砂の街の子どもたち

【ふうん、じゃあ、あなたはマキナレアになったのに特に理由はないんだ】

【まあ、ね。強いて言えば、今までとても、窮屈だったの。私は私でないものになりたかった。それが、実験体を求めていた彼と利害が一致したのよ】

【ふうん】


【本当にそれだけだったの?】

【え?】

【ほら、あいつなんだか危なっかしいだろ。顔もいいしさ。てっきり、その】

【あら】


【私が、彼に恋したから彼に協力したとでも思ったの?】

【違うの?】

【嫌だわ。どうしてそんなこと言うのかしら。私、あんなの興味ないわよ】

【け、結構はっきり言うんだね】

【ふふ、貴族の娘なんて、これくらい腹黒くないとやっていけないんですもの】

【ふうん】

【どうして?】

【え?】

【どうして、私があの人が好きなんじゃないかと思ったの?】

【それは……】

【そもそも、私、これでも一応、レデクハルト様の婚約者よ?】

【あなたは、レデクハルトのことを好きなようには見えなかった。あいつも……あなたのことなんて見てないだろうし】

【そうね】

【その……】

【どうして?】

【うん……】


【だって、結構あいつ、もてるだろ】

【あら、具体的に誰のことを言っているの?】

【あの、ギリヴだっけ? あいつが連れてきた女の子だってそうだろ?】

【よく見ているのね。でも、あの子は別に、ヨーデリッヒを好きなわけじゃないわよ。嫌いでもないだろうけど】

【あ、えっと、そうか……そうなんだ】

【違うでしょ?】

【え?】

【あなたの妹のこと?】

【…………】


【ねえ、ミヒャエロ】


【あなたは、そのうち記憶も消されて、あなたじゃなくなって、ヨーデリッヒの記憶を入れられてしまうんでしょう? そうしたら、はどこへ行ってしまうの?】

【それは……】


【……わからないんだよ】


【でも、おれは別に、消えてもいいんだよ】

【どうして?】

【だって……】

【妹に見てもらえないことがそんなに辛い?】

【うるさいな】

【そういうのはね、自暴自棄って言うのよ】

【………】


【うるさいよ……何も……何も知らないくせに……最近来たばっかりだろ】

【ええ、そうよ。私はあなたのことも、あなた達のことも、何も知らない。だから】

【だから?】

【私にくらい、教えてくれない? いつか消えてしまうあなたのこと】

【………】

【誰が覚えていなくても、今だけでも、あなたのことを私だけでも知りたいわ】

【なんだよ、それ】


【どうせ、あんたも記憶は消されちゃうだろ】

【うん】

【大体、なんでおれのこと知りたいわけ? ちょっと気味悪いんですけど】

【そんなの……】


【わかるでしょ? あなたはそういうの、よく見てるじゃない】

【………】


【意味、わかんない。なんでおれだよ】

【私もわからないわ。でも、こんな記憶もどうせ忘れてしまうの】


【いいの。私、あなたが彼女だけしかいらないことくらいは、わかってるから。記憶が消えれば、こんな楽なことはないわ】

【………】


【記憶、消えるんだよね?】

【ええ】

【じゃあ、もしおれが、話したとしても、忘れてくれるんでしょ?】

【多分】

【多分って、なんだそれ】

【笑わないでよ。だって、本当に実感がないのだもの】

【あはは】


【いいよ。話すよ】


【大した話でもないけど、絶対忘れてよね。あなたならわかるでしょ】


【こんなの、もう忘れてしまいたいんだ】




     ***




 おれは、どこかの貴族の古びた屋敷の中で暮らしていた。

 どの貴族だったかは覚えていない。ただ、鈍い金色の調度品が並ぶ中で、床に這いつくばって床を磨いていたことだけが、あの頃のおれの記憶だ。

 道端で暮らしている子供たちに比べたらちゃんとした服をもらって、けれどそれも、何度も洗濯をしているうちによれて黄ばんでいた。

 毎日汗だくで働いていた。主は、俺のことを鼠か何かと同じような眼でしか見なかった。使用人なんて、偉い人から見たら、その程度だったのかもしれない。

 母親は、給仕をしていた。主の目の前に、飾り立てられた皿を並べ、主が何かを零した時にはそれを拭いた。おれは、大の男のくせに、食事後の口の周りを母親にふかせるその男が、大嫌いだった。

