孵る世界

 水の匂いに咳込む。

 息が苦しい。体はしっとりと濡れて、凍えさえ感じていた。それなのに、頭蓋の中は熱を籠らせたように熱い。

 ミヒャエロは、ずっとそこに座っていた。瞼はわずかに開いているのに、見えるのは霞んだ翠だけ。

 目にちらちらと銀色の粒が映る。けれど、それがただの虫でしかないことはわかっていた。

 髪の毛の先を、とめどなく透明の雫が伝って落ちる。焦点の合わない目で、ずっとずっと、それをただ睨みつけていた。

 時折、喉から擦れた嗚咽が込み上げる。何度も何度も。どんなに涙を流して乾ききったはずでも、また思い出したようにそれは体中の水分を吸い上げて、目の端から零れ落ちた。

 ミヒャエロはただ待っていた。またいつ爆弾が落ちてくるかわからない。もう皮膚を融かす雨は降らない。この身体を湿らす雨水はただの恵。大地の恵み。もう二度と、生きるものを脅かすことなんてない。飲み水にだってできるだろう。人々は外に出ることに怯える必要はない。そして、モンゴメリもまた、今は弱り切ってうまく力が使えないでいる。この森は今や人間の目にはっきりと映っている。アルケミストの遺した蓮華草畑の森。時折、空に飛空艇が、曇った灰色の雲の隙間から灯りをちらつかせながら回旋している。まるで、いつ攻撃すればいいのかを見定めるように。

 いつでも、もしもこれからも、おれ達を攻撃するというのなら、飲みこんでしまえるようにと。

 ミヒャエロはただただ待っていたのだ。

 自分を冒して苦しめて、この世界から、

 この鈍い彩りの揺らめく美しい世界から、自分を消してくれるような狂気が降り注いでくれたらと。

 そしたらおれは、今度こそあの砂めく街へ還れるから。

 この世界から、歩いて行けるから。

 ゲ、ゲロ、と何かが鳴いた。

 ミヒャエロは、荒んだ眼差しで少しだけ右に視線を移す。

 青い蛙が泥の中を這って、顔を出していた。ミヒャエロは、蛙を憎むように睨みつけた。

 気持ち悪い顔をしている。

 ゲロ。

 煩い。どこを見ているんだよ。

 ゲ。

 煩い。

 ミヒャエロの周りを揺蕩う、黒い真珠のような光沢の光のヴェール――オーロラが、その艶めかしさを一層濃く空気に滲ませた。

 ゲ、ゲロ、ゲロ、ゲ。

「煩いって……」

 ミヒャエロはかっとなって、吐き出した。

「言ってるだろ!」

 オーロラは蛙を跡形もなく飲みこんだ。

 森に静寂が戻る。

 ミヒャエロは、そのまま、また空を虚ろな目で見つめたまま、木の幹にもたれかかった。

 しとしとと雨が降り注ぐ。

 ひゅう、と微かな音がして、空に浮く銀色の飛空艇たちの一つから、黒い錆の塊が落ちてくるのが見えた。

「………はは……?」

 乾いた笑いと、壊れたような微笑みをうかべて、ミヒャエロはそれにオーロラの触手を伸ばした。待ちきれないとでもいうように。飢えた子供の様に。

 ――子供?

 そうだ、今でもまだ、おれはあの時あの路地裏で、この皮膚を溶かしも何もしない、ただただ無害な雨水を汚れた水瓶に溜めては目を輝かせていた、ただの餓鬼のままなのかもしれない。

 思い出すのはそんなことばかりだ。思い出してしまったのは、そんなことばかりだった。けれどなぜだろう、辛かったはずなのに、ひもじかったはずなのに、あの頃が一番優しく幸せな時間を過ごしていたのだと、子供のままでいたかったのだと、どこか感傷的に考えているのだ。

 ごくり、と爆弾を呑みくだす。

「は、はは……」

 降り注ぐ雨の源を見上げながら、ミヒャエロは笑った。

「意地悪だなあ、ハーミオネ。意地悪だ。意地悪だ。本当に、あなたなんて大嫌いだ。大嫌い」

 ミヒャエロは壊れたように途切れがちに笑いながら、目から涙を零していた。雨と混ざって、頬に張り付いて、どのみち不快なことに変わりはない。ああ、まだこれでも死ねない。死ねない、死ねない……。

