霞草に溺れる(一)
自分のことが嫌いだった。
貴方は魅力的だと、美しい、尊いと熱を帯びた目で見つめられ、潤んだ唇で囁きかけられるのが、とても気持ち悪かった。
まだ子供の自分にしなだれかかってくる柔らかな腕も、少し汗ばんだ皮膚も、気持ち悪いと思った。きっと一番不愉快だったのは、自分を産んだその女が、自分の子の眼に惑わされ、舌を這わせ絡ませてきたことだ。自分の眼は母親でさえ惑わせてしまうと理解した時の衝撃は、忘れられるものではない。
僕はお前から生まれたのに。
――おまえの瞳は綺麗だねえ。まるで誘っているみたいだ。
やがて、自分が世の人々が待ち望んだ救世主らしいということを知った。
最初は半信半疑だった。けれど、教会を本拠地とする
アルケミスト達は、幼いレデクハルトに人体の構造について学ばせた。錬金術は科学であり、宗教であり、哲学であり、医学であり、芸術だった。人の生きてきた歴史そのものだった。だから、それらは全て救世主にも必要なものだと、叩き込まれた。自分の体に潜むこの青い【金】は、本来人間にはないものだという事、自分には骨がないのだと――【人】ではないのだと、思い知らされた。
自分が救世主である意味。
それが、この設計図以外に何があるというのだろう?
だとすれば、この肉塊は何のためにあるのだろう。
【神の設計図】を使うことが使命ならば、レデクハルトは体を捨てなければいけなかった。【金】をむき出しにした、屍にならなければならない。人はそれを死とは呼ばないのだろう。彼らはみな口々に、『使命を果たした救世主は神の元へ帰るのだ』と言ったから。
けれど、そんなのどうだって同じことだとレデクハルトは思う。自分という自我が消えることに変わりはない。だとしたらそれは、レデクハルトにとっては死に他ならない。人々は、レデクハルトをキリストの生まれ変わりだの、釈迦の再来だのと言うけれど、もしそうなら、前世の記憶がない自分は何なのか。体が消えてしまった後の記憶は?
いつまで僕は生きていていいのだろう? いつ死ななければいけないのだろう。もう、その時はすぐそこに来ているのじゃないか。本当は今すぐにでも死ななければいけないんじゃないのか――レデクハルトは、頭を掻き毟り、小さな体で一人思い悩んだ。
身体を傷つけることは楽しかった。痛いと思う。辛いと思う。もうやめようとも思う。それら全ての気持ちが、本当は死にたくない、まだ死にたくないという自分の感情のようで。浸れることは、少しだけ幸せだった。レデクハルトは幸せなんてものを、そこで初めて自覚したのである。
そんなだから、哀れな子供が好きなのかもしれない。
自分以上に傷だらけの人生を負わされている子供。彼らの痛みを知りたい。僕に分けてほしい。僕に生きていると感じさせてほしい。
汚れた布に身を包んで、裸足で路上を歩く。
建物の間の細い隙間に足を踏み入れる。日の光もろくに差し込むことのない湿った臭いごみだめ。残飯の中を漁る野良猫。
そこに今日も、彼女は横たわっている。髪もぼさぼさで、埃まみれで。臭いも強くて。けれどレデクハルトは顔をゆがめたりはしなかった。ただ静かに、汚い布から覗く少女の頭を見つめた。
兄は食べ物を探しに行っているのだろうか。どうせ金もあるはずがないから、いつも盗みを働いているのだろうとレデクハルトは思う。数度見かけた少女の兄は、皮膚に裂けた傷をこさえて、赤く青く腫れ上がった肌を砂めく空気にさらしていた。きっと今日も、細い骨のような足で、妹のために街を彷徨っている。
けれど、ミヒャエロは兄のほうに興味はない。哀れだな、と思うだけ。
「おい」
高鳴る鼓動を落ち着かせながら、少しかすれた声でレデクハルトは少女に声をかけた。傍らにしゃがみ、肩をゆする。
「だ、れ」
少女は苦しげに目を開けた。やっぱり、とても綺麗な声だと思った。
鶯のような、鉄琴のような。
苦しげな息の隙間から漏れ出た、その声に、心が奪われる。
「お前、名前は」
「……声、聞き覚え、ある」