 母親は、主にことあるごとに声をかけられていた。けれど主は、おれのことは見えていないふりをしていた。おれはそれが気持ち悪くて気持ち悪くて、早く大人になりたい、そうしたら、おれが母さんを守ることができるのに、と思っていた。


 ある日の夜だった。


 夜中を過ぎて、母親はそっと外へ出て行った。いつまでたっても戻らない。こんな夜更けに、どこに行ったのだろう。またどこかでこけて、動けなくなっているんじゃないか。おれは不安が募り怖くなって、まわりの使用人を起こさないようにそっと起き上がって、母親を探しに行った。

 いない。どこにもいない。

 真っ暗闇の中でべそをかいていると、ひとつだけ灯りが鈍く漏れる部屋があった。主の部屋だ。

 一介の使用人が、主の部屋を用もないのに訪れるなんて許されない。だけど、だけど。

 助けてください、と、あれだけ嫌っていた男に、おれはすがりたかった。震えながら、その扉へと歩いていく。

 けれどその途中で、おれは、ふと足を止めてしまったのだった。

 部屋から漏れる、押し殺したような声に、血の気が引いた。

 ――母さん……!

 どうしてあの男の部屋にいるんだろう。どうしてそんな、苦しそうな声を出しているんだろう。苛められているんだろうか。ああ、どうしよう。

 助けを呼ぼうかとも思ったけれど、また戻っている間に、母さんが傷つけられたら、と考えると、怖くて怖くてたまらなかった。おれは、そっと扉の取っ手に手をかけた。声が大きくなる。

 ああっ、という声がする。母親の声だった。

 隙間から見たその母の横顔を、忘れることができない。

 主に組み敷かれ、肌をあらわにさせて、母親は上気した顔で主の頭を抱いていた。とても幸せそうな顔で。

 おれは恐ろしくて、そのままがむしゃらに暗い廊下を走った。心臓が、嫌な音を立てている。体中から血の気が引いている。

 寝床に戻り、震えていたおれに、隣りにいた女が眠たげな声で言った。

「あーあ。ばかだねえ。放っておけばいいんだよ。あんたのおっかさんは、あの男とできているんだ。お前だって本当はあの男の子供なんだよ。けれど、体裁が悪いからお前は使用人としてここに住まわせてもらっているんだ。そうでもしないと奥様がお前達を殺しちまうよ」

 何を言われているのかわからなかった。

 おれが、あいつの子供? じゃあ母さんは?

 母さんは、

 実の子供をごみのように扱う男といる方が幸せなのか?

 おれなんか、本当はいらないのか?

 どうして、おれは母さんと主の子供なら、母さんは毎日働いているんだ?

