黄昏に咲く(二)

 ギリヴが靴を注文してから、半年近くが過ぎた。

 彼女は、まだ店には来てくれなかった。けれど僕は街の片隅で、彼女を数回見かけていた。あの鮮やかな色の髪の毛を一度覚えてしまえば、見間違えるはずはなかった。彼女は殆どがフードを被って顔を隠していたけれど。そのわずかに見える赤紫だけで彼女を目で追ってしまうだなんて、僕はどうも、相当に気持ちが悪い人間だったらしい。

 彼女は常に知らない男と一緒にいた。時には甘えるように腕に寄り添い、時には控えめにその後をついていく。僕は無性に苛ついていた。けれどそんなの、彼女には本来関係なんかないことのはずなのだ。僕は何を勘違いしているというのだろう。彼女はただ、僕のじいちゃんの店で、靴を一つ注文したいと言って来た一人のお客様だった。ただ年が近いと言うだけ。僕が気恥ずかしいことにも、あのできそこないの木型を見られてしまったというだけだ。彼女に何の悪気はないだろう。僕はただ、じいちゃんにでさえ隠してきた自分のみっともない足掻きの跡を彼女に見つかってしまったことで、僕の心の一番柔らかい部分を彼女に見つけてもらったような勘違いに浸っているだけなのだ。あの笑顔が、僕に向けられる特別なものだったらいいのにとどこかで考えていなかったと言えば嘘になるくらいに。

 二度目に会ったあの日。彼女が店に来て、この間はごめんなさいと頭を深く下げた。本当はこの店の靴が――じいちゃんの作った靴が、好きだと言ってくれた。この店が、僕の大事なじいちゃんの店が褒めてもらえたようで嬉しかったのだ。つくづく僕は単純な人間だ。そして本当にどうしようもない人間である。次はいつ会えるかと、ただの客に心を跳ねさせ、彼女が「必ずまた来る」と言った、その言葉だけを羽折れの虫を手の平に閉じ込めるみたいにそっと守り続ける。

 彼女の来訪を、ずっとずっと執着するように待っていた。時間が経てば経つほど、彼女が僕に会いに来てくれることに焦がれていった。なんて馬鹿なんだろう。彼女は僕に会いに来るわけじゃない。そんなことはわかっているはずなのに。

 あんな男どもと会うなら、店にちょっと顔を出してくれたっていいじゃないかと、不相応な苛立ちさえ抱えた。あの男たちが君を見る目は、僕にだってわかる。君をそういう対象としか見ていないじゃないかって。でも、わかるということは、僕だって似たようなものなのだ。

 焦がれることと、欲しいと思うこと、独り占めしたくなること。

 けれど、四か月が経つ頃には、僕の心も幾分か凪ぎ始めた。彼女があの日、誰もいない時間帯に一人でそっと店に入ってきたことを思い返す。

 きっと何か理由があるのだ。すぐには来れない理由が。簡単に来られない理由が。

 あの子が約束を破るとは思えなかった。僕が今感じているどうしようもない焦燥感や苛立ちは、僕なんかが抱えてはいけない分不相応でみっともない欲なのだし。

 信じて待とうと決意した。じいちゃんがいつも言っているじゃないか。お客様を信じることから始まるんだって。

 自分を信じなければいけないんだって。

 あの子の靴を作りたいと願っている僕を、信じられなくてどうするというんだ。

 そう、自分の中で心に折り合いをつけて、店先を箒で掃く。あらかたごみをまとめたところで、次第に影っていく空を見つめていたら、隣の店――手袋屋から、娘が出てきた。彼女は店の看板を下げようとして、突っ立っていた僕に気が付き、ぎょっとしたように肩を跳ねさせる。僕はいたたまれなくなって顔を隠すように背筋を曲げ、慌てて店の中へ戻ろうとしたー―ところで声をかけられた。

「いったいいつまでそのぼさぼさ頭を晒しておく気?」

 不快そうな声だ。僕は思わず振り返った。

「何、を」

「だから、その頭よ! いっつもどこかに引っ掛けてぶちぶち千切れてるじゃないの。あんたがいつも目をしぱしぱさせてるのも理由分かってんの? あんたのその長すぎる前髪に砂が引っかかってて目に入ってんの。いい加減に切ったらどう? そしてその根暗な顔をさっさと晒しなさいよ。見てて苛々するのよ!」

