籠編む世界
深く深く。
泥に沈んだ四肢を、顔を、大地に根付いた草花の根が侵食していく。
まるで籠を編むように。
俺を閉じ込めてしまうように。
辛うじて動く瞼を開くと、まるで天井に穴をうがいたような、焦げた木の枝で編み合された大きな鳥籠の内壁が見える。
二重に、三重に、俺を閉じ込めようとする。
どうして?
俺は動くことのない喉の奥で呟く。
俺は逃げないよ。なのにどうして?
どうしてこんなにも、俺を閉じ込めておこうとするんだ。
まだ俺には翼が残されているだろうか。
ここから……もしこの鳥籠を壊すことができるのなら、出て行ってしまってもいいの――?
……応えてくれる人はいない。
草の根が皮膚を、筋を、神経を突き破って絡みつく。
激痛に歯を食いしばりながら、俺は震える腕を天井の先の、光の方向へ伸ばしていた。
神様。
俺は何のために生まれてきたの?
悲しいということを覚えるため? 大事なものを捨てるため?
それとも――、
不意に、地面に張り付いたままだった左腕から、痛みが消える。
ぶちり、と音がして、見遣ればギリヴが涙を溜めた目で耐えるように笑っていた。
ギリヴはぶち、ぶち、と小さな音を立てて、俺を縛り付ける草の根を、茎を、ぽろぽろと涙を零しながら千切っていく。
頬を撫でる手。
はっとして振り返ると、ハーミオネが目を閉じて穏やかに微笑んだまま、俺の削げた頬の肉に染みこむ毒を、少しずつ溶かしていった。
ずきずきと、熱を帯びたように俺を苛んだ痛みが、雪が融けるように和らいでいく。
俺の腹を、太い花の茎が貫いた。
蕾が開いて、光を求めるように咲き誇る金色の花。
俺はその向日葵に手を伸ばした。けれど、それは俺の手が触れる前に、苦しげに震え、引きつったかと思うと、はらりと枯れ落ちた。
焦点の合わない目を凝らすと、ミヒャエロが俺を見下ろしていた。
静かな、表情の読めない眼差し。けれど彼は、やがてふにゃり、と笑った。
俺の目からは、いつしかしとしとと降りしきるように、涙が零れては落ちた。
血が止まらない。
その傷口に額をおさえつけて、ギリヴが声もなく泣いていた。その手をそっと、レレクロエがとって、俺から遠ざける。
レレクロエは、困ったようなくしゃっとした顔で口角を釣り上げると、俺の傷口を癒して、元通りにしていった。
俺は首を振る。そんなことはしなくていい。そんなことはもうしなくていいんだ。
笑わなくていいんだ。
もう、俺は十分だから。
ふいに、身体がふわりと軽くなった。
振り返ると、ケイッティオが無表情のまま俺を見つめていた。俺の体を支えて、起こす。
「行って」
ケイッティオの声が、俺が焦がれ続けたその音色で、短くそう言った。
俺を青と銀の砂が包んで上空へと舞い上がる。
俺は駄々をこねる子供の様に耳を塞いで、目を固く瞑ってただ首を振った。
それなのに、瞼を閉じているはずなのに、嫌がおうにも彼らの最期は俺の瞼の奥から俺の記憶に焼き付いて、脳を焦がすように苛む。
ケイッティオは砂の花びらになりながら、ずっと俺を見つめていた。
苛むように。
慈しむように。
*
目尻を拭う冷たく柔らかな感触に、夢から覚める。
ぼんやりと次第に冴えていく視界の先には、橙と薄青の混じりあった空が見えていた。
木の枝は絡み合って、まるで編みかけの鳥籠の天辺のように、黒い影を為している。
右の頬を橙に照らして、ケイッティオが無表情に俺を覗き込んでいた。
「泣いていた」
そう、静かに言う。
「怖い夢でも見たの」
「わからない」
俺は擦れた声でゆっくりと答えた。
「置いて行かれることに、耐えられない」
声が震える。
「そんなことを言う資格がない。それなのに、お前達がいつか全て砂になってしまうなら、きっと俺は狂ってしまう。鳥籠の外で生きてなんか行けない。誰にも、置いて行かれたくないんだ」
ケイッティオは何も言わずに、そっと俺の頬を撫でた。俺は首を少しだけ右に向けると、ケイッティオの目を見つめた。
泣いている。
「お前、ミヒャエロのところに行かなくていいの」
「うん」
ケイッティオは静かに答える。瞬きもしないで。けれど涙は零れてケイッティオの青白い頬を伝う。俺の右手に――ケイッティオが手を繋いでくれている右の腕に、ぽとりと落ちた。
「一人にしてほしいって」
「そう、か」
俺は視線を空へ戻した。体に力が入らない。
とめどない眠気の波に微睡みながら、俺は呟いた。
「お前、消えるのは怖いか?」
「わからないわ」
ケイッティオは答えた。
「でも、あなたとミヒャエロを遺して先には行けない」
「どうして?」
しん、とした声に耳を澄ますように、聴き入るように、俺は瞼を閉じる。
「ばか」
ケイッティオは短く言う。
「俺ね、」
「うん」
「巻き込んでごめんな」
「うん」
「覚えてるの?」
「何も」
「本当に?」
「わたしは、」
ケイッティオは静かに言った。