 ふと、ミヒャエロは蛙のことを思い出した。

「ああ……そうだね、おれの勝手なやつあたりで、こんな汚い爆弾と一緒じゃあ、ちょっとだけ可哀相だ」

 話しかける相手などいないというのに、ミヒャエロは誰かと対話するかのように呟いた。そうして、蛙をオーロラからこぽり、と小さく吐き出した。

 蛙は、しばらくじっと微動だにせず、まるで小首をかしげているかのように、ミヒャエロのぼろぼろの靴を見つめていた。

「ねえ、」

 ミヒャエロは擦れた声で短く呟いた。

「外に出た気分はどう? 調子は? どこも悪くない? 君はあの時のままの蛙? それとも違うの? 少しは変わったの? ねえ、」

 蛙は、ミヒャエロの言葉など気にもかけないように、泥の中に潜った。

「ねえ、……教えてよ。ねえ、」

 ミヒャエロは前髪をかきあげて、俯いた。

「ねえ……誰か、」

 その声を聴く者は、誰もいない。



     *



「ギリヴ」

 背中にかけられた声に、ギリヴははっと振り返る。

 ミヒャエロが、表情を削ぎ落とした顔で、自分を見つめている。

 ギリヴは、努めて笑顔で応えた。

「何? ミヒャエロ」

 けれど、ミヒャエロは何も言わない。

 ぞくり、と肌が泡立つ。けれど、悟られてはいけない。ミヒャエロに、

怖がっている、なんて。

「あ、そうそう。モンゴメリはそろそろ回復してきてるよ。無理がたたったみたいね。なんだか不思議。まるで風邪引いているみたいなんだもの。あたしたちは人間じゃないのにさ、なんだか人間みたいに錯覚しちゃう」

「そう」

 ミヒャエロは静かに言った。ギリヴは口の端をきゅっと釣り上げたまま、俯く。

「あ、そ、そうだ。ケイッティオったら罪な子ね! ずっとモンゴメリの傍にいるんだもの。でもね、あの子あなたの傍に最初はいたがったのよ。でも、ミヒャエロがモンゴメリの傍にいてやれって言ったんでしょ? なんていうか、やっぱりお兄ちゃんだよね……なんていうか、その、そういうの、いいよね!」

「ねえ」

 ミヒャエロは抑揚のない声で言った。

「そういうの、別にいいから」

「え?」

 ギリヴは顔をあげる。ミヒャエロは、光のない眼でギリヴを見据えていた。

「そういう気遣いとか、いらない。うざい」

「ミ、ヒャエロ」

 どう接していいのかわからない。ギリヴはぎゅう、と服の裾を握りしめていた。笑わなくなってしまった。あんなにも、誰よりも優しく笑ってくれていたのに、あなたは笑ってくれなくなった。

「あのさ、」

 ミヒャエロは、首を横に傾けて静かに言った。

「な、何?」

 泣いちゃだめ、泣いちゃだめだよ、ギリヴ。

 ギリヴは自分に言い聞かせながら笑った。

 誰も笑ってくれないのなら、笑えばいいじゃない。

 あたしだけでも、笑えばいいじゃない。

 例えそれが、自分の身を裂くようでも。それでも、あなたが笑わないからって、あたしは、笑顔を浮かべるのをやめたくない。

「ちょっとだけ……ついてきてくれない?」

「え?」

 ミヒャエロは、どこか穏やかな眼差しでギリヴを見つめていた。雨の静かな音しか聞こえない。ギリヴはしばらく、時が止まったかのように身動きが取れずにいた。

「い、いいわよ」

「そう。よかった」

 そう言って、ミヒャエロは小さく息を吐くと、微かに笑ったように見えた。ギリヴは目じりにたまった雨粒を指で拭って、微笑んだ。

 ――よかった、やっぱり、きっと、変わってないんだ。

 ギリヴは胸の前で手をぎゅっと握った。空を見上げる。

 ――ハーミオネ。あたしたち、……がんばれるよ。



     *



 それから森を抜けて、草も生えていない白い砂漠を、ギリヴとミヒャエロは二人きりで歩いていた。

 忘れるわけがない。皆で通った道だ。

 生きるために。逃げるために。ずっと一緒にいるために。

 ここを、六人で、ぼろぼろになりながら歩いた。

 痛む胸を押さえながら、ギリヴは、緩やかに歩くミヒャエロの広い背中を見つめていた。彼は、あれから一言も声を発さない。

 上空では、マキナレアが二人無防備に歩いていることを目ざとく見つけた人間の軍部が、飛空艇を忙しなく走らせている。時折、ミサイルが断続的に打ちつけられていった。そしてその度に、それをミヒャエロが身にまとう黒いオーロラの手で蛇の舌のようにからめ取って飲みこんでいくのだ。その間すら、ミヒャエロは歩みを止めなかった。それが、ギリヴにはとてつもなく恐ろしかった。

 ――何を考えているの? どうして、何も言ってくれないの?

