雨霞む世界
レレクロエと呼ばれる男の子が、最後のマキナレアとして私達に合流した。
鮮やかな若草色の髪と、赤紫色の瞳。
私達は皆、元の体をベースにしているはずなのに、どうして彼だけがそんな不思議な姿をしているのかわからなかった。あるいは、初めて、ヨーデリッヒは一からマキナレアという肉体を作ったのだろうか。
何も教えてはもらえないのだから、仕方がない。
ミヒャエロで最後にする、と言っていたはずなのに、どうして彼は私達を六人にしたのだろう。しかも、当のミヒャエロは記憶を改竄されてしまって、特にそれを深刻に受け止めてはいない。
何か意図があるのだろうに、それが私達にはわからない。けれど、理解しようという気にもなれない。
何故なら私達はただの絡繰りだからだ。
記憶と言えば、一つだけ気になることがあった。
他の皆は、記憶が混乱しているように思う。
自分であった記憶を失ってしまっている。私達が、元は人間だったということだ。
自分の意思だったり、あるいは意思とは違うところで、もう二度と成長をすることもない、人と同じ姿をしているだけの何かになってしまったということを理解している人間は――いや、覚えている人間がいないのだ。
なのに、私だけが覚えている。
記憶の改竄に失敗したのだろうか。
私も、何かは失ったという事だけはわかるけれど、覚えていることがたくさんあった。それとも、忘れてしまったことすら気づけないでいるだけなんだろうか。
私はそのことを黙っていた。レレクロエの出自は正直気になったけれど、それを彼に聞いてしまうのは違う気がして、見て見ない振りをしていた。
そんな時だ。
彼は――ヨーデリッヒは、私を呼んだ。
正確に言えば、私達を永い眠りにつかせる最後の仕上げとして、彼は私達の一人一人と一対一で話をしていたのだ。
いわゆる、カウンセリング、というものだと思う。
私も――ミヒャエロが私の乗った馬車に下敷きになった後、しばらくは医者にそれをされていたから。
でも、されたからどうなったというわけでもない。
私の中で、あれはやっぱり、忘れることはできない出来事だ。
あれのせいで、私の価値観は逆さまになってしまったのだから。
大好きだった父様が怖くなった。
そんな父様を好きでいる母様が哀れにも思えた。
そして私は、自分のことをとても滑稽なお人形だなと思うようになってしまったのだ。
ずっと、子供らしくない子供だと言われてきたのに。
無邪気に子供が笑うように笑うこともなく、怪我をしても泣くことはなくて。
なぜなら、私が泣けば、その原因である誰かがひどく罰せられるのを知っていたからだ。
私はレデクハルト様に嫁がされるためだけに育てられた。
美しくありなさいと、そして、いつか彼の子供を産むようにと。
それについて何も疑問は持たなかった。持つはずがないのだ。他に世界を知らなかったのだから。
けれど、レデクハルト様は別の女の子だけを見つめていた。
私はそれが悲しかった。けれど、寂しいとは思わなかった。
ふと考えたのだ。私は今まで、誰かをそんなに見つめたことがあるだろうかと。誰の顔も、記憶がぼやけて思い出せない。
私が唯一覚えていたのは、ミヒャエロだけだった。
いつしか、目に映るのは彼の後姿ばかりだった。それはきっと、私が初めて求めたものだったのだ。
私は、どうしたらいいかわからなかった。
子供らしくしてこなかった罰だ。
私は、私の気持ちを外に出す術を知らない。
*
「ようやく、私の番かしら?」
ヨーデリッヒの部屋に入って、私はそう言った。
「私を最後に呼ぶだなんて、珍しいわね。何か理由はあるの?」
「君って、妙に頭でっかちだから嫌いだよ」
眼鏡を外して、ヨーデリッヒは事もなげに言った。
「もちろん。薄々気づいてただろ?」
疲れたような声。そういえば、と私は話題を変える。
「レレクロエってあなたに話し方が似ているのね。人を無表情に眺めるときの目なんかもそっくり」
「そうなるように作ったからね」
ヨーデリッヒは興味がなさそうに答える。
「本題に入るけど」
「冷たいわね」
「そんなの、元から知ってるでしょ。僕は基本的にお前たちには興味がないんだから」
私は言葉に詰まる。
「君は記憶がちゃんと残ってるんだからわかるでしょ。僕が君についていじったのは、常識だけだよ。いつまでも人間気分でいられたら困るからね。君は、浄化の力をもっている。だから、君には教えておかなければならないから」
「どういうこと?」
「だからね、君が人間だった頃のことも覚えてるなら、君が僕にした約束も忘れてないだろ、って言ってるんだよ」
私は黙っていた。
私を人ではないものにしてくれるなら、私はあなたのいう事を何でも聞くと言ったわね、ヨーデリッヒ。
あなたの、絶対的な協力者になると言ったわ。
今でも、どうしてそんなことを言ったのかわからない。けれど、後悔はしてない。
