砂の台座
神などいない。
ある時、人間はそう言った。
楽園などない。
禁断の果実もない。
蛇もいなかったのだ。
神はなく、全ては無から生まれた。
その理由付けに生涯を捧げ、時に希望を、時に絶望を見出し。
そんな苦悩を知ることもなく生き続ける獣をよそに、ひたすらに【神の設計図】を追い求めた人間は、遂にようやく、長かった幻想に終止符を打った。
科学の果てにあったのは、世界には何もない、という事だけだった。
この世界はすべて存在しない。
存在しない中で幻想を抱く者達のβ世界。
唯の座標軸上で動き続ける点の集合体。点という名の無。
脳を限りなく痛めつけてもなお辿りつけないパラドクスに、人類はようやく考えることを放棄した。
神の存在を教会が否定し、世界は大混乱に満ちる。
十の世界大戦を経て、古代信仰を排して世界中に浸透した一つの宗教が、一人の救世主と彼の聖書を掲げた聖職者が、神への信仰を放棄した。
追い求め続けても、信じ続けても、祈り続けても、救いは来ない。
世界にはもう終わりが見えていた。
人々は、この大地がいつ爆発し
混乱と混沌と無秩序の中で、人々は生と性を謳歌した。全てに塗れて嗤い合う。
恐怖と快楽と諦念と狂気と猟奇。
彼はその乱れた性の果てに生まれ落ちた。
その柘榴色の眼を開けた瞬間から、人間は彼から目をそらせなくなった。
彼の眼は、全ての人類を責め、蔑んでいた。
彼に名を与えたのは、東の世界の僧侶だった。
彼のことをある者はメサイアと呼び、ある者はマイトレーヤと呼んだ。
彼はかつての歴史のどの救世主よりも、人々を魅了し惹きつけた。
誰もが待ち侘びた救世主――レデクハルトは教会に保護され、齢十にして、人類の世界を統合した。
✝
「つまらない」
その少年は呟く。椅子に顎を乗せて、ぎゅっと眉根を寄せて。
「何を言っても、何も言わなくても、全てが僕を中心に回っていく。とってもつまらない。つまらない……僕を信じれば救われると思い込む者達のために、なぜ僕が自ら傷口を開かなければいけないんだ?」
「自分の自傷癖を棚に上げて人のせいにするのはいい加減にしてくださいね、レデクハルトさま」
部屋の隅で、静かに古びた本を読みながら別の少年が相槌を打った。白髪に紫色の眼をしていて、肌は透き通るように青白い。
「だから、」
レデクハルトは椅子の背にごつんと額をぶつけて、膨れ面になった。
「僕がもしこの世界を救うなら、僕はこの体から森羅万象の
「森羅万象とか憑代とか言われても、生憎僕は子供なんでわかりませんよ」
「何度も説明しただろ!」
「はいはい、耳にたこができてますよ。おかげで痛くて記憶を思い起こせないんです」
「耳にたこだと。そんなものは言葉の綾だ。いい加減にしろよヨルダ」
「はいはい。というか、もうその時には死んでたっていいじゃないですか……どうせ世界が滅びようがあなたのおかげで再構成されようが、今いる生物はすべてその過程で死んでいくんですから。あなたがそう言ったじゃないですか」
ヨルダ――ヨーデリッヒは事もなげにぼそりと言った。レデクハルトはますます眉間に皺を寄せる。
「お前を暇つぶしのためにここに置いているんだぞ。少しは話を聞け」
「話し相手にはなると言いましたが、愚痴の掃き溜めになるとは言ってませんよ」
レデクハルトは舌打ちした。苛々しながら髪の毛をむしる。ヨーデリッヒは彼のしぐさに軽く視線を向け、小さく嘆息した。
「だから、その自傷行為をやめませんか。見ていて不愉快ですよ」
「お前にだけはこの身体のこと教えてやったのに、心配もしてくれない」
「なんですか、拗ねてるんですか、餓鬼が餓鬼の心配してどうするんですか。気色悪いんですけど」
ヨーデリッヒは冷めた目でレデクハルトを見やった。
けれど本当は、少しだけ気持ちが高揚していた。
母親の不始末から生まれ、白い髪と葡萄のような瞳の色を気味悪がられ、男娼として売りとばされ。生来の体の弱さも手伝って、血を吐いた瞬間には捨てられた。路道をはだしで彷徨っていたところで、レデクハルトに拾われたのだ。その理由は随分と可笑しなものだった。
『生きている世界が違うから面白そうだ』
最初は、また身体を買われたのかとげんなりした。けれど、実際に会った名高い
【魅了】という力を持て余す、気難しいただの餓鬼だった。
友達づきあいというものが、ヨーデリッヒにはよくわからない。だからこうして、日がな一日レデクハルトの私室で本を読みながら、彼の愚痴や苛立ちを聞くだけである。
