真珠を吐く

「調子はどう?」

 深く暗い、色を持たない言葉が耳に触れる。

 ヨーデリッヒは、あたしを後ろからそっと抱きしめた。なんて白々しいんだろう、と、呆れて、それでいて傷ついているあたしは、身動きすらできない。

「悪くはないわ」

 あたしは笑った。そっとその手をどけるようにして笑った。

 こんなの、あんたの好きな子にしてあげればいいのに。

「また吐くの?」

 抑揚のない声が追いかけてくる。あたしは何も答えなかった。吐き気が込み上げてきたのは本当だ。

 結局、ヨーデリッヒの飲ませる得体のしれない粉薬は、あたしを確実に蝕んでいくのだ。



     *



「ああ、なんてことだろ」

 あたしは、鏡に映る自分の顔を見て、自分を嘲笑う事しかできない。

 顔が醜く腫れている。腕も、首も、体中に固い大きなしこりのようなものができて、あたしの体をずきずきと拍動させていた。

 零れそうになる涙を堪えようと、あたしは唇を噛みしめた。もう、口の中でさえ、痛くて痛くて、何も喉を通らないのだ。

 どうして、どうして。

 あたしが、こんな目に合わなければいけないんだろう。

 どうして、少しでも情を持ってくれていたのなら。

 あたしを使おうなんて思ったの。

 あたしはヨーデリッヒが憎らしくて憎らしくて。

 こんな記憶も、痛いのも、全部忘れてしまえればいいのに、と思った。

 なんにもわからなくなれば、幸せなのに。

 もうそれ以上何も望まないのに。

「やっぱり、痛いんじゃない」

 ヨーデリッヒの声が背中にかかる。

「痛み止めくらいあげるのに」

「あんたに助けてもらう義理なんかないわ!」

 あたしは叫んだ。ヨーデリッヒは、冷たい眼であたしを見下ろす。

「どうして……」

 声が震えた。あたしは泣くまいと、必死で口角を釣り上げるように言葉を振り絞った。

「どうして……? そんなに、」

 喉がひゅうひゅうと音を立てる。

「あたしより、あんたの飼い主の方が、そんなに大事?」

「……答えを聞いて楽になるとでもいうの?」

 ヨーデリッヒは冷たい声で言った。

「聞いてもどうしようもないなら、聞かない方がいいと思うけど」

「はは……」

 あたしは笑った。

 嘘をつかれてでも騙される方がましだと言ったのはあたしだ。けれどあたしにはもう、痛くて苦しくて、ヨーデリッヒが憎くて、自分が憎くて、あんたの言葉の嘘を探す余裕なんかないのだ。

 あたしが彼を受け入れてしまったから、彼は――ヨーデリッヒは、ずっと嘘ばかりをつき続けている。

 あたしが拒んでしまったから。

 真実なんて、傷つくなら知りたくないと言ってしまったから。

 もう、ヨーデリッヒはあたしに真実を告げてはくれない。

「はは………」

 なんてことだろう。

 そんな、たった一度の過ちで、失敗で、取り返しがつかないだなんて。どうしてそんな風にできているんだろう。そんなの、生きてて辛いばかりじゃないか。

「お願い……一人にさせて」

 あたしは声を振り絞った。

 ヨーデリッヒはあたしの傍に何かを放って、何も言わずにその場から去って行く。

 あたしは、その袋に入った小さな白い錠剤を震える手でつまみ、飲みこんだ。

 どれくらいじっとしていただろう。次第に痛みが引いていく。

 あたしは泣いた。

 辛くて、痛すぎて、泣いた。

「どうしたらよかったの」

 誰もあたしの声なんか聞いてはくれない。

 偽善なんか振りかざした罰だろうか。あたしは、ヨーデリッヒの力になりたかった。役に立って、あの人に好きになってもらいたかったのだ。そうしたらあたしは幸せになれる気がした。同じ世界を知っているから。少なくとも、ヨーデリッヒといる時は、あたしは苦しくはなかった。例えあたしが醜い魚で、それが濁った湖だとしても、彼の傍では息ができたのだ。

「馬鹿ね……」

 あたしは嗤う。

「あんたの大事な人の、大事な人を好きになんかなるくらいなら、あたしで妥協してたらよかったのに」

 そしたらきっと、あんただって、幸せではなかったかもしれないけれど、少なくともこんなことしなくてよかったわ、ヨーデリッヒ。

「エスト…………」

 あたしは、震える声でその名前を呟いた。

 それはあたしにとって、どんな言葉よりも、儚くて、壊れやすくて、いつかこの牙で噛み砕いてしまいそうで、怖くてたまらないものなのだ。でも。

 あたしは、宝物を抱えるような心地で、震える手に涙を溜めた。指の隙間から流れて、床を濡らしていく。

「エスト……」

 助けて、とさえ、声にならない。

 そんなこと、言う資格がない。

「エスト……」

 どうしようもできなくて、その名前を呼び続けた。

 あたしの陽だまり。あなたに言えばよかった。連れ出してって言えばよかった。

 おじいさんも、お店も、あなたの大事な木靴も、全部捨てて、あたしを連れ出してと。

 お願いだからと。

 偽善なんか貼りつけないで、言えばよかったのだ。それが本心だったのだから。

 あたしは、あたしを連れ出してくれるなら、誰でもいいのだと思っていた。

 でも、あたしはただ、

 幸せになりたかったのだ。




     **




【ギリヴ、もうわからないみたい。あなたのこともはっきりとは覚えていないわ。不思議ね、私は記憶が混乱なんかしなかったのに】

【ギリヴには、毒の方を先に摂取させたから……】

【あら、どうしてそんな顔をするの? そんな顔をしていいとでも、許されるだなんて、まさか馬鹿みたいなこと思ってないでしょうね。あなたに、縋るなんてそんな甘えたこと、誰も許さないわ】