 まるで、別人になってしまったみたい……。

「ねえ、」

 ギリヴは、もうたまらない、と声を振り絞った。

「ミヒャエロ……そんなにたくさんの爆弾を呑みこんじゃだめだよ……死んじゃうよ」

「死なないよ」

 冷たく、短い一声で遮られる。振り返りもしない。

「でも……あのさ、あたしだって役に立てるんだよ? 壊せるんだから。知ってるじゃない」

「いいから」

「でも」

「煩いよ」

 ギリヴは、きゅっ、と口を引き結んだ。

「これじゃ、」

 声が震える。

「これじゃ、あの時の二の舞じゃない! ふざけないで!」

 ミヒャエロの歩みが止まる。ギリヴはその背中に向かって叫んだ。

「あたし、言ったわよね? もう二度と、あたしやあたしたちを庇って、自分ばかり傷つこうだなんてしないでって! あたしだって戦える……あたしだって! どうしてそんなことばかりするの? そんなにしてまで、死に急ぎたいの? それで誰が喜ぶと思ってんの?」

 ミヒャエロは、振り向くことのないまま、ただ黙っていた。その間にもミサイルがまた一つ、一つと零れてきた。それを、ミヒャエロは静かに呑みこんだ。

「誰も喜ばない。そんなことは、知ってるよ」

 ややあって、ようやくそう零し、ミヒャエロは振り返って、ギリヴと目を合わせた。

「誰かのために死んだって、守られた誰かは、全然幸せにはならない。知ってるんだ」

 ミヒャエロは目を静かに閉じる。長い睫毛は、微動だにしない。

「ごめんね、おれは、またあなたに甘えてるよ」

「甘え、てる……?」

 嘘だ、とギリヴは思った。甘やかされているのは、自分の方のはずだ。けれど、ミヒャエロは微かに笑った。

「なぜだろう。おれは、いつからだっただろう。自分を苦しませることが、とても楽だった。あなたを守ってた、って言ったね。でも、それは嘘だよ。あなたと一緒にいた時も、誰かを守ろうとした時も、いつだっておれは、そうすることが楽だったから、していたんだ。おれは、誰かに【そんなことしないで。自分を大事にして。今度は、君を守るから】って言ってほしかったのかもしれない。それを、あなたはあの時言ってくれたね。でも、おれはその言葉が、あなたの言葉が、きっと欲しかったはずなのに、違うと思った。嬉しくなかったんだ。あなたからそんなこと言われたって、嬉しくはなかった」

 自虐的にミヒャエロは微笑んだ。

「知ってるよ。だって、あなたは、あなた自身が、誰かにそれを言ってほしかったんでしょう? でも、あなたのことだから、きっと本当にそれを言われたとして、きっと嬉しいとは思わないね。きっと、罪悪感があなたを苛んでしまうだろう。おれは、あなたはとても、おれに似ていると思っていた」

「あたしが、ミヒャエロに?」

 そんなはずない。ギリヴは唇を噛んで、俯いた。

 あたしはあなたみたいに強くないし、あなたのように優しくもない。

「おれって、酷い男だなって思わない?」

「思わないわ」

「そう? でもね、どうしてあなたを一緒に連れてきたかわかる?」

 ミヒャエロは静かな眼差しで微笑んでいる。

「孤独なのは、辛かった。だけど、おれは誰のことも信頼できないでいたんだ。でも、あなただったら、きっとついてきてくれると思った。あなたは誰かから求められることに慣れていないね? いつだって渇望してたでしょ? 知ってるよ。あなたって、実は結構おれのことも好きになりかけてたでしょ」