目やにだらけの目をこすりながら、少女は呟く。その言葉に鼓動が跳ねた。レデクハルトは頬に熱を感じた。
「そ、そうだ。この間おまえに声をかけたんだ。おまえは寝てしまったけど」
「わたしは……ケイッティオ。あなたは、だれ」
少女は尚も眠そうに、目を両手でぐりぐりとこすって体を起こした。その体はレデクハルトが思っていた以上に痩せ細っていて、骸骨のようだ。目は落ちくぼんで、肌の色も土のように黒く、唇は紫と白のまだら。ケイッティオは咳込んだ。その小さな手に、血が飛び散った。
「あ……ごめ……なさい。わたしのそばにいると、病気が、うつっちゃう」
「僕は体は丈夫なんだ。気にしなくていい」
レデクハルトは微笑んだ。病気になど、なれるものならなりたい。人とは違うこの身体は、人と同じ病で寿命を縮めることもできないのである。怪我した傍から治っていくような気味の悪い体。
「僕は、僕はね……」
レデクハルトは名前を言おうとして、口ごもった。
誰もが呼んでいるような
自分自身を好きになれる気がした。けれど、いざとなるととても恥ずかしかった。かと言って、レデクハルトと名乗りたくもない。学の無い子供だとしても、救世主の名くらい知っていておかしくない。そういう目で、この子には見られたくない――そう思って、焦った。
「あなたも、お名前がないの?」
長いこと黙り込んでいるレデクハルトを見上げて、ケイッティオは首を傾げた。
「わたしも、名前がなかったの。けれど、ミヒャエロが、名前をつけてくれたのよ」
「ミヒャエロ?」
「うん。わたしの、おにいちゃん」
ああ、とレデクハルトは呟く。あいつ、そんな名前か。
「親は?」
「おにいちゃんには、いるかもしれない……。けれど、わたしはいない。おにいちゃんは、わたしが小さいころから一緒にいてくれる……わたしも何かしたいけど、いつも病気になって、働けなくて……」
「えっと……」
レデクハルトは下唇をつまんだ。考える時の癖だった。
「おまえたちは本当の兄弟ではないってこと」
「うん。たぶん」
何だよ、それ。
レデクハルトは少し不機嫌になった。
それなら、僕がこの子のお兄ちゃんになったっていいじゃないか。なんで、あいつ。
「あの、さ」
レデクハルトは、彼女の
「なあに」
「ぼ、僕のところに来ない? あ、あの、僕、のうち、医者もたくさんいてさ! すぐに治してあげられるよ、おまえの病気もさ。お金だってたくさんあるし、食べ物だって、おいしいものいっぱいあるよ! 僕はみんなのお気に入りだからさ、なんでももらえるんだ。おまえを僕のお気に入りにしたら、同じようにきっと、かわいがってもらえ――」
可愛がってもらってるだなんて、そんなのは嘘なのに。レデクハルトは口を引き結んだ。
何を言っているんだろう、自分は。こんなこと言って。
まるで、まるで、本当は可愛がられたかったと、愛されたいと言っているようなものじゃないか。
ケイッティオはしばらく黙っていたが、ややあってへらり、と笑った。
お世辞にも可愛いとは言えないやつれた顔で。
それでも、レデクハルトは彼女の笑顔をとても可愛いと思った。
――可愛い。可愛い……。
心がじわりと温かく膨らんでいく。けれど。
「あのね、ごめんね」
その小鳥のような声で紡がれた言葉に、レデクハルトの思考は真っ白に停止する。
「あのね、わたしは、ミヒャエロを置いてはいけないから」
「あ……」
湧きあがったのは、熱くて痛くて悲しくて辛い怒りだ。こんな感情は知らなかった。レデクハルトは唇を噛みしめた。
「あ、あのさ、み、ミヒャエロも来ていいから」
苦し紛れにそんなことを言った。声が震えた。冷や汗が噴き出す。心臓がどくどくと激しく鼓動している。
来るな。来るな。来るな。
想いがぐちゃぐちゃになる。
ケイッティオは、静かに首を振って、笑う。
「ミヒャエロに聞かないと。わたし一人では決められない。本当は、わたしのことはいいから、ミヒャエロを助けてほしい。わたしは、もうじき、死んじゃうから」
「死なないよ!」
レデクハルトは声をあげた。
