青に滲む

 穏やかな海の水面が、車窓の奥で瞬いている。

 海の底に沈む広い土をわずかな足場として海面に伸びていく線路。

 この汽車が走れなくなるほどに海の水が増えていく未来も、遠くはないだろう。

【この世界の淀みを海の水と共に飲み込んでいた女神が、屍の珊瑚となって水底に眠った。

 彼女の最後の息吹が、この澄んだ水流となって、女神と共に大地を眠らせたのだ。いつか訪れる目覚めの日まで。訪れることのない始まりの日まで】

 誰かが、そういう詩を残した。もう数百年も前のことだ。

 海の上で太陽の光をあびたたくさんの大地は、海の底に沈んでいったという。海の水は、全てを飲み込むかのように、砂時計のように、少しずつ積もって世界を飲み込んでいく。

 船で渡るには浅すぎる水底。

 こんな世界をもたらした元凶ともいえる石の炭に、人々は今一度頼らざるを得なくなった。

 海の上に浮かぶ大地はみな沙漠で、常に清らかな水に飢えている。かつて大地は一面の緑に覆われていたのだと言うけれど、そんなものはどこにも見あたらない。黄色い砂と、青い海だけ。

 ごとん、ごとん、と列車は揺れる。揺れは意外に大きくて、もしかしたら自分はここで海に振り落とされて死ぬのかもしれない――と静かに死を見つめる時間が過ぎていく。

「俺は、弱いと思うか」

 長い長い沈黙を縫いとめるように、レデクハルトが口を開いた。ヨーデリッヒは首をかしげた。

「そうですか?」

 ヨーデリッヒは海を見つめる。汚れで曇った窓。そこには海原を一心に見つめる、表情のないレデクハルトの顔が映っている。

「あなたが弱いかどうかは、僕にはわかりませんよ」

「そうか」

 レデクハルトはそれ以上何も言わなかった。

「僕にとっては、」

 ヨーデリッヒは言葉を続ける。

「あなたに見つけてもらえたことが全てですよ」

 レデクハルトはわずかも動かない。

「こんな、こんな生き方が、世界にこんな青さがあるなんて、僕は知らなかったんですから。あの街の外がこんな風だなんて、思いもしなかったし」

「そうか」

 少しだけ、優しい声でレデクハルトはそう言った。

「僕は今の仕事が好きですよ。少々体調を崩しても、自分の好きな時間に研究をすることができる。あなたの、」

 言葉が詰まる。

「あなたの、いつか役に立てたら、って。役になんか立たないかもしれない。無駄かもしれない。けれど、いつ死ぬかわからない僕は、それを願うだけで、生きることが楽になるんです」

「買いかぶりすぎだと思うよ」

 レデクハルトは静かに応える。小さく鼻をすすって。

「俺は、お前に好かれる理由が見つからないよ。俺はただ、俺を生んだ母親のように、欲深いだけだ」

「何があったんですか?」

「何も」

 ヨーデリッヒはようやく僅かに笑った。

「この間、暴かれたんだ」

 その言葉の意味が理解できなくて、ヨーデリッヒは眉をひそめた。ヨーデリッヒと目を合わせて、レデクハルトは疲れたように言った。

「お前が生まれてもう十六年。世界は全く救われる兆しがない。かつてのイエス・キリストのように、人々に心を説くでもない。お前は何のために生まれたのかと。その瞳は何のためのものなのかと言われた」

 レデクハルトは柔らかく笑う。それが、ヨーデリッヒには痛々しくも見える。

「俺はこう言ってやった。【僕が死にさえすれば、この世界は救われるんですよ】と。【ただし、貴方方は救われない。救われるのはこの世界、この惑星ほしだけだ】ってな」

「どういうことですか」

「お前にも言っていなかったけれど。俺が死んだら、この惑星ほしが一度消滅する。そしてもう一度作られるんだ。俺の骨を媒介にしてね。細胞が人の体で忙しなく生死を繰り返しながら、見かけ上は変化が見られないように――世界はそっくりそのまま入れ替わる。新しい元素で置き換わる。古い惑星で生きてきたこの地上の生物達は、新しい法則の元では生きることができない。また世界に即した生き物が生まれ、進化を繰り返すだけだ。そのうちいつかは人間のような生き物も生まれてくるだろうけれど……。結局、神様は人間の味方なんかじゃない。この惑星の持ち主だからさ。人間なんて、惑星を豊かにするために生まれ死んでいく養分でしかないんだ。俺の骨は、この世界の、古い世界にとっての毒なのさ。細胞の死を早める毒素だ。それをやんわりと伝えただけで、折檻だ。僕は世界から生きることも死ぬことも許されていない。なんだか、死んでもいい気がしてきたところで、お前とどこかへ行ってみたくなった」

「いつから知っていたんですか」

 特に動揺もせず、ヨーデリッヒは問いかけた。

 レデクハルトの幸せ以外のことなんて、瑣末さまつな問題だ。

 僕の錬金術で、きっとどうにでもできるのだから――ヨーデリッヒはそう信じている。科学ではどうすることもできない自然の力。それを行使するのが、この時代まで伝わってきた、錬金の法だ。そして自分には、レデクハルトへの執着がある。泥のような執着心が。

