黄昏に咲く(一)

 サリ、サリ、と音が響く。

 僕は黙々と木の塊を削る。まだ、木型から靴を作ったことはなかった。靴作りににおいて、木型作りはとても大事な工程だ。履く人の足の魂を木の中に映し出す作業。これがなければ靴は始まらない。

 僕はこの木型を、じいちゃんが作ったものから見よう見まねでしか作ることが出来ない。木型からの型取り、革を裁ち、漉き、釣り込み、底を作り……木型以外の作業なら、もう、じいちゃんの助けを借りなくとも出来るのだけれど。靴そのものを作ることだってできるのに。

 靴職人であれば、その修業は本来、木型を作ることから始めるのだ。何年も何十年もかけて、始めの工程から一つ一つ身にしみ込ませていく。本底を縫い、コテをかけて、靴を艶めかすように磨く――そこまでの一連ができるようになって初めて、靴職人として地に立つことを許される。勿論、そこで終わりではない。何もない土地に一人放り出されても、生きていけるとは限らないのだ。そこから一歩一歩踏みしめて歩き続けなけらばならない。地味かもしれないけれど、靴職人はとても【生】の詰まった天職なのだ。

 けれど僕の靴職人――見習いとしての始まりは、そこにある木型を使って革を裁つところからだった。理由はいくつもある。一つには、僕の父がー―正しくは両親が、流行病で早くに死んでしまったこと。そして、じいちゃんが、病に冒され無理が出来なくなったこと。職人がいなければ靴屋は成り立たない。こんな時代だからこそ、人々は靴を必要としていた。残されたわずかな大地は砂漠化が進む一方。日照りが激しく、砂埃が常に舞い、かつてはアスファルトというもので美しく整備されていたであろう道も、今では裸足で歩けばその皮膚を貫いて怪我を負わせ、感染症を蔓延させる茨の刺でしかない。

 僕が靴を作り始めた時、僕はまだ幼かったのだけれど、それでもどうにかして、この、じいちゃんと両親の愛した店を守りたかった。じいちゃんの誇りを守りたかったのだ。じいちゃんの手を凝視して、目が潰れてしまうのではないかと思うほどに目を凝らして、見よう見まねで革包丁と金槌を抱え、何度も何度も手を傷だらけにしながら靴を作ろうとした。初めて作った靴は不格好で、履くとすぐに壊れてしまった。僕は泣いた。けれどじいちゃんは、どこが悪かったのか静かな声で諭した。それ以来、決して僕に靴を作らせようとしなかったじいちゃんは、僕に最低限の靴の作り方を仕込んでくれた。僕はひたすらに、じいちゃんの作った木型から型を取って、安くで売れる、けれど丈夫な靴を作ることに没頭した。時には靴の修理もした。ありがとうと言って笑う人達を見ていて僕は、無性に、僕の作る靴を履いてほしいと思うようになっていったのだ。

 ……僕が一から作った靴を。

 けれどじいちゃんには、僕に木型を教えられるほどの体力は残されていなかった。木を削るのは、集中力と握力、そして時間が必要だ。勿論他の過程にだって言えることだけれど、靴の命を吹き込むという点では、木型を作る以上に辛く苦しい作業はないのだ。じいちゃんでさえ、昔作った木型を使って革を裁断する。もうじいちゃんには、木型を作ることが出来ない。

 だから僕は、あれやこれやと頭を悩ませながら、目の前にある出来上がった木型を観察し、自分なりに木を削っていくことしか出来ないのである。けれど一度としてうまく出来たためしがない。僕は今も、とてつもない劣等感に苛まれて俯いていた。ああ、僕、何をやっているんだろう。

 物心ついた時から、僕は靴と共にあった。靴を作るじいちゃんと父さん、二人を支えていつもおいしい料理を作る母さん。僕は小さい頃から手伝いをするのが好きで、絶対に何も触らせてもらえない男達の作業場よりは、母さんの働く台所に居着いていたと思う。おかげで僕は、両親が死ぬまでは、台所をまかされていた。男が料理なんて、とじいちゃんは顔をしかめていた。どこかに嫁にでも行くつもりか、と父さんは笑った。お前が女の子だったら良かったのにね、と母さんは言った。