「なっ、」

 ギリヴは顔をあげた。なんでそんなことを言うんだろう。胸が痛い。やめて。お願い。

 あたしを、あたしの弱さを、そんな優しい声で、撫ぜていかないで。

「でもおれは、」

 ミヒャエロはギリヴから目を逸らさなかった。

「あなたのことが一番大事じゃないから、連れてきたんだ」

「え……?」

 指先から冷えていく。

 やめて。心が、

 凍りついてしまう。

 あたしを苛まないで。

 好きだったわけじゃない。でも、

 あなたが優しいから。ケイッティオがあなたに愛されていて、羨ましいと思ってた。

 あなたに愛されるケイッティオは幸せだろうなあと思っていた。

 それなのに、他の人を好きになれるケイッティオが、そして同じように想われるあの子が、羨ましかった。

 ハーミオネが消えてしまって。

 あの子が、本当はあなたのことを好きだったのだと。だからこうして消えてしまったのだと。

 わからないはずがない。

 あたしの出る幕なんてない。

 優しくされたからってだけで、少しだけ心を揺り動かされた程度のあたしに、羨む資格なんてないのだ。

 あたしはいつだってそうだ。

 大事にしてもらえない。

 好きになってほしい人に、いつだって、使い捨てされてしまう。

「やめて……」

 ギリヴは頭を弱々しく抱えた。

「おれね、これでも、結構いっぱいいっぱいなんだよ。それで、誰かにいてほしかったんだよ。あなたが一番都合がよかった。それに、別にもし、あなたがここで死んだとしても、きっとおれは、ハーミオネが死んだときほどの痛みは感じないだろうと思った。だからついてきてって言ったんだ。おれって、最低でしょう?」

「やめて!」

 ギリヴは泣き叫んだ。

「あなたのことを……想っている人間が……五人も、いるの……お願いだから、だから、そういうことを言わないでって言ってるじゃない! 何度も……! 何度も!!」

 ミヒャエロは俯いていた。

「ほんとうに、あなたって……いい人だね」

 はは、とミヒャエロは乾いた笑い声を漏らした。

「連れてきたからには、守るよ。あなたに指一本――爆弾なんて、触れさせやしないよ。これはおれにとっての実験だから。あなたにだけは知っていてほしかったんだ。あなたはきっと……レレクロエを置いて行くはずだから」

「レレクロエ……?」

 ギリヴは顔をあげた。

「どうして今、レレクロエが出てくるの? 馬鹿に、しないでよ。今は、そんな話――」

「レレクロエはきっと、あなたのことが好きだよ」

 ギリヴは顔をくしゃり、と歪ませた。

 あなたがそんなことを言わないで。そんな優しい顔で、言わないで。

「そんなの……っ、あるわけ、ないじゃない!」

「そうかな? おれはわかってるつもりだよ。少なくとも、レレクロエの気持ちも、あと、モンゴメリの気持ちも……本物だろうと思うよ。あなたは、ケイッティオは本当は誰が好きだと思う?」

「それ、は……」

 ギリヴは唇を引き結んで俯いた。

 言えるわけがない。そんな、言えるわけが……。

「遠慮しなくていいから」

 ミヒャエロは嘆息した。

「モン……ゴメリ……」

「うん。そんな気がしてた」

 ミヒャエロは明るい声で言った。

「おれ、好きってよくわからないや。全然傷ついてないんだもの。おれね、本当に最低なんだ。あれだけケイッティオケイッティオ、って言ってたくせにさ、今となってはどうでもいいんだ。本当だよ? おれね、おれの頭の中はね、ハーミオネだらけなんだ。あの人の傍に帰りたいって、そればっかり。今更だろ? これってなんなんだろう。好きって言っていいのかどうかもわからない。でもおれは、あの人と同じになりたい。誰よりも早く、あの人と同じ灰になってしまいたい。だけど、許してもらえないんだ。あの人の気持ちを捨ててきた罰かな。おれね、」

 ミヒャエロは悲しげに目を細めた。

「浄化の力、手に入れてしまったみたい」

「え……?」

 ギリヴは顔をあげた。

「最初はさ、爆弾を呑みこんで、許容量以上にどんどん呑みこんで、あの時と同じように死んでしまおうと思ってた。もうおれを浄化してくれる人なんていないから、きっと簡単に死ねるって思ってたんだ。でも、そうさせてもらえないんだ。おれの中に、ハーミオネがいる。ハーミオネの力が大きすぎて、残されてしまったものが大きくて、おれが飲みこんだ毒を片っ端から浄化されてしまう。おれは、もうこんな風にぱらぱらと申し訳程度に落ちてくる爆弾程度じゃ死ねないんだ。でも、だとしたらおれはどうやって死ねばいいんだろう?」

