鉄葉に沈む

 その日、僕は店の裏の屋根の下で玉葱の皮を剥いていた。

 じいちゃんが歩くこともできなくなってから数か月が経つ。僕はいよいよ小さな覚悟をしていた。

 そう遠くないいつか、僕は置いて行かれてしまう。

 父さんと母さんが死んだ時、僕は心の剥がれ落ちた人形のようにただ床に座り込んで、泣くことすらできなかった。じいちゃんは一人で二人の墓を作り、花を活けて、僕を抱きしめた。僕はじいちゃんの温かい体温を感じて、自分だけはまだ生きているのだと知った。両親はもう死んだのだとようやく理解した。そうして初めて、僕は泣けたのだった。

 けれど、もしじいちゃんが死んでも、今度は僕に胸を貸してくれる人はいない。甘えてはいけない。

 じいちゃんが安らかに逝けるように、僕は今から少しずつ心を柔らかくしておかないと。

 でも、僕はずっと、自分が地に足がつかないような狭間の世界でふわふわと漂って、へらへらと笑っているだけのような心地もしていた。

 こんなにも、あの子ギリヴにいつ会えるかわからないのが堪えるなんて思っていなかったのだ。今まではいつまでも待てたのに。振り払おうとしても、どんなに忘れようとしても、ギリヴの眼差しが――最後の眼差しが、瞼の裏に焼き付いて離れない。

 僕は何か見逃してしまったんじゃないだろうか。もっと何か、しなければいけなかったんじゃないだろうか。

 結局僕は、あの子のことを何も知らないのだ。あの子がいた店の名前も、行ってしまった先も――知ろうと思えばできたはずなのに、そんな目で見たくない、と拒んで、知るのを躊躇った。ただ僕は、傷つくのが怖かっただけだ。あの子が体を売っていると、目の当たりにするのが怖かっただけだ。いつか自分も、そういう男たちと同じ目で彼女を見てしまいそうで、目を背けていたかった。

 剥き終わった玉ねぎを、桶の水の中に放り込む。はあ、と嘆息しながら、そのまま別の玉葱を手に取って皮を剥ぐ――そうしていると、不意に陰が降りてきた。顔をあげると、フードの奥の暗い闇が目の前に迫っていた。

「うわっ」

 びっくりして仰け反れば、そいつは不思議そうに首を傾げた。何の表情も読めない眼。葡萄色の――。

「あ、お前……」

 僕が呟くと、ヨーデリッヒは口元を布で覆ったまま、細く低い声で呟いた。

「こんにちは」

「あ、うん……むしろ朝だけどな………」

 しばらくじっと見つめ合う。ヨーデリッヒの瞳は微動だにしない。その目は瞬きさえしなかった。その暗闇に吸い込まれそうで、ぞくりとして僕は顔を背けた。

「な、何か用?」

 そう聞いたけれど、結局ヨーデリッヒはそれから一言も話さなかった。僕は諦めて、ヨーデリッヒの痛いほどの視線を居心地悪く感じながら、今日の食事の準備をした。



     *




「で、何なの? どこまでついてくる気だよ……」

 ヨーデリッヒはずっと僕の後ろに張り付いている。店の中だろうと、台所だろうと。気味が悪いほど不気味に。

「あのさ……それ、日差しを避けるためにつけてるだけだろ? 部屋の中でくらい脱いでよね。暑苦しいんだってば」

 僕が嘆息すると、ヨーデリッヒは小さくため息をついて、震える手で外套を全て脱いだ。

 綺麗な、子供には似つかわしくない白髪がさらりと零れる。

「君……そんな色の髪だったの」

「まあ」

 ヨーデリッヒは一言、ようやくそれだけを言う。僕は再び溜め息を零した。

「で、何? いつまでいる気? それとも食事でもしていく? ていうか、君がり痩せすぎるよ、僕も人のこと言えないけどさ……ちゃんと食べてんのかよ」

 ヨーデリッヒは、僕をじいっと見つめていた。そのまま僕が野菜を煮込み続けていると、ヨーデリッヒのお腹からきゅう、という音が鳴った。……相変わらず彼の表情はぴくりとも動かない。