 今は食事の支度とじいちゃんの手伝いをして一日を過ごしている。けれどたまに、じいちゃんは具合が悪くて動けない時もあった。そう言う時は僕が店の番をし、お客が来たら対応をして、注文の入っている靴の製作を続けた。一日はそうやってわりと忙しいのだけれど、時々――ほんの時々、こうしてなんにもすることがない時もあった。僕はそう言う時でしか――誰も見ていない時でなければ、木型の練習が出来ないのだ。

「はあ……」

 手元の木の塊を作業台にそっと置くと、僕は椅子の背にもたれて天井を仰ぎ見た。

 埃が隙間に詰まっているな、今度掃除をしないと……だなんて、今はどうでもいいことを考えたりする。

 木屑のついた指で、前髪を一房つかむ。顔を隠すように、伸び放題にしたままの細っこい砂色の髪。何の珍しいこともない。僕は溜め息を一つついて、鏡を眺める。靴の試着用の鏡だ。毎日のように磨いているせいで、それは嫌でもはっきりと、目の前のものを映し出してくれるのである。

 そばかすだらけの、肌の荒れた、大して美男子でもない僕の顔。

 十五歳になった頃から(遅すぎるかもしれないが)、僕はそれなりになんとなく、だが、近所の女の子達の目を気にするようになってしまった。僕を見る時の「うわっ」と言わんばかりの目と、対して恐らく恋人と思われる男の子に対する蕩けたような目。

 それらを見ていると、無性にどきどきして、僕は店の中に閉じこもってしまうのだった。母さんが持っていた古ぼけた恋愛小説なんか読んじゃったりして、たまに店にきてくれる綺麗な女の人が僕に一目惚れなんて――そんなことあるわけないか、と落ち込んだりして、僕はここのところ、誰に相談したら良いのかもわからないもやもやとした期待と落胆を抱えながら、そわそわとして落ち着きがなかった。いわゆる思春期というやつ。

 鏡を見て、黒いリボンで縛った長い後ろ髪をつかむ。

「……櫛で梳かさないから野暮ったく見えるのかな……」

 誰も聞いていないのに独り言ちながら、僕は母さんが使っていた櫛で自分のしっぽを梳いてみる。抜け毛が酷い。あっという間に、くすんだ金色なのか淡い茶色なのかさっぱりわからない地味な色の糸玉ができて、櫛にぐちゃぐちゃと絡みつく。櫛に挟まった抜け毛をぶちぶちとつまんで取りながら、僕は再度嘆息した。

「髪が長いのがいけないのかなあ」

 髪が長過ぎることは自分でも気にしたりはしている。じいちゃんも髪を縛る人であるせいなのか、今まで僕の周りで誰一人として【その髪切った方がいいんじゃない?】と言ってくれた人がいない。そのせいでいまいち髪を切る勇気が持てないのだ。それに、どうせ切るならお金を貯めて、いい床屋でちょっと格好良さげに切ってもらいたい、だなんて下らない見栄もあったりして、忙しさにかまけてなかなか切りにいくことが出来ないまま……ぼうぼうと伸びた髪を毎日後ろ一つに縛っている。ぼうぼう、と言っても、髪の量が少ないのでそこまでうっとうしくは見えないはずなのだけれど。僕の目下の悩みは、こんなに髪は薄いんじゃ将来禿げるんじゃないだろうかということだ……じいちゃんも父さんも髪はふさふさしていたのに……こういうところばかり母さんに似てしまった。

「あー……僕も恋人の一人くらいほしいなあ……いいなあ……」

 呟いて、はっと後ろを振り返る。なんて危ないんだ……! こんなの、たとえじいちゃんでも誰かに聞かれたら恥ずかしくて死ねる。そうだ。僕はどっちかというと今現在、木型のことよりも自分に笑いかけてくれる可愛い女の子が一人もいないことの方が深刻な悩みなのだった。


