森に削れる

 喉の奥がひゅう、とざらつく嫌な笛の音を鳴らした。

 モンゴメリは小さく咳込みながら泥を踏みつけ草木をかき分ける。

 この森は冷たくて温くて、とても瑞々しい。

 霧のような緑の香りに、肺が苦しげに息をする。

 木々の広い葉たちは雨の毒をして、雨を僅かに浄化している。この森に棲みついて、随分と体の消耗は減った。髪が抜け落ちることは滅多になくなったし、皮膚が赤色で染まることも減って。けれど、その雫でさえも、今のモンゴメリには体中に染みる。

 モンゴメリは、太いざらついた木の幹にもたれ、右腕の裾をまくった。

 透けるような青い骨が、肉の向こう側に見えている。

 ――限界だな。

 モンゴメリは深く静かに息を吐いた。ここまで早く来るとは思わなかった。

 体中に穴が開いている。皮膚が爛れ落ち、肉が削げ、再生しなくなってもう長いこと経った。この剥けた体は、レレクロエの力を使っても戻らない。

 自分がもし消えたら、他の五人はどうなってしまうだろう。

 モンゴメリが眩惑の力で人間の眼から眩ませ、守ってきた場所。けれどそれをできなくなったら、すぐにでも人間に見つかってしまうはずだ。時折ミサイルが降ってくることがある。ミヒャエロがそれを混沌の中に取り込んで、事なきを得ているだけ。ミヒャエロの体にも、随分と負荷がかかっている。爆弾を自ら体の中に飲みこむようなものだ。その毒性をミヒャエロは、自分の身体で代謝している。

 レレクロエとミヒャエロと三人で、このことは自分達だけの秘密にしようと約束した。どこまで隠し通せるかはわからない。それでも、後の三人をなるべく巻き込みたくないというのが、自分たちの一貫した思いだった。この場所を見つけた日、彼女達が見せた明るい表情を、忘れられない。守りたい、と思った。ごく自然に、その気持ちを抱いた。自分でも驚いた。

『それは、君が少なからずあの子たちに消えてほしくないからなんじゃないの』

と、レレクロエは言った。

『力を使えば使うほど、終わりがやってくるんだから。僕達の身体はそういう風にできてるでしょ。それでも……それでもね、最後まで僕は残るから。女の子に最期を見届けさせるわけにはいかないんだよ』