 僕は何を言われたのかよくわからなくて、箒とちり取りを抱えたまま、しばらくぼうっと突っ立ってしまっていた。

「え、エリーゼ。つまり君は、髪を切れって言ってるの?」

「そう! 苛々するのよ。あんた男でしょ? 男ならもっとしゃきっとしなさいよ! なんでそんないつまでも女々しい格好でいるのよ。大体ね……そんなんだからあんたのおじいさまが、いつまで経ってもあんたにお店を任せきらないでいるのよ。少しは安心させてあげなさいよ。その店の大黒柱にならなきゃいけないんでしょ。じゃあもっと男らしくしゃきっとしてよ。私も張り合いがないじゃないの。隣の店を切り盛りしてるのが女々しいあんただとか」

「か、髪を切ったくらいじゃ何も変わらないよ……」

「はあ? じゃあ、髪を切らないこだわりに理由でもあるの? 言ってみなさいよ!」

「う、うるさいな……」

 僕は勝気そうなエリーゼの翠の目を前髪の隙間からそっと見た。エリーゼ・ディル・フォルダ。隣の手袋屋の一人娘だ。小さい頃は話すこともあったけれど、最近は会っても嫌な目でじろりと見られるのがおちだったのに。珍しいこともあるものだ。彼女なりに、何か思うところがあったのだろうか。

 僕よりもずっと鮮やかで綺麗な金色の髪。少し前は腰くらいまでの長さだった。けれど、彼女も先月母親が倒れてから、僕と同じように店をほとんど任されている状態にある。それからだった。彼女が肩にかからない長さに短く髪を切ったのも、それまでは男との恋人ごっこにうつつを抜かしていたのをきっぱりとやめたのも。

 その潔さは、僕にはなくて、なんだか僕には眩しすぎた。

 僕は彼女を尊敬していた。僕はあんなふうにはなれない、と憧れてさえいた。

 ……なのに、僕の口から出たのは別の言葉だった。

「……急にやる気出して、今度は僕に説教? 今まで……遊び歩いていたくせに、よく言うよ。僕は君とは違うよ。華やかでもないし、君のように潔く生きることもできない。だらだらと家に籠って、惰性でこの店に留まって、じいちゃんの役にも立てなくて、それでもこの店にいるだけだ。変わるなんて……僕には荷が重いよ。僕は今は、自分のことなんかよりもこの店をせめて守ることと、じいちゃんの明日のことを考えるだけで精いっぱいだよ。髪を切ったからって何が変わるわけじゃないよ」

 そこまで吐き捨てて、顔をあげれば、エリーゼは少しだけ傷ついたような目をしていた。僕は逃げるように目を逸らす。

「なんで……そんなこと言うのよ」

 エリーゼの声が震えて届く。

「なんで……なんで、あんたの生き方をそんな言葉でしか否定できないの? 私はそれが悪いだなんて言ってないわよ。……私が今まで母さんに甘えて生きていたことは認めるわ。どんなに後悔しても後悔しきれないのよ。でもね、あんただってそれは一緒でしょ。私達はもう、誰にも甘えられないんだよ。自分だけでどうにか生きていかなきゃなんだよ? 早く……私の母さんも、あんたんとこのおじいさまも、安心させてあげなきゃいけないんだよ。髪を切る切らないなんてこの際どうでもいいんだよ。私がもどかしいのは、あんたがいつまでも変わろうとしてないことなんだよ。どうして……私達、同じようなものじゃない。ねえ、がんばろうよ。一緒に頑張ってよ……!」

「何を……」

 僕は暗い声で呟く。

 僕が視線をエリーゼに戻すと、エリーゼはびくり、としたように肩を震わせた。

 僕は今、どんな顔でいるんだろう。

 どんな酷い顔をしているだろう。

「……今まで僕を虫けらを見るみたいにしていたくせに、今更なんなの? 急に僕に仲間意識でも芽生えたの? それとも……君をちやほやしてた男共が、君が店を継ぐと決めた途端離れていって寂しいの? 余所をあたってよ」