 僕は何度目になるかわからない、深い息を吐いた。

「食べてけば」

「……ありがとう」

 ヨーデリッヒは目を伏せた。聞きたいことは沢山あったのに、結局僕は何も聞けないでいる。



     *



「じいちゃん、ご飯できたよ。食べれる?」

「馬鹿もの。食べられるに決まっているだろう」

 そう言って、じいちゃんは顔を歪めながら体を起こそうとする。じいちゃんは、まだ僕に頼ってはくれない。寝台の横にとりつけた手すりに捕まって、額に玉のような汗を滲ませる。僕は、気持ちをごまかすように笑った。

「ねえ、じいちゃん、今日は母さんが昔作ってた料理作ってみたんだ。なんだか急に食べたくなってさ。どうかな? 記憶を頼りに作っただけなんだけど……」

「ふん」

 じいちゃんはどこか温かな声で鼻を鳴らした。

「もう少し、エルゼの味は甘かったぞ」

「えー」

 何が足りないんだろう、と僕が悩んでいると、じいちゃんはふと手を止めてどこかを見つめた。

 視線の先を追うと、棚の上。両親の黄ばんだ写真だった。僕の記憶よりも若い母さんが、父さんの肩に頭をもたせ掛けている。父さんは豪快に笑っている。

「エスト」

 じいちゃんは静かに言った。

「すまないな。俺は、お前より先に、あいつらに会いに行くことになりそうだ」

「何言ってんの。僕よりじいちゃんの方がうんと年食ってんだから当たり前だろ」

「ふん、お前も言うようになったな」

 じいちゃんは笑うと、またスープを口に運ぶ。

「お前は……エルゼに似ているな」

「そう?」

「ああ。ロベルトはお前ほどなよついてはいなかった」

「酷いなあ。じゃあ、母さんがなよなよしてたとでも言うの? そんなこと言って、母さんに叱られても知らないよ?」

 僕が母さんの真似をして腰に手を当てると、じいちゃんはくっく、と楽しげに笑った。

「エルゼは強い子だったよ」

 ふいに、じいちゃんはそう静かに言う。

「俺も、ロベルトも、豪快なのは見た目だけだ。実際には婆さんと、エルゼに支えられてきた。二人がいなければ、俺達の幸せはみすぼらしい代物だったろうな。俺はお前がエルゼに似ていて嬉しいよ。幸せだ。こんなガタの来た身体でもな」

 そう言って、ふっと目を柔らかく細める。僕はそんな穏やかなじいちゃんの横顔を見ながら、胸の締め付けられるような痛みを思い出していた。

「じいちゃん……僕は、僕は、そんなに、強くないよ」

 息をするのが苦しい。泣いてはいけない。もう、じいちゃんの目の前で泣かないと決めたのだから。

「ふん」

 じいちゃんは鼻を鳴らした。泣きそうになる時のじいちゃんの癖だ。

 置いて行かないで、じいちゃん。

 言葉が零れそうになるのを、必死で堪えた。

「そういや、あの嬢ちゃんは最近見かけないな」

 ややあって、じいちゃんはそんなことを言った。

「え?」

 僕は間の抜けたような声を出してしまった。じいちゃん、お願いだよ。

 お願いだから、僕の心をえぐらないで。言わないで。

「あの、コスモスのような色をした嬢ちゃんだよ」

 お願いだから。

 じいちゃん、僕は。

 きっとあの子に会うまでだったら、あなたのその言葉にこんなに辛くなることは無かったんだ。

 僕はもう、あなたと同じ世界にいられないんだ。

「あの子は、弱い子だ」

「そ、そんなことないよ」

 僕は言葉を重ねた。

 ギリヴが弱い? そんなわけがないよ。だって、あの子は、自分が弱いと知っている。それでも自分ができることを探して、歩いて行ける子だ。僕とは違う。僕みたいに、置いて行かないでとしか言えない人間とは違うんだ。だから、

