それから幾月と経たないうちに、レレクロエとしての僕と、五人のマキナレアとの別れは訪れた。ついに、ヨーデリッヒの計画は、最終の仕上げに入ったのである。僕の身体がまだ動くうちに、終わらせてしまわないとね、とヨーデリッヒは笑った。

「とりあえず、マキナレアは全員、棺に入れよう。それで、幾つか分散して地下に安置する。指定の場所にお願いね。色々考慮したところ、この三箇所がいいと思う」

 ヨーデリッヒは茶けた地図を指さしながら、僕と、エル・ブライシアに淡々と支持する。

 エル・ブライシアは、ヨーデリッヒが科学側から引っ張ってきた人材だった。恐らくヨーデリッヒと歳が変わらないか、年上であろう青年。

 僕は彼のことが、あまり好きではなかった。ヨーデリッヒとはまた別の方向で、狂っているのだ。自分の知識欲を満たすことだけに貪欲で、それ以外に、極度に興味を持たない。人を人とも思わないし、手段も選ばない性質。そして何より――ヨーデリッヒを盲信していた。

 知識欲に飢えているような、生命の神秘とやらに渇いているような人間にとって、ヨーデリッヒのもたらす知識は喉から手が出るほどに欲しいものというわけで、つくづくヨーデリッヒは自分に都合のいい人材を見つけてきたものだと僕は思っていた。その分、利害が一致している間は信用もできたのだろう。後にも先にも、ヨーデリッヒが僕以外で利用した協力者は、彼一人だけだった。

「安置、ね」

 僕がぼそりと呟くと、ヨーデリッヒは黒縁の眼鏡を外して首を傾げた。

「何? 含みのあるような言い方だね」

「別に」

 ――マキナレアは物レベルってわけだ。

 僕は静かな諦めにも似た感情に身を任せる。

「そ。じゃあ、棺に入れるのはレレクロエが指示して。エル、君は配置先の手配を。内密にね。頼むよ」

「かしこまりました」

 エルが恭しく頭を下げる。僕はおええ、と吐く真似をした。いちいち行動が臭いやつだ。ヨーデリッヒだけがそれに気づいて、肩をすくめる。

「棺、ね」

 再び僕がぼそりとそう言えば、ヨーデリッヒは眉根を寄せた。

「いちいち何? 何か言いたいなら言えばいいじゃない」

「別に。ただ、死人みたいな扱いだなって思っただけ」

「事実死人みたいなものでしょう」

 ヨーデリッヒは事もなげに言う。僕は頭を掻いた。

 僕に記憶をすべて移してから、ヨーデリッヒはさらに冷酷になった、と思う。

 まるで、憑き物が落ちたかのよう。彼は、人間であった自分も捨て去って、今はただ、後処理という目的だけのために生きる機械だった。これではどちらが機巧からくりなのやらわからない。

 でも、そういうふうに振る舞いたかったから、僕に記憶を明け渡したんだなとも、僕はわかっているわけで。

 僕は静かにヨーデリッヒを見つめる。無機質な葡萄色の目はまるで硝子球の様で、僕はただ哀しく思った。

 こういうことを、やらなければならなくて――そのためにはきっと、彼には彼自身が邪魔だったのだ。



     *



「はい、じゃあ、みんなさっさと棺に入って。目覚めた時のものがあるでしょ。その中でね、今から、救うべき世界が来る日まで僕達は眠ることになっているから」

 僕が気怠くそう言うと、ギリヴが眉をひそめた。

「それ、お父様が言ったの?」

 おえ、と僕は舌を出す。記憶を塗り替えられてから、彼らは皆総じてヨーデリッヒのことをお父様だとか呼んでいた。そう呼ばせるヨーデリッヒもヨーデリッヒである。いい趣味をしていて、気色悪い。