「な……」

 ああ、こんなこと言うつもりじゃなかったのに。エリーゼは何も悪くないのに。

 エリーゼがきっ、と僕を睨みつける。目元が赤く色づいていた。僕はけれど、それ以上にどろどろとした想いでエリーゼを見ていた。

「な、に、勘違いしてんの? 私はそんな意味で言ってんじゃないのよ! 人の話もちゃんと理解できないの? 私は幼馴染としてあんたのこと心配してんの!」

「それこそやめてよ。あのさ、本当にやめてよ。今更だよ。僕の両親が亡くなった時だって君は遊び歩いてた。幸せだったじゃない。僕はあれからずっと、店で、どうにかして父さんがいなくなった分を埋めようとして、じいちゃんの助けになりたくて、少しでもなりたくて生きてたんだ。君よりはわかってるつもりだよ。でも君だって別に悲観することもないだろ。君は気づいたんだし、今からがんばって君のお店を守っていけばいいじゃない。でも僕には関係ないよ。君も関係ない。君は僕にないものをたくさん持っているだろ。君はそこにいればいいよ。今更僕に関わろうとしないで、お願いだから」

 僕は吐き捨てるだけ吐き捨てて、彼女に背を向けた。中に入る瞬間、そっとエリーゼの方を見れば、彼女、耐えるように唇を噛みしめて俯いていた。それでも堪えきれなかった涙が零れ落ちている。僕はそっと扉を閉めた。鈴がちりん、と鳴る。

 椅子にどさっと座りこんで、僕は目元を覆った。

 あんなことを言うつもりじゃなかった。最低だ。肉親を失うかもしれない悲しみも、突然降りかかってきた責任の重さに感じる息苦しさも、何もできない自分への失望も、もどかしさも、全部僕こそよく知っていたじゃないか。

 エリーゼは、あんな細い腕で、女の子なのに、それに耐えようとしている。それなのに僕は自分のことばかりだ。嫉妬や苛立ちや、図星をつかれた焦りで、自分を守ろうとしてばかり。情けなくて、笑える。

 ああ、と漏れた声に、玄関でからん、と鳴った鈴の音が重なった。

 僕は重たい身体を動かして、音の鳴った方を見つめた。

 橙に伸びる光の向こうから、ひょこりと赤紫の髪が跳ねて覗く。

「こんにちは!」

 ギリヴだ。

 鮮やかな色の、ぴんぴんと跳ねた髪の毛。

 不器用に編まれた三つ編み。

 栗鼠りすの目のように愛らしい輝きで、こちらを覗き込む赤紫の綺麗な瞳。

 明るく、夕方でも咲き誇る向日葵のように笑う。

「……いらっしゃいませ」

 僕は泣き疲れた心地で、弱々しく笑っていた。やっと、

 ……会いたかった。

 あなたに、とても、会いたかった。



     **



 それからの日々は慌ただしく、そして、どこか幸せな時間だった。

 当たり前のことだけれど、ギリヴとの関係は、お客様と靴職人という以上のものになるわけでもなかった。それでも、決まって黄昏時にギリヴが来てくれることを、僕は心待ちにしていた。

 ギリヴは僕が靴を作る作業を、目を皿のように丸くしてじいっと見つめていた。僕はそれがなんだかこそばゆくて、ギリヴの靴をゆっくりと作り続けた。あまりに時間がかかるので、じいちゃんが「いつまでかかっているんだ?」とギリヴの靴を不思議そうに手に取って眺めることもあったが、それ以上は何も聞かないでいてくれた。

 ギリヴは初め、僕が作っていたあの木型で作ってほしいと言ったのだけれど、僕は曖昧に笑って断った。「あれで作ったら、怪我してしまうよ」と言うと、どこか不満そうに頬を膨らませただけで、ギリヴはそれ以上は追及しないでくれた。

 やがて時は経ち、僕はギリヴの靴を作り終えてしまったのだけれど。ギリヴはそれからも店に来るようになった。まるで当たり前の日常のように、だ。僕が作る他の靴を眺めたり、なぜか床を拭き掃除してくれたり。埃がたまっていると怒ったり。

 僕はもう何も聞かなかった。彼女がどうしていつも違う男といるのかとか、どうして閉店間際にばかりくるのかとか、どうして誰も他にいない日にだけ来てくれるのかとか、どうして、

 どうして、ずっとここにいてくれるのかとか。

 そういうのは、もう聞けなかった。

 彼女が教えたくないなら、詮索することはできない。僕にはそんな権利はない。

 ギリヴは店に来るようになってから、僕の作業に酷く興味を示して、自分も革を縫ってみたいと言い出した。けれど初めてやるには危ないからと、僕は母さんから習った布刺繍のやり方を教えていた。ギリヴは思った以上に不器用だった。糸をすぐぶちっと千切ってしまうし、しょっちゅう指を針で刺した。縫い目もガタガタで、すぐに縫い方を忘れた。それでも一生懸命に手元と睨めっこする彼女が、なんだかかわいかった。二人でいるときは、僕が靴を作り、ギリヴが裁縫をする。何も話さない静かな時間だけれど、僕にはそれがなんだかとても居心地がよかった。じいちゃんも、なぜかギリヴがいる時だけは呼ばない限り作業場に入ってこなかった。なんだかすべてお見通しなようで、少しだけ気恥ずかしかった。

