

 レレクロエは、そっとその頬に触れてみた。

 温度が、ない。

 ヨーデリッヒは、もういない。

 レレクロエは、懐に隠していたオルゴールをそっとその手に包ませた。

 ヨーデリッヒの自室にずっと置いてあったものだ。

 古びた、木箱の、手巻きのオルゴール。

 そっと、錆びかけたそのねじを巻いた。

 新世界より。

 新世界より、貴方の幸せを願う。

 貴方の見たかった世界から、今日、この日の記憶を眺めよう。

 どこまでも用意周到だ。ヨーデリッヒは、志半ばで暗殺された、悲劇のアルケミストとして、死んでゆく。

 人々を救おうと手を差し伸べたグラン・アルケミストの死。人々は彼の遺志を継ごうとするだろう。そうして、彼を死に至らしめた狂気の科学者は、最も惨い方法で処刑される。

 レレクロエは、それも見届けなければならない。

 ……僕が唆し、罪へと引きずり込んだ彼の死をも、見ておかなければならない。

 止めることもできた。ヨーデリッヒの思い通りにしてやる必要はなかったのだ。

 僕が、エルを逃がしてやることもできた。

 けれど僕は、そうしなかった。

 僕は偽善者でも、善人でもない。

 ヨーデリッヒが殺されることを、望んだわけでもない。けれど、ヨーデリッヒはそれを誰より望んでいた。ここまでがシナリオ。全てヨーデリッヒの計画通りだ。彼は、彼の死を以て、全ての計画を完遂した。全てが思い通りだ。何一つ、何一つ綻びはなかった。恐ろしいほどに。僕は神様なんていないのだと知った。僕の神様はヨーデリッヒだった。僕は、僕の神様を失った。

 「あ……う……う……」

 レレクロエはいつしか、泣き崩れていた。

 逝ってしまった。逝ってしまった。止められなかった。止められたかもしれなかったのに、そうしなかった。ヨーデリッヒは逝ってしまった。もう、僕のことを知っている人は、いない。僕のことを誰よりもわかってくれる人はもういない。僕は、永遠に、彼を失ってしまった。もう分かち合えない。わかってやることもできない。受け入れることもできない。僕はたった一人きりで、この記憶を抱えていかなければならない。たった一人で、眠り、目覚めなければならない。

 いつしか、こんなにも、ヨーデリッヒに依存していたのだと知った。本末転倒だ。僕は結局、ヨーデリッヒを超えることはできなかった。恨みさえ、流れて、溶けていく。レレクロエはただ哀しいと思った。レレクロエは今や、ヨーデリッヒの死を悲しんでいたのだ。


 やがて、ぐすっと鼻を鳴らして、レレクロエはゆっくりと立ち上がり、彼の棺に背を向けた。緑の光に背を向けた。もう泣かない。二度と、僕は泣かない。ヨーデリッヒがそうしたように。ヨーデリッヒにとってレデクハルトがそうであったように、僕にとってはヨーデリッヒが神様だったのだ。僕は、僕の神様のためだけに、涙を流そう。僕は、そのための祈りだけを抱えて、生きなければならない。ヨーデリッヒがただ一度だけ、レデクハルトの記憶を消したことを泣いたように。そしてその後、一度も泣かなかったように。



     **



 エルは、最期まで泣き叫んでいた。狂ったように。助けを求めるように。殺される恐怖と、向けられる憎悪への恐怖、ヨーデリッヒを失った恐怖に怯えて、泣いていた。レレクロエはそれをとても哀れだと思った。殺すにしても、もっと他の方法があっただろうに。どうして、誰もが見ている前でヨーデリッヒを刺したりなんかしたんだろう。思っていた以上に、エルは馬鹿で、歪な子供だったらしい。

 人々の憎悪は、留まることを知らなかった。無慈悲にも、下ろされる大きな錆びた鎌。

 エルの首は、ごろりと石畳の上に転がった。人々から歓声が上がる。どうせ、そんな憎しみも、そんな歓喜も、すぐに霧散してしまうのに。本当に馬鹿な生き物だ。まるで、僕みたいだ、とレレクロエは思う。