「何も覚えてないわ」
「そっか」
俺は笑った。
苦しくて、笑った。
「お前が好きだったんだ」
「うん」
「傍にいてほしかった」
「うん」
「こうやって、もう動けなくなったとき、傍にいてほしかった」
ケイッティオは俺の右手をぎゅっと握った。
「一人で世界からいなくなるのが怖かった。誰かを置いて行くのが怖かった。何もわからなくなるのが怖くて、たまらなかった。……何も、わかっていなかったんだ。俺は言い訳ばかりして、結局は、世界を思い通りにした。ヨルダだってお前を求めたかったのに、そうさせなかった。お前がヨルダの傍にいたかったのに、それも壊した。一人でいたくないからって、それだけの理由で、置いて行かれることを知った」
俺は小さく息を吸って、吐いた。
「謝りたいのに、もう、いない……」
俺は掌で目を隠した。光を覆った。
ハーミオネ、ごめんな。夢の中でさえ、あんたは全てを拒むように、目を閉じたまま笑って行ってしまった。どうして、あんなに幸せそうに笑えたんだ。あんたの気持ち、まだわかりそうにないよ。
「謝らなくていい。そんなの、嫌い」
ケイッティオは静かに応えた。
「彼を置いて、あなたを追いかけた。それはわたしが自分で決めた。でもそれは、わたしのわがままだった。彼が望むようにすれば、彼はわたしを少しは忘れないでくれるんじゃないかって、思っただけ」
ケイッティオは瞼を閉じる。
「わたしはあなたのためにここに来たんじゃない。目覚めたわけじゃない。あなたを好きだったわけでもない。わたしは、初めて人を好きになった。彼に――あなたのことが大好きで大好きで、本当は愛されたくて、本当は誰よりも幸せになりたくて、でもなりきれなくて、あなたのためにと言い訳をして自分を苛んだ、そんな人に、助けてって、言ってほしかった。もし言ってもらえたら、わたしはきっとずっとあの人の傍にいた。彼の役に立ちたかった。けれど、求めてもらえないってわかってた。あの人の幸せは、あなたが幸せになることでしか、成り立たない。わたし、とことんそんな友達ばかり持つみたい」
ケイッティオは微かに笑った。
「だから、あなたが彼のことで自分を責める必要なんかない。彼はわたしに、あなたの傍にいてと頼むことで、答えをくれた。わたしは、自分の意思でその願いを叶えたことで、あの人に応えた。それでおしまい。それだけの話なの」
いつから思い出していたんだろう、と俺は、自分でも驚く程に穏やかな気持ちで、ケイッティオの言葉に耳を澄ませていた。
「でもね、モンゴメリ。わたしはそれでも、この世界であなたのことが好きになった」
ケイッティオは柔らかく笑う。
花が咲くように。
霞草の花が、雨に揺れるように。
「ハーミオネのやり方が正しかったとは思わない。だけど、わたしだって同じことをして、世界を捨てて、ミヒャエロでさえ捨てて、この世界で目覚めるまで眠りについた。ハーミオネと同じ気持ちを、覚えている。でも、それはわたしにとっては答えじゃなかった」
俺はふと、自分の前髪が雨に濡れて、めくれていることに気付いた。だから、こんなにもケイッティオの揺れる瞳が見える。くすんだ森の色。俺に息を与えてくれる色が。
「わたしはあなたの瞳が好き。愛されたがっているあなたが好き。そんな自分を厭ってばかりのあなたが大好き。今度は傷を舐め合うとかじゃない、わたしは、あなたの傍に寄り添いたい。わたしの見ていた世界をあなたにも見てほしい。そんな前髪切ってしまって、見てほしい。もっとわたしに、あなたの目を見せてほしい」
「俺の目に惑わされてるとかじゃなくて?」
「さあ」
ケイッティオはくすりと笑った。
「そうだとしたら、どうするの」
「嫌だ」
俺は微かにまだ震える腕を伸ばして、ケイッティオを抱きとめた。ケイッティオがふわりと緑の匂いを纏わせて、俺に重さを与える。
俺は彼女の首筋に顔をうずめて、少しずつ唇でなぞっていった。くすぐったい、とケイッティオが不機嫌そうな声を出す。俺は腕に力を込めた。
遺したい。
例えいつか消えてしまうとしても。
ケイッティオでさえ、この世界から消えて、空に吸い込まれていくとしても。
この世界に、俺がいた世界に置き去りにする、
この子という存在を証にしたい。
俺は腕を緩め、前髪を右手で握りしめて、ぶちり、と千切った。
蓮華草に埋もれて俺を見上げるケイッティオの顔に、はらはらと紫色の髪の切れ端が零れて落ちた。
髪を千切るのも、痛めつけるのも、久しぶりで。
痛くて、痛くて。
俺は開けた視界で、ケイッティオを見下ろした。髪を撫ぜる。雨に濡れて湿り気を帯びた額に、頬に、濡れた髪に唇を這わす。
ケイッティオは睫毛を震わせ、静かに目を閉じた。
俺は彼女の耳たぶを、がりっと噛んだ。
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