「何よ!」

「何もないよ?」

 ギリヴの癇癪をいつも通りに受け流す。

「もちろん、彼が言ったに決まってるでしょ? 僕って信用無いなあ」

「あんたみたいなのをどう信用しろってのよ?」

「まあまあ、落ち着いて」

 ミヒャエロが苦笑しながら間に入る。

「でも、今人々を救わなくて本当にいいの? おれ達、ただ眠ってていいのかな」

 そう、ミヒャエロも戸惑うように言う。

「さあ? 彼の考えは僕なんかにはわからないよ。彼が眠れって言ってるんだからとりあえず眠っておけばいいんじゃない?」

「まあ……それもそうだね」

 ミヒャエロは煮え切らない返事をした。

 ――ほんっとに、馬鹿しかいないんだな。

 僕は気づかれない程度に嘆息する。

「さあ、蓋をするから、準備できた子から入って。まあ準備って言っても身一つしかないけどね」

「髪を編みなおすくらいしかやることがないわね?」

 ハーミオネが肩をすくめる。僕は思わず吹きだした。

「あはは、何それ」

「あら、大事なことよ? これでも女の子なんだから。ね?」

 そう言って、ハーミオネはケイッティオの髪を結わえるリボンの形を整えた。ケイッティオも控えめに微笑んだ。

「ありがとう」

 黒いベルベットのリボン。それは、ヨーデリッヒが唯一ケイッティオに残してやったものだと僕は知っている。

 あいつが彼女の髪にそれを結んだ時の、狂おしい葛藤も、渇望も、全部、全部。だからこそ、それが揺れるのを見ると、手を伸ばしたい衝動に駆られもして。それを堪えた。まだ、この感覚には慣れそうにもない。

 結局、僕はもうヨーデリッヒ自身の現身でしかないのだと自覚ばかりするだけ。

 僕は頭を振り、背中を反らせて、少し離れた窓辺に佇むモンゴメリに声をかけた。

「ねえ、モンゴメリ。君もその鬱陶しい前髪切りそろえたら? 未来で切れ味のいい鋏があるとは限らないでしょ」

 ただそれだけのことに、モンゴメリは口をきゅっと引き結ぶ。それが記憶をなくしてなお残ったむっとした時の癖だと言うことを、僕もちゃんと知っているわけで、なんだか笑えてくる。

「嫌だ」

 モンゴメリはそう短く答えた。

 ――わかりやすいやつ。

 僕は小さく、気づかれないように舌打ちした。ああ、うっとうしい。

 ふと目線をあげれば、ギリヴはギリヴでなんとなくそわそわと落ち着きない。それをぼんやり眺めていたら、ハーミオネが僕を肘で小突いてきた。

「何」

「自分で考えたら?」

 ハーミオネはにやにやと笑いながら踵を返す。

 なんだか不快な気持ちが広がって、僕は大口を開けて椅子の背に仰け反った。

 方や、ミヒャエロはケイッティオの髪を綺麗に整えてやっている。

「ミヒャエロ……そこまでしなくていい……あ……くすぐったい」

「そう? でも、こうしていたら目が覚めた時綺麗だよ」

 ミヒャエロは屈託なく微笑む。

 僕は溜息をついた。過保護にもほどがあるなあと。僕からすれば、こんなにも義理の妹にべた惚れな兄がいるのを知っていてなお、彼女を求めた二人の気違いの気がしれない。

 ――元凶は全部綺麗さっぱり忘れてるしね。

 僕は目の端で前髪をいつまでもいじり続けるモンゴメリを捉えて、再度舌打ちする。

 なんでこいつモンゴメリは、そういつまでも僕を苛々させるんだろうな。

「ほら、早く入ってよ。後が詰まってるだろ」

 僕が譲歩してもう一度声をかければ、モンゴメリはまたきゅっと口を引き結びつつもようやく動いた。

「煩いな。今入るところだよ」

 僕はあからさまに息を吐いてみせる。モンゴメリの棺の蓋は足で閉じた。隣でもかたん、と蓋を閉める音がする。見遣れば、ミヒャエロがケイッティオの棺を閉じ終えたところだった。モンゴメリの棺を足蹴にする僕を見て、ミヒャエロは不思議そうに首を傾けた。

