鐘を抱える

「じいちゃん」

 僕はそっと扉を開けた。

「寝てる?」

「いや」

 じいちゃんは長い溜息をつく。

「僕、ちょっと散歩してくる」

「そうか」

 じいちゃんは静かな声で言った。

「煩くして……ごめんな。寝れなかったでしょ」

「生憎、耳の方もガタが来ていてな」

 じいちゃんは小さく笑った。

「お前がどんな音を立てていようと、よく聞こえんさ」

「うん」

 僕は力なく笑った。

「じゃあ、行って来るから、寝てて」

「あまり遠くまでは行くなよ」

 じいちゃんは大きな欠伸をする。

「うん」

 僕は灯りを消した。

「おやすみ」



     *



 扉を閉め、鍵をかける。ヨーデリッヒは月明かりを見つめてじっと佇んでいた。外套を羽織らず、重たそうに抱えている。

「着ないの? それ。夜は冷えるよ」

 僕が顎で指し示したけれど、ヨーデリッヒは首を振った。吐いた息が白く舞って、どこかへ消える。

「いい。もともと、あまり着こむのは好きじゃないんだ」

「そ。じゃあ持つよ」

 僕は、ヨーデリッヒから外套を奪うように取って、歩いた。ヨーデリッヒは僕をじっと見つめる。

「お前は変な人間だね」

「君にこそ、言われたくない」

「そうだね」

 ヨーデリッヒはまた息を静かに吐いて、空を仰いだ。

「ギリヴに会わせるとは言ったけど、遠くから見せるだけだ。話はさせられないよ」

「どうして」

 僕が不機嫌な声を出すと、ヨーデリッヒは目を伏せる。

「お前は、僕になるかどうか決めていないだろ。秘密を全部さらけ出すことはできないよ、今の段階では」

「だから、なんだよ、その【お前になる】ってやつ。意味が解らないんだけど」

「僕の記憶を、全部受け入れてほしいんだ」

 ヨーデリッヒは静かに言う。

「僕の記憶を抱えて、僕と同じように生きてほしい」

「何それ」

 僕はなんだかもう、笑えてきて、前髪をくしゃりと握りしめた。

「そういうこと? 僕はどうなるの? 見ただろ、僕にはじいちゃんもいるし、店もある。なんで僕がエストって名前を捨てなきゃいけないんだよ。なんで……気色悪い君にならなきゃいけないんだよ。ふざけないでよ」

「いっそ、そうずけずけと言ってもらえて楽だよ」

 ヨーデリッヒは微かに笑った。

「おかしいな、あの子たちの前でも、レディの前でも、弱気になんかならなかったのにな」

 そう言って、悲しげに睫毛を揺らす。

「ギリヴは、もうお前のことを忘れてしまったよ」

 僕の足が止まった。

「辛い?」

「……煩い」

 僕は、それだけ言うのがやっとだった。

「なん、で、だよ」

「言っただろ? 薬の副作用ってやつだよ。真っ先にお前のことを忘れたよ。そのうち、殆どのことが分からなくなった。最終的に、催眠をかけて、他のことも、僕が全部忘れさせた。もうギリヴは、自分を人間だとも思ってない」

 なんて酷い話だ。

 足がすくむ。それが現実だなんて、知りたくない。こんな夜の闇も、ヨーデリッヒの葡萄色の目も、全部忘れてしまいたい。

 ギリヴがそんな姿になったのを、見るのは辛い。

 僕には、大好きな人から忘れられてしまうことが、どれほど辛いのだか、実感さえわかない。

 背中に雪が降り積もるような心地がした。

 どうして僕は、こんな夜に、こんな風に、こいつと二人で歩いているんだろう。

 じいちゃんの傍で、たとえうなされたとしても、眠りの中に逃げ込めばよかったのに。

「人間の脳って不思議だよね」

 ヨーデリッヒが零す。

「大切な人ほど、先に忘れるようにできているんだってさ。ギリヴは真っ先にお前を忘れたけど、最後の最後で、会いたいと願ったのは、お前だったよ。お前の髪と同じ色の砂を追いかけて、後は全部忘れた」

