木偶の坊

 ――笑っちゃうよね。これが物語なら、たとえ記憶を消されたって、どんな障害があったって、愛した人とまた巡り会うのが運命なのに。


 声が聞こえる。


 ――でも、その記憶を消したのも、僕なんだし、仕方ないか。


 擦れた声の音が、ふわふわと僕の夢の中を羽ばたいている。


 ――あーあ、結局、一つ間違ったら全部間違えてしまうんだよ。ドミノ倒しみたい。取り返しなんてつくはずがない。止められたところで、歪んでしまってるよ。もう、幸せな時には戻れない。


 目を、覚まさなければ。


 僕は背を向ける。夢の中に。僕を優しく見守る眼差しに。


 彼らの表情は、白い靄に霞んで見えなかった。それでも僕には、彼らが誰なのか、予想はついていたのだ。


 だって、これは僕の夢なのだから。


 【人】でなくなったら、もう二度と夢は見なくなるのだと、あのイカれた錬金術師は言っていた。


 だとすれば、これは僕が最後に見る夢だ。


 後悔に塗れた、終わりの夢。


 ――今の僕は、なんだかとても不幸せな気がするんだよ、エスト。


 そりゃあ、そうだろう。

 僕は空から雨のようにぽつぽつと擦れて届く彼の声に耳を澄ませて毒吐いた。


 これだけの人間を不幸せにできるような人間は、そうそういないよ、ヨーデリッヒ。


 君は、君の不幸を抱えきれないんだよ。だから零して、ひび割れて、勝手に僕達を染め上げてしまうんだ。


 可哀相な、人。

 僕は夢の中の体で目を固く瞑って、俯いた。

 頭が痛い気がするのは何故だろう。


 がんがん、がんがん、と、まるで僕の幸せな繭を金槌で割るように、その音は僕を苦しめた。


 ――僕は今まで、生きてて幸せだったと思ったことはなかったんだよね。でも、今はとても不幸せな気がするんだよ。それって、僕は幸せだったってことなのかもしれないじゃないか。だとしたらもう僕は幸せにはなれないよね。もう、色々と、外れてしまったから。


 だからって、それを更に肩代わりする僕の人生はどうなるのさ。

 僕はあんたに出会って不幸だとは思わないよ。でも、僕のせいで、

 一番大事な人を、不幸せにしてしまったよ。


 僕は振り返る。誰かが木の椅子に座って、膝に温かな赤いブランケットをかけて、僕を見つめていた。

 白いひげの奥。じいちゃんが笑っているのか、そうでないのか、ぼやけた視界に映るじいちゃんの瞳からだけは、何にもわからなかった。そんな長い時を、まだ生きていなかったのだ、僕は。


 誰かの想いをくみ取れるほどにも、自分の想いに整理をつけられるほどにも、生きられなかった。


「ごめんね、じいちゃん」


 あなたと、最後に、話したかった。


 僕は空を仰ぐ。青い空はひび割れて、小さな破片がゆらゆらと揺蕩い零れ落ちる。割れ目から紫色の霧が滲んで、降り注いだ。世界が毒に侵されていく。豪雨。僕の最後の夢は、毒々しい紫で破壊されていく。