「レレクロエは、モンゴメリが嫌いなの?」

「はあ?」

 うっとうしく思いながら僕は目を細める。

「別に嫌いじゃないよ? 好きでもないけど」

「そう? ならいいんだ」

 何がいいのかわからないけれど、ミヒャエロは穏やかに笑って頷いた。

「うーん」

 さらに隣では、ハーミオネの唸り声が聞こえてくる。

「今度は何だよ?」

「ちょっと、キンキン声を立てないで、レレクロエ。今気を張ってるんだから……」

 ハーミオネはむっとした声を投げてきた。ギリヴが申し訳なさそうな声を出す。

「ご、ごめんね……もういいよ、ハーミオネ」

 ギリヴはそのまま、項垂れた。

 ――ああ、そういうこと。

 そのぴんぴんと跳ねたマゼンタ色の頭を見て、合点がいく。

 馬鹿なギリヴ。ハーミオネのいつもの気まぐれな軽口に踊らされて、髪を整えようとしたんだろう。そして結局自分ではどうしようもできず、ハーミオネに助けを求めた、と。

 つくづく踊らされやすい子だな、と思う。

「別に、そんなちょっと編みなおしたくらいで器量は変わらないよ」

「ひどい!」

 本当のことを言っただけなのに、ギリヴは泣きそうな顔で叫んでむくれた。ハーミオネが呆れたような眼差しで僕を見つめてくるけれど、知ったことじゃない。

「ほんっとうに、あなたってお子様ね……?」

「何それ、その生ぬるい目やめてくれる? 僕は永遠の美少年だから別に子供でも構わないよ」

「引くわー。自分で美少年とか言うの引くわー」

 ギリヴが口を尖らせる。僕は冷めた眼差しでそれを眺めた。

「ギリヴ煩い」

「煩いとは何よ!」

「レレクロエのことは気にしちゃだめよ。うーん……櫛がもっと細かい方がいいわね……」

「ああもう! 貸して!」

 僕の苛つきは最高潮に達してしまった。僕はハーミオネの手をギリヴから払い除け、無造作にギリヴの髪束を掴んだ。

「な、何!? なんでレレクロエがあたしの髪触ってるの!?」

「煩い黙れ」

「その口何とかならないの!」

「だから黙れって……」

 僕は何度目になるかわからない溜め息を吐きながら、ギリヴの髪を指で梳いた。

 不意に。

 懐かしい、と思った。

 指先から伝わる、ギリヴの髪の手触り。腰のあたりがぞくり、と疼いたのだ。

 そんな感覚は初めてで、僕はためらって、その手を放した。

「レレクロエ……?」

 ギリヴがむすっとしたまま首を傾げて、僕を見上げてくる。

 僕も、その暗い赤紫の瞳を、凪いだ気持ちで見つめ返していた。

「……固いね」

「……~~~~~~~~っっっっ!!!!」

 ギリヴが、気にしてるのに!と言わんばかりの涙目で睨みつけてくる。僕はもう一度、そっとその髪の束に触れてみる。

 覚えている。指先が、この固さを、滑らかさを、覚えていた。

 ぼさぼさで、どこかちくちくする痛み。

 僕はしばらく、ぼんやりとしたままギリヴの髪を指で梳いて撫で続けた。

 いつしかハーミオネは、棺の中に隠れて眠ってしまったらしかった。つくづく、腹の底が見えない飄々とした子だと思う。大方、僕をけしかけたかったんだろうけれど。

「ね、ねえ……」

「何?」

 心なしか、僕の声はいつもよりは優しく零れていた……はずだ。僕はただ、自分の内側から沸き起こった、そんな些細な変化にも戸惑う事しかできないでいた。

「……レレクロエは、あたしの髪を編んでくれる気はあるの? それとも、そ、その、ただ触りたいだけ?」

「ああ、」

 僕は一瞬口をつぐんで、けれど抑えられなくて、素直に答えることにした。

「両方」

「え?」

「編んであげるよ。これでも僕は才色兼備だからね。なんでもできるんだよ」

「なにそれ」

 ギリヴが笑う。マキナレアになって初めて、……笑ってくれた。

 どうしてだろう、それがこんなにも、胸をしめつけるんだ。

 僕はギリヴの髪の束をぎゅうと握りしめていた。

「いたっ、ちょっと、ひっぱらないでよ」

「鳥の巣なんだよ」

「うそ!?」

 僕は、ギリヴが好きな位置で、ギリヴが好きな緩やかさで、ギリヴの髪を小さな二つの三つ編みにした。覚えている。指先が、彼女がこういう髪型が好きだったと、覚えていたんだ。