 そのまま、喧騒に紛れて、エルの首と体を引きずって、闇に隠れた。

「僕が、首をちょん切られればよかったのにね」

 静かに呟く。

 地面にごとりと首を置いて、首を失った身体に継ぎ合わせる。

 死体さえも修復できる自分に、嘲りしか浮かばない。

 ゆっくりと神経を、肉を、破損した脳を、血管を、血の巡りを、繋ぎ合わせていった。

 ぴくり、とエルの指が動く。全てが終わるころには、空は赤く焼けていて。

 レレクロエは、自分よりも背の高いエルの体を引きずって地下の部屋に戻る。

 エルはこんこんと眠り続けた。

 まるで何もなかったかのように、眠っていた。

 それでも、レレクロエがどうにか寝台にその体を横たえた頃には、彼は飛び起きるように目を覚ました。

 カタカタと震えながら、首の後ろを庇うように両手で押さえている。

 やがて、その虚ろな目は何度か宙で彷徨った後、レレクロエをその視界の端にとらえたようだった。

「ま、マキナレア……さ」

「痛い?」

「い、え……」

 そう言って、ひいっ、と悲鳴をあげると、エルは頭を抱えてがたがたと震えた。

「入る?」

 レレクロエが腕を伸ばして指差した先を、エルは震えながら見つめる。そうして、再び声にならない悲鳴をあげた。

 それは空っぽの棺だ。白い砂と塩で固めた真っ白な棺。レレクロエがこれから入る、レレクロエの棺である。

「あれ、僕の棺。僕がこれから入る、棺。君が代わりに入ってもいいよ」

「い、や……い……」

 エルは頭を抱える。琥珀色の瞳の中で、瞳孔はまるで針の穴のように狭まっていた。

「ねえ、エル。聞いて」

 レレクロエは、ゆっくりと語りかける。

「君は死んだよ。処刑されたんだ。ヨーデリッヒを殺したから。グラン・アルケミストに手をかけたから。エル・ブライシアは死んだ。わかるよね? 頭のいい君なら、自分がもう死んだことは、わかるね?」

「は、い……」

 エルは怯えるようにレレクロエを見つめる。

「僕はね、それで、君を生き返らせたんだよ。僕は君の神様だから。君の神様に、なってあげることにしたから」

 レレクロエはそう言って、エルの手をとった。

「ねえ、僕の願いを、三つだけ、叶えてくれる?」

 エルは震えながら、けれど奇妙なものを見るような眼差しでレレクロエを見ていた。言葉の意図を、図りかねているようだった。

「そうしたら、僕は君の神様になるよ」

 エルは、しばらく黙っていた。やがて、体の震えは小刻みになり、凪いでいく。

「あの方は……死んで、しまわれたんですね」

「君が殺したからね」

「そう、ですね」

 エルは、静かな声でそう言った。ぼんやりと、レレクロエの棺を見つめる。

「なん、ですか。なにを、叶えれば、」

 そう、途切れ途切れに紡がれた言葉に、レレクロエはようやくほっとして、微笑んだ。

「一つ。エスト・ユーフェミル・フェンフと言う名で生きること。僕が生きられなかった普通の人生を、科学や錬金術からなんか手を洗って、まっとうに生きること。二つ。エストとして、エストの祖父母と両親の墓に、花を添えること。いつか君が死にゆくまで。その日まで、ずっと、花を手向けること」

 エルは、瞳に困惑の色を浮かべた。

「他言はなしだよ。これは願いじゃない。契約だ」

「貴方、は……」

「僕は、かつてエストというただの普通の地味な人間だった。そして幸せだった。だけど僕は、神様のからくり人形になることを選んだ。だからこれは僕のエゴだ。僕のただの欺瞞、自己満足だ。それでも、どうか、どうか。僕はね、君を、ヨーデリッヒの言いなりになって、ただそれだけのために殺したわけじゃないんだよ。僕はただ、自分のためだけに君を死に至らせた。エル・ブライシアが邪魔だった。僕の抜け殻が欲しかったんだ。その器が」