 ――結局、女の友情とやらも男に壊されるかもしれないが、男の友情も女一人で崩れていくんだよ。


 ヨーデリッヒの悪態が聞こえる。

 それは君の意見だ、ヨーデリッヒ。僕はそうは思わない。

 でも、

 僕も不幸せで、君も不幸せなら、僕達はいい共犯者になれるよ。

 僕は、笑っていた。

 もう、何も悲しくはなかった。不幸せですら、もう愛おしい。


 ――ほら、君の朝だ。いい加減に、目を覚まして。


 その言葉を合図に、僕は霞む世界から息を吹き返した。




 さあ、僕の、朝だ。




     *




 身体を起こす。

 砂めいた部屋の壁に、ちっとも磨かれていない大きな鏡が見えた。僕はその鏡に映る誰かを覗き込む。

 僕と同じ顔なのに、まったく違う自分。

 髪の毛は草のような緑で、目はまるで――ギリヴの髪の毛のような、鮮やかなマゼンタに色づいている。

 ふいに、じいちゃんがギリヴのことをコスモスの様だといったことを思い出した。

 僕は――場にそぐわない浪漫じみた言い方をするのであれば、そういう花のような姿に生まれ変わっていたのである。

 僕は鏡を見ながら、首を傾げた。

「……変な、色」

 自分の髪を一房つまむ。

 おかしいなあ。

 白髪だったはずなのに。

 目の色だって、こんな綺麗な色じゃなくて、気味の悪い真紅だった。

 僕は答えを求めるように、傍に佇むヨーデリッヒを見上げた。

救世主レデクハルトと同じように作ったのにね。まるで反対色だ。目の色だけはよく似ているけれど」

 要領を得ない。

「救世主に?」

 僕は小さく呟いた。

「違うよ。むしろこれは……あの子と同じ色だよ」

 首を振り、僕は自分の左瞼に手を当てた。視力が上がっている。前は、眼鏡がないと周りが少しぼやけて見えていたのに。

 鏡の向こう側から、戸惑うような顔で僕が僕を見つめている。あんなに僕を悩ませた吹き出物も、そばかすも、肌からはきれいさっぱり消えてしまった。まるで別人みたいだ。

「はは……」

 僕は擦れた笑い声を漏らした。

 何もかもリセットされてしまったってわけだ。

 目が悪くなる前の僕。肌が荒れる前の僕。

 ……人の心を知る前の僕。

 愛情に、幸せに包まれる前の僕に。

「そんなこじつけをしたところで、もうあの子は何も覚えてやしないよ」

 ヨーデリッヒは、そんな僕の自己嫌悪なんて興味もないように、意地の悪いことを言って来た。

「知ってるよ」

 もう、苛立ちさえわかない。

「でも、それはあんただって同じだろ。偉大なるグラン・アルケミスト?」

「何のこと?」

 ヨーデリッヒは鼻で笑い、受け流す。

「僕にとってはそんなもの、感傷にもならないよ。それに、たとえそれが僕の苦しみの一つだったとして、」

 ヨーデリッヒは僕の髪を指で梳く。

「お前が僕の記憶も思い出も想いも痛みも、全部代わりに背負ってくれるんだから。僕はもう何も苦しくはないんだ。そう、僕はもう何も覚えていなくていい。忘れていいと許された。だからもう、苦しくない」

 僕は、鏡に映るヨーデリッヒを眺めながら、どう足掻いたところでこいつを傷つけることはできないのだと理解していた。

 僕の受けた痛みを、ギリヴにした仕打ちを、この酷薄な錬金術師にぶつけてやりたい。そうして、滅茶苦茶にしてやりたいのに。こんなにも憎悪の感情を抱いたのは初めてだ。でも僕には、きっとどうしたってこいつを傷つけることはできない。僕がどんな言葉を吐いたところで、たとえ暴力に任せたところで、きっと彼はもう痛みなんて感じない。

 死にたいと、ただそれだけを望んでいるような人間に、何ができるだろう。

 そんな風に夢見ているくらいなら、さっさと死んでくれていたらよかったのに。

 誰も巻き込むことなく、ひっそりと死んでいてくれたらよかったんだ。

 そうしたら、きっとあんたの好きだった女の子くらいは、あんたの親友くらいは……きっとあんたのために涙を流してくれただろうさ。

 つくづく、死ぬ時まで幸せになれないやつだ。

「さあ、レレクロエ。お前の記憶に植え付けよう」

 ヨーデリッヒは、どこか高揚したような声でそう言った。僕は眉をひそめる。

「レレクロエ? 何それ」

「お前の新しい名前だよ。もう、過去は捨てるんだろう? 僕のお人形」

 僕は唇を噛みしめた。

「待ってよ。僕はまだ何にも聞いてないよ。なんで僕はこんな姿になってるのさ。一体何が起こったんだよ」

「そんなの、僕の記憶を受け取れば全部分かるだろうに」

 ヨーデリッヒは首を傾げる。

「違うよ。レレクロエ、だっけ? 僕がそのレレクロエとやらになるのは、もう今更だ、別に拒むつもりなんてないんだよ。でもだとしたら尚更、僕がまだ僕自身であるうちに――僕がエストであるうちに、せめて僕が知りたいことだけは教えてくれないか。頼むよ」

 僕は頭を下げた。屈辱だ。だけど、僕はこれだけは、これだけは叶えてもらわなければならない。

 僕は、ただの人形になる前に、僕自身を弔わなければいけないのだ。じいちゃんに、母さんに、父さんに、愛されてきた幸せな僕を、この砂の街に埋めてしまわなければならない。