 変わらないことがあったなんて、知らなかった。

 喉の奥に息苦しさを感じて、動けなくなる。顔を見られないように、ギリヴの頭を後ろから抱えるような形で、額をそのつむじに乗せた。

 苦しい。痛い。苦しい。

 息ができない。

「れ、レレクロエ……?」

 ギリヴが戸惑ったように言う。

「貧血?」

 ミヒャエロと言えば、見当違いなボケをかましてきた。というか、ずっと見てたのかよ、このやろう。

 恥ずかしい。

 恥ずかしいだなんて気持ち、もう、忘れていたと思っていた。

 はあー、と、長く息を吐く。

「どう?」

「うん……ありがとう」

 砂埃の被った手鏡を見て、ギリヴは嬉しそうにはにかんだ。

「すごいわ。あたしずっと、髪はこんな風にしたかったの。自分じゃなかなか思うようにできなかったから嬉しい! レレクロエどうしてわかったの?」

「別に……君の髪質的に、それが一番やりやすかっただけ」

「ふうん」

 ギリヴはにこにことして、ぼすん、と音を立てて棺の中で横になった。

「あなたのことちょっと嫌いだったけど、見直したわ! 嫌いは取り消してあげる」

「そりゃ光栄なことだね」

 僕は興味なさげに言った。ギリヴが長い睫毛を震わせて瞼を閉じる。ミヒャエロが閉める蓋の輪郭が彼女の顔に影を落とすのを、僕は静かに見つめた。

 ――可愛いな。

 とても素直な気持ちで、そんなことを考えていた。そうか、あの子が髪を編んでいなかったから、違和感があったんだ。

 そう言えば結局、どうしてそんなに三つ編みが好きなのか、聞いたことがなかった。

 たわいもないことだ。

 僕はしばらく床を見つめて、小さく息を吸い込んだ。なんだか初めて、まともな空気を吸い込んだような心地だ。少しだけ頭がすっきりしていた。僕はそのまま、ミヒャエロに向き直った。

「さあ、君も早く棺に入ってよ。僕はこれに蓋をしなきゃいけないんだからさ」

 そう言うと、ミヒャエロは困ったように眉尻を下げた。

「君はどうするの? 君を眠らせる人がいない……」

「はあー……何それ。自分の心配だけしてなよね」

 呆れてしまう。

「……それも、そっか。うん、そうだね」

 ミヒャエロはふにゃりと笑う。僕はそれを静かに見つめる。記憶の中の彼の顔は――ヨーデリッヒの記憶に残る彼は、いつでもどこか思いつめたような顔をしていたものだ。でも僕が知るミヒャエロは、すぐにごまかして、思考を放棄するような、馬鹿で優しい人だった。その滲むような認識の誤差に、これからも慣れていかなければならない。眠りについて、次に出会う時、僕らは完全な兄弟からくりだ。

 並んだ棺を見ながら、自分の思考が少しだけ止まったのがわかった。ああ僕は、この子達の最期を、見届けなければならないんだなあと。

 とてつもなく、空洞のような虚しい感情が僕の周りを回るように浮遊する。でもきっと、今少しセンチメンタルなだけだから。

 頭を振れば、ミヒャエロがのんびりとした声をかけてくる。

「ねえ、レレクロエ。どうして、自分だけ残ろうとするんだよ」

 僕は微かに驚いて、そして、ミヒャエロからそんなことを言われたという事実に、嗤うことしかできなかった。

 ――残ろうとしてるんじゃないよ。残らざるを得ないんだよ。

 でも、最終的に残ると決めたのは、僕だ。

 いつかさよならを言うために。

 僕とヨーデリッヒの二人分、大切だった人にさよならを言ってもらうために。

 残される痛みに苦しむことだけが、きっと罰で、救いだから。

「僕は、覚えていなきゃいけないんだ」

 幸い、ヨーデリッヒが僕の脳をいじってくれたおかげで、僕は忘却する術を無くした。

 これからは何でもかまわない、どんな些細なことだって、忘れてしまう事さえ許されないのである。

 全てを、覚えて、抱えて生きていかなければならない。

 だから僕は、今眠るわけにはいかないのだった。

 僕は僕自身の意思で、ヨーデリッヒの最期を、哀れであろう最期を、目に焼き付けようと思っているから。

「……ねえ、そんなこと、する必要はないんじゃないかな。そんなの、彼が勝手に押し付けたことだろ?」

 不意に、ミヒャエロが掠れた声でそう呟いた。僕ははて、と首を傾げる。彼は何か知っているのだろうか? いや何も知らされていないはずだ。だけれどもしかすれば……彼なりに、何か勘付くところはあるのかもしれない。かと言って、言うわけにも行かない。

 僕は、明るい笑顔を貼りつけた。

「勘違いしないでよ。僕はあいつの言いなりに生きる気はないよ。僕は僕なりに……その、色々と消化したいだけ」

「だったら一緒にいるよ。一人で残る必要なんかないじゃないか」

 ――えらく食い下がるな……?

