砂霞む世界
【また夜更かししてる。眠れないの?】
【そっちこそ】
【私はいいのよ。もう人間じゃないから、眠くもならない】
【……そういう事を言うなよ】
【でも、そうね、無理してでも寝ないと】
【どうして?】
【だって、レデクハルト様は、マキナレアになったとしても眠くなるわ。私達とは違う。悟られちゃいけないでしょ?】
【……そっか】
【どうしたの?】
【ん? いや、星がきれいだなって思って】
【ずっと見てたんだよ】
【え?】
【星空。おれさ、あんまり昔からよく眠れなくてさ、よく路地裏で寝そべりながら、見てたんだ。夜は結構冷え込んでさ、寒かったけど、空は澄んでてきれいだった】
【そうなの】
【私は、そう言えばあまり夜空は見たことがなかったわ】
【そうなの? どうして?】
【屋敷の中にいたから……夜は外に出たこともなかった。笑っちゃうわね、私、こんな時代に古ぼけた屋敷で、箱庭に暮らしていたのよ。窓からの景色なんてどれだけでも見たことがあるけれど、こんな澄んだ夜の空気は知らなかった】
【そっ……か。おれ達、本当に正反対の生き方だったんだな】
【そうね。でも、同じものになってくれるんでしょ? これからは同じ生き方ができるわ。それって、なんだかとてもわくわくしない?】
【えっと……】
【言っておくけど、おれはあなたと同じものになるわけじゃないよ。ケイッティオが……『それ』になってしまったから、おれもついていくだけだ。だから――】
【わかってるわよ。馬鹿ね。あなたは私の気持ちは察してるくせに、そして私もあなたの答えを察してるっていうのに、まだそんなこと言うのね。意地悪】
【大丈夫。あなたとこんな夜に話したこんな話も、私の気持ちも、あなたは忘れて新しい世界に行くのよ。気にしなくていいわ。もちろん、私もこんなの忘れてしまうから。だから、おあいこよ】
*
おれが降り落ちた爆弾を呑みこんだ瞬間、おれの目の前を何かの影が覆った。
それを、死ぬってこういう事なのかと、妙に穏やかな気持ちで、猛烈な吐き気さえも忘れて見ていたのだ。
ただ見惚れていた。
なんて馬鹿なんだろう。
ちょっと危なくなったら、って言ったのに。
本当に危ない時に、助けてなんて頼んでない。だって、
だって、おれが死ぬかもしれないような毒、あなたが全力で浄化してしまったら、あなただってきっと死んでしまう。それがわかっていたから、だからそう頼んだのに。
あなたは察しがいいから、きっとそれもわかってくれていたはずなのに。
おれなんて、助けなくていいのに。何度も言っていたのに。ずっと、ずっと言っていたのに。
なんで――。
ハーミオネは、最後に虚ろな目でおれと外れた向こう側を見ていた。皮膚が花弁のようにはがれて、砂のように溶けていく。
「大好き」
それだけ言って、そんな擦れた声で言って、
まるでその言葉を言い終わるのが待ちきれなかったかのように、全て青と銀の混じった砂になって、空へ舞いあがった。
星のように。いつか、夜空の星がまるで砂の様だと言って笑ったあなたが、
砂になってしまった。
おれは、あなたをあの砂の街に独りきりで帰してしまった。
なんて馬鹿なんだろう。
覚えていたのに。
あなたと二人で話したことも、一緒に見た空も、全部本当は覚えていたのに。
覚えていないふりをした。忘れてしまったように振る舞った。
まさか自分が、ケイッティオとの思い出じゃなくて、あなたとの短い記憶を抱えて目が覚めるなんて思っていなかったから。
あなたと話した記憶が、おれにあの子を思い出させた。おれにはあなたじゃなくて、もっと大切な子がいたんだと、あなたが思い出させたんだ。
約束は守ってくれると思ったから。
おれはあの子しか好きになれないんだって、答えていたから。
おれは、これからもあの子だけを見て生きていくんだと。
そんな風に、頑なに思っていた。
おれにとってはケイッティオだけが全てで、そのために生きていることだけが全てで、そのために生きている自分で、それだけだった。
――死ぬつもりだったのに。死んでもいいと思っていたのに。
ケイッティオを見たまま死にたかった。何度も忘れたとしても、何度でもあの子の姿を目に焼き付けて、いつかもしも生まれ変われたら、また思い出せると信じて、死にたかった。
ケイッティオを忘れて目覚めた自分が怖かった。本当は覚えていたくなかったんじゃないかと、自分の心から目を背けていたんじゃないかと、気づかされるのが怖かった。
死なせてくれて、よかったのに。
どうせいつかは誰かが最初に死んでしまうんだ。そのために、おれたちはあるんだから。
なのに。
だから、それはおれでよかったのに。
「嘘、つき」
気持ちを忘れるだなんて嘘だ。
そんな嘘をつかせた。
そっちだって、覚えてたんじゃないか。