 奥様は毎日遊んで暮らしているのに。

 あんなに派手な小奇麗な服を着て、宝石をつけているのに。

 どうして、母さんは。


 おれが、望まれていない子供だと理解するのに、そう時間はかからなかった。


 あとはあっけない。


 ほんとうにあっけなく、母親と主の密情は奥様にばれた。


 むしろ、よくもここまで気づかれなかったものだと思う。子供まで作っておいて。その子供を目の前でちらつかせていたのに。

 奥様は母親を精神的にいたぶった。殺されなかっただけましだろうと思う。なのに、母親は勝手に精神を病んで衰弱し、あっけなく死んでしまった。

 おれは、奥様からさんざん鞭で叩かれ、道に捨てられた。



 あの男は、最後までおれを助けてはくれなかった。



     ✝



 生きるためには塵も食べなければならないこと、鼠や鳥を捕まえる必要もあること、時には盗む勇気もいること。

 けれど捨てられたばかりのおれにはまだ、店から食べ物を盗む勇気は出なかった。

 吐き気と戦いながら、鼠や猫を捕まえて、食べる。

 人の捨てていった食べ物や汚物に這いつくばる。

 自尊心なんて、もうぼろぼろだった。

 周りの子供たちは、今日はたくさん食べられたと幸せそうに笑う。

 けれど、おれは、ここまでして生きている意味はあるんだろうかと、それでも感じる空腹を苦々しく思いながら、毎日を過ごしていた。

 ここに来て、どれくらいそうして過ごしていただろうか。

 屋敷の厨房に行けば、可哀相に思った以前の使用人仲間が食べ物を分けてくれるんじゃないか、と思ったこともある。

 けれど、可哀相と思われるのも嫌だったし、何より、あそこへは戻りたくなかった。

 母親の思い出が多すぎる。

 おれには母親なんていない。おれはきっと、生まれた時から一人だったから。

 ああ。

 母さんに、母さんが死ぬ前に、

 おれを産んでよかった?――って、

 聞いておけばよかった。

 聞いていたら何か違っただろうか。もうわからない。

 それでも、少しはおれのことを愛してくれていたんじゃないかという、考えても仕方のない希望から頭が離れないのだ。

 おそらく、頭がぼうっとして、少しうつらうつらとしていたのだと思う。

 おれがもたれている壁と路を隔てた向こうの壁に寄りかかる、見慣れない女の子がいた。

 顔や足にあざができている。

(可哀相に。盗もうとしたのかな)

 そこまで考えて、その子の履いている靴に目が行った。

 殆ど履きなれてなさそうな、真新しい革。

 よく見ると、洗濯のされた綺麗な服を着ている。

 ああ、この子はおれとは違うんだな、と寂しい気持ちになった。

 けれど、その腫れた顔も気になった。

「あの……」

 立ち上がって、声をかけた。

「その顔、どうしたの?」

 女の子は、おれをきっ、と睨みつけた。とても警戒されている。

「おいで。水で洗おう」

 おれが手を伸ばしても、女の子は膝を抱えて座り込んだまま、ピクリとも動かない。

 おれは自分の場所に戻って、壺に溜めたわずかな雨水を汲んだ。

 ほとんど雨が降らないこの土地では、雨水は貴重な資源だ。本当は、これは自分のためにとっておいた方がいいのだ。この一杯だけで、一週間くらいもたせることができるのだから。

 だけど、おれのために水を使うよりも、この目の前の女の子のために使う方がずっと意味があるように思えた。女の子はきっと、ちゃんとした両親のもとで育てられているのだ。おれみたいな親なしの、生きていても死んでも差の無いような人間とは違うのだ。