 カラン、と扉につけた鈴が鳴る。頬を両手でぱちん、と挟んで、僕は頭を振ると、店の玄関に赴いた。

「いらっしゃいませ」

 入ってきたのは黒髪の、がっしりとしたなかなか美男子の青年だった。彼はにこりともせず、店内を一通り見渡した。

「あの……どういった靴をお探しですか? これとか、」

 僕は棚から、新しく仕入れた革で作った靴をいくつか取り出す。

「こちらなど、履き心地もよく、おすすめですが……履いてみられますか?」

「ああ、いや、別に」

 男はつっけんどんに言った。背が高い背もあるけれど、僕を頭上から見下ろしてきて、目つきもさほど良くないために僕は蛇に睨まれている心地になる。

「今日は、連れに似合う華やかな靴が欲しいと思ってだね。しかしこの店にはそう言ったものはないなあ」

「はあ……女性ものですか」

 僕は男の影に隠れるように立っていた、僕より少し背が低いくらいの女性を見つめる。水色の淡い透けた布で頭を覆っているので、顔はよく見えない。

「店内には並べておりませんが、ご注文いただければ作ることは可能です。元々店内にも並べていたのですが、女性ものは装飾を考えて作る分日光に弱い面もありまして、ご注文を受けてからお作りする形を取らせて頂いています」

「なるほどね。どうする?」

 男が振り返ったが、女性はそこにいなかった。あれ、と二人で思わず顔を見合わせる。かたん、と音がして、振り返ると、なぜか女性は奥の作業台の前で立ち止まっている。僕は慌てて走った。

「あ、あの、そこは関係者以外は立ち入り禁止にさせていただいていまして、」

「これ……靴?」

 女性は――いや、むしろ少女と言った方がいい若さだ。彼女は木の塊を指差して言った。その指先には、先刻放り出した僕の格闘の跡が鎮座している。

「うわわわわ……」

 僕は慌ててそれを背中に隠して、引きつった笑みを浮かべた。

「こ、これは靴ではなく、靴の型となるものです……その、足に合わせて木で型を取って、それに合わせて革を裁断するので……」

「ふうん」

 少女は首を傾げる。

「で、でもこれは、その、まだ途中と言うか、まだ試行錯誤してて、その」

「これ、男物? にしては、なんだか小さいみたい」

「へっ!?」

 気づけば少女は僕の後ろ側に回り込んで、木型の出来損ないを凝視してる。僕は手のひらから耳までだんだんと紅潮していくのを感じていた。

「いや、えっと、その」

「でも、なんだろう、これあんまり可愛くないのね。どちらかというと男物っぽい形……」

 あああああああ。

 僕は頭を抱えたかった。やめてください、死んでしまう。

 僕のセンスのなさを暴露されてしまった。

 そうだ、これは、その、女の子に僕があげる靴……を気持ち悪い顔で妄想しながら削っていたのだ。でもそもそも女の子が喜ぶものなんて、お客様以外の女の子としゃべったこともないのにわかるはずもないのだ。

「おい、いい加減にしないか、ギーズ。店主が困っているじゃないか」

「はぁい」

 ギーズ、と呼ばれた少女はひらりと立ち上がって男の元へ戻る。

「それで? どうしたいんだ。お前が靴が欲しいと言うから連れてきてやったんだぞ」

「え〜? あなたが店の外で会いたいって言うから、それならあたしの買い物に付き合って、って言っただけよ〜? 特に何もないし、やっぱりいいわ。気が変わった。別のところいきましょ!」

 甘ったるい声で少女は言い、男の腕に自分の白く滑らかな腕を絡ませた。その腕に僕はどきりとして、思わず目を反らしてしまった。

「……だ、そうだ。すまないね」

「はい、またのご来店、お待ちしています……」

扉が閉まる。

 僕は嘆息した。こんな時代に、あんな上等の服を着て、何の苦労もなさそうに歩いている人間がいたなんて思わなかった。貴族だろうか、とぼんやり考える。だとしたら、貴族にはちょっと不満足な店だったかもしれない。

