第四章 六人目のマキナレア

或る少年の景色

 雨が降っている。


 何年も何十年も、もしかしたら何百年も、この世界を飢えさせてきた水が、ざあざあと砂の大地にぶつかる。

 それはきっと、少し前なら誰もが望んだ光景だった。


 ……恵みの雨なんてものが、まだこの世界にあったのなら。


 人々は泣き叫び、苦しみ、痛みにうめき声を上げた。

 阿鼻叫喚。



 降りしきる雨は、全て人々の皮膚を溶かし、食らい尽くしていく。血は止まらず、水たまりは紅さを増していく。痛いよ、痛いよ、と声が聞こえる。助けてと誰かが小さな声で喉を枯らす。誰もどうしてやることも出来ない。助けようにも、外に出ればたちまち同じ目に遭うからだ。人々は家の中で震えながら踞る。けれど雨は容赦がない。少しずつ、けれど確実に、全ての建造物を削り落としていく。人々が逃げ場所を失うのも時間の問題だ。


 僕は蝋燭の灯りだけで薄暗く、砂を固めた地下の誰もいない部屋の中で、フードで顔を覆ったまま黙々と革に針を刺し、糸を縫っていた。

 革も糸も、全てあの雨とほとんど同じ成分が含まれている。いわば、僕と同じ成分だ。僕には科学やら錬金術やらはよくわからない。ただ、あの雨にも耐えられる革と糸を作ってくれと頼んだら、出てきたのがこれだったというだけだ。


【君ならそう言うと思ったよ】


 そう言って、錬金術師ヨーデリッヒは僕にこれを渡した。予定調和のように。雨に溶けにくい布地も作ろうとしていると言う。綿の種に薬を混ぜて品種改良をして。あの雨よりも毒性の濃い雨に植物を晒すことで、その植物が耐性を持つようになることも、実験済みだと言っていた。けれど彼は、人々にそれを公表するつもりがない。人の暮らしは人自身が生きる術を見つけ、足掻いていくもの――そう、彼は言った。


 僕からすれば、単に用意周到なだけだ。彼はこの雨を――人災でしかないこの雨を、人々には天災だと錯覚させようとしている。


 僕は唇を噛み締めた。だとしても、僕はこの靴を作らなければいけない。

 人のために、なんて綺麗事を言うのは諦めた。僕にその資格はない。僕だって、この雨が生まれた一端なのだから。

 ただひたすらに、いつか僕と、僕と同じ五人の子供達が、この世界での死に少しでも抗えるように。

 少しでもいいから、出来るだけ長く生きてくれるように。

 ……僕には靴を作ることしか出来ないから。

 僕は、あの雨にも負けない靴を遺そうと、せめて足掻いていた。


「マキナレア殿」

 低い声が響く。僕は振り向かずに針をひたすらに動かす。

「グラン・アルケミストが民衆に向けて演説をなさいます。貴方様もいらっしゃるようにと言う事です」

「なぜ?」

 僅かに振り返ってそいつを睨みつけると、彼は楽しげに笑みを深めた。

「理由など、お聞きになるまでもなくわかっていらっしゃるでしょうに?」

「僕が行って何になるというの? まだ世間に僕らの存在を公にするわけにはいかないだろ? なら僕は、黙って地下に幽閉でもされておくさ」

「本当に……、」

 そいつ――エル・ブライシアは口角を釣り上げて笑った。

「頑なんですね、貴方は」

 モルモットを眺めるような視線が気に食わない。

「お前みたいなやつを協力者に選んだあいつの気が知れないよ。この気違いめ。僕に近づかないでよ。何度も言っているけど、僕はお前が嫌いだ」

「むしろ、ここまでよくあの方は独りきりで全て背負っておられましたよ。何もかも一人でやるのは無理に決まっている。だからこそ、あの方の体ももう長くない今、私と貴方が彼の両腕になっているのだから」

 僕は針をしまって、立ち上がる。

「一緒にしないでくれる? 大体、僕はあいつの腕になった覚えはないよ。お前も、腕にすらなれてない。馬鹿だね。あいつは君のことをこれっぽっちも信じてない」

「構いませんよ」

 エルはにやりと笑う。

「私はただ、この世界が朽ちていくのを見られればいい。その過程などどうでもいい。それに、あの方の軌跡は貴方が全て背負っているのでしょう? なら私のやることは無いに等しい――あの方にとってはね。しかし、貴方もこれから永い眠りにつくだろう。その時、後始末は誰がするんです? どうせあの方ももうじき死んでしまうのに。私しかいないでしょう? この秘密を誰に明かすこともなく、ただ己の欲望のためだけに無償で貴方方に協力するような人間は」

「無償だって?」

 僕は眉をひそめていた。

「よくまあ、それだけでたらめを言えるよ。何度でも忠告するよ。逃げるなら今だよ、エル・ブライシア。君は僕達と同じ世界を歩めない。歩む必要もない。いいから、こんな計画からは足を洗って、せいぜい人並みに幸せに生きておくれよ」

「人並み? 無理に決まっているでしょう? というか、俺は幸せですよ?」

 エルはくつくつと肩を震わせて笑う。僕は首を振って、深く息を吐いた。


 まったく、ヨーデリッヒは、どれだけの人間を犠牲にするつもりなんだろう。


「僕は、少なくとも……ヨーデリッヒが死ぬまでは安心して眠れないよ」



 それが僕の役割だから。

 僕はぽつりと呟いた。

 科学に関しては誰よりも知識はあるけれど、馬鹿な頭しか持ち合わせていないこの哀れな、自分の行く末さえ見えていない人間共犯者を哀れに思いながら、僕は砂の階段を踏みしめた。



 見届けなければならない。僕は、


 ヨーデリッヒが歴史に名を遺す瞬間を、

 彼が世界につく嘘を、


 この目に焼き付けなければ。



 雨が降る。ざあざあと。いつまでも。きっとこの先も。止むことなどないままに。

 全ての命を苦しめて、降り続ける。たった六人の子供の未来を守るためだけに。

 たった一人の、願いを守るためだけに。






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