 僕は顔をしかめた。ミヒャエロの表情には既視感があった。ややあって、思い出す。ああ、これは、取り残されると知った時の、僕自身の表情、それとそっくりだって。

 あのむせ返るような熱い日差しの下で、もう二度と来るはずのないギリヴをただ待ち続けて、待ってなんかないと自分に言い訳をし続けた、僕のやつれた顔が、鏡映しのように僕を見ているのだった。

 ――ああ、そうか。お前、単に置いて行かれるのが、用無しになることが、怖いだけか。

 僕は、落胆にも似た気持ちを抱いた。目を細めてミヒャエロを見つめ返す。でも、たとえ彼らに何度となく失望しても、呆れたとしても、苛立ちを抱えても、それでも、彼らをきちんと見送るのだと決めた。決めたのだ。

 だから僕は、せめて僕自身のその願いのために生きなくちゃならない。

 この感情も、すべて覚えておくんだ。

「黙って僕のいい通りにしろってば」

 僕が気怠く言うと、ミヒャエロはどこか不服そうに顔を背けた。

「でも、おれなら少しは分け合うことができるだろ? おれはそのために元々造られたんだから」

「僕に役目を取られて悔しいだけのくせに」

 着飾ったって一緒だよ。偽善なんて嫌いなんだ。僕はもう、そんな偽物はいらないよ。

 ヨーデリッヒの感情ほど醜いものなんてきっとない。ないから。

 だから、君や君達の弱さや醜さだって、なんてことはない。何の躊躇いもなく、覚えていられるだろう。でも、君自身は、君自身が忘れたかったその想いは――。

「君は知る必要もない。思い出す必要もないんだよ。いいじゃない。君は幸せだよ。大事だったたった一つのものが、生まれ変わってもなお傍にあるんだから。僕やギリヴとは違う。君たちは恵まれてるんだよ。ある意味残酷な仕打ちだけどね」

「ギリヴ……? ギリヴが、どうして」

「はいはい、つべこべ言わず入んな」

 僕は足でミヒャエロの背を押した。

「とにかくね、だから、それを僕が覚えているんだ。だから安心して。さよなら。またね」

 僕は、その蓋を閉めた。


 崩れ落ちる。


 長い溜息が、漏れる。


 ああ、こんなことが、これからも続くのだ。



 僕は静かに立ち上がると、モンゴメリの入った棺を蹴り飛ばした。


 がたん、と音が鳴って、蓋がずれる。


 モンゴメリは戸惑うように、眠そうな目をこすりながら起き上った。

「何……? もうそんなに時間が経ったのか?」

「まあ、そんなところだよ。お仕事だよ、モンゴメリ。君にしかできないこと。グラン・アルケミストがお待ちだよ」


 ――後始末の、お手伝いだよ。


 僕は微笑んだ。恐らく、生きてきた短い人生の中で一番酷薄な笑みを浮かべていたのだろうと思う。


 僕はヨーデリッヒの駒でしかない。ヨーデリッヒが植え付けた記憶に、それがあるのだから、僕はその通りに行動する必要があった。僕しか理解してあげられない。僕しかしてあげられないのだ。