馬鹿だ。
本当に馬鹿だ。
あなたと話した記憶は思い出せるのに、あなたがどんな顔でおれと話してくれていたか思い出せない。
どんな服を着ていたかも、いつから傍にいてくれたのかも、何が好きで、何が嫌いなのかも。
何も知らないんだ。
草を踏む音がした。
自分でも少し驚くほどに、のろのろと振り向く。
「何か用」
自分の喉から、そんな暗い声が出たことに、ぼんやりと遅れて気づく。
モンゴメリはただそこに立っていた。相変わらず目を隠して、どんな表情をしているのかも読み取れない。
そうやって拒絶して。ケイッティオがあんたにあれだけ目を見せてほしいと言っているのに。本心を隠して。
馬鹿じゃないのか。
だけど。
おれも結局は同じなのだ。ハーミオネだって、同じだったじゃないか。
見ない振りして、気づかないふりをして、心も隠した。
モンゴメリはずっと黙っていた。
その腕が微かに震えている。
馬鹿だなあ。
ああなるって、わかっていなかったんだ。
おれも初めて知ったよ。
こんなに、
こんなに、寂しいなんて。
ああ、でも、
砂になって、あの砂の街に戻れるなら。
置いてきたあの場所に帰れるなら、悪くないな。
死ぬために死ぬんじゃなくて、帰るために死ぬんだ。
あの箱庭の中に。
「ミヒャエロ!」
ギリヴが空から降ってきて、おれを抱きしめた。
「ああよかった……! 生きてた! よかった! ケイッティオが、あなたが死んだと思って――」
「死んだよ?」
おれの声に、ギリヴの声が青ざめる。
それを、おれはなんだか可笑しい気持ちで眺めて、笑っていた。
「ハーミオネが死んじゃった」
森の入り口から、レレクロエがケイッティオをおぶってゆっくり歩いてくる。
その切れ長の、赤紫の眼と視線がかち合った。
「知ってたの? あの人が死ぬって。知ってたんだ」
動揺も何もない、レレクロエの静かな眼差しに、おれの喉からは堰を切ったように毒が漏れていく。
ああ、ハーミオネ。あなたったらさ、完全に浄化しきれてないよ。
どうせなら、一緒に連れて行ってほしかった。
「なあ、どうして?」
「自分の胸に聞きなよ」
レレクロエは、静かな声で応えた。まるで、話しても無駄だ、と言うように。
「八つ当たりされても知らないよ。ハーミオネから目を逸らし続けたのはそっちだろ。僕が知っていたから、こうなるって予測してたからって、それが今の君の気持ちと何か関係がある? 甘えないでよ。ほら、」
レレクロエは気絶しているケイッティオを地面に下ろした。それを慌ててモンゴメリが支えようとするのを、おれは何故だか、とても冷えた気持ちで眺めていた。
「君が死んだかもしれないって、ケイッティオは混乱して、もう少しで死ぬところだったよ。彼女の力が暴発したせいで、敵側は全部だめになっちゃった。本当に、死ななかったのが不思議なくらい」
レレクロエはそう言って、おれの目をまっすぐに見つめる。
「もっと自分の命を大事にしてよ。君だけのものじゃないんだってば。なんで辛いなら辛いって言わないの? どうして誰も何も言っていないのに、自分からわざわざ爆弾を呑みこもうとするの? 自虐に浸ってんの? 馬鹿じゃないの?」
「馬鹿だから、」
目の前が霞んで、何も見えない。
「大事な人を、失ったよ」
自分の声じゃないみたいに。
自分の想いじゃないみたいに。
自分の身体もなくなってしまったみたいに。
もう、おれはどこにいるのかわからない。
頬を、頭を、体中を、ただの雨が濡らしていく。
もうおれを傷つけてくれさえしてくれない。意味もないただの、瑞々しい雨。
世界を湿らすだけの、雨。
今更気づいたってもう遅い。
ねえ、ハーミオネ。
おれは、どこで死に場所を見つければいい?
馬鹿だなあ。
おれは死にたかったし、あなたはおれを死なせたくなかったなら、言ってくれたら。
一緒に逃げ出したのに。
この場所からあなたと逃げ出したのに。それでもよかったのに。
馬鹿だなあ。
そんなことも思いつかなかったなんて、それなのに独りで勝手に死のうとしてたなんて、
本当に、
ケイッティオが睫毛を震わせて、おれを見つけた。
弱々しくおれの頬に手を伸ばそうとする。
おれはその手を取らなかった。
どうして泣いているの、ケイッティオ。
泣かなくていいんだよ。
おれにはもうもったいないや。
大事な大事な、おれの妹。
大好きだった、女の子。
この子を置いて、いこうとしました。
ごめんね、ケイッティオ。
おれの大事な思い出は、全部あの砂の街にあった。
それなのに、置いて行ってごめん。
覚悟もなかったのに、ただついてきて、
今はもう、後悔しかないや。
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