 そんな優しい時間のことだ。

「あっ、やだ、ほどけちゃった」

 ふいにギリヴが小さく叫んだので、僕は手元から顔をあげて首を傾げた。

「どうしたの?」

「え? あ、いや、髪がほどけちゃって」

 ギリヴは左のほどけたおさげを見せて困ったように笑う。

「これ編むのすごく時間かかったんだけどなあ。仕方ない。普通に縛るか」

 そう言って、ギリヴは反対側もほどいてしまう。

 ぴんぴん、と跳ねた髪の毛が、ほどくと思いの外長くて、僕はどきりとした。

「そう言えば……いつも髪の毛編んでるね」

「うん」

 ギリヴははにかむように笑った。

「かわいいでしょ?」

 その言葉にまたどきりとしながら、僕はごまかすように作業に戻るふりをした。

「そう言えば……いつもここに来る時は編んでくるよね。普段は下ろしているのに」

 僕はぽつりと呟いた。ギリヴのことだから、髪を編むのも苦手だろうと思う。それなのに一生懸命編んでいる姿を想像したら、なんだか可笑しくて口元に笑みが浮かんだ。

「貸して。やってあげる。いつもぼさぼさだから」

「ひどい」

 ギリヴは少し拗ねたように言う。

「髪の毛編めるの?」

「まあ、母さんのを昔編んであげていたし」

「ふうん。自分のをやっているのかと思ってた」

「はは……さすがにそこまでは……」

 僕はするするとギリヴの髪を指で梳く。滑らかなのに太い髪の毛。鳥の巣があちこちにできている。絡まりやすいから、余計に下手すれば千切れやすいんだろうな、と思いながら、僕は彼女の不揃いな髪の毛を編んでいく。

「あの……」

 ギリヴがふと、呟いた。

「どうして、私が普段髪を下ろしていること、知っているの?」

 一瞬、言われた意味が解らなかった。

 ややあって、首がぼっと音を立てそうに赤くなる。

 冷や汗が滲んだ。

「あ、えっと……」

 けれど、うまい言い訳なんて思いつくはずもなかった。最近少し忘れかけていたけれど、そもそも僕は同世代の誰かとまともに会話をしたことなんてなかったのだ。

 なんて言いようもなくて、僕は唇をぎり、と噛みながらギリヴの髪を二つに編む。

 そうして手を放して、僕がようやく口に出せた言葉と言えば――、

「ごめん」

――だなんて、何の変哲もない言葉だけだった。

 ギリヴは髪の毛を撫でながら、しばらく黙っていた。

「……あたしが仕事してたの、見られてたんだ。気を付けてたつもりだったんだけどなあ。これだから嫌なのよね、店の外にまで連れ出そうとする客なんて。お金が入るから嫌とも言えないし」

 冷めたような声で、ギリヴが呟く。僕は身動きもできず、呼吸も止まってしまった心地でギリヴのつむじを見つめていた。

「ひとつ、聞いてもいい?」

 かけられたギリヴの声には、抑揚がなかった。

「どうして、エストはあたしのこと受け入れてくれてるの? 友達と思ってくれてるから? それとも……もっと違う理由?」

 そう言って、振り返る。

 マゼンタの瞳に僕が映っていた。そんな、虚ろな目で見られたら、僕はどうすればいい。

 心臓を握りつぶされているようなんだ。

「き、君こそ、」

 僕は熱でくらくらする頭で、のろのろと呟いていた。

「どうして、いつもここに来てくれるの? 大体、さ。警戒心無さすぎだよ。僕だって、男なんだよ。いくら君にその気はなくたって、いつも来てくれて、こんな……大して女の子と話もしたことの無いようなやつが、勘違いしたって、責めないでよ。こういうの初めてだからわからないんだよ。それに、その……君はかわいいし……ちょっとだけ夢見たっていいじゃないか……だとしても、でも、別にそれ以上どうこうなろうとか思ってもないよ。君はかわいいし……」