 だから、好きだった。

「ふん、お前も少しは正直になれ。お前があの嬢ちゃんに惚れていたことくらい知っている。ああいう子は、ちゃんと追いかけないと届かなくなるぞ」

「そんなの……わかってるよ」

 僕は、唇を噛みしめた。

 どうしろって言うんだよ。

 どうしようもできないんだ。もう、

「じゃあ、じいちゃん。僕、食事してくる。友達が来てるから」

「そうか」

 じいちゃんはそう言った。僕は扉を静かに閉めた。






     **






 手にぶら下げたランプを壁に掛ける。

 夕暮れの薄紫が差し込む部屋の中で、ヨーデリッヒはただじいっと窓の外を見つめていた。

「何やってるのさ。食べなよ、ついでやってるんだからさ。冷めちゃうだろ」

 僕は嘆息して、彼の向かいの席に腰を下ろす。

 ヨーデリッヒはそれでもしばらく空を見つめていた。やがて震える手でスプーンを手にする。

 かたかたとスプーンが震えて、皿にかちん、と零れ落ちる。赤い雫が飛び散った。

 ヨーデリッヒは、ただじっと、感情のない眼でそれを見つめている。

 落ちた銀色に、映る眼差し。

「君……もしかして、」

 僕が擦れた声で呟くと、ヨーデリッヒは目線だけを僕に向けた。

「持病だよ」

「え?」

「ここ数年、無計画に身体を使いすぎた……もう少し生きられると思ってたんだけど」

「え……って、ちょっと待ってよ」

 僕はスプーンを置いて、ヨーデリッヒを見据えた。

「君、病気だったの?」

「そうだよ」

「そうだよ、って……じゃあ、なんであの子を買ったんだよ」

 声が震える。

 ヨーデリッヒはにやりと口角を釣り上げた。荒んだ眼差しで、隈の深く刻まれた目で、僕を見透かすように見つめる。

「僕がただ、あの子を単に傍に置くだけの目的であの子を買ったのなら、お前、僕が死んだあとで自由になったあの子とまた会えたのにね」

 何を言われているのか、わからなかった。

 まるで、別の目的があるような言い草だ。

 ……ぞっと背筋が泡立つ。

「ギリヴは……元気なの」

「生憎」

「なんだよそれ!」

 僕は拳でテーブルを叩いていた。がちゃん、と陶器が擦れ合う音が響く。

「ギリヴが、最後にお前に会いたいと言った」

 ヨーデリッヒの声は、とても凪いでいた。

 どうして、そんな酷い言葉を、そんな穏やかな、重荷から解放されたような眼差しで、言えるのだろう? 僕は唇を噛んだ。

「どうして……」

 信じない。

 信じない。信じない信じない信じない。

 僕は必死で耳を押さえた。何も聞きたくない。何も知りたくない。何も信じたくない。嘘だ。そんな……理解なんて絶対にしたくない。

「馬鹿だな、人の話はきちんと聞きなよ。誰も死んだなんて言っていないでしょ」

 ヨーデリッヒは抑揚のない声で、ぎぎ、と首を傾げて微かに笑う。

「君……もしかして、身体がもう動かないの……?」

 僕が擦れた声で言うと、ヨーデリッヒは小さく息を零した。

「僕のことはどうだっていい」

「君が死んだら何も聞けないだろ。ふざけるなよ。死んでいいとでも思ってるの」

 僕が暗い気持ちで睨みつければ、ヨーデリッヒは目を伏せた。

「お前に教えるまで、死ぬ気はないよ」

「じゃあ、さっさと話せよ!」

「煩い……頭に響くからやめて」

 僕は怒りで震える体を抱きしめるように抑えた。なんて、なんて腹立つやつだろう。

「僕は、僕のエゴで、実験を始めた」

「は?」

 いきなり何の事だかわからず、僕は棘のある声を出してしまう。

「そして、」

 ヨーデリッヒは、機械のように抑揚のない声で続けた。

「実験台として、ギリヴを使った」

 ああ、何を言っているのかわからない。

 実験台? 実験? ギリヴ? どうしてそこでギリヴが出てくるんだ? どうして、そんな、日常とは無縁の言葉と、ギリヴが結びつくと言うんだ?