 じいちゃんは、貴族だろうが王族だろうが、誰もが満足する素晴らしい靴が作れる一流の職人だ。だけど、今はもっぱら庶民のための安くて丈夫な靴を作ることに専念している。それは、この生き辛い世界で、少しでも人々の支えになれるようにと、じいちゃんが考えた結果だ。

 歯がゆい想いを抱え、僕は手作りの木型を眺めると、作業台の棚の奥にそれを隠した。

 僕は、結構傷ついてしまっていた。作業台に突っ伏す。

「くっそ……」

 悔しい。でもそんなことも言ってられない。頭を振って立ち上がった。倉庫へ向かい、じいちゃんと父さんの木型の中から女物の木型を見繕う。むしゃくしゃする時には靴を作るに限るから。

 そうして棚を物色していたら、不意に一つ、心を惹かれたものがあった。

「これ……」

【愛するエルゼに 真心を込める】

 手に取った木型には、そう、書きなぐったような字で小さく書いてあった。紛れもなく、父さんが母さんのために作った木型だろう。日付は、僕の生まれる3年前だ。

 僕は手に持っていたそれ以外を棚に戻すと、作業台に戻り、型取りの作業を始めた。型に沿って布を貼付けていく。

 固く布で型を包み込んでいるうちに、涙が溢れた。

 手が止まり、僕は震えて拳を固く握りしめていた。



     *



 僕がギーズと言う少女に再会したのは、それからほとんど日を置かない、ある曇り日の黄昏時だった。

 そろそろ店を閉めようと床を箒で掃いていると、玄関の鈴がカラン、と鳴る。

「ごめんなさい、もう閉店?」

 ちょこん、と扉の隙間から少女が顔をのぞかせる。フードの奥から見えたマゼンタ色の瞳にどきり、とした。

「あ、はい……すみません」

「ちょっとだけ」

 少女は眉を八の字にした。

「お願い、ちょっとだけでいいの……! あたししばらく来られそうにないから……今日も実は店抜けてきちゃったのよ。だって店主が最近あたしをこきつかうんだもの。でもあたし、ちょっと謝りたくて」

 何の話だかわからず、僕はどぎまぎとしながら首をひねっていた。

「ええと……と、とりあえず入って……その、カーテン閉めてくれる……あ、そう、ありがとう」

 僕の言う通りに、少女は中へ入るとカーテンを閉める。これで、外からは閉店していると伝わるだろう。

「あつーい! こんなに熱籠るの!? 涼しくしないと倒れちゃうわよ!?」

「え……あ、うん……」

 ぷはあ、と苦しげに息を吐くと、少女はフードを取った。

 そこから現れた、瞳よりも少し桃色がかった明るいマゼンタに目を奪われ、息が出来ない。

「うわ……」

 僕の呟きに、少女は釣り気味の大きな目できっ、と僕を睨みつけた。

「人の顔を見て【うわあ】とはどういう意味?」

「え? いや、違うよ!?」

「ふーん。まあいいわ」

 少女はふん、と言った後、ぺこり、と思い切り頭を下げた。

「え? な、何ですか!?」

 僕は慌てふためく。ぴんぴんと跳ねた、馬のたてがみのようにふさふさとしたマゼンタの髪が、さらりと少女の肩を撫でて滑る。心臓はまたどきりと跳ねた。

 僕とは全然違う、ふさふさで、硬そうなパサついた髪。それなのにどこか艶めかしく、どこか愛らしかった。

「この間は、このお店に特に何もないとか言ってごめんなさい」

「え?」

「あ……えっと、覚えて、ないか……この間結構背の高いおじさんと来たでしょ、ここに」

「お、おじさん……」

 あれをおじさんと言ってしまうのか。若く見えたのに。

 まじまじと目を合わせられて、またどぎまぎとする。ああ、そうだ。この瞳には覚えがあった。

「えっと……はい、覚えて……ます」

 そう言うと、少女はぱあっと顔をほころばせた。

「よかった!」

「えっと……ギーズ?さんでしたっけ……」

 言ってしまって、しまったと青ざめた。どうしてたった一度会っただけの、しかも名乗られていないような相手の名前を憶えているんだと気持ち悪く思われたらどうしよう。僕は自分が気持ち悪いとは大いに自覚している。彼女はあまりにも印象的で、もやもやとした気持ちを抱えながらも、しっかりと僕は名前を覚えてしまっていたのだ。

