枯れる向日葵

 ぽつり、ぽつりと申し訳なさそうに雨粒が落ちて睫毛をかすめる。

 僕は汗をぬぐいながら空を仰いだ。朝焼けの空は、色んな色が混じりあってとても綺麗だ。

 今日は珍しく雨が降るらしい。恵みの雨。

 一旦家の中に入って壺を持ち、再び外へ出る。

 溜められる時に少しでも、水は溜めておかなければならない。僕はふっと息を吹きつけて壺の中の埃を払った。

「エスト?」

 不意に背中に声がかけられる。僕は振り返った。ぽたり、と壺の口の淵に僕の汗が落ちる。とても蒸し暑い。

 エリーゼは、眉を不思議な形に歪ませて僕を凝視していた。僕は首を傾げて思案する。ややあって、前髪を少しだけつまんだ。

「髪、切ったよ」

「見ればわかるわよ……」

 エリーゼは呆れたような声で言った。

「いったいどうしたの?」

「ひどいなあ。切れ、って言ったのはそっちでしょ」

「馬鹿ね。私が何度言っても頑なに切らなかったのに、急にどうしたのって、聞きたいのはそこよ」

 ふん、と言ってエリーゼはそっぽを向く。僕は頬を掻いた。

「まあ、色々」

「そう」

 聞いたわりに、追及はしてこない。エリーゼも頬に当たる雨粒を感じたのか、目を細めるようにして空を見上げた。

「肌が荒れすぎ。前髪が長すぎるからそんなことになったのよ。せいぜい、これからは肌をきれいにする努力をすることね。見てらんないから」

「肌をきれいに……って……女じゃないんだから」

 僕は苦笑する。そのまま店先の花壇の雑草を少しだけむしり取って、あらかた手入れが終わったところで腰を上げた。さあ、他にも仕事は山ほど残っている。一日は始まったばかりだ。

「そう言えば、エリーゼ」

 僕は、店先に看板を立てる横顔に、声をかけた。

「何」

 エリーゼは振り向きもせずつっけんどんに言う。

「この間は、ごめんな。ありがとう」

「は?」

 エリーゼは眉をひそめた。

「何それ。やっと今更謝るの? ずいぶん時間経ってるわよ」

「そうだね」

 僕は笑う。

「しかも、今思い出した」

「何それ、ひどい」

 エリーゼはむすっとして僕を睨む。

「結構……この間の、傷ついたんだから。あんたって結構そんなひどいこと考えてたんだ……って思って。何も知らなくて、馬鹿みたいじゃない、私」

「僕は結構酷いんだよ。知らなかった?」

「知ってますよーだ」

 エリーゼはふん、と鼻を鳴らす。

「よく考えたら、小さい時からあんたは結構ひねくれものだったわよ。大人しいからいっつも怒られないですんでたけどね」

「まあ、母さんにはよく叱られてたけどね」

 僕は苦笑すると、店の横に佇む井戸の傍へ歩いた。今日の分の水を汲む。

「なんか……浮かれてる?」

 不意に、訝しげなエリーゼの声が風に乗って、耳を撫ぜた。

 どきりとする。ほとんど反射的に振り返った。

「え、なんで」

「なんとなく……」

「そんなことないけど」

 僕はそう言って、汲んだばかりの水で顔を洗った。切ったばかりの髪の切っ先が棘のようにかたまって、ぼたぼたと雫を落とす。

「なんでもいいけど……怪我とかしないようにしなさいよ。浮かれてる時って失敗しやすいから」

 エリーゼはやがてそう言って、店の中に戻った。

 僕は、水面に映る自分の顔をじっと見つめながら、しばらく動けないでいた。

 ――煩いな。

 わけもわからない苛立ちが、心を波立たせていった。



     **



 髪を切った自分を見て、ギリヴがなんというのか楽しみだなんて、そんな下心がなかったと言えば嘘だ。

 実際、僕は心のどこかでギリヴが来るのをそわそわと待っていたのである。とはいえ、ギリヴはそれからなかなか来なかった。結果的に待たされた分、僕は少しだけ冷静になれた。

 恋人でもないのに、髪を切ったからって何が変わるわけでもないのだ。

 そもそも、髪を切ったくらいで僕が美男子になれるわけでもなし。

 そういう関係にはならないと、そういう目で見ないと決めたのだから。

 髪を切ってからというもの、僕は、とても穏やかな気持ちで毎日を過ごせていた。

 じいちゃんへの遠慮も少しずつほぐれていった。僕は一つ一つ、できるだけじいちゃんの無理にならないように、木型の作り方を教わった。いつか自分の作る靴が、店に並ぶ時を想像すると、とても楽しかった。

 やがて久しぶりに来たギリヴは、どこかやつれたような顔をしていた。それを見て僕は、顔を歪めそうになったけれど、堪えた。無理をしたのかな。無理をさせられていたのかな。そう思いかけて、振り払った。僕が詮索することじゃない。そういう目で見てはいけない。見たくない――

