眺めぬ世界
「なあ、おい」
「髪を触らないで」
ケイッティオは逃げるようにひらりと身をかわした。
「別に、触ろうとしてない」
レデクハルトは、掠れた声で言った。
「わたしの髪をいきなり切ったくせに、よく言うわ」
ケイッティオは憎むような眼差しでレデクハルトを見つめた。
「邪魔そうだから切ってあげたんだ」
「大きなお世話よ。大嫌い」
ケイッティオは、肩の高さに揃えられた髪の束を、気持ち悪そうに握り締めた。
「お前、」
「何」
「お前さ、俺がここにお前達をおいてやってるっていう立場わかってる?」
声が震えた。
ケイッティオは目を細めた。
氷のようだ。
そんな目で見られてばかりじゃ、心が凍っていくんだ。レデクハルトは、歯をかち、と噛みあわせた。
「そんなこと言う人も、嫌い」
ケイッティオは静かに言う。
「それに、あなたに置いてもらってるんじゃないわ。わたしを連れてきたのはヨーデリッヒ。わたしはあなたと暮らしているつもりはない。…………あなたといると、あなたのような恵まれた人といると、自分が劣っていると思うの。自分が恵まれてこなかったことを知ってしまうの。わたしはわたしがそうなっていくのが嫌い。あなたとは相容れない」
「恵まれてるだって?」
かっと顔が火照るのがわかった。目頭が熱く燃えた。ケイッティオは目を伏せた。慌てたように言う。
「ごめんなさい……言い過ぎた」
「僕が、俺が、恵まれているだって?」
もう一回言ってみろ、と口の中で声が響く。
「お前が何を根拠にヨルダに親近感を持っているか知らないけれど、たしかに俺はお前達とは違う育ちかもしれないけどな、お前もその程度だったのか。俺は誰も味方がいないんだな。一体何を見て、お前の大事な大事な兄貴とヨルダを、お前と同類に思ったんだ。そんな風に思われるあいつらも哀れだな。お前は汚い。汚いよ。お前にそんな綺麗そうな服も、綺麗な顔も、……似合わないよ」
口が渇く。喉が渇く。体中が乾いていた。こんな女の子しか好きになれない自分が、枯れていく。
ケイッティオは固い顔で立ち尽くしていた。図星だったのだ。おそらく。
「お前と俺こそが、よく似ているよ」
レデクハルトは、自虐的に笑った。
ああ、何も見えていなかった。頑なな心のままで、この女に好かれたい、愛されたいってそればっかり思って。どうしてもっと早く、諦めなかった?
ヨルダが俺を必要としているのに、気づいていて見ないふりをしたもの。あいつがケイッティオに表面上だけでも優しくするのは、俺に喜ばれたいからだと知っているんだ。ヨルダがこいつを嫌っていることも知ってるんだ。こんな女だもの。あいつに合うはずがないじゃないか。
ヨルダは、馬鹿でお人よしな人間が好きだもの。
俺のことも馬鹿だと思っているんだから。
「似てるなんて、わたしは、思わないけど」
ケイッティオはかすれた声で呟く。
「それとも、そうなの?」
華奢な白い手が、爪が白くなるほどに強く本を握り締めて、震えている。そんな顔をしないでくれよ。抱きしめたくなるんだ。レデクハルトは前髪をくしゃりと握り締めた。
こんなにも、今嫌いになったのに。なんでこんなに苦しいんだろう。
「俺を見ていると、劣等感がさいなまれると言ったな」
レデクハルトは、ふと壁にかかった絵を見つめた。ふくよかな女性が、零れそうなほど沢山の花束を抱えて、椅子に座っている。なんだか涙が滲んだ。嫌いだ、と思った。
「俺も、ヨルダとミヒャエロに、嫉妬するんだ。どうしようもなく。お前のことで。俺は醜い。本当は、誰が思っているよりも、俺は醜いんだ。お前のことだって、お前なら俺のことをわかってくれるんじゃないかと思ったから、惹かれた。お前と一緒だよ。表面しか見ないんだから」
「あなたのことなんかわかりたくもないわ」
ケイッティオは小さく言った。
「そう、思ってた」
「もう遅いよ」
踵を返す。
もう、いいや。
見知った姿を探す。急ぎ足はやがて小走りになって、いつしかレデクハルトは廊下を駆け抜けていた。ヨーデリッヒは図書室にいた。分厚い錬金術の専門書を、読みふけっていた。
「ずいぶん立派になったな」
息を切らしてレデクハルトが吐き出すと、ヨーデリッヒは顔を上げて僅かに頬を染めた。
「早く偉くなって、あなたと対等になりますよ」
嬉しそうに、笑う。
「それはどうだか」
「対等とまではいかなくとも、あなたの右腕になれるくらいには」
その笑顔が、今は泣きたくなるくらい嬉しかった。レデクハルトは、膝が震えて、喉から細い音が漏れるのを感じた。
「あなたが僕に、本を読ませてくれなかったら、僕はこんな面白いことを知ることもなかった。あなたがあの時、拾ってくれなかったら」
ヨーデリッヒはいとおしげに本を撫でる。
「本だけ読んでも、俺にはさっぱりだよ。お前にはその筋の才能があった。それを拾ってやっただけだ。それだって、気づくのに時間がかかったけどな」
「いいんです。そんなことはいいんですよ」
ヨルダは幸せそうに微笑む。
「ヨルダ」
「何です」
視界から色が消えた。ああ、やっと、俺諦められたんだ、と思った。
何も知らない馬鹿なヨルダ。
「俺と一緒に、逃げてほしいんだ」
もう、この世界に俺はいらないや。
「もちろん」
ヨルダは金糸を紡ぐようにそう言った。レデクハルトは目を見開いた。ヨーデリッヒが、迷いなくそう言うと思っていなかった。まだ信じきれていなかった。それなのに、ヨーデリッヒはいともたやすくレデクハルトにそう言った。
ああ、こんな世界に、俺を好きでいてくれる人がただ、ひとり。レデクハルトは泣いた。崩れ落ちて泣いた。
「ありがとう」
この世界から消えることが怖くて、泣いた。ヨーデリッヒは、膝に落ちるレデクハルトの涙の染みを、優しく撫でた。
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