「理由は、色々あるけれど、単に僕が、これ以上良心の呵責を受けたくなかったからだ。良心なんてものが僕にもあるのなら、だけど。知っている子を使うことで、僕はなんだか救われる気がしてた。多分僕は……僕を知っている人から、ちゃんと理解してくれる人から、賛同でもいい、異論でもいい、僕に言葉をぶつけてほしかった。何も知りやしない人間から、何にもわからないくせにあれこれと口出されるのは我慢がならなかったから。だから、ギリヴが一番都合がよかった。あの子は僕のいう事に逆らわない。優しい子だから。愛情に飢えているから。僕を……自分と同じだと、馬鹿みたいに思い込んでいるような人間だから、都合がよかった。それで、あわよくば、彼女で実験が成功すればいいと思っていた。むしろ、僕はあの子を死なせたくはなかった。責任が重くのしかかった。ギリヴを実験台にすることで、僕は絶対に失敗してはいけないと思えた。最低限の犠牲で済ますために、僕にとっては必要だった、ギリヴが」

「……もっと僕にもわかるように説明しろよ。お前の気持ちなんてどうでもいい、理由だってどうだっていい。僕は……僕が知りたいのは、あの子がお前にどんな仕打ちを受けたのか、今どうしているのか、今……今、あの子が、生きているのか、それだけだ」

 僕は奥歯を噛みしめる。

「だらだら話すのをやめろよ。お前が死にかけだろうが知ったことじゃないよ。今僕は怒りでお前をめちゃくちゃにしてやりたいくらいなんだよ……そんな頭で、そんなどうでもいいこと理解したいわけないだろ」

「そう、だね」

 ヨーデリッヒはどこか悲しげに微笑した。

「でも、僕は……お前と友達になれたらよかったな、って思うよ」

「ギリヴに手を出した時点で、」

 僕はどす黒い気持ちを抱えながら吐き出す。

「そんな可能性、もう綺麗に消えたよ」

「そう、残念だ」

 さして残念そうでもない口調で、静かにヨーデリッヒは言う。

「端的に言えば、僕は彼女にある薬を飲ませた。その結果……紆余曲折はあったけれど、実験は成功。彼女は、人間ではなくなった。生きてはいるけれど、もう年老いることは無い。彼女の心ひとつで、彼女は壊したいものをいくらでも破壊することができる。どれだけ傷ついても、身体は嘘のように修復される。命自体は恐らく有限だけれど、少なくとも彼女は僕達と比べれば不死に近い」

「は……?」

 どういう事なのだろう。さっぱりわからないのだ。

 つまりこいつは、ギリヴを不老不死にした、と言う事だろうか。

「なんの、ために……」

「僕の友達を……一人にしないために」

 静かな声が響く。

 ヨーデリッヒの瞳は、どこまでも澄んでいた。暗闇の中でさえ、蛍のように鈍く輝いて、どこかへ消えていく。

 まるで、旅人を惑わせるように。知らない森へ誘うように。

「正直に言うよ。僕は、僕の友達の恋を叶えてあげたかった。そのために、その女の子を彼と同じ存在にしたかった。だから、そのための実験台が必要だった。ギリヴを死なせたくなかったのは嘘じゃない。だけど、その女の子だけは絶対に死なせるわけにはいかなかったから。その子が死なない方法を探すために、色々なやり方を試す人間が必要だった。僕にとっては、その女の子よりは、ギリヴは死んでもいいと思っていた、その程度だった」