 案の定、少女は首を傾げる。

「あれ? あたし名乗ったっけ……」

「へ!? えっと、その、連れの方がそう呼んでたから……」

 あわわわわ、と口をもたつかせながら僕は必死で言い訳する。

「あ、そっか。そうだったかしら。それにしても記憶力いいのね! やっぱりお客様を抱える身となるとちゃんと一人一人の顔と名前を憶えてたりするのかなあ~……あたしも気をつけないと。でも顔と名前覚えるの苦手なのよねえ」

 少女は一人で何かを納得する。た、助かった、と思った。

「でも、それ、だから。一応あなたあたしのお客ではないし……どうなのかな……ああ、でもむやみに本名教えちゃだめなんだっけ……」

「げ、げんじな……?」

 なんだろう、聞きなれない言葉が聞こえた。お客、というからには、この子もどこかのお店で働いているのだろうか……どこのお店だろう、と僕は一人悶々と考える。

「まあ、いいや。あなた地味だし友達いなさそうだし! 言ったって広がることは無いわよね、まあ別に広がってもあたしは構わないんだけど――ってどうしたの?」

 さらりと酷いこと言われた。もう生きていけない。

 僕は壁に手をついてうなだれた。結構なクリティカルヒットだ。もう瀕死だ。

「だ、大丈夫です……」

「えっと……ご、ごめんなさい……?」

 悪気がないだと。

 僕はそっと嘆息して、もう一度少女に向き合った。

「えっと……それで、何の御用ですか……?」

「そんなかしこまらないでよ。どうせあんまり歳も変わらないでしょ? あたし今日はお客じゃなくて謝りに来たの。この間このお店を少し貶すような感じで言っちゃったから……」

「ああ……」

 僕は記憶を辿る。

「別に……地味なのはその通りですし」

 僕はへら、と笑う。笑わざるを得ない。けれど少女は首を振った。

「違うわ。あたし……このお店、素敵だと思った。だからあんなやつにあたしの靴をここで注文してほしくなかったの」

 よくわからない。けれど、褒められたのだとわかって、急に――ここ数日僕の心に巣食っていた苛立ちが、まるで霧のように霞んで消えた。僕は頬を染めてしまった。褒められることには慣れていない。けれど、やっぱり嬉しい。

 僕は俯いて唇を噛みしめた。目頭が熱くなる。じいちゃんの店を褒められたり、好きだと言ってもらえると、どうしようもなく泣きたくなるのだ。僕はこの店が好きだから。大切だから。

「その……もしよかったら、靴をひとつ注文させてほしいの。それから、できれば、でいいんだけど……」

 少女は俯いた。

「その……靴ができるまでここに何度か来てもいいかな……その……あのね、どんなふうに靴が出来上がっていくのか見たくて」

「へ?」

 僕は顔をあげた。少女の顔は真っ赤だ。なんだろう。いったい何が起こったんだろう。およそ女の子とこんな密室で(一種の密室であることに僕はたった今気づいたのだった)、こんなにも長い時間話し込んでいる上、目の前には頬を染めた愛らしい少女。しかも僕に会いに来たいと――正しくは靴に会いに来たいと言っているのだがこの際どうでもいい――震えた声で言う少女。

 なんだろう、この状況は。だめだ、勘違いしちゃいけない。そんなことはありえない。こんなかわいい女の子が僕に実は一目惚れしてくれてたとか――いやいやいやいやいやいや。何を考えているんだ。馬鹿か。阿呆か。埋まれ。さあ僕よ、今すぐ埋まるのだ。