「ほら、これで傷を冷やして。砂もついているから、綺麗にしようね」

 女の子はちらり、と水を見たけれど、ぴくりとも動かなかった。

 おれは嘆息して、比較的綺麗な布きれを探すと、それを水に浸して女の子の顔を拭いてやった。

「ひどい痣だね。転んだの? 大丈夫」

 女の子は顔を歪めて泣きそうになった。

「そっか……痛かったね。あとは家に帰って、ちゃんとお母さんとかに手当てしてもらいなよ?」

 お母さん、という単語にちくり、と胸の奥がうずいたけれど、気づかなかったふりをした。

 女の子は戸惑ったようにおれを見つめると、随分と長い沈黙の後で、ようやく口を開いた。

「いや」

 その声が、まるで鈴鳴りのように綺麗で、おれは少しだけぼうっとしていた。我に返って、聞き返す。

「どうして?」

「おかあさんの方が、けがだらけ。なのに、おかあさん、いつもわたしのてあてばかりする、おかあさんがしんでしまう」

「そんな……」

 おれは、言葉に詰まる。どういう事なのかわからない。どうして、こんなにかわいい服を着た女の子の口から、そんな言葉が出てくるのだろう。

「あの、どうしてお母さんは怪我をしてるの?」

「おとうさんが、」

 女の子は唇をきゅっと噛みしめた。

 その大きな目から、涙がぶわっとこぼれおちる。

 女の子は長いこと泣いていた。声を決して漏らさず、ときどき肩をひくつかせながら、ただ静かにぽろぽろと泣く。

 その姿は、なんだかとても綺麗だとおれは思った。脳裏に、母さんのあの時の赤らんだ顔が浮かぶ。

 あれに比べたらずっと静かで、控えめで、とても綺麗だ。

「お父さん、どうしたの?」

 おれは、たまらず尋ねていた。

 女の子は、小さな唇を震わせて、とても小さな微かな声で呟いた。

「おかあさんを、なぐるの」


 大人ってそんなもんなんだな、とおれは思う。

 思えば、主だった男も、母さんに跨って、母さんを痛めつけていた。なのに、母さんは幸せそうだった。

「きっと、君のお母さんも、それで幸せなんじゃない?」

 おれは、自分の身の上を少しだけ話した後で、そう言った。

「そうなの?」

女の子はぐすっ、と鼻をすする。

「うん。わからないけど。それで、どうして君はそんな怪我をしたの? お父さんが殴ったの?」

「ちがう。おとうさんはおかあさんをなぐったり、ものにあたる。だからときどき、おとうさんのなぐったものがわたしにあたってしまう」

「そっか」

 おれは彼女の頭を撫でた。痛かっただろう。きっと。おれの受けた鞭なんかより、ずっと痛いだろう。おれだって、母さんに昔叱られてぶたれた時は、痛くてたまらなくて泣いた。

 親からうける傷は、ほかのどんな傷より、きっとずっと痛い。

 頭上で鳥の羽音が聞こえる。見あげれば、空は赤みを増していた。

「ああ、もう遅くなったね。そろそろ帰らないと暗くなるよ」

 おれがそう言うと、女の子はどこか思いつめたようにおれの服をきゅっ、と握った。

「えっと……」

 おれは回らない頭でのろのろと考える。

「じゃあ送って行ってあげようか? 一人は怖いだろ?」

 女の子は小さくうなずいた。一人でこんなところまで迷い込んだくせに、なんだか可笑しいんだな、と思ったら、おれはくすくすと笑っていた。

 おれは女の子の手を引いて歩いた。

「おれの手、汚いからさ、べたついてるだろ? 気持ち悪かったらごめんな」

 女の子は首を横に振る。少しだけはにかむように笑うその顔を見て、おれはなんだか温かい気持ちになって、笑った。

 歩きながら、とりとめのないことを話した。

 何がおいしかったとか、夜が怖いこととか、一人にはもう慣れたけど、たまに寂しいし、怖いという事。

 女の子は名前を小さな声で教えてくれた。

 ケイッティオ。霞草という意味だ。

 ――ああ、あの花か。

 とても似合うなあと思いながら、おれの気持ちは少しだけ高揚していたのだ。



     *



 どこに行っていたんだと、

 男はケイッティオを張り飛ばした。

 目の前で飛び散ったケイッティオの血に、おれは目の前が真っ白になった。

 どういうことなんだろう。この人は、ケイッティオの父親じゃないのか。

 父親からは直接の暴力を受けていないと言わなかったか。あれは嘘だったのか?