 レレクロエは目を閉じる。そうして、再び目を開けて、エルを見据えた。

「絶対に、死んでも、死ぬまで、誰にも言わないこと。誓える? 僕はヨーデリッヒのための人形だった。そしてその人形は、自分も人形が欲しいと駄々をこねた。これはそんな物語だ。そんな理不尽でも、君は誓ってくれる? 僕の代わりに、僕が得られなかった世界を、見てくれる?」

 エルは、黙っていた。戸惑うように、けれど決して目を逸らさなかった。

「貴方、が……」

 エルは静かに言葉を紡ぐ。

「俺の、神様、なら、俺が貴方に願いこそすれ、貴方が俺に願うだなんて、不思議な話だ。そんなもの、嫌だなんて言えるわけがないでしょう」

「そうだね。僕もそうだったよ」

 レレクロエは、胸の内から沸き起こり、僕を苛むような暗い苦しみを吐き出さないよう、堪えた。

「もう一つは、何ですか」

 エルが静かに問うた。もう彼は、震えていなかった。けれどどこか、少し年を取ったかのように、疲れているようだった。ふと、その赤毛に白い髪が混ざっていることに気付く。本当に、恐ろしかったのだろうな、とレレクロエはぼんやり眺めた。

「僕が入ったこの棺を、他のマキナレアと同じ場所に埋めて。たしか、ハーミオネのところが一人だけだったでしょう。ヨーデリッヒは僕をここに埋めておくつもりだったけれど、こんな場所、もうまっぴらだ。僕はもう、あの子たちと同じ場所で生きたいんだ。同じ場所で目覚めたい」

 エルは、顔を伏せた。

「俺は、貴方のことをよく見ておくべきでしたか」

 そんなことを、言う。

「まさか」

 レレクロエは笑った。

「誰かの想いを抱えるときに、誰かの記憶なんて必要ないよ。そんなもの、君を縛り付けるだけだろ」






















     ***




 雨が皮膚を焦がしていく。僕達は、どこへ行くのかもわからないまま、暗い霧の舞う砂漠を歩み続けた。

 僕達は、と言うのは語弊がある。何故なら、僕は知っていたからだ。その場所を。きっとモンゴメリが、その場所へ行こうとするだろうことも。予測していたのだ。だって、だからこそヨーデリッヒが、あの場所に木を植えさせたのだから。

 ヨーデリッヒには、何もかも、わかっていたのだから。

「花畑が、」

 ケイッティオの小さな問いに、モンゴメリが消え入りそうな声で答える。

「この先に、花畑があるんだ。雨をしのげるわけじゃない。けど、あそこは……俺達を造ったあいつにとっても大事な場所だから、きっとあそこなら、大丈夫なはずなんだ。あれが残っているとしたら、そこは雨に打たれても溶けない何かを施されていることになるから」

「そう……なの。でも……」

「残ってるよ」

 ギリヴが遮るように言葉を被せた。空元気だなあと思う。こんな顔をする時は、この子が劣等感に苛まれている時だ。けれど僕には、手を差し伸べることもできない。それだけの時間、僕はこの子の手を振り払い続けた。拒み続けたのだから。

 ギリヴはケイッティオに抱きつく。

「きっと、残ってるよ」

「うん……そうだね」

 ケイッティオの微笑みを見つめて、ミヒャエロが疲れを滲ませながらも微かに笑っている。僕はただ、地平線の向こうを見つめていた。手を繋いでいたハーミオネが、どんな表情をしていたのかはよくわからなかった。

 その向こうに、赤紫の帯が見える。

 思った以上に、広くなっていた。木は生い茂っていて、その根元を縫うように、蓮華草は咲き誇っている。僕はモンゴメリの背中に目をやった。いつ気づくかと、待ちわびながら。

 モンゴメリがやがて、たがが外れたように笑い出した。僕は息をそっと吐き出して、ようやく、その一言を言えたのだった。

「あったね」

 あったのだ。ヨーデリッヒが夢見た場所が。けれどそれは、ヨーデリッヒの願いを悲しむように、砂に覆われていた。かつてこの場所を染め上げた青はどこにもなかった。海はすべて、アムリタが大地を削りとった砂の山積で、埋もれてしまっていた。