 だから、せいぜい僕に力を使わせすぎないようにしてよね、と。

 ――あいつも難儀だな。

 思い出して、モンゴメリは小さく笑った。

 こんなに早く、消えるわけにはいかない。自分が消えた後のマキナレアたちの末路が手に取るようにわかる。

 ――でも、無理をしないわけにもいかないしな。

 モンゴメリは目を閉じて、細く息を吐いた。

 随分とぼんやりとしていたのだと思う。目を開けた瞬間そこにあった顔に、心臓がつぶれるかと思った。はしばみ色の眼に、自分の姿が映っていて。

「お……驚かせんなよ」

「気づかないのが悪いんだわ」

 ケイッティオは静かな声で言った。

「いや、近いんだって。なんでここまで近づく必要があるんだよ」

「わたし目があまり良くないのよ」

「知らねえよ」

「だって、あなたの眠っている顔なんて珍しいから」

「それはあんたがいつもさっさとぐーすか寝てるからだろ」

 そんなことない、とケイッティオは眉根を寄せた。その肩を押して顔を遠ざける。

「心臓に悪いからあんまり近づかないでくれる」

 そう言うと、ケイッティオは首を傾げた。

「わかった」

 ――いやに聞き分けがいいな。

 モンゴメリは嘆息する。

 ケイッティオは体の前で手を組んで、しばらくその場にじっとしていた。ややあって、口を開く。

「やつれたのね」

「は?」

「少し、痩せたと思う」

「あんたが?」

「違うわ。モンゴメリが」

「ああ……」

 そうかな、と思いながら顎に手を当てる。

「あと、背も高くなった」

「ああ」

 やっぱり気づかれたか、と苦々しく思う。

「羨ましい?」

 少しからかうようにそう言うと、ケイッティオは静かに首を横に振った。

「それを嬉しいと思っていない人に聞かれても、羨ましくなんて感じない」

 しばらく二人は見詰め合っていた。

 ――調子狂うんだけど。

 モンゴメリは耐え切れなくなって、ケイッティオから目を逸らした。

「無理しないで」

 ケイッティオは静かに言う。

「あなたたちが何を考えているかわからないけれど。女だからってわたしたちを甘やかさないで。何のためのこの力だと思ってるの。それだけはどうしても言いたかった」

 ケイッティオは手をぎゅっと握りしめる。ややあってにこり、と笑みを作って。

「それとも、奪ってあげましょうか? あなたの熱を」

 涼やかなその声に、モンゴメリは体をこわばらせた。

「あなた達の熱を根こそぎ奪って、勝手なことできないようにしてあげましょうか」

 この笑顔が、怒っている時のものだと、もう知っている。

 ――心臓に悪い台詞だな。

 モンゴメリは、榛色の眼を見つめ返した。

「おまえさ、そういうことを男にほいほい言うのはちょっとどうにかした方がいいと思う」

「どういうこと?」

「いや、別にわからなくていいけどさ」

「そういうのが嫌いなの」

 ケイッティオは顔をしかめる。そうして、距離を詰めた。

 モンゴメリの腕をつかんで、袖をまくる。

「それで、何、これ。隠してるつもりだったの」

 水滴が葉を伝ってしとしとと降り零れる。

「そんなに、俺のことをいちいち見てるなんて思わないしな」

 何でもない事のようにさらりと言ってみる。ケイッティオは少し顔を赤らめてむっとした。

 心臓が痛い。ケイッティオの、僅かに変化する表情を見ていると、胸の奥が少し熱を帯びて、ひりひりとする。

「見てないと思うからだめなの」

「え、何それ。俺が悪い感じ」

 モンゴメリは肩をすくめた。腕をつかむケイッティオの力は弱々しい。振りほどこうと思えば簡単にできた。なのに、動けなかった。動きたくなかった。

「これ、ミヒャエロもレレクロエもなってるの」

「レレクロエはまだそこまで力使ってないし。ミヒャエロのことは知らない。自分で聞けば」

「聞いたって……言ってくれないから……っ」

 苛立ちをない混ぜて、ケイッティオがそう吐き出し、目を伏せる。

 ――苛つくな。

 モンゴメリはケイッティオの腕を振り払った。けれどケイッティオはまたその手首を掴んでくる。

「なあ、しつこいんだけど」

「じゃあ話してくれるの」

「何を」

「わたしたちはどこへいこうとしてるの」

「知らねえよ」

「あなたたちがこうなって、それで嬉しいとでも思ったの」

「嬉しい嬉しくないは関係ないだろ。ミヒャエロはあんたのためだろうけどな、俺は別にあんたらのためにやってるわけじゃないんだよ。放せ」

「自分で払いのければいいんだわ。その度に捕まえるから」

「何、その自信」

「知らない!」

 ケイッティオは声を荒げた。モンゴメリはケイッティオを睨みつけた。

「だから、ミヒャエロのことが知りたければあいつに構えよって。もっとあいつと話しろよ。幼馴染だか何だか知らないけど、あんたら意思疎通がぜんっぜんできてないじゃん。こんなとこで俺に構ってる場合じゃないだろ」

