瞼を閉じる日
「お前、誰だ」
どうしてそんなことばかり聞いてしまったのかはわからない。
俺はこいつのことを覚えていない。そうだ、モンゴメリという名前をもらうまで、会ったことなんか一度だってなかったのだ。
でも、たとえそうだとしても。
俺の我儘と、ヨルダの執着のせいで、巻き込んでしまった一人だという事実に変わりはないのだ。
それなのに、俺は【ヨルダに裏切られた】という想いから離れられなかった。
否、そんな子供じみた考え方から抜け出したかったのだ。
ヨルダを信じられなかった自分が、そしてヨルダに信じてもらえなかった自分が、ヨルダに一人背負わせたまま、彼を残していった自分が、そんなことを思っている自分が。
目の前にいる、俺の名前を持っている少年が、誰なのかわからない。たったそれだけのことさえ、俺をかき乱した。
まるで、今まで目を逸らしてきた自分自身を見つめているようだった。目の前にいる得体のしれない人間は、そのまま俺自身の鏡なのだ。
レレクロエは口角を釣り上げ、蔑むような笑みを浮かべていた。
「言ったところで、君が僕をわかるの? 狭い世界で生きてきた小さな救世主さん」
レレクロエは柔らかい声音でそう言った。
「違うでしょ? 君が僕の正体を知りたい理由は何? 別に僕がどこの誰だったろうが、本当の名前がなんだろうが、本当はどうでもいいだろ? 君が本当に知りたかったのは何? 知らなければいけないことは何なの? それさえもわからない?」
レレクロエの口元から笑みが消える。
「本当に、自分のことばかりな人ですね、あなたは」
冷たい眼差しと、その言葉遣いにはっとする。それは、その表情も、話し方も、とても懐かしいのに、まるで異物の混ざったような感覚に囚われる。
「一つだけ教えておいてあげるよ。まあ、あんたも可哀相な子供だからね」
レレクロエは涼やかな声で告げる。
「僕があんたの名前をもらったのは、あんたのせいだよ。僕はあんたの都合で、あんたのことしか考えていないあの狭量なヨーデリッヒのせいで、名前を奪われたんだ。僕はもう、あんたに名前を聞かれたところで、答える名前なんて持っていないよ。僕は僕の名前を手放して、あんたとヨーデリッヒを受け入れると決めたんだ。僕は、ヨーデリッヒとあんたを受け入れるだけのただの器だ。僕はヨーデリッヒそのものだよ。たとえ、顔も姿も本当の名前も存在も違っていたとしても、僕はヨーデリッヒであるし、あんた自身のレプリカだ。僕はそうやって生きることを決めたから、こうしてここにいる。勘違いしないでよ? ヨーデリッヒが僕をレレクロエと呼んだのは、お前を騙すつもりでも、あんたの居場所を奪うつもりでもないから」
レレクロエは表情を消して、俺を睨んだ。
「あんたの居場所を守るためだよ。そのために、レレクロエと呼ばれるもう一人のあんたが、僕が、ここにいるんだ。あの馬鹿は、あんたがあいつにだけ教えたあんたの名前だけが宝物だった。君ならわかってもよかったんじゃないの? 自分自身がいらなくなるくらい嫌いだったんだろ? だから未だにそうやって世界からも自分からも目を逸らして、目を隠して、自分を隠して生きているんだろ? ヨーデリッヒとあんたは似た者同士さ。あいつにとっての自分は、あんたの教えてやった【レレクロエ】だけが真実だった。だから、」
レレクロエはそこでふう、と小さな息を吐き、幾分か声を和らげる。
「……【僕も行く】という言葉に嘘偽りはない。ヨーデリッヒは【レレクロエ】をあんたと同じ世界に送ることで、その約束を守った。ヨーデリッヒの記憶を受け継いでいる【レレクロエ】というマキナレア―僕はそれ以上でもないしそれ以下でもないよ」
「どうして……」
俺は呟いた。レレクロエは首を傾げる。
「それは何に対しての疑問? ヨーデリッヒが僕なんかをここに残した理由? それとも僕がわざわざそんな器になった理由? それとも、」
レレクロエは少しだけ笑った。
「僕なんかが選ばれた理由?」
俺は答えられなかった。何を聞いたらいいのかもわからなかった。
だって、こんなの。
どうしてこんなに、さっきまでの怒りが、消えてしまったんだろう。
喉の奥から、言葉が込み上げてくる。
ヨーデリッヒ。
ヨーデリッヒ、と、その名前を呼びたい。会いたかった。
「君ってさ、」
レレクロエの言葉に、はっと我に返る。
「何だよ」
「うわ、何その間抜けな声。気色悪」
レレクロエは、本当に気色が悪そうに顔をしかめた。
「君は、本当にどうやって自分が死んでいくことになるのか、本当の意味でわかってるの?」
「え?」
俺は言葉に詰まった。そんなもの、わかっているに決まっている。物心がついた時から、ずっと覚えていたのだから。いつか俺がたどる未来は、なんとなくでも、見えていた。
いつか取り残していくこと。置いていくこと。置いていかれること。
「本当に?」
レレクロエは首を傾げたまま尋ねる。