 それとも、今日になって、この男はついに実の子供にまで手を挙げたというのだろうか。

 ああ、実の子供、だなんて。

 そんな肩書き、意味がないんだって、おれが一番知っているじゃないか。

 頭から血を流すケイッティオを尚も掴んで殴ろうとする男に、おれはがむしゃらにしがみついた。

 なんだこの汚い餓鬼は、という音が聞こえる。

 浅黒い大きな拳が、おれの目の前にあった。

 ――あ。

 死んでしまう、と思った。

 身体が動かない。

 その時、誰かが、細い体でその男に思い切りぶつかった。

 ケイッティオと同じ白い髪の女性だった。

 男はよろめく。

 男は激高し、その女性を殴り、何度も何度も蹴って踏みつけた。

 女性はぴくり、とも動かなくなった。

 男は急に青ざめて、女性の体を揺する。

 女性は――ケイッティオの母親は、死んでいた。

 男は周りを忙しく見渡すと、どこかへ駆けて行った。

 ばたばたと、煩い音を立てて。

 おれは、その滑稽な姿を、ただぼうっと眺めていた。


 あの男は、本当の父親ではなかったのだという。

 けれど、物心ついた時には、その男がいた。

 最初は、とても優しかったのだという。おかあさんも、毎日楽しそうに笑っていた、と言って、ケイッティオは目を閉じた。

 最近、ケイッティオはよく眠る。

 いつかこのまま目が覚めなくなりそうで、おれは怖かった。

 ケイッティオの右の頬には、黒子のような小さな火傷の跡があった。

 父親であった男が、煙草の火を押し付けたらしい。

 その火傷の跡も、今は涙の痕で、少しだけ照りを帯びていた。

 誰からも見捨てられてしまったこの子を、守らなければいけない。

 おれなんかよりもずっと、耐えてきた子供を、おれは守らなければならない。

 おれはどこかで満たされていた。

 やっぱり大人は勝手だなあと。

 子供は可哀相だなあと思いながら、

 いつしか、この子だけがおれの家族なんだと、どこか恍惚として、彼女を眺めていた。

 この子のためなら、どんなことだってしよう。

 美味しいものを食べさせよう。かわいい洋服を着せてあげたい。

 おれはどこかねじの外れた頭でそんなことを考えながら、人間達の眼を盗んで、ケイッティオにたくさんのものを与えた。

 不思議だよね。

 自分のためには盗むことなんかできなかったくせに、自分を満たしてくれるこの子のためなら、おれ、なんだってできるんだよ。

 ケイッティオは、いつしか笑わなくなった。

 やっぱり、両親のことが好きだったのだろうなと、胸が痛んだ。

 だからきっと、おれよりも傷を受けているんだ。

 だけど、大丈夫だよ。

 おれが守るからね。




     **




 いつからだっただろう。ケイッティオを見ていて、苦しくて息ができなくなることがあった。

 例えばそれは、ケイッティオが眠たげに眼を開けるとき。

 ケイッティオの綺麗な髪が、路の隙間風に吹かれて、なびくとき。

 ケイッティオが何か考え事をしながら、髪を一房つまむ時。

 小さく首を傾げて見上げてくるとき。

 表情の動かない妹の頬に手を当てる。

 病気のせいか、頬もこけて、肌は青白く、唇は土気色だった。

 母さん、今ならわかるよ。

 あなたのあの、主の前で頬を染めて笑う笑顔は、とても綺麗でした。

 おれは、ケイッティオのそんな顔が見たい。

 あの日、主に組み敷かれて身をよじっていた母さんの姿が瞼の裏に焼き付いて離れてくれない。

 いつしかおれは、

 ケイッティオをそうしてやりたいと、思うようになっていた。

 そう思うだけで、身体が熱くて、苦しい。

 水が欲しい。冷たさが欲しい。愛情が欲しい。ああ、そうだ。愛されたい。おれは愛されたいんだ。

 あなたに愛されたい。愛されたかった。

 ケイッティオにおれを好きになってほしい。兄妹だなんてそんなもので縛るんじゃなくて、

 君に求めてもらえたら、おれは、

 天国にいったって構わない。

 あの男が母親を見ていたのと同じ目で、世界で一番大事な女の子を見てしまう自分が情けなくて、汚くて、苦しくて。

 おれは絶対にあの男と同じにはならない。

 おれは唇を噛みしめて、記憶の中の主を睨みつけた。

 おれは絶対にあんたと同じにはならない。

 待っているから。いつまでも待っているから。

 君がいつか、おれだけを見てくれることを待っているから。

 そうでなければ、おれは、あの男の子供であるおれなんかが、この子を手に入れようだなんてしちゃいけないんだ。