 僕は、テーブルの上に飾っていたブリキの花瓶を、ヨーデリッヒに投げつけた。

 水と花弁をかぶって、ヨーデリッヒは俯くように身動きさえしなかった。怒りが止まらない。

 滅茶苦茶にしてやりたかった。こんなにも、人の首を絞めてしまいたいと思ったことは無い。

「憎いでしょ」

 ヨーデリッヒは涼やかに呟く。

「でも。僕は、お前に理解してほしいんだ。僕のことを。僕の生きてきた世界を。これから僕が遺す世界を。お前にだけは、知っていてほしいんだ」

 僕は必死で震える体を押さえる。

 どんなに憎くても、病人だ。自分でほとんど動けないくらいの、病人なのだ。殴れない。傷つけられない。僕は、こいつから、まだギリヴのことを全て聞いていない。

「お前を選んだのには、色々と理由はあるんだけど、」

 ヨーデリッヒは淡々と、色の無い声で続ける。

「ああ、僕は、お前にもっと早く出会いたかったなあ」

 ヨーデリッヒの声が震えた。ひくつく頬で、笑おうとする。どうして、こいつは、あの子と同じ笑い方をするんだろう。本心を口に出すときの癖が、そっくりなのだ。その表情に、目が離せなくなってしまった。

 僕は酷く嫉妬していた。一方で、頭蓋の中は急速に熱を失い、次第に冷静さも取り戻す。

「レデクハルトに拾われるよりも前に、お前に出会いたかったよ。使えないなあ、エストは。もっと早くにギリヴを見つけて、捕まえていてくれたらよかったのに。僕はきっと、お前達が世界から逃げるのを手伝ったよ。どんな手を使ってでも。僕は、そんな未来なら、欲しかった。悪くないなと思ったよ。馬鹿だなあ、エスト。本当に、愚鈍なんだから」

「何がだよ。自己完結しないでよ。意味が解らない」

 僕が睨みつけると、ヨーデリッヒは荒んだ目ではは、と笑う。

「もう、取り返しがつかないんだ」

 そう言って、震える手で両頬を包み込むように触れて、ただ笑った。

「どうすればいいか、わからなかったんだ……だって、僕は、僕は……どのみち、いつかは死んでしまったんだから。あの二人を置いて。死ぬしかなかった。僕には時間が足りなかったんだ。あの人が笑って生きられる世界を作る時間なんてなかったんだ。だったら……誰に恨まれてもいいから、こうするしかなかったんだ……他に、思いつかなかった……だって、だって、どいつもこいつも、使えなくて、自分のことばっかりで、何にも見えてなくて、目先のことばかりでさ……誰も……誰も……僕に聞いてくれなかった…どうしたのって。何をやってるのって。どうしてそんなことしてるのって……止めてくれなかった……誰も……僕を……僕が僕の言葉で伝えるまで……待っていてくれなかった……」

 僕は、雨に濡れた鴉のように震えて蹲るヨーデリッヒを、ただ見つめることしかできなかい。

 腹が立っているのは本当だ。だけど、だけど。

 こんなに、震えている人を、罵倒することができるほど、強くもない。

「少なくとも、ギリヴは君のことをわかりたいと思っていたのに」

 僕は小さく呟いた。

「そう言っていたよ。あの日……君に連れて行かれる前の日に」

 ヨーデリッヒはしばらく何も言わず、耐えるように震えていた。

「無理だよ」

 ようやく、そう小さく鳴く。

「気持ちを伝えるなんて、慣れていないんだ。受け入れることも、慣れていなかったんだ。時間がかかるんだよ。追いつかないんだ」

「それでも、きっとギリヴなら待っていてくれたよ。なんだよ、僕よりあの子のこと知ってるんだろ?」

 言葉は棘を巻きつけて、僕の喉から零れ落ちる。

「そうだね」

 ヨーデリッヒは、擦れた声で、静かに応えた。

「多分、ケイッティオもそうだったはずだけど、僕が……拒んでしまったんだから、仕方ないね。レディは……あいつは馬鹿だから、期待したって損なばっかりだったのだし」

「ケイッティオ……?」

 僕が眉をひそめると、ヨーデリッヒは僕に暗い葡萄色の目を向けた。

「レディ――僕の友達が、執着した女の子だよ」

 そう言って、はは、と笑う。

「はは……おっかしいや。ひたすら知り合いばかり巻き込んで実験を繰り返して、犠牲にしたのに、結局僕が僕を吐露できるのは、中途半端に顔見知りで、何にも知らないただの一般人なんだ」