「それを……僕に、聞かせて、」

 僕は、再び湧き上がった怒りで肩を震わせた。

「何が、したいわけ。僕を、僕の心臓を抉りたいの? 僕の心臓なんかいくらでもくれてやるよ。ギリヴを……ギリヴを、これ以上利用するのをやめろよ」

「だから、心臓なんかいらないけど、くれるなら僕になってってば」

 ヨーデリッヒはどこか苛立つように言う。

 どの口が、そんなこと言えるのか。

 お前に、僕に苛つく権利でもあると思ってるのか。

 僕は震える体を必死で抱きながら、ヨーデリッヒの背中を睨んで歩き続けた。

 僕は、まだ縋っていた。

 なんとかなるんじゃないかって。

 どうにかして、ギリヴを逃がすことができるんじゃないかって。

 僕が代わりになってもいいからと。

 そんな、甘いことを考えていたのだ。



     *



 真っ黒な針金を編み合わせたような、螺旋階段。

 その階下に、彼らはいた。

 思い思いに床に座り込んで、格子窓から漏れる白い月明かりをじっと眺めている。

 僕はその景色を目の前に、一歩も動くことができなかった。

 同じ人の姿をしているのに。僕が感じたそれは、きっと畏怖だ。

 この感覚を、僕は知っている。小さい頃から、教会で礼拝する度に感じていた厳かさと静けさと、そして恐ろしさだ。

 ステンドグラスの光に包まれた、オーロラのように鈍く光る、十字の刑具。

 覚えてもいないような遠い昔、殺してごめんなさいと、許してくださいと、人々が泣いてすがらずにはいられない鼓動の音。

 肌をびりびりと震わせるような、畏れ。

 教会の明かりの下、僕らは誰もかも、神様が僕らを責める声が辛くて、オルガンの音で耳を壊した。かき消すように。見えないように。彩りに満ちた硝子細工を窓に張り付けて、誤魔化して。

 ……僕は、ただ、ただ震えていた。足がすくんだ。怖かった。

 年端なんて変わらないはずのその五人の子供達が、怖いと思ったのだった。そう思ってしまった。ギリヴも、そこにいたのに。

「ヨーデリッヒ……」

 僕は震えながら、その名前を呼んでいた。

「なん、で……平気、なんだよ」

「何が?」

 ヨーデリッヒが本当にわからないといった様子で、首を傾げる。

「どうして、恐ろしく思わなかったんだよ」

 僕はかちかちと鳴る歯の音を抑えようと、唇を噛みしめた。

「何が」

 ヨーデリッヒは困惑したような声を出す。

「あんなの……まるで、神様じゃないか。人間が……僕達みたいな子供が、勝手にいじくっちゃいけないものだよ」

「どうして?」

 ヨーデリッヒは不快そうに眉をひそめる。

「あれ、僕が作ったんだよ。そして、そもそも、あの中にいるあの紫頭の子供は、神様から放り捨てられた子供だ」

 ヨーデリッヒは指をさす。

「神様が彼に、人々を惹きつける魅了の力を与えた。かつての救世主キリストのようにね。聖書に残る、彼のように。まあ、本当にそんな人がいたのかすら怪しいけれど」

 ヨーデリッヒは嘲るように口を歪めた。

「彼はその力を持て余した。神様は彼の潜在意識に植え付けた。いつか世界のために死になさいと。お前が死ぬことで、世界は救われるのだと。神様とやらにとって都合のいい、勝手な理想郷が、お前の死によって導かれるのだと」