 ――僕なんかよりもずっと似合う人はいるだろうし……。

 かわいいと二回も口に出してしまった。僕はただ焦るばかりで俯いたままだらだらと汗をかいていた。違うんだ。僕が伝えたいのはそういう事じゃなくて……。

「で、でも、とにかく、僕はその、君にその気がないのは分かってるから……その、こうしてたまに来てくれるだけで嬉しいから……ほら、僕って友達もいないだろ?」

 言っていて、段々痛々しい気がしてきた。何を言っているんだろう。僕は。どんどん自分で墓穴を掘っている気がする。

「何言ってるのかよくわかんない」

 ギリヴはけろりとした顔で言った。相変わらずずけずけ――いや、正直だ。

「あたしね、体を売ってるんだ」

 何でもないように、そう言う。

 薄々感じていたことだったのに、僕は体が軋むように音を立てるのを感じていた。

「でも、あなたはそういう世界とは関わりがないと思ったの。だから、あえて知られたくもなかった。そういうの知らないままでいいと思ったの。あたしは……自分の持ってる全てでお金を稼いでいる。持って生まれたもので。この派手な髪も、顔も、身体も、別にあたしの努力で勝ち取ったものじゃないわ。でもあなたは違う。あなたの指は傷だらけで、全然綺麗な手じゃないけど、でもその手で作る靴は、生きてると思った。派手でもないし、煌びやかでもないけど、でも素敵だと思った。あたしは、自分と違う生き方をしてる人をもっと知りたいと思ったの。あたしはあなたになれないけど、あなたの在り方を見たいと思った。だからあたしはここに来るのが楽しかった」

 ギリヴは僕の手をとって、少しだけ撫でた。だから、そういうのが勘違いさせるって言っているのに。

 僕はギリヴから目を逸らした。こういう仕草一つとっても、身に染みてしまっているのだ。この子は。

 僕には、この子がどんな生き方をしてきたのか、何も想像ができないけれど。

「言わないつもりだったのに……」

 僕は小さく呟いた。

「君を見たことは言わないつもりだったんだ。だって、気持ち悪いだろ? いちいち気にしてるなんて」

 ギリヴは首を傾げる。

「そう? でも、知り合いだと目に入ってしまうなんてことはよくあることでしょ?」

「うん、まあ、そうなんだけど……」

 ――でも、それだけじゃないんだ。

 僕は唇を噛んで、離して。すう、と息を吸った。

「大丈夫だよ、ギリヴ。僕は絶対そういう目で君を見ないようにするから。だからこれからもう来ないなんてやめてよ? そんなことされたら、僕、うっかり不用意に君に言ってしまったことを後悔して、ずっとひきずっちゃうじゃない」

「そうね、あなたの性格ならさもありなんだわ」

 ギリヴは少しだけ悲しそうに笑う。

 僕も笑った。ギリヴがそんな顔で笑うのを、見ていたくなかった。

 かき消すように。冗談でごまかすように。

「あ、でもねギリヴ。僕は、僕やじいちゃんの靴をいつも楽しそうに褒めてくれるあなたは、好きだよ」

「まるでそれ以外はそうでもないと言いたげね」

「さあ?」

 僕がそう言うと、ギリヴはようやく、穏やかに笑った。そうして、鏡に映った自分の三つ編みを見て、嬉しそうにくるりと笑った。スカートが花が風に舞うように広がって揺れる。

