霞草に溺れる(三)

 その日、レデクハルトは路地裏まで歩いて、結局引き返した。

 ケイッティオに拒絶された日から、レデクハルトはまともに彼女の姿を見れていない。いつも、ケイッティオの兄を探して彷徨うばかりだ。けれどなかなかそいつは見つからない。探しているときに限って、いないなんてと舌打ちする。髪の毛で救世主とばれないように、フードを深く被り、その隙間から砂めく景色に目を走らせる。市場がぽつぽつと並び立つ大通りが少しだけ騒がしい。馬車で、誰かが轢かれたようだ。

 その車輪に視線を移して、赤く散らばる肉塊に言いようのない悍ましさと悲しみが体中を駆け巡った。

 それが、自分とは違って再生しないことをレデクハルトは知っている。この資源も絶えた世界で、それを治療する術もないことを。

 馬車の壁面には、こんなご時勢に不釣合いなほど装飾が施されている。やがて馬車は、何事もなかったかのように走り出した。レデクハルトは歯噛みした。没落貴族が。こんな世界で、まだ自分は偉いのか。僕みたいなどこの馬の骨ともわからないやつを救世主だなんて崇めている人間の癖に。

 死んでいるのか、生きているのかわからない。人々は、それを遠巻きに眺めている。レデクハルトがそれに近づくと、ざわめきが走った。汚いコートを羽織ってきたから、汚い子供が汚い死体に近づいていると見えているだろう。

 子供だ。腹から下を踏み潰されて、臓物もはみだしている。まだ呼吸はあって、けれど、これは生きていけないだろうなとレデクハルトは唇を噛んだ。子供は腕で顔を隠して、ひくひくと泣いていた。レデクハルトは、子供の顔だけでも、自分だけでも覚えておこうと思って、その腕をそっとどけた。

 目を見開く。少年は、空ろな目をしていた。琥珀色の眼が曇っていく。砂よりも鮮やかな金髪は、砂に塗れて汚れて。顔は青で塗ったみたいに血色が悪い。

「お、まえ……」

 レデクハルトは逡巡した。そのまま、子供の体を抱えた。背は自分よりも高いはずなのに、痩せ細ったその体は容易に持ち上がる。誰かがひい、と悲鳴を漏らした。レデクハルトは、その死にかけの体を拾えるだけ拾って、裏通りに消えた。


「おまえ、僕とおんなじ存在になるか?」

 少年を埃の積もる石畳に下ろして、レデクハルトは甘い声で囁いた。

 少年は、白目を向いて、かたかたと震えている。

「僕、おまえみたいなかわいそうな子供を作り出す世界を、救いたいわけじゃないんだよ」

 少年が聞いているのか聞こえていないのかはわからないけれど、レデクハルトはにっこりと笑った。

「おまえ、いいなあ。あの子から愛されてるよね。あの子はずっと、ミヒャエロ、ミヒャエロ、っておまえの話ばかりするんだ。僕の誘いには絶対に応じてくれないのに。おまえがいるから。おまえさえいなければ、あの子は僕のところに来る?」

 少年は、さらにびくん、体をはねさせる。

「きっと来ないだろうね。知ってたんだ」

 レデクハルトは、少年の体を引きずってさらに歩いた。

「おまえも僕と同じ存在になれば、僕がお前と同じになれば、あの子は少しは僕のことも心配してくれるかな?」

 少年は、ぐえ、と蛙を潰したような声を上げる。レデクハルトは首を振った。

「いや、それでもきっと、おまえのことだけ心配するだろうな。もしかしたら僕が恨まれるかもね」

 どこかの窓から、光の帯がさしている。少年の体をその光にさらして、レデクハルトは、左手の薬指をポキリと折った。

 皮膚を削ぐ。

 筋を削ぐ。

 神経を千切って、

 血管を握りつぶして、

 青く鈍く光る、小さな骨を拾い上げた。

 少年のはみ出した臓物を掻き分けて、薄っぺらくひび割れた肋骨を見つけ出す。

 そこに、自分の骨を埋め込む。

 少年は、あ、あ、と声にならない音で呻いた。少年の骨が、少しずつ青に侵食されていく。

「なんだ、簡単じゃないか」

 レデクハルトは自嘲した。汗に塗れた少年の額に手を当てる。

「大丈夫だよ。まだ死なない。そのうち、元に戻るからね」

 そう言って、少年の左足の指を一つ、ぽきりと折った。それを、自分の消えた指に繋げると、余計なものを削ぎ落とし、見る見るうちに、指は元通りになる。

「お粗末だな」

 レデクハルトは乾いた笑いを漏らした。

「やっぱり僕は、おまえにはなれないみたい」


 長いこと、少年は熱を出して呻いていた。

 日がかげるころ、ようやく彼の体は大方の再生を終えた。目を開ける。

 その空ろな目を、レデクハルトは覗き込んだ。

「喋れる?」

 少年は、荒い息を返した。

「おまえの足の指だけは、なかなか再生しないね。やっぱり骨が足りなかったか。ちょっとした実験だったからな」

 レデクハルトは優しく笑った。

「お前の名前は知ってる。ミヒャエロだろう。あの子がそう言っていたから」

「ケイ……ティオに、なにか、したの」

 ミヒャエロは、掠れた声で応えた。

「するわけないじゃない。心外だな」

 レデクハルトは眉をひそめた。

「僕が傷つけるとしたらおまえだよ。あの子に愛されて、妬ましい。でも、それもできない。あの子が悲しむだろうから。おまえ、まだ熱があるね。なかなかただの人間はうまくいかないなあ」

 レデクハルトはそう言って、ミヒャエロの額を撫でた。

「おまえが僕の役に立つというなら、僕はおまえごとあの子を引き受けるよ。あの子が、」

 レデクハルトはそこで一瞬、息を詰まらせた。

「あの子が、好きなんだ」

 ミヒャエロはしばらくレデクハルトを見つめていた。やがて目を閉じて、ふう、と息を整える。

「ケイッティオはあなたになんかあげません。おれのです。でも……でも、おれを助けてくれたんでしょう? 頼んでないけど」

「苛つく餓鬼だな」

 レデクハルトは吐き捨てる。

「苛つきも、するでしょうよ。だって、おれにとっては、あなたはおれからあの子をとろうとしてる人に見える。でも、あなたがおれの命の恩人で、あの子を助けてくれるなら、おれは何でもしますよ。あなたには渡さないけど」

「上等だ」

 レデクハルトはむっとしたまま言った。

「僕に――俺に、けんかを売ったのは、おまえが初めてだ」

 ミヒャエロの口調を真似してみる。ミヒャエロは、ただ力なく笑った。

「あの子を守るためなら、なんだっていいんですよ、おれは」

 レデクハルトは舌打ちして、ミヒャエロを肩に担いだ。薄暗い砂の街を後にした。


 

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