 【エスト・ユーフェミル・フェンフ】だけはせめて、幸せに死なせてあげなければならないんだ。

 沈黙が続いた。僕は震える指をぎゅっと握りしめた。

「まあ、いいけど」

 しばらくして、無感動な声が降る。

 僕はほっとして、顔をあげた。ヨーデリッヒは、不思議なものを見るような眼差しで僕を見つめていた。

「で? 何が知りたいの?」

「僕に何をしたら、こうなったのか」

 僕が真っ直ぐにヨーデリッヒを見つめると、ヨーデリッヒはうっとうしそうに目を細めた。

「へーえ。別にいいけど、でも簡単なことだよ。単にアダムからエバを造ったようなものなんだから」

「アダム……?」

 僕は、馴染み深いその名前に眉を寄せる。

「それは、旧約の創世記のことを言ってるの?」

「もちろん。僕は聖書だとかそもそも宗教なんて、これっぽっちも信頼に値しないと常々思っていたんだけどね。でも、一概に嘘っぱちでもないのかもしれないと今は思うよ」

「嘘っぱちって……、そんな罰当たりなこと言うなよ」

「主が本当におはしますなら、僕みたいなのが未だに生きているわけないじゃないか」

 ヨーデリッヒは自嘲気味に笑う。

「自覚はあるんだね」

「そりゃあね」

 ヨーデリッヒは目を伏せた。

「救世主レデクハルトの骨は、神様から与えられた魔法の骨だった。彼はその骨を身に宿すが故に、肉体は再生し、強い魅了魅惑の力を有していた。……彼と他の人間との違いは、その骨だけだったんだ。青い骨だよ。まるで母なる海のような深い深い蒼の色。

 そして面白いことに、その骨の一部を怪我をしている別の人間に移植すると、その人間の傷は修復した。どんな傷でもだ。だけどその人間はレデクハルトと同じにはならなかった。青い骨は人間のカルシウムに溶け込んで、ただの骨になった。ちなみに、これはレデクハルトが誰にも教わらずともやっていたことだけど、彼は人間に与えるために欠けた骨を、別の人間の骨で代替していた。そうして、彼に収まった人間の骨は、全て青い骨と同じものに変質した。

 彼と同じ子供を作るために、一体どうすれば彼と同じように人間が青い骨を持つようになるのか色々と試した。彼の骨から作られた薬を飲ませるだけでは、変化はなかった。次に骨を埋めてみた。最初は小さな骨から……変化がなければ次々と大きい骨を埋めていった。だけど何の変わりもなかった。あまりにたくさんの骨をいっぺんに移植しても、今度はレデクハルトに害があっては困るし。骨盤でさえ効果がなかった時、僕はふと創世記を思い出したんだよ。エバは神様が最初に作った人間アダムの肋骨から造られた。これを暗喩と考えればどうだろう?

 僕は彼の肋骨を実験台に埋めてみた。まずは一本。一番下の肋骨だ。それも片方だけ。するとどうだろう。嘘のように、彼女の骨の大半が青く染まって、そのまま戻らなくなった。僕は、先に埋めた肋骨と対の肋骨も彼女に埋めてみた。彼女の骨は全て青く染まり、彼女はやがて、【浄化】の力を手に入れた。後に彼女自身が、苦しむギリヴに自らの肋骨を一対埋め込むと、ギリヴの身体もまた、救世主と同じものになった。ギリヴはやがて【破壊】の力を手に入れた。結局、神様が作った救世主アダムの肋骨一対で、模造品エバが作れるってことさ。まあ、聖書には肋骨は一本と伝えられているはずだけれど、左右一対が正解と言うのなら、エバは本来、半分しかアダムと同じものではないんだろう。ねえ、エスト。君は人の胸郭と脳神経がどんな形をしているか知っている?」

「胸郭?」

 僕は顔をしかめていた。ヨーデリッヒはどうも難しく説明するところがある。

「肺と心臓を包み込む、胸の骨格だよ。ねえ、エスト。面白いことがあるんだよ」

 ヨーデリッヒはにやりと笑う。

「人間を人間たらしめる……いや、生き物を生き物たらしめる、というべきかな、そういうものである脳神経って言うのは、脳を頭部にして神経と言う長いしっぽのような体があるのさ。その尻尾はまるで植物の根のように、左右に腕のような枝を出して、まるで人の体を背中から抱きしめるように枝を伸ばしているんだよ。そうやって体中に神経が張り巡らされて人は生きている。背骨はそれらの神経の束である脊髄を包むように構成されている。