 ――可愛いなあ。

 僕は、苦い気持ちでそれを見つめていた。

 好きにならないと告げた。だから、これ以上は。

 自分の気持ちに蓋をしなくちゃならない。

 棺にくぎを打つように。

 いつかあなたに花を手向けられるように。



     *



「まだ起きていたのか」

 じいちゃんが、作業場の扉を閉める。

「お前は風邪をひきやすいんだから、そんな薄着でいるなといつも言っているだろう」

 そう言って、僕にブランケットをかけてくれる。

「じいちゃんだって人のこと言えないだろ。寝てなきゃだめだろ」

 僕が苦笑すると、じいちゃんはにやり、と笑って金槌を手に取った。

「手が寂しくてかなわん」

「そっか」

 僕は笑って、作りかけの靴をじいちゃんに渡した。

 静かな夜の闇に、虫の声がちりちりと透き通る。

 僕はふと、糸を切る鋏をじっと見つめた。

「どうした?」

 ふいに立ち上がった僕に、じいちゃんは手元に目を向けたまま静かな声をかけた。

「髪、切ってくる」

「そうか」

 じいちゃんはそれ以上僕を引き留めなかった。

 僕はそのまま水場へと歩いた。

 じゃきり、じゃきり、と音を立てて、髪の毛が床に散らばっていく。

【あたしね、体を売ってるんだ】

 ギリヴのことは好きだ。好きにならないなんて嘘だ。だけど僕は、彼女を買う男たちと同じでいたくない。

 約束しているわけじゃない。それなのに、あの日からずっと、暇を見てはこの店に来てくれる。じいちゃんと父さんが大事にしてきたこの空気を、好きだと言ってくれる。他に何が必要だなんて言えるだろう。充分じゃないか。僕ができるとすれば、あの子が嫌いにならないように、この店を守ることだ。じいちゃんのためでも、父さんや母さんのためでも、あの子のためでもなく、僕のために。

 僕はやっと、生きる意味を見つけられた。

 最後の房が床に零れ落ちる。

 もう、砂で隠した目で世界を見るのはやめよう。

 誰に何を想われてもいい。他の誰に好かれなくても構わない。ギリヴにでさえ、愛してもらえなくても構わない。

 この世界で、僕は生きていくんだ。じいちゃんのように。

 たとえじいちゃんの寿命を削ったとしても。それでも、じいちゃんや父さんの生きた証を、僕が受け継いで行けるように。

 鏡を見つめる。短くなった砂色の髪。前髪も短くなって、顔がすうすうとどこか寒くて慣れない。

 そばかすだらけの荒れた肌。いつも砂や埃のまとわりついている長いばかりの睫毛。血色の悪い唇。

 僕はこんなにみすぼらしいけれど。でも母さんが生んでくれた身体だ。

 僕は作業場に足を踏み入れた。蝋燭の灯りがじいちゃんの顔を淡く橙に照らす。

「じいちゃん」

 じいちゃんは顔をあげる。そうしてにやっと笑った。

「ど、どうかな?」

「ふん、幼くなったな」

 口悪く、けれど温かな眼差しで目を細めて、じいちゃんは言った。

「じいちゃん。木型。教えてくれ。僕は作れるようになりたい。じいちゃんがいなくなっても、作っていけるように」

「馬鹿もの。俺はまだ死なんぞ」

 じいちゃんは笑った。そして、立ち上がり、小さな丸太を一つ手に取る。

「泣き言を言うなよ?」

「うん」

 僕は、こんなにも嬉しいと思ったことは今までなかった。

 籠の中からようやく自由になれた心地で、僕は木に触れる。

 木の匂いに、僕は笑っていた。

 幸せだなあと、泣いていた。








     ***




【そいつのこと好きなの?】

【違うわ。あっちが……あたしに気があるのよ】

【難儀だなあ】

【そうよ】



 ヨーデリッヒの体温は、いつだって死んでいるように冷たかった。

 あたしはその身体にしがみつきながら、ふと、掌を擦れた視界で眺める。

 あの人の手も、冷たかった。

 細い身体で、あたしなんかよりもずっと恵まれていなければおかしいのに。

 食べるのも面倒だという。

 そう言って、ひたすら靴を作り続ける。

 あたしはあの人が羨ましい。

 自分の手で他の物を作るあなたが羨ましい。

 あなたはあたしを向日葵の様だと言って笑うけれど。

 もしあたしが向日葵なら、きっとあなたの世界は夕焼けだ。

 あたしはいつだってきっと、あなたの居る世界に焦がれるだろう。

 橙に色づく木の家を、羨ましいなあと言って泣くだろう。

 こんな、乱れた臭いの充満した、蒸し暑い世界で、あたしは生きていくのだ。

 あたしはあなたの世界にいられない。

 こんなにも、寂しさを埋めるように誰かに抱かれて鳴くあたしを、

 抱きしめてだなんて言えない。

 あたしは裁縫も料理も何もできない。

 あたしは女なのに。

 こうやって、何もできない。ただ生きているだけ。通り過ぎるのを待っているだけだ。何も作りだせないのだ。

 辛い。

 あなたといるのが、とても辛い。

 あたしはヨーデリッヒの胸に顔をうずめて泣いていた。

 ヨーデリッヒは何も聞かない。興味がないのだ。そういう人なのだ。

 ああ、ヨーデリッヒ。あんたがあたしをここから連れ出してくれたらいいのに。

 世界で一番の金持ちに買われたんだから。それくらいしてくれたっていいのに。

 あたしはもう、抱かれるのが辛い。








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