「お、おまえは、死なせないよ。だって、その、だって……」
欲しいから。
今ここで、うんとさえ言ってくれれば、連れていけるのに。
だから、お願いだから――
「でも、あなたは、ミヒャエロは助けてくれないんでしょう」
ケイッティオは静かに言った。
「い、一緒に来ていいって言ったじゃないか!」
「本当は、ミヒャエロはいらないって思ってる」
何も言えなかった。ケイッティオの眼差しはまっすぐで、そしてどこまでも透き通っていた。森のような綺麗な色の瞳が、レデクハルトを捉えて離さない。
「きっと、あなたはいいところの子供さんなんだわ。わたしみたいに汚い子供に、構わないで。生まれたときから、住む場所が違うんだ。でも、わたしはそれを、辛いとは思わないわ。ミヒャエロが、いてくれるから。寂しくないの。ひもじいけど。具合悪いけれど」
ケイッティオはふにゃりと笑った。
「だから、わたしが死んだら、ミヒャエロがどうなるか、心配で」
「ぼ、僕のところにきたら、ミヒャエロだって、不自由なく暮らせるのに!」
レデクハルトが裏返った声で叫ぶと、ケイッティオは悲しげに笑う。
「お願い。これ以上、そんなひどいこと言わないで」
「……酷い? 酷いだと? これのどこが酷いって言うんだ? 君たちにとっては喜びこそすれ、嫌な条件は一つもないじゃないか! 綺麗な着物も着せてあげるし、美味しいものもお腹いっぱい食べさせてあげられる……! 病気だって治せるし、色んなものを見せてあげられる! 僕が、僕が……」
――可愛がってあげるのに。大事にするのに。
どうしてこんなに彼女に執着してしまうのかわからなかった。初めて抱いた好意を、
それでも、彼女が欲しいと思う気持ちがあふれて止まらない。この子じゃなきゃだめだと、話せば話すほどに思ったのである。もっとその声を聴いていたい。僕のために紡がれる言葉を聴きたいんだ。
けれど、ケイッティオは目を伏せて、小さく肩を震わせた。
「そんな、幸せな話、持ち出すなんてひどい。心が揺らがないのがおかしい。でも、わたしたちは、これで満足してた。そんな幸せな暮らしなんて、知らない。知る必要もない。だから見せないで。放っておいて。お願い」
レデクハルトは口を横にぎゅっと引き結んだ。唇は震えていた。
「か、勝手にしろ!」
逃げるようにそこから飛び出した。
信じられない。信じられない。信じられない。
感情が、赤く黒く青くのたうちまわる。
そのまま走り続けて、薄紫に色づいた雲一つない空に目を奪われ、立ち止まった。
拒絶された。
そうだ、僕は。
欲しいと思ったものから、拒絶されたんだ。
目は空を見ているはずなのに、ケイッティオの顔が視界の端をちらついた。
ああ、ああ、信じない。信じない信じない、信じない!
「うう、うう、うううう」
両手の爪を唇に食い込ませ、レデクハルトは獣の子の様に唸り続けた。
こんな、こんな。
彼女に呼んでもらいたかった名前も、何の意味があるだろう。
僕が愛されるべき存在だなんて、誰が言った。
愛してほしい人がことごとく逃げていくっていうのに。僕が何をした。何をしたって言うんだ。そんなに願ってはいけないことですか、かみさま。
「うう……ううう、うううう」
瞼をきつく掌で押さえ、レデクハルトは立ち尽くした。
砂の混じった風が巻き上がる。
――こんな名前、必要ない。僕には必要なんかなかったんだ。
強い風が吹く。その風に紛れて、彼はようやく、本当の名前を呟いた。
風に溶け込ませるように。
愛されたいと思わなければいいのだ。
楽なのだから。もういいや、忘れよう。こんな名前、捨ててやろう。
けれどしゃくだから。あの子は絶対に手に入れてやる。そうして、逃げられないように鳥籠に入れてやる。
「僕に、僕なんかに目をつけられて可哀相だな」
レデクハルトは自嘲気味に笑った。声が、儚く砂の上に零れ落ちた。
「僕はレデクハルトだ」
神様に選ばれた子供らしく、遊んでやろう。
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