或る科学者の苦悩
俺は誰よりも優れている。
誰よりも知識を蓄えていると自負している。
幼い頃から、周りの人間全てが家畜に見えていた。自分と同じものだと思えないのだ。彼らは俺と意思を通わせることができない。彼らの言動は常に他愛なく、意味ももたないまま鳴くばかりで、彼らもまた、俺の言葉を決して解さなかった。俺は孤独だった。顔をもたない、白く柔らかで奇妙な生き物達の中、揉まれるように流され、息が苦しくてずっと空に手を伸ばして生きてきた。けれど彼らは、自分達は俺と同じ【人間】だと言うのだ。俺は幾度となく混乱し、彼らを豚や鼠だと罵った。その度に俺は殴られた。誰かが汚い唾液や涙を俺の顔面に塗りたくった。俺は怖くて怖くて、気持ち悪くて、呼吸が出来なくて、神様だけを信じて生きてきたのだ。これはきっと俺の受難だ。これに耐えればきっと、俺は天国へ行ける。神様や天使を描いた数々の芸術は、俺の心を支えてくれた。ああ、この絵に描かれているその人は、俺と同じ姿をしている。だとすれば俺は、この命を耐え忍べばきっと天国へ連れて行ってもらえるだろう。そこで、ようやく同じ姿をした神様に会えるだろう。
そう、祈ってきた。しかしそれは、俺の気を狂わせる程度には辛く苦しい日々だった。耐えなければならないと思うほどに、いつまで待てばいいのか、本当に迎えはくるのだろうかという不安が俺を苛んだ。何故俺は、こんな醜い生き物達に、こんな醜い赤と青の痣を刻まれ続けなけらばならないのだろう。違う姿なのだから意思が通うはずがない。それなのに、彼らは俺が一人だけ異端なのだと、人の心を介さず、良心ももたない、親不孝もので人でなしなのだと罵って、俺を苛んだ。良心とはなんなのだろう。俺にはわからない。良心がわからなければ人でないのだろうか。だとすれば恐らく神様にも天使にも良心はないはずだ。俺と同じ姿をしているのだから。こんな、平べったい絵に無機質に描かれているだけの存在なのだから。そんな存在に、ああしてくださいこうしてくださいお守りください赦してください、だなんて日々泣き叫ぶ彼らが、とてつもなく滑稽に思えた。そうして、ふと思った。
俺は、こんなにも感情があるのだ。痛いと思う、憎いと思う、寒いと思う、苦しいと思う。それでは、一向に天国から迎えなど来ないんじゃないだろうか。
俺は怖くなった。空に手をのばす。けれど、誰一人俺を助けてはくれない。そうやって祈り続ける日々に疲れきった頃、俺はようやく理解した。
神様の世界に行く手段を自分から見つけない限り、こんな風に罰を受けるに甘んじているばかりである限り、きっと俺はあそこへ辿り着けない――
俺が科学にのめり込んだのはその頃からだ。科学は神の領域を求めるために発展している。あんな豚どもでさえ、多くの業績を残してきた。それならば、俺はもっと神様に近づけるはずだと。
実際、俺はいわゆる天才というやつだったらしく、次々に功績を上げていった。家畜達は俺を誉め称えてかしづいた。掌を返したようだった。馬鹿らしい。俺は満たされなかった。何も、何も変わらないのだ。
俺は科学の限界を感じていた。世界を滅ぼそうとしている科学が、天国への道標となるだなんて、到底思えなくなっていた。俺は無駄なことをやっているんじゃないのか。一体どうすればいい? もう、死んでもいいだろうか。もう、死ぬことを赦してもらえるだろうか。自殺なんてすれば天国へは行けない。それは神に背く行為だ……それでも、もう、楽になりたい。
そうやって、絶望し、ひたすら楽に死ぬための方法ばかり考えていた頃、彼は現れた。
グラン・アルケミスト。救世主がたった一人側に置いた、アルケミストの長。
正直、彼に実際に会うまで、俺は錬金術を馬鹿にしていた。科学の真似事だと。救世主のことだって、どうせ作り事のでたらめ、お粗末な神様の真似事だろうと思っていた。
けれど初めて俺は、この世界で俺と同じ姿をした人に会ったのだ。彼は俺の知らない世界の神秘を知っている。誰にも頼らず、たった一人で、神の領域に触れている。なんて魅惑的で、危険だろう。彼の作ったと言うマキナレアは、俺と同じ姿をしていながら、俺に畏怖を抱かせた。ああ、なんて素晴らしい。グラン・アルケミスト。貴方は神さえ作ったのか。貴方だけが、神様だったレデクハルトを知っているのか。俺はどれほど無駄な時間を生きてきたのだろう。錬金術とはなんと素晴らしい学問か。彼は俺の知識と腕を欲した。初めて求められた。俺自身を、俺と同じ姿をした人に初めて、求めてもらえた!