「ええっと、ご注文ですね! じゃ、じゃあその、足のサイズなど測りますので……それからお名前を念のため……あとそうだ、どのような感じで……」

 僕は半ば混乱しながら無理矢理まくしたてる。

 少女は頬に指を立てて何かを考え込んでいた。

「うーん……今日は実は店を抜け出してきたからあまり時間がないの。だから、いつになるかはわからないのだけど、絶対に来るから、その時きちんと注文させてほしいの。ゆっくり決めたいの」

「あ、そうです……?」

 僕は羽ペンと紙を手に持ったまま呟いた。というか、よく考えたらそっちの方がこちらとしても助かるのだ。時間的にもう店は閉店しているのだから。

「えっと……本当に、いつになるかわからないのだけど、絶対に来るから……それだけは信じてほしいの……あって間もない人間を信じろって言うのは無謀な話なのだけど……」

「し、信じるよ」

 僕は少女の目を見てぎくしゃくしながら答えた。

 また来てくれると言ってくれるだけで本望だ。靴を頼みたいと言ってくれた。それだけで、僕は幸せなのだ。ついでにこんなに可愛い子に――たとえただの靴職人として、仕事として会わざるを得ないだけだとしても、また会えるとしたら、僕だってなんだか嬉しかった。

 少女はひだまりのように笑った。

「ありがとう。信用のためにも、やっぱり名前を……本名を教えるわ」

「本名……?」

「うん。あたしの名前は全部でギーズ・ギリヴ・ギーズリグよ。ギーズリグが苗字ね。ギーズが源氏名で……本当の名前はギリヴだけなんだ」

「え、えっと……」

 僕は紙とにらめっこしながら唸る。つまり、注文票にはどう書けばいいのだろう。

「えっと……ギリヴ、でいいのかな?」

 僕が悩んだ末にそう言うと、少女は――ギリヴは、にっこりと笑った。

「うん、あなたにはそう呼んでもらいたいわ。だってこれ、あたしのプライベートだもの」

「う、うん……」

 僕はどぎまぎしながら、綴りを聞いて、注文票に【ギリヴ・ギーズリグ様】と書いた。

「ギーズリグも後でつけられた名字だから微妙なところだけど……まあいっか」

 ギリヴはそれを見ながらそう言う。

 僕は気になったけれど、聞かないことにした。一応これはお客様との関係だ。個人的に立ち入っていいわけじゃない。

「じゃあ、注文お受けしますね。また後日ご来店ください」

「はい」

 ギリヴは微笑む。

「じゃあ、あたしそろそろ帰らないと。あなたがいてよかったー。実はずっとここに来るタイミングを見計らってたんだけど、怖そうなおじいちゃんがいたから、なかなか近寄れなくて」

 はは、と僕は苦笑した。じいちゃん、強面だもんな、と思って。

「あれはうちの店長で、僕の祖父だから、頑固だけど意外と怖くないよ」

「そうなんだ。えっと……ユーフェミル・フェンフさんだっけ? お店の名前に自分の名前つけてるのね。てっきりあたし、これあなたの名前なんだと思ってた」

 名前を呼ばれて、一瞬どきりとする。

「えっと……まあ、僕も、かぶってるかな……」

「どういうこと?」

 ギリヴがきょとんとする。

「僕……エスト・ユーフェミル・フェンフって言うのが、僕の名前。祖父から名前を一部もらってるんだ」

「なるほど」

 ギリヴはそう言って、ふにゃっと笑った。

「えへへ……名前教えてもらっちゃった」

「ぐ……」

 僕の喉からくぐもった声が漏れる。なんだその破壊的な可愛さの笑顔は。僕は真っ赤になった顔を悟られないように俯き気味になってギリヴに手を振った。

「じゃ、じゃあ、お待ちしていますので」

「またね」

 ギリヴは花のようにひらりと扉の向こうへ消えた。

 僕は少しばかり呆けて、また恥ずかしくなって赤面していた。暑くて顔を煽ぎながらぐるぐると意味もなく歩き回る。

 僕は浮かれていた。


 幸せな日々の中で、ささやかな時間の中で、何も知らずに、浮かれていた。




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