【……何、怒ってるの?】

【怒るわけがないじゃない、ヨーデリッヒ。あなたが一番わかっているんだから、私ができることと言えば、あなたに釘を刺すくらいだわ】

【はは……つくづく、貴女は信用できる人だよ、ハーミオネ】


 瞼の向こうで声が反響する。

 ぼんやりと、ああ、あいつ、あたしには何にも言わないのに、あの子には話してるんだあ、と諦めにも似た気持ちがあたしを蝕んだ。

 薄く瞼を開けると、白くて長い三つ編みが揺れている。

 ああ、綺麗なおさげだな、とあたしは溜息をつく。

 ついぞ、あたしは、こんな風に綺麗に一人で髪を編むことすらできるようにならなかった。

 いらないものは持っているのに、持て余すのに、本当に欲しいものは何一つ誰にももらえなかった。

 不意に、あたしのごわついた、綺麗でもない髪を、そっと梳いてくれた指先の温もりが恋しくなる。

 ……あれは誰の手だったろう。

「ギリヴ?」

 ハーミオネ、と呼ばれていた女の子が、あたしの頬にそっと手を当てた。冷たい手。あたしはようやく、自分の体が熱を帯びていたと気づく。

「あなたのこと、よくわからないわ」

 あたしは正直に言った。ハーミオネは、水色の目を柔らかく細めてあたしを撫でてくれた。

「気にしないで。元々、会って間もないもの」

 ふわり、と笑う。

 どうして、あなたみたいに優しい女の子が、綺麗な女の子が、あたしと同じ場所にまで堕ちてきたの。

 あたしは声にならない言葉を飲み下した。

「ハー、ミオネ」

「うん?」

「あた、しの、頭、撫でて」

 あたしは擦れた声で言う。

「もちろん」

 ハーミオネは温かな笑みを浮かべて、あたしを撫でてくれる。

「違う……もっと、髪をね、梳いてほしいの」

「こう?」

 ハーミオネはあたしの髪を指で梳く。

 同じだけど、違う温もり。

「違う……違うよ……そんなんじゃ、なかった………」

 あたしは、両腕で目を覆い隠して、唇を噛みしめた。喉から、呻くような声が漏れて止まらなかった。

 もう、あの人が誰だったか、思い出せない。

 あたしは、もう、




     *




 ヨーデリッヒは、あたしとハーミオネの記憶を改竄すると言った。ハーミオネは不快そうに顔をしかめる。

「私はいいとして……ねえ、この子までそんなことしなくてもいいんじゃない? ギリヴは……ただでさえもうほとんど何も覚えてないのよ。あなたが手間取ったせいで」

 そう言って、ハーミオネはあたしの手を握る。あたしはそれを、どこか凪いだ気持ちで見つめていた。

「構わないわよ」

 あたしがそう言って笑うと、ハーミオネは戸惑うように目を見開いて、その水色が水面のようにさざめいた。

「もう、ほとんど覚えてないから。中途半端に覚えてるより、ずっと楽になれるわ」

 そう言って、ヨーデリッヒを見ると、初めて――

 初めて、ヨーデリッヒは、あたしから視線を逸らして、その顔を歪めていた。

「ふふ」

 あたしはとても静かな気持ちでそれを眺めることができた。

 ああ、あんたのその顔、見れたから。

 ちゃらにしてあげる。

 ごめんね、あたしばっかり、辛かっただなんて、

 目を背けたりして、ごめんね。もうあたしにできること、なあんにもなさそう。




     *




「最後に聞くけど、」

 あたしの頭に電極を取り付けながら、ヨーデリッヒが静かに言う。

「何?」

「何か、願い事はないの? したかったこととか、欲しかったものとか」

 そんなヨーデリッヒの声はどこかこそばゆい感じがして、あたしは笑っていた。

「急に何? びっくりするわ」

「こんなの聞いてあげるのは、お前が特別だよ。一応……苦労かけたから」

 ヨーデリッヒは静かな声で、消え入るように言う。

 あたしは笑ってしまった。苦労かけた、だなんて。そんなんじゃ言い表せないに決まってる。

「何もないよ。覚えてないもん」

「そう」

 ヨーデリッヒは小さく嘆息すると、黒いレバーを下ろした。

「じゃあ、ね。ギリヴ」

 ごめん、という声が聞こえた気がした。

 高く細い音が聞こえる。耳を澄ましていると、心地よい眠りに包まれていくのだから、なんだか笑えてしまう。

 ふと、あたしの体は小さく跳ねた。

 心臓が痛い。

「だめ……」

 あたしはいつの間にか、目を見開いて、泣いていた。

 砂色の天井が、あたしの視界を埋め尽くす。シャンデリアは橙の光を淡く照らしていた。

「だめ……」

 声が、ざらつく。

 誰だったか思い出せない。あたしを大切にしてくれた人を、あたしはもう思い出すことができない。でも、でも。

 ――嫌……。

 お別れを言っていない。

 またね、って言えばよかった。たとえもう二度と会えなくても。言えばよかったのだ。いつか会いに行くからって。会いに行きたいって。

 あなたに会いたいって。

「会いたい……よ」

 あたしは痙攣する手を砂の天井に伸ばした。

 待って。行かないで。行きたくない。行きたくないよ。

 けれど、あたしの意識はそこで途切れた。

 脳に鈍い熱を残して。

 最後に、ヨーデリッヒの、捨て置かれた子供の様な目が飛び込んで、終わった。


 何もかも、ようやく。







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