 ヨーデリッヒが指差す少年は、前髪をいつまでも引っ張るようにいじっていた。無表情に。鬱陶しそうに。

「彼は、その運命を知っていた。そして、それを叶えたいとも思っていた。本心だ。けれど一方で、どうして死ななければいけないのだろうと、恐怖を抱えていた。彼はこの世界中で、誰よりも死にたいと願い、誰よりも死にたくないと泣きながら自傷を繰り返した。けれど彼の体は、傷つけても傷つけても、人間ではないみたいに再生を繰り返した。彼は死にたくても死ぬことができなかった。死ねと定められているのに、神様は死に方すら教えてくれない。再生を繰り返す体に、彼は自分が人間ではないのだと毎日のように嫌と言うほど知らされた。そして何も知らない馬鹿な人間どもは、彼に【早く世界を救ってくれ】と乞う。早く、早くと。どうしていつまでも救ってくれないのかと。もう沢山だと。こんな世界まっぴらだと。何が沢山なものか。彼は知っていた。仮に自分が死んで、世界が救われたとしても、それはかつての方舟と同じだ。全てを洗い流し、一からやり直すだけの世界だ。今生きている全ては、死に絶える。それは救いとは言えない。そんな救いは誰も望んでいない。それでも彼は、生きればいいのか死ねばいいのか、どうやって死ねばいいのか、わからないと言いながら、自分を切り刻んだ」

 ヨーデリッヒは笑っていた。月明かりがヨーデリッヒの頬を照らす。白い涙が、その骨ばった手を筋となって照らす。

「そんな人が、たった一人の女の子を好きになったとして、誰が責められる? その子と共に生きたいと……でも許されないんだ、それでも一緒にいたいんだと、愛してほしいと泣く彼を、どうして否定できる? それでも世界は彼に死ねと言い続けた。あまつさえ、その馬鹿な女は、彼ではなく僕に懸想する。どうでもいい僕を。直に死んでしまう、ぼろぼろの体を持て余すだけの木偶の坊を。僕はレディに生きてほしかった。でも彼は死にたいと言った。じゃあ、僕にできることなんて、あの子の記憶を消してでも、レディの記憶さえ消して、あの子がレディの傍に居る未来を作ることだけじゃないか。僕は愛されなくったってよかったんだ。馬鹿な女。本当に馬鹿で苛つくよ。あの子に好かれたりしなければ、僕は、あの子にだけは好かれないようにしようと心を閉じる必要もなかった。そんなことしないでいられたら、僕は自分の気持ちを持て余すこともなかった。レディを恨むようになってしまうなんて、そんなことなかったんだ。こんな僕は、消えてしまえばいい。だけど僕は、ただ……ただ、本当に、レディの望む世界を造りたかった」

 言葉が溢れて、止まらない。

 僕は、ヨーデリッヒが壊れた発条ぜんまいのように喉を震わせ続けるのを、ただ見ていることしかできない。鼓膜がびりびりと音を立てる。裂けそうなくらい、棘で満たされた空気だった。

「僕はね……僕は、僕だけは、レディを責めないたった一人の人間でありたかった。友達だから。初めての、友達と言える人だったから。友達だなんて響きは、こそばゆくてたまらなかった。それでも、僕には、それはただ一つの宝物だった。生きていてよかったと、初めて思ったんだ。だけど、だけど……僕はレディを恨んだんだ。恨んだんだよ。僕がここまでして、あなたの力になろうとしているのにって。僕は初めて……初めて好きになった女の子を、その気持ちも気づかない振りして、見ない振りして塞いで、ケイッティオが……僕を好きだと言ってくれたけど、それすら苛つく想いに変えて、ひたすら、あの子がレディを見るようにって遠ざけて遠ざけて遠ざけて! ……僕だって不安だった。本当にこれでいいのかとか、僕は結局何が欲しかったんだろうとか、もう何もわからなくて、でも僕は、レディが死ぬのだけは、幸せだったと言えないままに世界から消えてしまうのだけは、我慢がならなかったんだ。だから僕は、たとえ他の何を失ってもいいからって、ここまでやったんだよ。なのにレディはずっとケイッティオのことばかりでさ、僕だって死にかけてて、苦しくて辛いのに、全然気にかけてもくれないし、思いついてもくれなかった。僕は、レディがいつか見る世界が、あの子と二人で残る世界が羨ましくて憎らしくて、もう僕は、レディの友達ではいられなくなってしまった。きっとずっと前から、とっくにそんな友情もの、なくなってしまっていたんだ。レディは僕よりケイッティオを選んだんだから。僕がずっと傍に居たのに、僕と居ても幸せじゃないんだから。だから僕は二人の記憶を消したんだよ。僕なんか忘れてしまうように。僕が【ヨーデリッヒ】だったことを忘れてしまうようにさ。二人の記憶を消すんだ。じゃあ、他の子供の記憶だって消さないわけにはいかないじゃないか。いっそ、神様の子供を作ってしまえばいいんだ」