「力が……受け継がれた、ってこと……?」

「わからないけど、」

 ミヒャエロは笑った。

「でも少なくとも、おれ達はもし死んでしまっても、傍にいる誰かにその力が移ってしまうってことじゃないかなって思うよ。ハーミオネがおれを好きで……いてくれたから、だなんて、そんなのは美談だ。もう少し合理的に考えよう。だとしたら、おれたちは、死んだ時、この力を誰かに譲渡していくってことだ。そうしたら、最後の一人は? 最後の一人は、全部の力を持って、きっと本当に死ぬこともできないまま、この世界に取り残される。でも、きっとおれ達はどのみち死ななきゃいけない。だから、あなたには知っていてほしかった。あなたはおれと似ているから。でも、きっとあなたの場合は逆だね。あなたは、あなたを愛してくれるレレクロエにあなたの力だけ残して、きっといつか死んでいくだろうから。そして、おれだってきっと、この二人分の力を誰かに渡して死んでいく」

「あたしが……」

 ギリヴは声を振り絞った。

「あたしが、あなたたちの力を、受け取るの? だって……死ぬつもりなんでしょう? だから、ケイッティオにさよならも言わずに出てきたんでしょ?」

「どうかな」

 ミヒャエロは曖昧に笑った。

「できればおれは、あなたにじゃなくて――」

 ミヒャエロはそれ以上には何も言わなかった。

「れ、レレクロエをあたしが置いて行くって、どうしてわかるのよ。ていうか、どうしてあの人があたしが好きって言いきれるの? い、嫌なことしか言わないじゃない……」

「だって、」

 ミヒャエロは無表情に言った。

「レレクロエはまるであなたに嫌われようとしているように見える」

「そんなこと……」

「それに、」

 ミヒャエロはギリヴの言葉を遮るように言った。

「レレクロエは何度も何度も言っているよ。最後に残るのは僕だって。大事な人に最後の役目をさせるわけにはいかないって。耐えられるのは僕だけだって。最後まで残りたいから、僕は力は使いたくない。さっさと死んでって」

 ミヒャエロは儚く微笑む。

「おれさ、レレクロエの気持ち、わかったようなつもりでいたんだ。でも、やっぱりわかんないや、おれなんかには。できない。おれにはできないよ。だからハーミオネに先を越されてしまったのかもしれない」

 そう言って、どこか幸せそうに、ミヒャエロは笑った。

「おれは、ハーミオネが好きだよ」


 『だから、死なせて。』


 言葉は風に飲まれて、儚く消えていく。

 ギリヴはその顔を、凪いだ気持ちで見つめていた。

 ああ、あたしは、この人を諦められる。

 きっと、あたしだけが、この人を諦めることができる。

 あの子たちを諦められる。

「だから、あたしを連れて来たのね」

「どうだろね」

 ミヒャエロは困ったように笑った。そうして、懐からぼろぼろになった手帳を取り出す。

「これ、やっぱり今渡しとく。預けておくよ。おれはあなたより先に死にたいから」

「あなたの日記なんて、あたしいらない」

「捨てていいよ」

「本当に……っ」

 なんて残酷な人なの。

 ギリヴは手帳を胸に抱えて、声もなく泣いた。ミヒャエロは歩みを進めていく。

 幾つもの爆弾を飲みこみながら。

「ミヒャエロ、」

「何?」

 幾分穏やかな声で、けれど振り向きもしないで、ミヒャエロは答える。

「どこに……あなたはこんなのあたしに遺して、どこに向かうつもり?」

「ああ、それは、」

 ミヒャエロは表情のない声で言った。

「人間達の、いる場所さ。帰るんだ。おれ達の、目覚めた土地に。あそこに、行かなくちゃいけない。消える前に。……消える前に」

 止んでいた雨は、またぽつり、ぽつりと、二人の頬を撫でていく。







     ***







「な、なんだ! 貴様ら!」

 マグダの部落長は、金切り声をあげた。

「裏切り者が……人類の敵が! 何の用だ!」

「俺達を殺しに来たのか! 報復に来たのか!」

「殺せ! 殺してしまえ! 化け物どもめ!」

 金切り声と悲鳴と泣き声と祈る声と。

 怒声、罵声。

 色々な音がないまぜになって、耳につんざくようにかき乱れる。

 ミヒャエロは、かつて自分達を【使徒様】と崇め媚び諂った人間を――かつて自分もそうであった姿を、静かな、どこか凪いだ気持ちで眺めていた。


 ――そりゃ、あなた達から見たらおれ達は化け物だろうな。どんな爆弾を打ってもびくともしない。でも、あの時は、あの核爆弾は、危なかったんだ。本当に、死ぬところだった。そうして、代わりにあの人が死んじゃったよ。おれじゃなくてさ。おれでよかったのにね。