「僕は、そうは思わないよ」
静かに、そう言う。
「死ぬってことが、置いていくということが、どういう事なのか本当にわかってる? あなたはそれで、本当に救世主になれると思う? 僕はね、」
穏やかな声で、
「レレクロエになる前の、ただの僕は、ちゃんと置いてきたよ」
その瞳はとても凪いでいて、
「残していく、ってどういうことかわかる?」
俺はその時、ようやく、目の前にいるこのレレクロエが、俺の知らない誰かであることを、
俺の鏡像なんかではなくて、俺が俺自身を映さなければいけない鏡なのだと、胸の最奥で理解した。
レレクロエは静かに目を閉じる。まるで森の音に耳を澄ますかのように。雨の音に聴き入るように。
「死ぬことも、残していくことも、全部それは、悲しみを置いていくってことだと僕は思うよ」
レレクロエはそう呟いた。
「あなたは、それを知らなければいけないよ。あなたのために犠牲になる子達がいるんだから。今日、多分、誰かが死ぬよ。あなたは嫌でもそれを見て、学んでくれなきゃ困るよ。世界を救うなんて綺麗事だ。ヨーデリッヒは最期の最期まで、世界を救うためにマキナレアを遺したのだと信じていたけどさ、いや、あいつはそれでいいと思うんだ。そうでもなきゃ、あいつはとっくに生きていられなかったよ。今こうして僕達が目を覚ましていられるような世界を僕達に遺したんだ。たとえそれが、あんたのため、っていうただの傲慢だとしても。狂ってたとしても、さ。でも、それじゃだめだよ。あんたは救世主だろ。神様が選んだ救世主なんだ。それじゃだめだよ。それを教えてやれるのは、多分ヨーデリッヒじゃ無理だったよ。それを自分でもわかってたから、あいつは自分自身をここに遺さなかったんだ。僕という赤の他人に【ヨーデリッヒ】という人間の記憶を植え付けて、あたかもヨーデリッヒのレプリカのように仕立て上げて、この未来の世界に僕を遺した。僕の気持ちがわかる?」
レレクロエは俺に歩み寄ると、俺の前髪を右の手で掻き上げ、俺の瞳を覗き込んだ。
「僕は、あんたのエゴも、ヨーデリッヒの傲慢さも、そしてこんなことをしてる自分も、全然いいとは思わないよ。でも、わかってやりたいとは思ったんだ。それで、僕にできることは何かと思うんだ。僕の願いも望みも、ただ一つだけだよ。僕はただ一人この世界に残って、あんたが死んだあとで救世主のレプリカになるよ。あんた達の思い出を抱えることができるなんて、僕くらいのもんだろうって、自負してるからね」
そう言って、レレクロエはふわりと俺から離れる。
「僕ってすごいでしょ? 赤の他人の記憶が混ざってんのに、とち狂ってないだろ」
俺は何も言えなかった。
それは本当にまともと言えるのだろうか。
俺にはわからなかった。
本当は、とっくに壊れてしまっているんじゃないかと、それが気がかりだったのだ。
そんなこと考える資格なんてないけれど。無意識のうちに、言葉が口から零れていく。
「ずっと、気になっていたことがあるんだ」
「何?」
「どうして、俺とミヒャエロだけに力を使わせたんだ? 俺達は戦いには不向きだ。人間が俺達を攻撃してくるなら、全員で守った方がそれぞれの負担が少なかったと思う。だって、もし俺とミヒャエロが力尽きたら、誰がその後あいつらを守れるんだ? 攻撃しかできないあいつらを。お前だって、回復しかできないだろ。守りには向いてない」
「回復なんてすごいことできるんだよ? もっと褒めてほしいくらいだよ」
レレクロエは淡々と言った。
「一度納得した癖に、ね」
「それは……俺も、ミヒャエロも……あいつらを守りたい気持ちは嘘じゃなかったからだよ」
「でも疑問はあったんだ?」
「もう、こんな体だからな」
俺は自分の、修復をやめてしまった穴だらけの腕を見つめる。
「だって、君たちが無理をしたらするだけ、あの子たちが君たちを守ろうとするでしょ」
「え?」
「ヨーデリッヒってさ、君が覚えているより、見ていたよりもずっと、狡猾なんだよ。全部予測してたんだ。誰が一番最初に死ぬだろうか、どういう順番で力尽きそうか、その場合、本当は誰を一番最初に死なせた方がいいか。死なせる順番はどうするべきか。そのために何をすべきか。全部があいつの計画通りだ。それも全部、【
レレクロエは静かに言う。
「こうやって、人間が最終的に僕達を敵とみなすだろうことも、その時に今までため込んだ兵器の全てを使ってくるだろうことも、全部見越してた。そうなった時、誰が最初に無理をして、違うな、勝手な自己犠牲の果てに死んでしまうかも、あいつは予想してた」
「待てよ」
血の気が引く気がした。
「それって、どう考えてもミヒャエロしかいないじゃないか! 止めなきゃ……」
「へえ」
レレクロエは冷たい声で相槌を打つ。
「どうしてミヒャエロだと思うわけ?」
「だって、あいつは……ケイッティオのためなら盲目じゃないか」