 ヨーデリッヒ。あなたは未だに、この親友もどきに執着心があるから。


 あなたは、できないから。




     *




 雨が降っている。


 何年も何十年も、もしかしたら何百年も、この世界を飢えさせてきた水が、ざあざあと砂の大地にぶつかる。


 それはきっと、少し前なら誰もが望んだ光景だった。


 恵みの雨なんてものが、まだこの世界にあったのなら。


 毒の骨粉を雨雲に混ぜ込んで、世界に毒の雨を降らす。


 ヨーデリッヒは容赦がなかった。まるで、僕がどう行動するのかわかりきっていたかのように、用意周到だった。


 人間が――教会が、救世主を殺した。


 だから、天罰が下った。


 そういう筋書き。ただそれだけの話。


 僕はモンゴメリを騙して、エルは教会の人間を唆して。

 殺すように仕向けたのだ。最も惨い方法で。ある意味では、最も恐ろしい方法で。


 モンゴメリは、かつての救世主のように十字の架に縛り付けられ、串刺しにされた。

 一向に世界を救おうとしない、裏切り者の救世主《レデクハルト》。

 救世主を騙った悪人として、彼はその小さな体で断罪を受けた。


 僕は、暗いフードの奥でその一部始終をただ静かに観ていた。


 ああ、馬鹿馬鹿しい。


 聖書が記されて、もう何千年も経っているというのに、人間って何も変わらない。

 勝手に祀り上げて、勝手に憎しみの矛先を向ける。


 でも、それが僕達と、何が違うんだろう。……何にも。むしろ、僕達の方が、ずっと。


 僕は、僕は、人を殺したのだ。殺したのと同じなのだ。モンゴメリには並外れた回復力があるのだし、僕が傷をすぐに修復してやれる。だから彼はこの瞬間、死ねやしないのである。なんて惨いんだろう。ただ、【救世主が人間に殺された】というシナリオを用意するためだけに、彼は生き地獄を味わいながら、串刺しにされているのだ。


 これを、君のかつての友達が、考えたんだよ?


 僕は心の中でモンゴメリに囁いた。


 苦しいでしょう。憎いでしょう。痛いでしょう。もう、何もかも嫌になるでしょう。

 君の魅惑の力のせいで、君は憎しみを一身に背負うんだね。


 僕は、ヨーデリッヒの気持ちがわからないでもないけど。


 君の気持ちも何となく、わかるよ。


 僕もまた、君の目に惑わされてしまったみたいだ。



 乾いた処刑場。救世主の断罪に満足し、引いていく人の波。ぽつんと取り残され、地面に無造作に落とされ、死んだように眠るモンゴメリに静かに近づき、その心臓に触れる。

 少しずつ、少しずつ。無理のない速さで、修復していった。

 どうして僕が、修復の力なんて持ったのか。

 ……まるで、こうなるためにあったみたいだ。

 こんなところまでヨーデリッヒの思い通りなんだろうか。それってまるで神様みたい。僕は薄く嗤った。


「ねえ、モンゴメリ。僕、もうわからないや」


 色と一緒に、熱も、温かさも、温もりも、寂しさも、全部置いてきてしまったみたいだよ。


「僕は君の色に染められたんだよ。でも、君は責任なんて取れないでしょう? 大丈夫、わかってるよ、わかってる……」


 はは、と笑って、僕は傷を閉じ終えたモンゴメリを抱えて、引きずりながら、処刑場を後にした。


 雨が、ぽつ、ぽつ、と降り始める。


 頬に、切り傷ができる。


 僕は、自分の着ていたコートをモンゴメリに被せた。

 せめて君は、未来で目覚めるまで、この雨に当たる必要なんてないよ。

 もう、十分痛かっただろうから。




     *




 雨が降る。ざあざあと。しとしとと。毒の雨が降る。


 人々の皮膚を溶かし、血を舐めとっていく雨が。


 人々は泣き叫び、苦しみ、痛みにうめき声を上げる。

 阿鼻叫喚。


 雨の形に裂けた人々の皮膚から血は止まらず、水たまりは紅さを増していく。痛いよ、痛いよ、と声が聞こえる。助けてと誰かが小さな声で喉を枯らす。誰もどうしてやることも出来ない。助けようにも、外に出ればたちまち同じ目に遭うのだ。誰もかれも、家の中に籠城を決め、震えながら踞る。けれど雨は容赦がない。少しずつ、けれど確実に、全ての建造物を削り落としていく。人々が逃げ場所を失うのも時間の問題だ。どうせそのうち、いられなくなる。地上でなんて、生きていけなくなるのだ。