 おれはあなたに触れたい。

 抱きしめて、おれだけのものにしたい。

 だからどうか、おれだけを見ていてね、って。



     **



 痛い。熱い。苦しい。痛い。痛い。

「あああ……ああああああああああああああああああああ」

 可哀相に、やめてあげておくれよ、という声が聞こえる。視界が鮮紅色に曇っている。何も、何も考えられない。

 どうして。なぜ。

 ただ少しの食べ物を分けてほしいと頼んだだけだ。なのに、どうして。

 鉛色の車輪に轢かれた下半身には、もう感覚はなかった。ずるり、と音がして、生温かく柔らかい何かが腕に当たる。

 それが自分の臓物だと気づいた頃には、それを鳥たちが啄んでいた。

 ――痛い。あ。あ。あ。

 ケイッティオ。ケイッティオ。ケイッティオ。

 助けて。誰か。あの子を。助けて。おれを。早く。楽に。

 クスクス、と笑う声がする。

 薄れかける意識にざらつく、嫌な笑い声。

 誰かが体に触れた。

「おまえ、助けてやろうか」

 ああ、この声、嫌いだ。

「ああ、もう、喋れないのか。おまえ、死ぬんだな」

 声は嗤う。嫌いだ、嫌いだと思う。耳障りだ。そんなの、直感ってやつで。

「あはは…………あははははははははははは!!!!」

 煩い。煩い。煩い。煩い。

「驚いた。僕はこんな世界のために生まれてきたのか。はははははは!!! こんな子供を増やすだけの世界のために死ぬのか!!」

 声は狂ったように嗤った。

「おい、おまえ。おまえの妹はどこだ。おまえ一人に価値はない。妹と一緒なら、助けてやるよ」

 ――妹? ケイッティオのことか。

 ぼやけた視界に声の主を探す。

「ケイ……ティオ……たすけ……」

「ああ、助けてやる」

「い、しゃに」

「医者なぞなくとも僕が治してやる」

「そこ、に」

「埒が明かないな」

 影がふっと消える。

 待ってくれ。助けてくれ。

 死にたくない。死にたくないんだ。あの子の、傍に、いて、

 意識が少しずつ、雫が染み入るように、消えていく。



     ***



 ケイッティオが、彼女と同じ色の髪をした男に連れて行かれたのは、雨の降らなくなった砂舞う日だった。

 おれは彼に会って、激しく嫉妬した。これが嫉妬だと知ったのだ。ケイッティオと同じ髪の毛だなんて。

 二人で並んでいると、まるで本当の兄妹の様だった。ケイッティオは、おれが見たかった表情で、ヨーデリッヒに話しかけた。

 ああ、本当に無防備だ。レデクハルトとも話している。救世主か何だか知らないけど、そいつはお前を狙ってるんだよ。

 おれは、自分がみじめで、矮小で、とてつもなく爛れているような気がして、苦しくて苦しくてたまらなかった。

 こんな想いで、君を見ていたかったわけじゃない。

 あの日、初めて会った時の、あの温かい気持ちをずっと感じていたかったんだ。

 どこでおれは間違えてしまったんだろう。


 ああ、おれは。


 あの子ケイッティオを幸せにすることができない。




     ***




 ヨーデリッヒが、目に隈を作って、静かに扉を閉める。

「こんな夜更けにどこに行ってたのさ」

 おれが呆れて声をかけると、ヨーデリッヒは舌打ちした。

「自分こそ、何夜中にうろついてるのさ。大きなお世話だよ」

 ヨーデリッヒが傍を通りすぎた時、生臭い臭いがした。

 おれは思わずその腕を掴んでいた。

「おい、おまえ……」

「何」

 ヨーデリッヒは冷たい眼差しでおれを見る。

「何してたんだよ」

 おれの言葉に、ヨーデリッヒは苛ついたように目をそらす。

「営業だよ」

 ヨーデリッヒは毒々しげに言葉を吐き出した。

「体を売ってきたんだよ。お楽しみってところ。あ、君にはちょっと刺激が強い話だったかな?」

 何も言えなくなる。

 そんなこと、どうして今更する必要があるのかわからない。

 レデクハルトがお前に何不自由ない暮らしをさせてやっているじゃないか。

「そんな痛い顔して、そんなことすんじゃねえよ」

 おれは震える声でそう吐き出した。

 それが辛いことはよく知っている。

 おれだって、ケイッティオに隠れて、金を稼ごうとしていたんだから。

「なんだ、君、やってたの」

「おれのことはいいよ」

 首を傾げるヨーデリッヒが、ケイッティオと重なる。

 頼むから。

 ケイッティオに好かれてるくせに、そんな汚いことしないでくれよ。

 あんたとそう変わらないのに、見てももらえないおれはどうしたらいいんだよ。