「そうだね。馬鹿の君にもそれくらいは解るか。あ、記憶が戻ったせいもあるのかな」
レレクロエは鼻で笑う。
「でもさ、それってよくないよね」
「え?」
「ミヒャエロってさ、いつだってケイッティオのため、ケイッティオのため、だろ。あいつほどのエゴの塊を僕は後にも先にも知らないよ。正直、ヨーデリッヒより酷いと思うんだよ。だからケイッティオがあいつを選ばないんだよ。ていうか、仮に選びたかったとしても選べるわけがないじゃないか。自分を大事にしないやつに、他人である自分を大事にしてもらおうとか甘えられるような子でもないだろ。そんな子だからこそミヒャエロも、あとあんたも、あの子のことが好きだったんだろうにさ。馬鹿じゃないの」
レレクロエは気怠そうに言った。
「あんたも知ってると思うけど、」
レレクロエは言葉を切る。
「あのヨーデリッヒってやつはさ、自分で思っている以上に、もしかしたらあんた以上に、ケイッティオに溺れてたんだよ。あんたがあの子を好きだったから、絶対に溺れないように気を張ってたんだ。でも僕から言わせたら、むしろ泥沼にはまってたよね。あいつの行動原理は表は【レディのため】、そして裏では【レディに愛されているケイッティオのため】、でも、正直に言えば、ケイッティオが好きだと自分自身にでさえか言えなかった自分のため、だよ。あいつがあんたのためだけに自己犠牲払ってたと思ったら大間違いさ。結局のところは全部が自分のためだよ。こじらせて歪んでしまった自分の気持ちのせいだよ。とにかく、ケイッティオを中心に考えたときに、ミヒャエロがそんなので死んであの子が喜ぶと思う? あの子が何も感じないと思う? そんなのもわからないミヒャエロに先に死んでもらっちゃ困るって話になるんだよ。だからさ、ヨーデリッヒはとある女の子の執着心――本当は純粋な恋心だったものに、つけこんだんだよ」
はは、とレレクロエはどこか自嘲するように笑った。
「でも、本当は誰より罪深いのは僕だよ。だって、そういうの全部分かってたのに、僕は僕の意思で、それを止めなかったどころか助長したんだから。後悔はしてない。僕も結局、君たちをどこかで恨んでるのかもしれない。本当は、誰よりも壊れてるのって、僕かもしれないね。だって、僕ってさ、なぜか全然心が痛まないんだ。哀れにも思うし、思いやりだってある方なはずなのに、全然心が痛まないでいられるんだ。僕ってちょっとケイッティオにも似てるだろ。あの子ほどの辛い思いも体験もしたことないのにね。強いて言えば、……強いて言えば、僕はもしかしたら、僕自身が最初で最後に好きになった女の子に、何も相談してもらえなくて、一人置いて行かれたことを、あの子が一人で行ってしまったことを、どこかで恨んでたのかもしれないって思うんだ。僕はさ、あんたにだから言うけど、あの子の最期を見届けたい、それだけのためにマキナレアになったんだよ。それだけのために、ヨーデリッヒなんかの記憶を受け継ぐことも良しとしたんだ。でも、それが一番綺麗事かもしれない」
「お前の好きな子って、」
けれど、レレクロエは穏やかに微笑んだまま、何も答えてはくれなかった。
「僕は、君が羨ましいよ。その眼を持って生まれてきたことも、そのせいで君という人ができたことも、結局は君自身が気付いてないだけで、君が大事にされていることも、羨ましくてたまらない。思い出してくれて、よかった。僕が何者なのか、きっと僕は誰かに聞いてほしかったんだ。誰もわかってくれない僕の話を、聞いてくれる人が欲しかった。ねえ、モンゴメリ、
僕達、友達になろう?」
レレクロエは笑った。
俺が、「本当の名前を教えてくれたらな」と言うと、レレクロエはただごまかすように苦笑しただけだった。
ケイッティオが、ギリヴが酷い怪我だからとレレクロエを呼びに来て、レレクロエはそのまま行ってしまった。
俺は、一人取り残され、雨の匂いに包まれながら、ずっと先の向こうを眺めていた。
この先で、きっと今も、ミヒャエロが空で戦うケイッティオを見つめている。
ずっと、彼女の背を見つめていたのを知っていた。知っていたのだ。俺が、ミヒャエロの居場所を意図的に奪ったのだから。目を逸らしていたのだ。ずっと、羨ましかったから。ミヒャエロが妬ましかったから。
最期に、話をしないといけない。
俺は、彼ときちんと話をしないといけないのだ。今死なせるわけにはいかない?確かにその通りだ。だって、俺は結局、今の今まで一度も彼をちゃんと見たことがなかったのだから。
【友達になろうよ】
レレクロエの言葉が聞こえる。そうだ、俺はお前達と、俺のせいでマキナレアになったお前達と、最期まで一緒にいたい。
俺は静かに、重たい足を引きずって歩いた。
爪先に泥の匂いを感じながら。
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