 薄暗い、蝋燭の灯りだけを灯した、砂を固めた地下の誰もいない部屋の中で、フードで顔を覆ったまま黙々と革に針を刺し、糸を縫う。

 いつか、雨の降りやまない世界で、あの子ギリヴの足が傷つかないように。君は自分を汚れていると言っていた。だけど、君は汚れてなんかいないよ。僕に比べたら、とても綺麗だ。君の足に合う、僕の靴をついぞ作ってあげられなかった。今こうして靴を作っているなんて、縋るように作っているだなんて、馬鹿だ。誰に顔向けできるんだろう。


 願わくば、この靴が残って、未来の人々の足を守ってくれたらいい。でもこんなこと、望んじゃいけないんだ。なんて偽善を僕は未だに抱えているんだろう。背を向けたくせに。捨てたくせに。エゴだけを選んで、壺に押し込めて、逃げ出したのに。


「マキナレア殿」

 低い声が響く。こいつは、僕を名前で呼ばない。よほど恐ろしいのだか、それとも、ただの気持ち悪い趣味なのか、僕にはわからないし、わかりたくもない。

「グラン・アルケミストが民衆に向けて演説をなさいます。貴方様もいらっしゃるようにと言う事です」

 エルは、琥珀色の瞳を暗く輝かせて笑った。

「なぜ?」

 僅かに振り返ってエルを睨みつける。エルは楽しくてたまらないとでも言うように満面に笑みを浮かべている。

「理由など、お聞きになるまでもなくわかっていらっしゃるでしょうに?」

「僕が行って何になるというの? まだ世間に僕らの存在を公にするわけにはいかないだろ? なら僕は、黙って地下に幽閉でもされておくさ。僕の役目は終わったでしょ? 救世主は無事処刑、人間様には天罰が下った。可哀相な羊は処刑の記憶を消されて楽しい楽しい微睡の中。僕はもう何もやることは無いんだよ?」

「本当に、頑なんですね、貴方は」

 エルは笑みを深める。僕は嘆息した。

「お前みたいなやつを協力者に選んだあいつの気が知れないよ。この気違いめ。僕に近づかないでよ。何度も言っているけど、僕はお前が嫌いだ」

「むしろ、ここまでよくあの方は独りきりで全て背負っておられましたよ。何もかも一人でやるのは無理に決まっている。だからこそ、あの方の体ももう長くない今、私と貴方が彼の両腕になっているのだから」

 僕は針をしまって、立ち上がる。

「一緒にしないでくれる? 大体、僕はあいつの腕になった覚えはないよ。お前も、腕にすらなれてない。馬鹿だね。あいつは君のことをこれっぽっちも信じてない」

 知っているのだろうか。わかっているのだろうか。お前が辿るであろう結末を、この男は、少しでも予想できているのだろうか? きっと、何もわかっていないに違いない。だって、それは僕しか知らない計画だもの。

 ……狡くて残酷で、人でなしの僕達しか、知らないことだもの。

「構いませんよ」

 エルはにやりと笑う。哀れでたまらない。心の内側からせりあがってくる何か苦くて不味い感情に、僕は思わず顔を歪めていた。

「私はただ、この世界が朽ちていくのを見られればいい。その過程などどうでもいい。それに、あの方の軌跡は貴方が全て背負っているのでしょう? なら私のやることは無いに等しい――あの方にとってはね。少なくとも、貴方もこれから永い眠りにつくだろう。その時、後始末は誰がするんです? どうせあの方ももうじき死んでしまうだろう。私しかいないでしょう? この秘密を誰に明かすこともなく、ただ己の欲望のためだけに無償で貴方方に協力するような人間は」

「無償だって?」

 僕は眉をひそめていた。

「よくまあ、それだけでたらめを言えるよ。何度でも忠告するよ。逃げるなら今だよ、エル=ブライシア。君は僕達と同じ世界を歩めない。歩む必要もない。いいから、こんな計画からは足を洗って、せいぜい人並みに幸せに生きておくれよ」

「人並み? 無理に決まっているでしょう?というか、俺は幸せですよ?」

 エルはくつくつと肩を震わせて笑う。僕は首を振って、深く息を吐いた。


 本当に、どうしようもない。いい加減にして。



 本当に、頼むよ。いい加減にしてよ。


 どれだけ、犠牲にすれば君は満たされるの? 君の命は終われるの?