それが友達のすることなのかはわからなかった。あくまでレデクハルトはヨーデリッヒを飼い猫扱いしていたし。それでもこうやって秘密を共有させてもらえるのは、友達の特権のような気がしてヨーデリッヒは嬉しかった。
もっと嫌なことは厭になるほど知っている。こうして彼の子供っぽい愚痴を聞かされるのくらい、なんてことはない。柳のように聞き流していればいいのだし。
――救世主とか言う割に、本当に、体以外に変なところは何もないんだものなあ。
ヨーデリッヒは今日もせっせと自傷行為に励むレデクハルトを眺めやった。彼は髪を手で引き千切る行為には飽きたのか、今度は鋏でじょきじょきと切っている。はらはらと紫色の髪が床に零れて、絨毯の表面に絡みつく。ああ、掃除は面倒だから別の人にやってもらおうと思って、再び読みかけの本に視線を戻す。それは人体解剖学の本である。人骨が、筋肉が、脈管が、誰かのスケッチと共に失われた言葉で説明されている。ヨーデリッヒはそれを読むのが好きだった。それは、レデクハルトから、彼の体の秘密を聞かされたから。
レデクハルトの体、皮膚と肉の内側には、青く透明な金属がある。
金属、といっても、それが本当に金属と言っていいのかはヨーデリッヒにはわからない。それが金属のように固く、鈍く光るということしか知らない。近くで見ると、時折黄緑色の不思議な記号が現れては流れ消えていくのだ。レデクハルトはそれを骨と呼ぶ。レデクハルトは、普通の人間が持つべき白骨を持たない。まるで機械人形のようだとヨーデリッヒは思っている。骨組みを金属で整えた、精巧な人形。けれど彼は人間の腹から正しく生まれたのだから、人形ではない。
レデクハルトは、その青い骨が、世界を再構成するための材料になるのだと言った。自分がこの肉体を捨て、この金属だけの
『これが、人間が崇めている神様ってやつの設計図さ。この設計図が世界の元素に触れたとき、元素はその命令に従って世界を組み替える。神様なんてものはいないけどね。そんな生き物はいない。世界にあるのは全て、設計図を構成するための命令の粒と、その集合体であるこれと、そしてこれに従って動く元素だけだ』
彼は、自ら果物ナイフで抉り取った肉塊の下に光るその【設計図】を見せながら、ヨーデリッヒにそう語って聞かせた。
驚くべきは、その回復力だ。その時だけでなく、彼は常に一日の大半を自傷行為に費やしている。そしてその度に、どれだけ深い傷をつけても抉り取っても削ぎ落しても、零れ落ちた血や肉片は全て霧のように空気に溶けていき、傷跡は時間を巻き戻したように綺麗に塞がるのだ。
ヨーデリッヒは、自傷するレデクハルトは嫌いだった。けれど彼は、それをやめない。
こうして何度も免疫を酷使していれば、いつか摩耗して体が朽ちていく――そうすれば世界が再建されて、自分も晴れて消えられるから、と楽しそうに話すのである。それでいて、世界から消えることを、自分以外の誰かに体を暴かれることを、極端に恐れている。
『自傷をやめろと言われても無理だ。僕の本能がそうさせるんだから。さっさとこの世のために消えてしまえと。でも他人に刺されるくらいなら、自分で刺した方が痛くなくていいからさ。まあでも、こんなに痛いんだったらさっさと死んでしまった方がましだとも思うけどな』
そう言いながら、今日も笑う。
理解に苦しむ。あんなにも人の愛情や尊敬や慈しみを一身に受け、世界を救うという名誉さえ手に入れているのに、彼が何より望むのは己の消滅と保身という相反するものなのだから。
けれど、生きることに疲れる気持ちなら、ヨーデリッヒにも
レデクハルトの自傷を眺めながら、げほげほ、と咳込む。
口を押えた手の甲には、血がついている。ああ、本当に。僕こそ、いつまで生きていられるのだか、なんて自嘲する。
僕が消えたら、誰が彼の愚痴を聞いてやるのだろう。
僕がいなくなった後、体が暴かれたら彼はどうするんだろう。
自傷する場を無くして、気が狂うんじゃないだろうか。人前では猫かぶりだから。
「なんだ、具合悪いのか」
ヨーデリッヒの咳に気づいて、レデクハルトが顔を上げる。眉尻を下げて、不安そうな声を出して。その顔がなんだか可笑しくて、ヨーデリッヒは笑った。
「すみませんね、近くにいると移りますよ、病気が」
「生憎なりたくてもなれないから困っているんだ」
レデクハルトはふん、と鼻を鳴らす。
――ああ、案外、病気が自分にも移るかどうかの実験台でもあったのかな。