 ヨーデリッヒのアムリタ祈りは、彼の願いさえ埋めてしまったのだ。

 この世界のどこかで眠ったまま、もう溶けてなくなってしまったであろう、彼自身の業で。

「はは……あいつ、本当に何がしたかったんだよ」

 モンゴメリが嗤う。

「大嫌いだ、あんなやつ」

 モンゴメリはずっと嗤い続けた。僕は、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。

 とてつもない、疲労感に苛まれていた。薄々気が付いていたことだ。もう、海なんてないのだ。この世界には、あの青なんてどこにも残されていない。

 それだけのことをしたのだから。なのにどうして、こんなに悲しいんだろう。体中が、痛いんだろう。

「だめよ。あと少しじゃない。ほら、歩いてよ」

 ギリヴが僕の袖を引っ張った。こんな時ばかり、聡い子だ。どうしても、僕を一人にしてくれない。

「安心したらどっと疲れたよ。起こして」

 僕は、自棄になって、抱きしめてとでも言うように手を大きく広げて伸ばした。ギリヴは困ったように眉をひそめていた。

「子供じゃないんだから」

 そう言いながら、僕の手を引いてくれる。僕がゆっくりと立ち上がると、彼女は僕をじいっと見つめてきた。

「なに?」

 首を傾げれば、ギリヴはそれには何も答えず、さりげなく僕の手を放して蓮華草畑に視線を戻した。僕は自分の掌を眺めていた。

 苦しい。その手で思わず首を軽く締めてみる。とても、苦しかった。

 蓮華草の花、花、花。その香りが、僕を苦しめた。僕は、こんな景色を見たかったわけじゃない。でも、こんなものしか残っていないのだ。これを守っていかなければならない。いつかこの子たちが、消えてしまうまで。僕を置いて行ってしまうその時まで。

 僕が気が狂ってしまう、その時までは。

 何処までも続く紅紫の絨毯。ひんやりと冷えた空気。水の匂い。花の香り。緑の香り。それはどこか僕の頭を麻痺させた。痛い。体中が、心臓が、痛むのだ。僕を苛んで、慰める。

「なあに、これ。ギリヴがそこらじゅうにいるみたいで気持ち悪」

 僕は白々しく、そんなことを呟いた。

 抗議するようにギリヴがばっと振り返る。……けれど結局、彼女は何も言わなかった。そのまま、泣いていた。ほっとしたのかもしれない。緊張の糸が、切れたのかもしれない。

 僕はどこかで、ようやく僕の役目は終わったような心地がしていた。

 覚悟なんて、きっとその時に、アムリタと一緒に流れ落ちてしまった。

 ハーミオネが不意に、僕の肩をとんとんと叩く。

 何かを、僕の手に握らせた。そうしてハーミオネは、泣いているギリヴに駆け寄って、その背をあやすように撫でるのだった。

 手を広げてみる。

 その中で、芥子色のリボンが、雨に濡れていた。少し、糸が解れかけている。

「はは……」

 僕は、これ以上雨に濡れないように、それをポケットに入れた。

 ……渡せるわけがないじゃないか。だから君にあげたのに。

 僕は、僕の名前ですらあの場所へ置いてきた。

 だからもう、エストの贈り物は贈れない。

 そんな思いを込めて、ハーミオネを見つめる。けれどなぜだか、ハーミオネは何もかもわかっているかのように目を細めて僕を見つめ返すのだった。なんとなく居心地が悪くて、結局僕は、ハーミオネから視線を逸らした。

 そのまはま、蓮華草畑を見つめる。ギリヴの色。レデクハルトの色。ヨーデリッヒの思い出。僕の、捨ててきた思い出。

 僕はまた、この子を愛せるだろうか。好きになってあげられるだろうか。

 この色も、香りも、またいつか、僕を苛むのだろうか。


 僕は静かに、灰色の空を見つめていた。







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