 ヨーデリッヒ。



「僕は、少なくとも……ヨーデリッヒが死ぬまでは安心して眠れないよ。だってそれが僕の役割だから」


 僕はぽつりと呟いた。

 科学に関しては誰よりも知識はあるけれど、馬鹿な頭しか持ち合わせていない、自分の行く末さえ見えていない人間を哀れに思いながら、僕は砂の階段を踏みしめた。


 見届けなければならない。


 空が見える。灰色の空。銀色の雨雲。どこか絵画的で、けれど眼前に広がるのは処刑場につまれる屍しかない、そんな景色。


 雨が降る。ざあざあと。いつまでも。きっとこの先も。止むことなどないままに。

 全ての命を苦しめて、降り続ける。たった六人の子供の未来を守るためだけに。

 たった一人の、願いを守るためだけに。


「唯一の王、唯一の救世主、レデクハルト様は、ご逝去なされた!」


 ヨーデリッヒの声が、雨をかき分けるように響き渡る。


 鐘のように。教会へと誘う、死者を墓場へと誘う鈍い音色が。


 錆びた金色の装飾をちらつかせた、大仰な衣装に身を包んで、人々を見下ろすヨーデリッヒは、

 どうしてだろう、とても厳かで、威圧的で、そして穏やかな慈愛に満ちていた。


「天変地異の雨。これは主が我々に与え賜うた裁きの雨だ。救世主を我々は殺した。二度もだ! かつてのイエス様のように、同じ姿で、まるで呪いのように彼を教会は処刑したのだ。冒すべからざる、もっとも貴き人物を我々は見殺しにした。主の怒りが分かりますか。主は試されたのです。今一度、人類は救いを与うに足るものであるか。かつての過ちを真に悔い改め、教えを繋いできたのかどうか。我々は試されたのです。そして、我々は負けた。否! 我々は、我々自身の手で、我々自身の信仰が誠ではなかったことを主に示してしまった。主の怒りが分かるか? 我々は負けたのだ。主の漸く差し伸べて下すった御手に、泥を塗ったのです」


 悲鳴や怒号、咽び泣く声、醜く朱い声が波となって押し寄せる。けれどヨーデリッヒは怯まない。錬金術師の長は、人々をただ穏やかに見つめ、その言葉を朗々と響かせるだけだ。


「我々は、主の怒りにこれからも悔い改め生きてゆかねばなりません。私は、レデクハルトの唯一の錬金術師アルケミストとして、この世界を守ってゆきましょう。レデクハルトは私に一つの救いを遺してくださいました。いつか彼が世界を置いて逝った時、我々が救われる様にと、遺してくださったのです。私は、自身の知識の全てを使って、レデクハルトの使徒を生み出すことに成功しました。しかし、あくまで錬金術は人の術。神の術には到底及ぶまい。だからこそ熟するためには歳月が必要でしょう。しかし、彼ら使徒――六人のマキナレアは、いつの日か必ず、我々の未来を救ってくださることでしょう」


 人々の泣き叫ぶ声。救いを求める声。グラン・アルケミスト。グラン・アルケミスト。レデクハルト。レデクハルト。人々の声がやがて、まるで雷鳴のように連なって、大地に降り注ぐ。


 ヨーデリッヒはどこまでも穏やかに笑っていた。

 僕は理解した。たった今、ヨーデリッヒと言う人物は死んだのだ。


 あそこに残っているのは、あそこに佇むのは、ただの醜悪な抜け殻だ。そして僕は、その醜悪な抜け殻にかしづかなければならない。あれの最期を看取るためだけに、僕はまた一つ罪を犯さなければならないのだ。ああ、神様。許してください。僕はあなたを信じることができません。僕の神はあの抜け殻だけなのです。僕は、あの抜け殻を棺に入れる死神になるために、生きてきたのです。それに、ようやく気付いたのです。


「あ、はは……」

 僕は腹を抱えて笑った。

「ははは……はははは……!」

 なんてことをしてくれたんだろう、ヨーデリッヒ。やっぱり君は、レデクハルトを恨んでいたんじゃないか。

 君の大事な親友の大事な名前は、僕によって汚される。僕と、僕を操る君自身のせいで、もう二度と救われることは無い。

「素晴らしい……素晴らしい……! ああ……!」

 隣では、エルが恍惚とした表情で泣いている。

 僕はその横顔を、醜悪な笑みで見つめた。


 さあ、次は、お前の番だよ。











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