私は、貴族の娘にしかなれない、子供になりきれない子供である自分が嫌だったのよ。
子供だとか大人だとか、女だとか、そんなものから、もう消えてしまいたかった。
「君たちは、それぞれに違う力を持っているだろ。与えた薬は同じものなのに、ベースとなったものも同じ人間なのに、どうしてそんなにも能力が質的に違うのか、ずっと考えていたんだ。それで、他の五人とも話していて僕なりに分析してみた。君たちの能力は、君たちの精神で大きく比重を占めているものに由来するのかなっていうのが僕の推論だよ」
「どういうこと?」
「たとえば、君は君の乗った馬車がミヒャエロを轢き殺してしまったことに、非常な精神的な傷を負っている。彼を助けたいと強く苛まれていた。どうしてそれがレレクロエのように修復の力ではなくて、浄化の力になったのかは面白いところだけど、君は前にその話をしたとき、彼の傷口に砂がたくさんまとわりついていたことをとても気にしていたから。とにかく傷口を洗ってあげたかったんだろうね。まあ、僕としてもレレクロエとは違う力になったことも、君自身のその能力自体もとても都合がいい」
ヨーデリッヒはインクで真っ黒になった紙を眺めながら淡々と言った。
「ケイッティオは両親の暴力や虐待のせいで感情を極端に押し殺そうとしていた。多分、彼女の場合は自分の全てを奪ってしまいたかったんだろうね。聴覚だったり、視覚だったり、嗅覚や痛覚……味覚もだったかもしれない。食事も腐ったものを食べさせられていたようだしね。ミヒャエロは理不尽に対しての怒りをぶつける先もなかったし、守りたいものを思うように守りたいという愛情の裏で、守れない自分に対しての嫌悪も強かった。彼の場合は特に自分を見失っているようなものだから、あんな能力でもおかしくないんだろう。ギリヴはそもそも元から劣等感が強かった。自分の置かれている環境を、深層心理ではとても憎んでいて、ずっと壊してしまいたいと思っていた。彼女を弄ぶ人間を殺してやりたいと、自分ですら気づかないところで思っていたんだろう。それがそのまま彼女の能力につながっている」
ヨーデリッヒは疲れたように言った。
「遡れば、レディだってそうだ。そもそも彼は、男女が欲望のままに性行為をして、子供が生まれてもいらないものとして捨てられるようなそんな怠惰な環境で生まれてる。赤子は元々庇護欲をそそるようにできているものが、その庇護欲を過度に刺激するようになったとしても何の不思議もない。彼の場合はそれが行き過ぎただけだ」
「そういえば……どうしてあの人だけ、モンゴメリなんて新しい名前をつけたの? どうせみんなの記憶を消してしまうなら、別にレデクハルトでもよかったでしょう」
私はずっと気になっていたことを尋ねた。ヨーデリッヒは少しだけ穏やかに笑った。
「ああ、あれ。だって、そもそもレデクハルトって、教会のやつらが彼に与えた別名さ。それに、彼は本来マキナレアじゃない。オリジナル、人間のままだ。このままいけば恐らく君たちとは違って成長もするし、そうなれば嫌でも自分の記憶を甦らせることにもなりかねないだろ。そもそも僕が君たちに施していたのは記憶を閉じ込める催眠のようなものであって、完全に記憶を消したわけじゃない。それだったら、少しでも記憶が戻るような要因は排除しておいた方がいいじゃない」
「その割には、【
小さな不快感を感じて、私は顔を歪めた。
「だって、彼は僕のたった一人の世界の王様だったから。いい名前だろ?」
ヨーデリッヒは笑った。
「とにかく、そうやってそれぞれ違う能力を開花させているわけだけど、この六つの力が集まれば、僕は君たちが本当に世界を正しい形で救うことも不可能じゃないんじゃないかなって思うよ」
「正しい形って……それは誰にとって?」
ヨーデリッヒは笑みを崩さない。
「それはあなたにとって? それとも、人類にとって?」
「レディの望む世界にとって、だよ」
ヨーデリッヒは静かに言った。
「彼の守りたかった世界を守るということだ」
「そう」
私には、レデクハルト様が、何を考え、感じていたのか、もう知る術はない。彼はもう、モンゴメリという別人になってしまったのだから。
「本当に、用意周到ね。あなたって、別の時代に生まれていれば道も踏み外さなかったかもしれないわ」
「道を踏み外してるつもりはないよ」
ヨーデリッヒは柔らかく笑った。
「それに、君たちの能力については未知数だったし、本当の偶然だよ。嬉しい偶然って、本当にあるんだなあと喜んでいるところさ」
「そう」
私は嘆息した。
「それで? 私だけ記憶の改竄を中途半端にしたのにだって意図があるんでしょう?」
「もちろん」
ヨーデリッヒは笑った。
「君たちの能力は、世界のためにあるんじゃない。君たちを世界から守るためにあるだろう」
不意に、彼はそんなことを呟いた。