「物心ついたときから、誰かが繰り返し繰り返し、俺の頭の中で語りかけた。今思えば、この骨に埋め込まれたデータだったのかもしれない」

 レデクハルトは額を撫ぜた。ヨーデリッヒは、ほう、と息を吐いた。

「あなたはいつか、ミヒャエロに自分の骨を埋め込んだと言ってましたね。それでもミヒャエロは元気なものだ。あなたのその骨が、ただの毒と言うのはふさわしくないように思いますが」

「生物の体なんて、少量の毒なら代謝できるようになっているだろ」

「大体、他人の傷が、あんたの骨をちょっと振りかけてやれば治るって、どうして知ってるんですか?」

「そんなの、は」

 レデクハルトは少しだけむっとした。

「だから、理由なんか知らないけど、知っていたんだって」

「それっておかしいと思わなかったんですか?」

「うるさいな。少し知識を得たからってしつこさが増して」

「今ではおかげさまで、あんたよりは錬金術についても医学的なことについても知識があるんですよ」

 ヨーデリッヒは指を組んで、自分の足を見つめた。

「あなたは、以前から髪の毛をやたらむしる癖がある。あなたの体は、たとえば指を切り落としたら、切り落とした指は空に溶けて消えてしまうのに、あなたの髪や爪はその中でも消えるのが遅い。それが前から気になっていて、あなたの髪をあつめて、組成を調べてみたんです」

「どおりで最近、自分から掃除をすると思ってたよ」

 レデクハルトはうんざりしたような顔で言った。ヨーデリッヒは悪戯いたずらに成功したような心地で笑った。

「あなたの髪の主成分は、確かに未知の物質だと思います。僕は科学者ではないから、それ以上のことはわからない。けれど、よく似た物質が一つだけあるのはわかった。シリカ――二酸化珪素と呼ばれるものです。シリカそのものではないけれど、とても似ていて、そしてあなたの体の主たるものとなっている。僕は、このシリカに似た物質が、以前からあなたの言っていたように、世界の元素に影響するのだろうかと考えました。あなたの骨は、骨というよりは青硝子のようだと以前から思っていた。砂漠にはシリカが含まれている。あなたが生まれてから、この世界の砂漠化が早まっているのも事実だ。だから、あなたの骨や体を構成する主成分は、シリカとほぼ同じ物質と考えてもいいのではないかと」

 レデクハルトは、窓に頬杖をついて、静かにヨーデリッヒの話を聞いていた。ヨーデリッヒはゆっくりと瞬いて、続けた。

「けれど、ミヒャエロを見ていて、別の考えに至ったんです。ミヒャエロの髪の組成を調べたら、わずかではありますが、シリカの割合が増えていた。あなたが固有に持つ物質ではなく、シリカそのものが増えていた。あなたの骨、あなたの細胞が持つ何かが、この世界にあるものをシリカ、あるいはシリカに似た何かに変える作用を持っているのではないか? そして、あなたは少しずつ、この世界を、シリカやシリカに似た何かでなければ生きていけないように書き換えていっているのではないか……。そうだとしたら、あなた自身から離れたあなたの肉体がやがて空気に溶けるのもわかるんだ」

 レデクハルトは再び窓へと顔を向けた。ヨーデリッヒは目を伏せる。

「まあ……仮説なんですけど。僕はたいして化学のことを知りませんし」

「科学者達の中にそんな話を放り込んだら、笑いものだろうさ」

 レデクハルトはふん、と笑った。

「あんまり頭でっかちは好きじゃない」

「すみません」

「でももし、お前のその説が実際に正しかったとして」

 レデクハルトは、抑揚のない声で言う。

「俺の骨に、そういう力のあるものが含まれているとして、そしたら、俺の骨を多く植えつければ、そいつは再構成された世界でも死なずに生きている、ってことになるのかな」

「やってみます?」

 レデクハルトが顔を上げる。ヨーデリッヒは、胸がざわめくのを感じた。背筋を何かが駆け抜ける。視界が晴れたような心地になる。

「馬鹿」

「馬鹿ですよ」

 ヨーデリッヒは拗ねて言った。

「でも、僕は、あんたの骨を誰かに移植して、あんたの荷物を肩代わりしてもらえたらとは常々思ってるんですよ」

 レデクハルトは口をわずかに開けた。その、血の痕だらけの唇が、かすかに震えている。

「馬鹿だな」

「馬鹿ですよ」

「そろそろ……降りようか」

「は? こんな辺鄙へんぴな土地で?」

「いいんだよ。特に元々行くあてなんてないんだから。海の上に立ちたくなった」

 腰を上げて扉へ向かうレデクハルトの背中に、ほんとに気まぐれなんだから、と声をぶつける。レデクハルトは力なく、はは、と笑う。

 海の上に浮かぶさび付いたトタンの青い廃墟が、二人を出迎える。ヨーデリッヒは目を細めた。

 いつかお前達の行く末は同じだよと、語りかけられているような心地。潮風に息苦しさを感じながら、ヨーデリッヒは砂に足を下ろした。


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