 一方で胸郭は、胸骨べいという頭部に、胸骨体という身体がくっついているような形をしていてね。そしてそれらの胸骨の脇には、まるで左右に伸びる手のように全部で十二対の肋骨が伸びて、心の臓を守っているんだ。まるで人を正面から抱きしめるみたいに」

 ヨーデリッヒは口の端を、口が裂けてしまいそうなほどに釣り上げていた。

「つまりね、僕は思ったんだけど、結局肋骨っていうのは――胸郭を作る骨って言うのは、人の脳神経を模した人形のようなものなんだよ。骨人形。だからこそ、神経を模した肋骨によってエバは生まれる。同じようにお前達マキナレアがレデクハルトの肋骨から生まれていくんだ。ちゃんと考えればわかることさ。レデクハルトと他の人間の違いなんて、骨が青いかそうでないかしかなかったんだから。なんて簡単なことなんだろう。たったそれだけで、僕はお前達を作ることができた。お前に飲ませた薬があったね? あれは、レデクハルトの骨と似た成分で作った毒薬だ。あれを飲むことで、不死の体であるお前達は、いつか死ぬことができる。ちゃんと死ぬことができるからね、安心してよ。あれは即効性はないけど、いつかお前達を蝕んでいくよ。僕はちゃんと、レディの死にたいという望みを叶えてあげることができるんだ!」

 ヨーデリッヒはどこか恍惚としている。その目の端から音もなく涙の筋が伸びた――笑っているのに、泣いている。

 なんて、狂っているんだろう。僕はそれを、恐ろしいとは思わなかった。ただただ、哀れだなと思ったのだ。もう、僕自身が人ですらないからなのかもしれない。

「ああ、それで、お前にもそういう風に肋骨を埋めてやったんだよ。そうしたら、不思議だね? お前の髪や眼はそんな色になってしまった。元々ここに来た時点で、お前の髪と瞳の色素は抜け落ちたような状態だったから、青い骨の作用によって新しく色が付けられたんだろう。レデクハルトと反対色だって言うのが興味深いよ。彼は紫の髪に、赤黒い眼だからね。それに、あの薬を飲んでギリヴは腫瘍だらけになったのに、お前にはそんなものはできなくて、色が抜けただけだった。はは、大げさだね? たったそれだけで、お前は家を捨ててきたんだもの。大したことではなかったろうに。もう少し、それこそ、体がぼろぼろになるまで耐えてもよかったかもしれないのにね」

「大したことなんだよ」

 僕は瞼を閉じた。

「でも、これじゃますます、会いにいけないや。目立つもの」

 溜息が零れる。

「元々帰るつもりはなかったんでしょう?」

 ヨーデリッヒは薄らと笑いながら言った。

「他は? 何が聞きたいの?」

 その言葉に、僕は緩やかに首を横に振った。

「いい。もう、十分わかった。あんたがどれだけ狂っているか……あんたの抱えたものなんて、ただの【エスト】には到底理解できやしないってことが、わかったよ。十分だよ。糞喰らえ」