「何の必要があるんだよ。荒れるのもいい加減にしろよ。あんたがケイッティオが好きなことくらいおれわかってるぞ。鬱憤を余所で晴らすなよ」

「はぁ? 何それ。ていうか、君こそそんなことしてたの?」

「……っ、違う」

「うわー、引くなあ」

「煩い」

「ていうか、」

 ヨーデリッヒは目をそらした。

「あの子を好きなのは僕じゃないでしょ。どう見てもレディレデクハルトでしょうが。何言ってんの? 目腐ってるの?」

「そんな顔で言ったって説得力ねえよ」

「はぁ?」

 ヨーデリッヒの顔が赤くなった。

 こんなに取り乱す姿を、それまでに見たことがなかったから、おれも虚をつかれた。

「言っとくけど、ケイッティオは関係ないんだから。ていうか口を出さないでよね。ほっといて」

 ヨーデリッヒはぶん、とおれの手を振り払って、苛々しながら地下室に籠った。

 おれは、ただぼうっとそこに立ち尽くしていた。

 ――そっか。なんだ、両想いじゃないか。

 馬鹿みたいだ。

 はは、と小さく笑う。

 おれはどうしてここにいるんだろう。なんのためにここにいるんだろう。

 それからだと思う。

 おれは、考えることをしなくなった。

 ヨーデリッヒは、あれ以来おれを同類とでも思ったのか、昔よりも話すようになっていた。

 マキナレアのことを知ったのは、その後だ。




     *




【どうしてもなのかよ】

【そうだよ。あの子がマキナレアにならないんだったら、全部が意味ないんだもの】

【そんなのおまえらの都合だろ!? ケイッティオの意思を無視して、そんな化け物にするだなんて!】

【ケイッティオにはもう話したよ。彼女は、ちゃんと全部分かったうえで、自分からなるって言ったよ】


【受け入れられない? 偽物のお兄さん】


【僕は、マキナレアのために僕として生きなければいけないんだ。これからはそのためだけに生き延びるよ。だけど、僕はレディが心配だ。だから、僕の記憶を受け継ぐマキナレアとしての器が欲しいんだよ】


 頭が追い付かない。

 ヨーデリッヒの声だけが、おれの脳を侵食していく。


【それでね、君なら、僕の記憶にも共感してくれるかなと思って、君を器にしたいんだよね。君も望まず体を売ったなら、僕の気持ちは解るはずだよ。レディにはどうしてもわからなかったけど、君なら。君だって、大好きな妹の傍にずっといたいでしょ?】

【消してくれ】

【は?】

【もし、おれがお前の記憶を受け継がなきゃいけないんだったら、おれの記憶なんかいらないから】


 だから、

 消してくれ。

 もう、いらない。

 こんな記憶いらない。こんな人生なんかいらない。こんな体も、意思も、想いもいらない。


【そう、わかった】


【安心してよ。そもそも君たちの記憶はリセットされるから、都合のいいことしか多分覚えていられないよ】

【そう】


 そう、それじゃあ。

 おれがケイッティオを好きだという気持ちだけ。

 あの子を守りたいという気持ちだけ。


 こんな暗い感情も、嫉妬も、絶望も、

 何ももういらない。




     ***




【それで? 結局やっぱり自暴自棄なんじゃない】

【結構厳しいよね、ハーミオネって】

【だって、そんなの歪んでるわ。全然幸せじゃないわ】

【どうしてそんなに怒ってるの】

【だって……! あなたって、自分を大事にしないんだもの! 自分の中だけでぐるぐると考えるからそんなことになるんだわ。何よ、突き詰めればものすごく単純なことじゃないの。あなたはケイッティオが大切で、好きで、ずっと二人だけでいたかった。できればケイッティオにも自分を好きになってもらいたかった。単に愛情に飢えてただけじゃない。なにをそんなに大げさに考えているの?】

【ほんと、耳に痛いことばっかり言うなあ】

【笑わないでよ】

【うん、だから、おれはその単純な出発点だけ残して、できればヨーデリッヒと同じになりたいんだ。ちょっとした一石二鳥になるだろ?】

【狂ってるわ】


【狂ってる】


【ヨーデリッヒの抱えているものは、そんなものじゃないわよ】


【あなたは、彼の想いを抱えることなんて、できっこない】

【そう】


【それじゃ、別に僕はがらくたでもいいや】


【最後に、ケイッティオのために死ねれば、それでいいんだ】













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