 ヨーデリッヒは、ひゅうひゅうと喉の奥から擦れた音を出す。

「君の言っていることは、滅茶苦茶だよ……」

 僕は、ようやく、それだけを呟いた。ヨーデリッヒは穏やかに笑った。

「わかってるよ。誰もわからないよ。僕だってもう、ぐちゃぐちゃで、わからないんだ」

 そう言って、渇いた笑いを漏らす。

「僕は、この実験が……救世主レデクハルトとまったく同じ子供たちを作る実験が、うまくいくとわかって、ふと考えたんだ。僕は今までずっと……レデクハルトに飼われてからずっと、彼の幸せに憑りつかれていた。でも、だとしたら僕の幸せは何だろうって。僕だってもう長くないのにって。少しだけ考えたんだ。やっぱり、ケイッティオをさらってしまおうかとか。どうせもうレディも覚えてない。いつか思い出したとして、恨まれたって構わないだろ。そうすれば少なくとも、僕はケイッティオと一緒になれる。皮肉にも僕が僕自身の手で、ケイッティオが僕を好きでいてくれた記憶でさえ、彼女から奪い取ってしまったけれど。でも、そんなことどうでもいいじゃないか。僕はやっと、何の柵もなく、あの子を愛せる。あの子だけ愛してあげられる。でも、でもさ、」

 ヨーデリッヒは目を見開いて、狂ったようの笑みを浮かべ続けた。その目からは、ぽたぽたと雫が零れて落ちる。石の床に、濃い影を落としていく。

「でも、僕の幸せは結局、どうしたって、あの二人の背中を見つめていることだったんだよ。馬鹿だろ? ずっとそうして生きてきたんだ。おかげで、そうしていないと、生きているって実感できなくなってしまった。ずっとずっと思い描いてきた未来がまさか、僕個人の幸せもかき消してしまうだなんて、そんな悲劇、馬鹿らしくて笑えてしまう」

 ヨーデリッヒは、はは、と呟いて、鼻を鳴らした。

「もう僕は、生きているのが辛いんだ。どうせもうすぐ死ぬのだし。あの子たちに飲ませた薬を飲めば、あの子たちにしたことと同じことをすれば、僕も同じように、死ななくなるだろう。けれど、もう耐えられない。もしそうするとして、僕の記憶は誰が消す? どうして……どうして、僕に残された、たった一つの証を、僕のこの記憶を消さなきゃいけない?」

 僕は、うずくまるヨーデリッヒの背にそっと手を置いた。

「馬鹿だな……でも、君はあの子たちの記憶は消したんだろ。同じように、生きてたのに。どうせ、全員人間だったんだろ」

 僕は、そう言う事しかできなかった。

「馬鹿だな……そんな風にまくしたてられても、これっぽっちも理解できないや。なんでそんなにこじらせちゃったんだよ。そんなに、君の友だちレディは信用できなかったのかよ。もっと早くに伝えていればよかったじゃない。わけわかんないけど、結局君は、レディってやつの一番の親友でありたかっただけだろ。親友と同じ子を好きになってしまっただけだろ。一緒に生きていたかっただけだろ」

「そんな、簡単に言ってしまえたら、楽なんだけどね」

 ヨーデリッヒは力なく目を伏せる。

「僕にはもう、自分の気持ちを整理するような気力もないよ」

「だからってそれを、他人に押し付けるってわけ? 僕に?」

「別に誰でもよかったんだよ」

 ヨーデリッヒは苦しげに床に額をつけた。

「最初は、ミヒャエロ……あの子、あの金髪のぼさぼさ頭。あいつを、僕の容れ物にするつもりだったんだ。あの子は、ケイッティオが好きで、でも選んでもらえなかった子供だ。僕の気持ちも少しは分かってくれるんじゃないかと思った。でも、だめだね、僕は、僕のいない世界で、これからもケイッティオと一緒に傍にいられるあいつに嫉妬して、もうだめだった。僕の気持ちなんか、知られてたまるかって、変な傲慢をどうしようもできなかった。それでも僕は、ただ……あの二人が、ケイッティオとレディがいる世界を一緒に見たいんだ。僕の記憶を持って、誰かに、僕の代わりに、そんな世界を見届けてほしいんだ。僕自身はもう、疲れてしまったから、無理だけど。それが……それだけが、僕の幸せなんだ」