 僕は何故だか凪いだ気持ちで、ヨーデリッヒの貼りつけたような笑顔を見据えた。

「さあ、さっさとしろよ。【エスト】とはおさらばだ。好きにして」

 ヨーデリッヒはふっと笑みを消して、しばらく僕を見つめていた。

 どこか哀れなものを見るような目で。そんな目で、あんたみたいな気違いに見られる筋合いはないよ、ヨーデリッヒ。

「ギリヴに……会わなくていいの?」

 ヨーデリッヒの唇から言葉が零れ落ちる。僕は目を見開いていた。

 そんなことを言われるなんて、思っていなかった。

 彼がそんなことを言うなんて、思っていなかったのだ。

 僕が、そんなことも思いつかなかったなんて、信じられなかった。

「いい、んだ……」

 僕は震える声で呟いた。たまらなくなって、顔を思い切り伏せる。

「はは……」

 膝の上で、震える拳を握りしめていた。

 ああ、僕は。

 なんだ、僕は、


 あの子のこと、もう、【僕が求めたギリヴ】だと、思っていない。


 ぽたり、と雫が落ちて、膝を濡らす。


 悲しい。

 悲しい。


 僕は人でなくなってしまった。


 それをきっと、誰よりも理解している。


 だからこそ、あの子だって、


 あの子だって、もうあの時のギリヴではないんだって。



 だったらなんだと言うのだろう。愛する価値なんてないとでも思っているのだろうか。

 僕は一体何を考えていたんだろう。

 僕が、この、僕が、いつの間にか、とうに、あの子への気持ちを失ってしまっていたなんて。


 ああ、なんてことだろう。



 なんて、取り返しのつかないことを、してしまったんだろう。


 僕はもう、誰でもなくなってしまった。


 あの子のために人でなくなったのに。

 あの子のために人でなしになったのに。

 家族を置いてきた。未来を置いてきた。

 あの子のため、だなんて、なんて醜い自己顕示欲だったんだろう。

 罰が当たってしまった。


「ああ…………ああ、あ……」


 僕は震える手で顔を覆う。指の隙間から見える床は、木目を汚く色づかせ、その渦が僕の視界から脳を掻き毟る。

 気持ち悪い。気持ち悪い。

 もう僕はいない。僕なんていない。こんなにも、自分がいなくなってしまったことが辛いなんて思わなかった。

 こんなにも虚しいものだなんて、思いもつかなかった。


 僕はしばらく汚らしく泣いていた。ヨーデリッヒがどんな顔でそれを見ていたのか、わからない。けれど僕は、ひとしきり泣いた後、ヨーデリッヒとそっくりの気味の悪い笑顔を浮かべて、かたかたと壊れた機械のように震えて、さあ、早く、と乞うていた。


 早く。早く。


 僕を僕でないものにして。


 レレクロエ。……レレクロエ。



 受け止めよう。手に入れよう。捨て去ろう。逃げ出そう。消えてしまおう。


 こんな僕が、ただ何も考えず生きられる未来を。

 どうか。


 僕は、脳に埋め込まれていくヨーデリッヒの、むせ返るような狂気を、虚無を、空白を、貪るように喰らった。

 僕のものになるように。僕だけのものになるように。

 僕がレレクロエになれるように。



     *



 全ての記憶を蝕んで、体を起こした僕を襲ったのは、とてつもない気怠さだった。

「あはは」

 僕は小さく笑った。

 なんてことはない。

 なんてことだろうか。僕は嗤えるくらいに、あの気持ち悪いヨーデリッヒと同質だった。

 他人の感情を、記憶を受け取ったのに、僕は僕を見失わない。

 同化してしまった。融けあってしまった。同じものになった。僕はヨーデリッヒ。ヨーデリッヒのレプリカ。彼の大好きな大好きなお友達の、大事な大事な名前を預かるだけの、木の人形。

 ぐるぐると、決して交わることのない年輪が、螺旋して僕を蝕んでいく。

 苦しい。苦しい。こんな苦しみを抱えていたのかよ。そりゃ気も狂うだろ。

「ははは、ははは……!」

 この苦しみは僕が削られていく証。僕がヨーデリッヒになれる証。どんどん削ってほしい。どれだけでも削ってほしい。鉋屑かんなくずが散らばる。これはエストだ。舞い上がる。舞い上がる。砂と一緒に飛んで、どこかへ行くだろう。それでいい。それでいいんだ。ここに残ったのは、削られた木の操り人形だけ。


 まだ鈍く痛む頭を抱えながら、僕はくつくつと笑っていた。ヨーデリッヒが僕の背を押した。マキナレアの子供たちが、不思議そうな眼差しで僕を振り返る。

「さあ、みんな。これが最後のマキナレアだよ。レレクロエだ」

 無機質なヨーデリッヒの声が脳髄に染みわたる。

 僕は眩む視界の中で、大好きだったはずの女の子を、僕にとってはただ唯一であるはずの少女を眺めた。

 ギリヴは少し戸惑ったように僕を見つめる。

 ああ、何も見えない。他の誰も見えない。渇いている。とても渇いている。

「こんにちは……」

 ケイッティオ――ヨーデリッヒの想い人の声が、耳に届いた。僕は込み上げてくる愛おしさに、苛立ちを覚えた。邪魔しないでほしい。君への想いが、ヨーデリッヒの想いが、目を眩ませてしまうじゃない。

「よろしく」

 僕はにっこりと、霞む白い靄に向かって笑いかけた。瞳がその姿を焦がれるように揺れる。やがて視界が徐々に晴れ、僕の目はケイッティオを捉えた。そうして、その視界の先に、部屋の隅の方で僕を見もせずにどこかを眺めている、前髪で瞳を隠したモンゴメリの姿も見えた。