「構ってもらってる自覚はあるの」

「……いちいち煩い女だな」

 睨み合う。

 ケイッティオは口をきゅっと引き結ぶ。

 ふと、それが自分が苛ついている時の癖に似ていることに気付いて、握られた手の指先がじんと熱くなった。

「煩くしなかったら……嫌わないでいてくれるの」

 ケイッティオは涙をにじませながら声を震わせる。

 ――は。え、ちょっと。は。待て。何。

「泣く、なよ」

「まだ泣いてないわ」

「まだって……」

「じゃあ泣いたらその前髪あげてくれる」

「待て。何の話だよ」

「大人しくしてればいいの。それとも怒鳴る方が好き。わたしがどうしたらあなたはちゃんと話してくれるの」

「怒鳴るって……おまえそんな小さい声で怒鳴るも何もないだろ」

「怒鳴れるもの!」

 ケイッティオはか細い声で叫ぶ。

 ――わ、わけわかんないんだけど……。

 変な汗さえ滲んでくる。

 ケイッティオは顔を真っ赤にして、眉間に皺を寄せた。何故だか口元が緩みそうになった。モンゴメリも慌てて口を引き結んだ。

「あのさ、何に癇癪起こしてるんだか知らないけど、ミヒャエロに対して苛立ってんならあいつに当たってくれない? 俺に八つ当たりされても困るから」

「今ミヒャエロは関係ないじゃない。あの人のことはまた別よ。わたしが甘いからいけないだけなのだもの。そうじゃないもの。今はあなたと話してるのに」

 悲しげな声。身体がかっと熱を帯びる。

 ――ああくそ、何したいんだよ。

 目の前にいるこれは、意思の通い合わない動物だ。かき乱されるのは嫌いだ。こういう衝動は知らない。モンゴメリはケイッティオの腕を捻って、その小さい体を木の幹に押し付けた。ケイッティオが瞳を揺らして、見上げてくる。その眼に、自分が映っている。

 背中がぞわりと鈍く泡立つ。手首を掴む手に力が加わっていく。

「痛い……モンゴメリ、痛い……」

 ケイッティオが、苦しげに呻く。

 ――あれ?

 モンゴメリは、頭の中にまた靄を見つけた。こんな感覚は知らない。

 もっと痛がらせてやりたくなる。体が熱い。ぞわぞわと体を巡って行く情動。

「あのさあ、おまえ、何がしたいの? 俺を苛つかせたいの?」

 心と裏腹に、上ずった声が口から漏れ出て行く。口元が緩んでいく。

「違う、わたしは、ちゃんと話をしたいと思っただけ」

「へえ。話をしたいだけなのに俺をこんなに苛つかせるんだ。作戦失敗だな」

「な、なんで怒ってるの」

 ケイッティオが泣きそうな声で言う。その言葉にふと、我に返る。俺は腹が立っているんだろうか。わからない。何に対して苛ついているんだろう?

「近い……」

 ケイッティオの柔らかそうな赤い唇から目が反らせなかった。心臓は破裂するんじゃないかと思うほどに鼓動を荒げている。震える手で、その唇に触れた。指を咥内に食い込ませる。

「いらい、やめれ……」

 ケイッティオがもがく。指がケイッティオの口の中で濡れていく。

「う……」

 ケイッティオが涙をにじませる。鼻頭の赤ささえ、どこか艶めいて見える。いつしかモンゴメリは、手でケイッティオの頭を抱えこんでいた。唇が微かに触れ合うほどの距離。ケイッティオの唸る声さえ、脳を痺れさせていく。ケイッティオの左の目から涙が筋となって零れ落ちていく。

 ――だめだ、これ以上は、だめだ。

 急に血の気が引いて、モンゴメリはぱっと身を離した。ケイッティオはぐすっと鼻を鳴らし、目を擦る。靄は、晴れた。

 ――だめだ、どうしよう。

 モンゴメリは髪を両の手で掻き上げる。

 思い出した。

「俺は……あんたが、いつもあいつミヒャエロにべったりだから」

 だから、苛ついて。

 ずっと、こっちを向かないかなと思っていた。

 助けてやったのに。いつまでも自分を見てはくれない。

 だから、同じ存在になれば、同じ世界に立ってくれるんじゃないかと思って。だから。

「あ……、あ、あ……」

 歯がガチガチと音を立てる。

 嘘だ、そんなの、嘘だ。

 自分の我が儘が、たった一つの、たわいのない、餓鬼じみた所有欲が。

 彼女の未来を壊したのだ。

 こんな、肉体が削げ落ちて、青い世界の殻になって、世界から消えてなくなるだけの未来のために。

 道連れに、しようと。


「俺は、あんたが、ずっと、あの時からずっと、欲しかったんだ」


 モンゴメリの声は、空に吸い込まれていった。



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