「うそ! 髪切ってる!」

 ギリヴは僕の顔を見て、すぐにぱっと顔を輝かせた。まるで面白いものを見たかのように。好奇心を瞬かせるように。

「う、うん……。実はちょっと前から切ってて、これでも少し伸びたんだ」

「なんだあ。似合うじゃない」

 ギリヴはふわりと笑った。

「ぐ――」

――と言う、くぐもった声が僕の口から微かに漏れた。可愛いと思ってしまうのくらいは許してほしい。

「なんだあ、じゃあ上手な三つ編みのやり方教われないなあ。ちょっとだけ残念」

「はは……」

 僕は苦笑した。今日もぼさぼさに編まれた赤紫の房を手に取る。

「別に僕の髪が短くても教えてあげられるよ?」

 ギリヴは不思議そうに僕を見つめて、笑った。

「そうね」



     *



 ギリヴの顔色は、その後もなんだかすぐれなかった。よく見れば、目の下に隈もできている。ひどい顔だ。

「ギリヴにしては珍しいね」

 僕は頬杖をついたまま、目元を指でとんとんと叩いてみせる。ギリヴは少しだけぼうっとして僕を見つめて、やがてはっとしたように自分の目元を覆った。

「や、やっぱりひどい……?」

「うん、黒い」

「ひどい! そういうのって気づいてても言わないものよ!」

「生憎僕はそんなに優しくないから」

 僕が笑うとギリヴはむくれる。そうして少しだけ僕を睨みつけた後、深く嘆息した。

 僕は声を出す代わりに、首を傾げてギリヴを見つめる。

「あたしの……友達が、」

 友達って、女だろうか、男だろうか、とふと考えている自分に気が付いて、僕は頭を振った。

「うん」

「なんだか、その……だめなことしてる気がして」

「だめなこと?」

 ギリヴは説明に困っているかのように、しばらくきゅっと口を引き結んで黙りこみ、再びゆるゆると口を開いた。

「わからない……けど、なんだか、自分を痛めつけてる気がするの」

 僕は黙ってギリヴを見つめていた。泣きそうな顔をしている。その人は、ギリヴにとってとても大事な人なんだろうと思った。彼女をここまでかき乱すくらいの。

「いいよ」

 僕はギリヴにそう静かに言った。話していいよ。

 それくらいじゃ、君から逃げたりしないから、という気持ちを込めた。

 ギリヴは戸惑うように視線を彷徨わせて、やがてぽつりぽつりと、降り始めの雨のように言葉を吐き出したのである。

「友達、というか……お店で一緒に働いていた人なの。あたしと同じ境遇で…ううん、もっと酷いかもしれない。あたしは男にいじられただけ。でもあの人は、男にも女にも、誰にでもいじられた。でも、それを辛いとさえ思ってなかった。いつも死んでるみたいに冷たいの。生きてないみたいに生きてる」

 ギリヴは俯く。

「でも、ようやくあの人を【買ってくれる】人が現れた。あたし達は皆、相応のお金で誰かが買い取ってくれない限り、あそこから出られない。あたしは最初、ちょっとだけ心配だった。良心的な人もいるけど、身体が目的で買い取る人もいる。一生籠の中に閉じ込められるように。そうなったら、もっと自由はない。

 でも、あの人を買ったのは、そういう人じゃなかった。あの人は、ニヒルだけど、なんだか楽しそうに笑うようになったの。ひねくれものだから正直には言わないけど、でも……多分、買ってくれた人が、あの人にとっても大切な人になったんだと思う」

 ギリヴは膝の上できゅっと手を握りしめる。

「でも、今度はあいつ、その人のために何かしようとしてる。あたし、自分だって同じだからわかるんだ。あたし達はね、多かれ少なかれ何かに飢えてるの。あいつにとってはきっと、対等でいてくれる、友達……が、それだった。そしてあの人を買った人は、あいつにとってそう言う人だった。あいつは……その人のために何かやろうとしてる」

「何かって?」

 僕が静かに尋ねると、ギリヴは荒んだような眼差しをあげた。

「わかってたら……っ、こんなに悩んでない。でも……多分あの人、人を――」

 ギリヴは言葉を切った。ひゅうひゅうというどこかざらつく音が、ギリヴの喉から漏れ聞こえる。

「昨日、あたしを抱きに来た。誰か違う男の人の匂いと……血の匂いがした」

 ギリヴの声は震えている。かたかたと、肩が小刻みに震える。

 僕は、それに手を伸ばすことはできなかった。

「男の人なんだ」

 僕は、靄のかかる頭で、そんな頓珍漢なことしか言えなかった。ギリヴがはっとして顔をあげる。

「――ごめん……!」

「なんで謝るの。そんなのはいいんだよ。それより……」

 僕はのろのろと考える。

「ギリヴは、どうしたいの?」

「わから、ない……」

 ギリヴの声は泣きそうだった。

「あいつが、何を考えて……何のために、動いているのかわからない……多分自分でもわかってない。あたし、怖いんだ。どうしたらいいのかわからない。どうしてあげたらいいのかもわからない。あたし……」