「どういう、こと?」
「ずっとね、不思議だったんだよ。【神様の設計図】が体の芯に眠っている。それなら、外側の体はさっさと壊れてしまうような脆弱なものだったらよかったじゃないか。そうしたらきっと、今頃世界は神様の思うとおりの世界になっていたはずなんだ。それなのに、まるで設計図を露わにするのを拒むように、レディの体は再生を繰り返した」
ヨーデリッヒは静かに言った。
「ずっと考えていた。その再生力は、何のためにあるんだろうって。レディの眩惑の力は、何のために必要だったのかって。でも、今なら僕は思うんだよ。君たちの身体は、君たちを壊そうとする外の力に対抗しているのかもしれないって。逆に言えば、君たちがその能力をすべて枯渇させないことには、【神様の設計図】は世界に姿を現すことができない。それをもし人間達が知ったら、是が非にでも君たちを攻撃するだろう。彼らはまだ未だに、恐ろしい兵器を、世界を壊せるほどのものを手放していないんだから。そうしたら、いつか君たちは再生力も追いつかなくなって、死んでしまうだろう。その時こそ、君たちの終わりであり、神様の時代の終わりであり、世界が救われる日になる」
ヨーデリッヒは羽ペンを床に転がした。床に、血痕のような形の黒い染みがつく。
「最近、僕は思うんだけど、もしかしたらその設計図とやらは悪魔がくれたもので、それに対抗するために天使が対抗する能力を与えたのかもしれないよ。ああ、逆かもしれないね。もしかしたら神様が敵なんだろう」
「あなたにとっては、神様も悪魔も地獄も天国も、大差ないでしょうね」
「そうだよ。僕にとっては、レディだけが全てだった」
「そのレディ、も、もういないわ」
私は静かに言い捨てた。
「あなたが消してしまったのよ。あなたのレディを。あの人はもう何も覚えてないわ」
「それで正解だから」
ヨーデリッヒはただ柔らかく、肩の荷が下りたような笑みで笑った。
「僕は、君たちに飲ませたこの毒薬を使って、世界にアムリタを降らせようと思うんだ」
「アムリタ?」
聞きなれない言葉に、私は眉根を寄せる。
「今は海の底に沈んだ国の一つにあった、不老不死の妙薬の伝説だよ。この場合は……そうだな。今ある世界と、君たちの不老不死のための薬、ってところかな。いわゆる、
「………そういうこじつけが本当に好きね」
「こんなことでも考えないと、やっていけないんだよ」
ヨーデリッヒは疲れたように目を塞ぐ。
「それで?」
私は先を促した。
「そのアムリタとやらを、何のために降らすのかしら」
「君たちが、君たち自身の最期を決める時間をあげるためだよ」
……ヨーデリッヒの目の下の隈は、もう二度と消えないくらいに深く紫に染み付いてしまったわ。
私は彼をとても哀れに思っていた。
何が彼をそこまでさせるのか、やっぱり私には理解ができなかった。けれど、ようやく彼が
「アムリタは、」
ヨーデリッヒは、擦れた声で呟いた。
「君たちを苛むだろうけれど、同じように人類も苛むだろう。苛まれた人類は、君たちをせめて壊すこともできない。あとは僕がうまくやるよ。僕の仕事は、これからだ。人の心に、マキナレアを救いとして遺すから」
「私は、何をすればいいの?」
私は静かに答えた。
ヨーデリッヒは首を捻らせ、私をしばらくじっと見つめていた。
「君だけが、
私は、黒く黄金虫のように輝くオーロラに手を伸ばしていた。
その手に、私の顔や首に、静かにアムリタが降り注いでくる。
私に痛みを教えてくれたアムリタ。
私の新しい恋を守ってくれた寂しいアルケミストよ。
私はとても幸せだったわ。
けれど、あなたのせっかく用意してくれた時間は、そんなに長くはもたなかったわね。
ごめんなさい。
私は、貴方の願いを、結局守ることができない。
せめて私は、
私が最後に愛した大好きな人だけを守ろう。
核を呑みこんで蹲ったミヒャエロを、私は抱きしめた。
最期に、やっと、一度だけ、あなたに触れることができた。
それだけが私は嬉しくて、悲しい。
あなたにもっと早く、触れたかった。
ミヒャエロが目を見開く。彼は何かを私に語りかけたけれど、私の聴覚はもう働くことはなかった。
もう彼の顔も、アムリタに滲んで見えない。
ああ、そうね、もうこの雨は、アムリタでさえなくなってしまうわ。
たった一人の大好きな女の子に愛されたくて、飢えていた子供の様なあなたが、
なぜだかとても好きだった。
滲む金色が、目に染みこんで、溶けていく。
ああ、ここは私達の大事な場所だった。私達は、ここで、世界と共に確かに存在していた。
アムリタと共に、私の意識は霞んでいく。
「大好き」
声は擦れて、消えた。
最期に私の目に焼き付いたのは、私を包み込む鈍い青の煌きだった。
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