「雨が、」

 ミヒャエロは静かに口を開いた。怯えるように、人々の喧騒はぴたり、と止んだ。

「やみました。あなた方を苛んでいたあの、皮膚を溶かす雨は、世界から消えた。あれは兵器だ。未来に残してはいけないものの一つでした。時間はかかったけれど、ぼく達は今、一つ一つ世界に不必要なものを世界から取り除いているところです」

 ギリヴが不安げに見つめる視線を背に感じる。けれど、ミヒャエロは軽く片手をあげてギリヴを制した。

「勝手に……いなくなったことは謝ります。けれど、ぼく達はもう、あなた方の争いに巻き込まれたくなかった。ぼく達はあなた方を守りたくて生まれてきました。あなた方を殺し合わせるためじゃない。あなた方を新しい世界に連れて行くためにぼく達は生まれた。けれどあなた方は、ただ逃げたというだけで、ぼく達を人の敵だとみなしましたね。よくもまあ、あれだけの兵器を隠し持っていたことだ。あなた方がそれを手放さないというのなら、ぼく達はあなた方を救う義理はない。あなた方は神様には祈るのでしょう? それなのに、ぼく達には死ねとおっしゃるのですか。随分と勝手な人間様だ。あなた達の持っていた核兵器のせいでぼく達は、……おれは、愛していたかもしれない人を失いました。あなた方は、おれに何を与えてくれますか? あなた方を救う代償に、対価として、何をくれますか?」

 しん、と静まり返る。

 ミヒャエロは、誰かが何か言ってくれるのを待っていた。ただ辛抱強く、期待などないままに、待ち続けた。

 やがて、一人の老人が、怒りを滲ませた震える声で言った。

「神への……冒涜じゃ」

「は?」

 ミヒャエロは馬鹿らしくなって、ぞんざいに言った。

「対価じゃと……? 救う義理じゃと? この、神様気取りの叛逆者共めが! お前達に神の名を名乗る資格などないわ!」

 死神、という言葉が聞こえる。喧騒が舞い戻って、膨らんでいく。

 ――死神、ね。

 ミヒャエロは力なく笑った。

 ――そうだとするなら、おれは今なら死神様の気持ちがよくわかるよ。

「はは」

くっくっ、と喉を震わせる。


 さあ、ゲームの始まりだ。


「ははははははは!!!!!」


 ミヒャエロは狂ったように笑った。

「死神か! そりゃあいいや!! おれ達ももう、お前ら人間の救世主気取るのに飽き飽きしてたところだぜ!! さあどうする……? おれ達を殺すか? この世界から排除するとでも? あの程度の兵器じゃあおれ達は始末できねえぞ? ははははは!! どうする? さあどうする!? 出し惜しんでる場合じゃないぜ、全力で殺しに来てくれよ、人間様よお!!!!!」

 けたたましく笑いながら、ミヒャエロは昆虫の羽のようにどす黒く輝く光の帯で身体を宙に釣り上げた。

 一斉にミサイルが打たれる。

「足りねえよお!! そんなもんで殺せるとでも思ってんのか?」

 ミヒャエロは甲高く笑った。

 ――あーあ、本当に、人間って馬鹿だな。

 それでも、

 おれは、人間のままでいればよかった。

 オーロラの触手で同じように釣り上げたギリヴを振り返る。

 ギリヴは青ざめた顔で、けれどしっかりとした眼差しで、ミヒャエロを見つめていた。

「ギリヴ、」

「な、なに……?」

 ミヒャエロは、すう、と息を吸い込むと、精一杯の力で、笑った。

「レレクロエとモンゴメリ、呼んできて。早く、な」

「わかった」

 ギリヴは苦しげに声を振り絞ると、そのままオーロラを振りほどいて天高く飛び降りた。

 どろどろのヘドロのような膜が、ミヒャエロを包み、侵食していく。

 ――ああ、やっぱりだめみたいだ。

 ミヒャエロは空を仰いだ。

 ハーミオネ。あなたの置き土産のせいで、やっぱり人類の兵器をすべて詰め込んでも、死ねないみたいだ。本当に、あなたって意地が悪いよ。

 けれど、だとしたら。

 ミヒャエロはゲロ、と蛙の鳴き声を真似た。

 あなたの役目がこの世界の浄化なら、この世界の不純物を取り除くことなら。

 おれの役割はきっと――。


 あなたの愛した世界で生きた全てを、箱舟に乗せよう。


 おれは神様なんかじゃないから、意地悪なことはしないよ。


 選んだりしない。


 世界の箱舟に、なるから。




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