 ギリヴは唇を噛みしめて何かを堪えるように震える。

「あたし、なんとなくわかるんだよ。まだあたしにはそこまで……気が狂ってしまうほど誰かに執着したことがないから、ああはなれない。でも、でも……わかるんだ……あいつがあんな風になってしまうのはなんだかわかるんだ」

 ぽた、ぽた、と雫がその大きな目から零れて、ギリヴの服を濡らしていく。

「それなのに……何もしてあげることができない……怖い……」

 僕は、ギリヴが泣くのをただ静かに眺めていた。

 少しだけ、嫉妬していた。少なくとも彼女を泣かせるくらいには、彼女にとって意味のある存在であろうその人に、羨ましさを感じて持て余した。きっとこの子は、僕のことでも何かあれば泣いてくれるけど。そういう子なのだから。

 自分のことは嫌いだと言う癖に、自分の好きな人のためには泣いてしまうのだ。どれだけ堪えようとしても。泣くまいと我慢しても。

「力になってあげたいんだろ?」

 僕はギリヴの顎に手をかけて、上を向かせた。

「答えは出てるじゃない。そいつの力になりたいんでしょ? だからそんなに泣くんじゃない?」

 ギリヴはくしゃくしゃに顔を歪めた。

 もう、声にならなかった。

 ギリヴはひゅうひゅうと音を立てる喉で、震える唇を動かした。

 『ごめ、んね。』

 僕は一瞬、目を伏せた。胸に響いた棘のような痛みに、顔をしかめてしまいそうだった。どうして僕が謝られるのかわからない。気づきたくない。それでもどうにか笑顔を浮かべて、僕はギリヴの頬に手をかけ、涙を拭った。

「力になれる、のかな」

 ギリヴは、どこか視点の定まらない目で呟いた。僕は眉をひそめる。

「どうしたの?」

「ううん」

 ギリヴは力なく笑う。

「もう、あたしは――」

 それ以上は、何も言ってはくれなかった。ギリヴは僕の両手を握って、ずっと耐えるように俯いていた。



     **



 ギリヴがそいつを連れて来たのは、翌日の、日差しの強い日の下だった。

「この人……昨日話した人だよ。ヨーデリッヒ、この人はエスト」

 ヨーデリッヒは、葡萄色の目でじっと僕を見つめていた。その瞳の奥は深い闇で、僕は眉を少しだけひそめた。

 ――まるで一人だけ、違う世界にいるみたいだ。

 僕は、がんがんと痛み出した頭を振り、震える手首を抑えて、ヨーデリッヒに笑いかけた。

「こんにちは。エスト・ユーフェミル・フェンフです」

 張り合っちゃいけない。僕は敵わない。最初から、同じ土俵にすら立てていない。

 僕は気づけなかった。

 ギリヴが一瞬だけ、ヨーデリッヒと同じ闇を瞳に忍ばせた。僕はそれを確かに見たのに、その理由を考える余裕なんてなかった。

 ただ、嫉妬していた。

 好きにならないなんて嘘だ。

 僕は怖かったのだ。

 笑っていれば、嫌われないような気がしていた。僕はただひたすら、今となってはもうただ、ギリヴに嫌われたくないと、それだけだった。

 たわいのない話をして、いつものようにギリヴが向日葵のように笑って――明るい日差しの下、はっきりと見えるはずのものも見えていないふりをして、僕はヨーデリッヒにもをした。

 枯れかけの、向日葵が風に揺れている。砂をまき散らかして、風は空に帰ろうと足掻いている。

 ヨーデリッヒは、別れ際にふわりと笑った。穏やかに。そして、寂しげに。

「じゃあ」

 ヨーデリッヒはそう、一言言葉を零した。

「会えてよかった」

 それだけ言って、砂の向こう側へ行ってしまった。ギリヴが一度だけ振り返って、大きく手を振った。

 泣きそうな顔で。

 まさか、もう会えないなんて、そんなことあるはずないよね。

 今日だけは、「またね」と言ってはくれなかった。

 それなのに、僕はすべてを忘れた。

 今日なんて日はなかったことにした。

 きっと来てくれる。

 明日でも、明後日でも、半年後でも、一年後でも、何年後だっていいから。

 きっと、終わったら。

 僕は全てから耳を、目を塞いだ。砂の音からも、太陽の光からも。

 僕はただにこにこと笑いながら日々を過ごした。じいちゃんにいつも通り食事を用意し、木を削り、革を貼り、糸を繕い、エリーゼの小言にも時々言いかえし、壺にたまった水を濾し、

 眩む視界の中で、ただ笑っていた。

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