俺は彼にどうしようもなく惹かれていった。溺れていった。役に立てることが嬉しかった。彼のために働く自分自身にのめり込んだ。俺は初めて、嬉しいだとか楽しいだとか言う感情を知ったのだ。ああ、いつか、動かなくなるであろう彼の片腕になりたい。彼に頼られたい。なんでも言ってほしい。教えてほしい。貴方のその美しい瞳に、どんな世界が映っているのか。世界は美しいか? それとも醜いだろうか? 貴方は俺と同じ姿をしているけれど、貴方の目に映る俺はどうなんだろう。家畜だろうか。人になりたい。ああ、人になりたい。貴方にとってのただ一人の人になりたい……!
ああ、グラン・アルケミスト。貴方の抱える世界が欲しい。それすらも手に入れて、俺は貴方と同じものになりたいのです。俺は貴方に求められたいのです。貴方だって孤独を抱えていたはずだ。才能はいつだって世界へ通じる門を狭く小さく閉じてしまう。誰も侵入など叶わない。俺だけが、貴方と同じ土俵に立てる。俺達は対等になれる。貴方が俺を求めてくだされば。
その瞳に俺を映してください。
さあ、なんでも、お尋ねください。
なんでも言いつけてください。
俺は貴方に見てもらえるのなら、なんだってしましょう。
そうして、いつか本当の――、に。
そう、思っていたのです。
ああ。ああ。どうして。どうして。
どうして貴方は、俺をもう頼ってくださらないんですか。どうして、そんな家畜どもと馴れ合っているのですか。貴方が彼らを救う術をこの世界に残そうとする心理は、俺には未だわからないままです。けれど貴方が望むのなら、なんだってしましょう。そんなこと、そんなこと俺が出来るのです。今まで通り、俺が何でも出来るのです。どうして俺にさせてくださらないのか。どうして俺をその瞳に映してくださらない? どうして急に、変わってしまったのですか。どうして急に、俺ではない家畜共に頼るのですか? 彼らは貴方を理解しない。彼らは貴方を理解出来ない! 俺だけが、俺だけが! どうして、
……どうして? どうして。助けて。行かないで。俺は役立たずですか? 貴方のために尽くしてきたのに。こんなにも尽くしてきたのに!
「ばぁーか」
嘲笑うような声が聞こえて、俺は灰色の視界を向ける。
何もかもが霞んだ視界の中で、彼は色鮮やかに笑っていた。
ああ、マキナレア様。俺とあの方の秘密をただ一人知っているマキナレア様。ああ、どうか、どうかあの方に伝えてください。あの方は俺をもう近寄らせてもくださらないのです。どうか、どうか俺がまだ役に立つのだと、どれだけでも貴方のために尽くすのだと伝えてください。どうか、どうか。俺のただ一人の神様。どうか、俺のただ一つ欲しいものさえ奪わないで。もう天国にだっていけなくて構わないから。どうか。どうか。
俺は、俺を同情的な眼差しで見下ろすレレクロエという名の、最後のマキナレアに縋るように手を伸ばした。
「無駄だよ、エル。僕は君の神様でもヨーデリッヒの神様でもないのさ。彼の信じる神様はただ一人だけ。レデクハルトだけ。けれどそのレデクハルトも、僕と君で殺してしまったじゃない。もう君は用済みなんだよ。だって、君はヨーデリッヒにとって誰よりも大事なレデクハルトを、貶め穢した存在なんだから。僕にはなんの力もないよ。だって僕はヨーデリッヒに作られた。僕は君が役に立つってことを伝える術を持たないよ。残念だったねエル。君はね、もうヨーデリッヒにとって用済みだしもう関わり合いたくもないし、汚らわしいし、何の感情も持てないような家畜さ。ああ、家畜とさえ言えないね? だって君はもう、ヨーデリッヒに優しく飼ってもらうことさえできないんだよ。……だって、」
レレクロエ様は、裂けるような口で笑みを深めていった。
「だってさあ、エル。君、ヨーデリッヒに見捨てられたんだよ?」
何も見えない。
もう、何も色がない。
手探りで、自分の爪を顔に突き立てる。けれど、何の痛みも感じない。
ああ。あああ。
あああああああ。
ああああ。
どうして。どうしてどうしてどうしてどうして
「ざーんねんだったね? エル。もう少しで君のものになったのに。でももうヨーデリッヒは君を選んではくれないよ。二度とね。もう愛してはくれない」
「どうすれば……どうすれば……」
俺はうわ言のように繰り返す。何も見えないけれど、レレクロエ様は俺の耳に柔らかな唇をそっと近づけて、囁いた。
「そうだなあ……心中でもしちゃえばいいんじゃない? 殺しちゃえ」
甘く可憐に囁く。俺の脳髄に。愛らしく残酷な妖精が、天使が囁いた。
「殺しちゃえ。人間がイエスを殺したように。レデクハルトを殺したように。殺しちゃって、永遠にしちゃえばいいんだよ」
永遠。
そうだ、俺が、あの人を殺せば、あの人は、永遠、に
俺の、永遠に、
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