「だからって、ギリヴを巻き込んだ言い訳にはならないよ。僕を巻き込む言い訳にはならない」

「うん、そうだね……、全くその通りだ」

 ヨーデリッヒは瞼を閉じる。

 ――重いなあ。

 僕は、鳥籠のような天窓の向こうに広がる、藍色の星空を仰いだ。

 僕はギリヴに恋をした。

 彼女と居られる未来を、想像しなかったと言えばそれは嘘だ。

 それと同じくらい、僕なんかどうでもいいから、幸せになってほしいと思った。

 花のように、笑っていてほしいと思っていた。

 馬鹿だなあ。

 花は枯れてしまうのだ。

 同じ目に遭った子供が、この、狂ってしまった少年のために、人でなくなってしまった子供が、

 五人もいるのだ。

 神様のせいで狂ってしまった子供が、泣いているのだ。

 ――僕のエゴで、ギリヴだけ助け出すなんて。

 できないや。

 僕は、はは……と乾いた笑い声を漏らしていた。

 ヨーデリッヒと同じくらい狂えたら、ギリヴだけでも助け出すことができただろうか。

 それとも、僕もあてられて、狂いかけているのだろうか。

 こんな願い、抱えてしまうのは、欲張りだろうか。


 じいちゃん。

 父さんが、母さんをどんなふうに愛していたのか、ちゃんと見ておけばよかった。

 大好きな人を、どうしたら守れるのかわからない。

 どうしたら、ちゃんと愛してあげられるのか、わからない。

 僕は、ヨーデリッヒの記憶を知りたいと思ってしまった。

 もう、あなたと同じ生き方はできない。


「決められないよ」

 苦しそうに呼吸を繰り返すヨーデリッヒの頭を膝に乗せて、僕は呟いた。

「君の抱えているものが重たすぎて、ギリヴのいる世界が遠すぎて、僕には何も決められないよ。このままじゃ」

「そう」

 ヨーデリッヒは、微かに笑った。

「君のしてきたことを見ないと、決められないよ。僕は、君とは違う世界で生きてきたんだから」

「そう、だね」

 ヨーデリッヒは、深く淡い息を吐く。

「構わないよ。全部、受け止めてくれるなら。その後逃げ出しても、構わない。僕ももう、疲れた」

「無責任だなあ」

 僕は笑った。

「僕って、馬鹿だったんだなあ」

 ふと、ヨーデリッヒもそう零す。

「どう見ても馬鹿じゃないの?」

 僕が応えると、ヨーデリッヒは薄く笑った。

「いつだったか、僕が死にかけたことがあったんだ。熱が一向に下がらなくて、苦しくて、もう、だめだな、と思ってた。その時、レディが僕の手を握っていてくれたんだ。僕は朦朧としていたけれど。それで、あいつはこう言ったんだよ。【僕はもう疲れたよ。世界なんていらない。国なんていらない。僕が欲しいのは、僕を安らかに眠らせてくれる死だけだ】ってね。死にかけている人間の、死の淵で言うようなことじゃないよ。おかげで、僕は結局死に損なってしまった」

「そこで死んでれば、こんなに他人に迷惑かけなかったのにね」

 僕が言うと、ヨーデリッヒはどこか楽しそうに、悲しみを滲ませて笑った。



 僕はヨーデリッヒの額を撫ぜた。熱を帯びて、汗が滲んでいる。時々痙攣する体を抱えながら震える彼を、撫でてやることしかできなかった。ふと、僕は、ギリヴもこんな気持ちだったのかもしれないと、ぼんやりと考えていた。


 君の痛みを知りたい。君と同じものになりたい。そうでなければ、きっと僕は、君と同じ場所へ行けない。君の苦しみを知りたい。


 君の見てきた世界を、忘れてしまった世界を知りたい。君の隣に立つことを許してほしい。

 たとえ、君の背中だけを見つめることになっても、いいから。





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