 ああ、どろどろとして、気持ち悪い。

 甘くて、甘ったるい。

 はこんなにも、この二人が好き、というわけだ。

 乾いた笑い声を漏らして、ギリヴに近づく。ギリヴはびくっと肩を跳ねさせた。よほど僕が気持ち悪い顔をしていたのだろう。そんな風に怯えたような顔に、愛情なんて湧くはずもない。

 僕はギリヴの瞳を覗き込んだ。せめて、せめて。

 その色を僕にちょうだい。

「お揃いだね?」

「え?」

 僕がかけた言葉に、ギリヴは戸惑うように小さく言葉を零す。

「目」

 僕がその目を指差すと、ギリヴは、はは……、とよそよそしく笑った。

 こんなに、可愛くなかったっけ。

 僕は気色悪い笑みを浮かべながら首を傾げていた。

 こんなにも、可愛いと思わないものだっけ。

 ケイッティオを振り返る。

 ……この子のことは、とても可愛いと思うのに。

 どうして僕は、もうギリヴのことを愛おしいと思えないんだろう。

「はは……」

 僕はギリヴの両頬をつまんだ。

「い、いひゃい! やめへ!」

 ギリヴがしかめ面で僕を睨んでくる。

「不細工だなあ」

 僕はけらけらと笑っていた。

「ひどい……」

 頬を抑えて、ギリヴが僕を睨みつける。

 嫌われてしまう。嫌われてしまう。

 こんな、何もなくなった僕を、

 あなたへの愛情でさえ失ってしまった僕を、好きになってもらえるわけがない。

 僕の心はケイッティオとモンゴメリのもの。そのために生きるもの。そのために犠牲になる五人のマキナレアを守るもの。

 好きになりたい。好きになりたい。好きになりたい。

 許されるというなら、もう一度だけ、あなたのことを好きになりたい。

「可愛くないなあ。本当に可愛くないなあ」

 僕は笑いながら、苛立ち紛れにギリヴに言葉をぶつけていた。

「どうして君はそんなに可愛くないの? 信じられない。苛々する」

「なっ……!」

「ちょっと、言い過ぎだし、ギリヴは不細工でもなんでもありません」

 ハーミオネが、険しい顔で僕の腕を引く。僕はハーミオネに笑いかけた。

「煩いなあ。僕が苛立ってるだけなんだから、放っておいてよ」

「いい加減にして」

「やだよ」

 ハーミオネの腕を振り払う。

 僕はギリヴをもう一度だけ見て、顔を背けた。

 もう、見ていられない。

 どうして。

 どうして、僕に笑ってくれないの。どうして僕を忘れたの。どうしてそんなにも可愛くないの。どうして僕はあなたをもう可愛いと思えないの。どうしてもう好きだと幸せになれないの。

「ああ、苛々する」

 僕は毒吐きながら、嗤っていた。

 ヨーデリッヒは、ただそれを静かに眺めている。

 無性に、腹が立って、彼を殺してやりたくなった。

 僕の手は霞を掴む。

 できるわけがないのだ。


 どうせ、ヨーデリッヒはもうじき死んでしまうのだから。

 幸せも不幸せも捨てたまま、逝ってしまうのだから。


 置いて行かないでよ。


 僕を、こんな世界に、一人きりで置いて行かないでよ。


 僕はまた泣いていた。崩れ落ちるように泣いていた。心配そうにミヒャエロが僕の背中を撫でていた。ハーミオネは「しょうがないんだから」とお姉さんぶっている。ギリヴがどんな顔をしているのか見えない。こんな時まで我関せずなモンゴメリが腹立たしい。お前が、そんなだから、僕とヨーデリッヒが苦しかったんだ。畜生。畜生畜生畜生。

 ケイッティオがギリヴに何か言っている。「別に気にしてない!」と、明らかに拗ねたような声でギリヴが吐き捨てるのが聞こえた。その拗ねた声だけは、なんだか可愛いな、と笑えた。ただそれだけのことが、どうしようもなく僕を満たした。ああ、ここで生きていかなくちゃ。


 僕はもう二度と泣かないと誓っていた。もうこれきりだ。誰のためにも、もう二度と泣くまい。だから、どうか今だけ。







 あなたを愛した僕を悲しむのを、許してください。神様。










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