「それ、僕のことを言ってるの?」

 僕が眉間に皺を寄せると、ヨーデリッヒは穏やかに微笑する。

「ねえ、エスト」

 月明かりが、涙の跡みたいに、ヨーデリッヒの頬を一筋照らす。

「何も言われないまま騙されるのと、嘘をつかれて騙されるのと――君は、どちらがいい?」

「はっ……」

 僕は顔を背けた。嗤わずにはいられなかった。

「何? その馬鹿みたいな質問。質問ですらないじゃないか。僕がそんなものに真面に取り合うとでも思ったわけ?」

「ギリヴはこう答えたよ。【嘘をつかれて騙される方がずっとまし】」

 ヨーデリッヒは微笑んでいる。試すような眼差し。僕は再び頭に血がのぼるのを感じた。

「それは答えになんかなってない! 答えじゃないだろ! なのにお前は、あの子に嘘をついて騙したんだな!」

「騙すことは決まってた」

 ヨーデリッヒは淡々と答える。

「他に、何を聞いたらいいのか、わからなかった」

「ふざけてるよ……」

 僕はずきずきと痛む頭を押さえた。目の奥がどくどくと波打つ。そんな馬鹿げた質問に踊らされた馬鹿なギリヴに、腹立ちさえ覚えた。

 わかっていたはずなのに。そんなものに答えを出したって、幸せな未来なんかない。何も知らない僕でさえわかるのに。

「いいよ、答えるよ。僕は、【騙されるのはまっぴら】、それが僕の、お前への答えだ」

 僕が睨みつけるようにそう吐き捨てると、ヨーデリッヒはふにゃり、と笑った。

 泣きそうな顔で。どこまでもギリヴとそっくりな表情をするから、本当に憎たらしい。

「そんな風に答えたの、お前が初めてだよ。馬鹿だよね、みんな。みんな、お前みたいに少しは頭が回るやつだったらよかったのになあ」

「僕はそんなに頭なんてよくない。こんなの、頭が回るだなんて言えない」

 僕はそう静かに言った。

 ヨーデリッヒはへら、と笑ったまま、しばらく床の、どこともない場所をぼんやりと見つめている。

 本当に、気違いだと思う。

 狂ってる。僕は、見ていられなくて、顔を背けた。

 なんだって、ギリヴはこんなやつ、助けようとしたんだ。

 もう、どうしようもないじゃないか。手遅れだよ。

 自分でも言っているじゃないか。

 なんて痛いんだ。

 自分で狂っているって、誰よりも自覚しているだなんて。

「お願いがあるんだ」

 ヨーデリッヒは、へらへらと笑ったまま言った。

 僕はその表情に顔をしかめながら、彼の瞳を睨みつけた。

「僕になってくれないか」

 ヨーデリッヒの言葉が、零れて落ちる。


 僕にはよくわからなかった。


 けれど僕は、嫌だと答えることもできなかった。


 きっと、ヨーデリッヒも僕の答えは分かっていた。


「ギリヴを見て、それからだ」

 震える声が、僕の喉から苦しげに漏れて落ちる。

「ギリヴに、会わせて」


 僕は、蛇に騙された。


 それが自分の意思だと知っていて、

 じいちゃんの眠る部屋の、橙色の灯りを捉えた視界でさえ暗く閉ざして。

 僕は、結局、あれこれと理由をつけたところで、深く暗い好奇心に負けたのだ。

 空っぽのブリキの瓶を拾って、僕はヨーデリッヒの手を取った。


 イチジクが床にぐちゃりと零れ落ちて、僕の靴に雫が跳ねた。








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