ヨーデリッヒはくすりと笑った。
「それで。たまにはもっと楽しい話でもしてくれませんか。ただでさえ病に苦しんでいる身なのに、あなたの自虐行為と愚痴を見せられ聞かされ。余計悪くなりそうですよ」
からかうようにそう言ってみると、レデクハルトは再び眉をひそめた。
「僕が毒を吐こうが吐くまいが、お前はいつか死ぬんだろう」
「それはそうですけど」
「つまらない」
レデクハルトは壁にもたれ、窓の外の木を眺めた。
「……楽しい話か分からないが、少し気になることはあった」
「へえ。珍しいですね。なんですか」
ヨーデリッヒはにやっと笑った。
「少しというか……結構割と前から気になってはいるんだ」
「何がですか」
「その……」
レデクハルトは顔を一層しかめながら、徐々に顔を赤らめていく。視線が泳ぐ。
――あ、なるほど。
ヨーデリッヒは、妙に冷めた気持ちでそれを眺めていた。伊達に体を売っていない。これでも、そういう勘は働く方だと思っている。
「好きな子でもできましたか」
「な、なんだ、その、好き、とか」
レデクハルトは狼狽える。
――他人の色恋沙汰はうっとうしいんだけどなあ。
ヨーデリッヒは頬を掻いて、先を促した。
「違うんですか? あ、それともそんなこともわからない
「知らん! そんなことはどうでもいい!」
レデクハルトは頬を膨らませた。
「……僕は……どうも、お前みたいな汚れて病弱な感じのやつに興味を惹かれるみたいで」
「汚れてとか酷いですね。せめて薄倖の美少年とでも言ってください」
ヨーデリッヒは頬杖をついて、足を組んでみる。
「それで? どんな子? どこの子?」
「お前がうろうろしてた路地裏だ。汚い布きれに包まれて眠っている。兄がいるみたいで、よくそいつを看病している。ちらっと見た感じだと、あれはじきに死ぬだろうなと思う」
「ちらっとって……あんた変態ですか」
「な、違う! 兄がいない間にちょっと布をめくってみただけだ!」
「うわ、仮にも婦女子の寝込みを襲ったんですか。うわあ、そんな人だとは思いませんでしたね。それで? 一目惚れでもしたんです? そんなにかわいかったの?」
ちょっとかまをかけたらすぐこれだ。年上とはいえ、レデクハルトをからかうのはとても嗜虐心を煽られて楽しかった。
「か、顔も汚かったから可愛いかどうかは知らない。ただ、声が綺麗だった。かすれていたけれど。苦しそうな咳をしていた。と、というか可愛いとか言うのはよくわからない」
「そうですね、例えばあんたみたいな顔のことを世の人はかわいいって言うんですよ、お嬢ちゃん」
「こ、この女顔気にしてるんだから言うな!」
「いいじゃないですか。昔はごつい男が好まれてたそうですが、今は薄倖の美少年が人気が出るご時世みたいですからね。よかったですね、美少年」
ヨーデリッヒは薄く笑った。
レデクハルトは顔を真っ赤にしながら唸っている。それを面白いなと思う気持ちは本物だ。けれど同じだけ、何かが胸につかえてもいて。ヨーデリッヒはそれを飲み込むように喉を鳴らして、言葉を吐き出した。
「……連れてくればいいじゃないですか。僕をそうしたように。そうすれば可哀相な命がまた一つ二つ助かりますよ」
胸に渦巻くこの気持ち悪さは、なんだろうか。
なんだかむしゃくしゃする。これだけレデクハルトを翻弄させておいて、くだらない女だったら僕が食ってやろうかな、と思った。そう思ったら、なんだか少しだけ吐き気が消えた。
レデクハルトは「あ」と小さく零し、視線を床に落とした。
何かを必死に考えている。
「あ、そ、そうか、そうだ。なんで思いつかなかったんだろう……」
――こりゃだめだな。
ヨーデリッヒは嘆息した。
「そりゃ、あんたがその子に惚れてしまってるんですよ」
そんな女の顔が見てみたい。とりあえず、連れてこられたら洗ってやらなければいけないな。ヨーデリッヒは自分がここに連れてこられたときのことを思い出した。余計な装飾品だらけの浴場。気圧されたものだ。こんなところに金を使っているのかと腹立たしくもあった。教会のくせにと。
――ちょっと意地悪をしてやろうか。
口の端をあげる。
湯くみは得意だ。可哀相な孤児の身体を洗ってやるなんて造作もない。ついでに襲ってやろう。
それを知ったらどんな顔をするかな。
「楽しみですね」
ヨーデリッヒは笑った。
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