謳う世界

「まだなの」

 ギリヴは歯を食いしばりながら吐き出した。

「もうみんな限界だわ。早く休んで回復しないと」

 ギリヴの声に、モンゴメリも掠れた声で応える。

「だめだ。まだ……まだだ」

「何が? 何がだめだって言うの!? もう十分逃げた。少しくらいいいじゃない。このままじゃ……」

 ――みんなが死んでしまう。

 けれど、モンゴメリは苦しげに唇を噛んで、前を睨み続けるばかりだ。ギリヴは、頬を伝った雨を袖で拭った。

 死という概念はもはや自分達には存在しない。それなのにこの焦る気持ちは何なのだろう。

 もう六日になる。休まず絶え間なく歩いた。人間ではない自分達には、食事も睡眠も必要なかった。だから、降りしきる雨の中、ひたすら先へ先へと歩んできた。

 こんなにも長い間、雨に打たれたことなんてなかった。人の皮膚はこんなにも簡単に雨で崩れていくものなのだと知った。この雨の中で、人々は生きてきたのだ。何十年も、暗い洞の中で。それを考えると、胸の奥がひりひりと痛んだ。罪悪感。同じだけの、憤り。

 こんな雨は世界に残していてはいけないのだ。それなのに自分たちは、使命から目を背けて逃げている。使命を遂げるということは、この世から今度こそ本当に消えてしまうということだから。

 消えかたもわからないままに、ただ逃げるだけ。

 ――こんなの、意味なんかない。

 ギリヴは唇を噛んだ。

 レレクロエが必死で皆の傷を修復しているけれど、それも全然追いつかない。それでもモンゴメリの言うとおりにひたすら歩き続けた。

「もう少し……もうすぐ……きっと、このあたりに……」

 モンゴメリは爛れた唇で朦朧と呟く。

 この辺りに安全な場所があるからと。そこなら大丈夫だからと。

 そう言って、彼は歩みを止めない。まるで何かに追われているように。その訳も話してくれない。

 すぐ後ろでは、ケイッティオが何日もずっとミヒャエロと揉めている。

「お願いだから、ミヒャエロ。わたしは奪われにくいんだ。だから、あなたがこれを着て。お願いだから」

「大丈夫、大丈夫」

「大丈夫じゃ……ない」

 ケイッティオがどんなに拒んでも、ミヒャエロが彼女を庇うのをやめない。何かに追い詰められているみたいに、頑なにその手を拒む。

 何もかもが怖い、とギリヴは思った。

 血を口からぼたぼたと落としながら、皆の回復を続けるレレクロエ。大好きな娘を守りたい独善で、ただ自分を痛め続けるミヒャエロ。周りも見えず、見ようともせず、ただ何かに怯えるように先に進み続けるモンゴメリ。

 ――あたしたちは、守ってもらわなくたっていいんだ。

 雨を洗い流し続けるハーミオネ。けれどその浄化は到底追いつくことはない。この雨の毒性に、マキナレアはどうしたって適わない。ケイッティオがどれだけ雨の毒を奪おうとしても、気休めにしかならない。

 何の役にも立たない自分が歯がゆい。

「お願い、何か、喋ってくれない」

 吐息が、ギリヴの髪を揺らす。ギリヴははっとして顔を上げた。いつの間にか、隣に並んだレレクロエが、息を切らしながらギリヴの顔を覗き込んでいる。真っ赤にただれ、血に染まった皮膚。その中に揺れる赤紫色の眼差しに、胸がつぶれるかと思った。

「う……う……」

 泣くつもりなんてない。けれど、涙が止まらない。目をこするけれど、雨に溶けてぐちゃぐちゃになる。

「僕は、泣けなんて、一言も言ってない。だから、なんか、しゃべってよ。気が、まぎれるから」

「紛らわせてどうするのよ! 自分の回復をしなさいよ……! あたしは何もできないのよ! できないんだから……」

 だから、お願いだからこれ以上そんな姿を見せないで。

 お願いだから。ギリヴは、耐え切れず眼を閉じた。ぽろぽろと涙が落ちて、頬を洗っていく。

「あっはっは。君さ、自分が役に立たないことが歯がゆいの? その偽善はどこからくるの? 思いやりだなんて安直な言葉使わないでよ? どうせ自分が辛いだけだろう。いいから、僕の言うとおりにしてれば、いいんだってば」

 レレクロエは笑い飛ばす。何て言い種だろうと悔しくなって、ギリヴは唇を噛んだ。

 そんなこと言わなくたっていい。あたしはそんなことじゃもう傷つかないんだから。あなたにひどいこと言われ続けて、もうすっかり麻痺したんだから!

「そんなの決まってるじゃない! あたしはあたしが辛いし痛いから言ってるのよ。あなたのそんな姿なんかあたしでなくても誰も見たくないわよ、いいから早く自分の身を大事にしてよ……! お願いだから」

「はは……随分と素直になったなあ」

 レレクロエは何故だか、はにかむように笑った。悲しげに、苦しそうに、そしてどこか幸せそうに。

 どうしてそんなことを言うんだろう。そんな顔をするんだろう?

 心がかき乱される。いつだって、レレクロエは訳が分からなくて。

「素直ついでにさ、たまには僕のいう事も聞いてくれよ。こんな時だからこそ、君のその口からとめどなく出る無駄話を聞きたいんだよ。すっごくどうでもいい話をさ」

「馬鹿ね。そんなのできないからギリヴなのよ」

 ハーミオネが言う。

「それだから、あなたは――でしょう」

 そうして何かを呟いたが、雨の音で聞こえなかった。

「私達を叱ってくれるなんてギリヴだけじゃない」

 泣きそうな表情で、ハーミオネは言う。ね、ギリヴ。そう言って、ギリヴの背中にそっと触れて。

「あなたはもっと怒っていいんだから。この、どうしようもない馬鹿どもめ! ってね」

「やめてよ」

 ギリヴは唇を震わせた。

「そんなこと、冗談でも言わないでよ。そんな顔で、そんなこと言わないでよ」

 血だらけで。ぼろぼろで。笑わないで。辛いのに、お願いだから笑わないで。

 ギリヴには泣くことしかできなかった。誰も泣かないから。誰かが泣いてくれればいいのに。誰も泣いてくれないから。

「どこに行こうとしているの?」

 ケイッティオが不安そうな声でモンゴメリに尋ねる。ミヒャエロの手を引きながら。体を支えながら。この問答も、もう何度目になるかわからない。

 ケイッティオの手はぼろぼろに爛れている。けれどその顔には殆ど傷がついていない。ミヒャエロに服を被せられたからだ。それを幸せそうに見つめるミヒャエロが、ギリヴには痛々しく見える。

 ――大事にされてていいな。

 ふと、そんなことを思ってしまった。もしもケイッティオがギリヴの心の中を読めたなら、きっと顔をしかめて嫌がっただろう。ケイッティオはミヒャエロに笑ってほしいだけだ。ミヒャエロを守れるようになりたいとずっと言っていた。けれど、彼がそれを許さない。ミヒャエロはとても危うかった。ケイッティオさえ無事ならそれで彼はいいのだ。

 二人の絆の深さはギリヴにはわからない。けれど少なくとも、あの日ミヒャエロが自分を守ってくれたのは、ケイッティオがギリヴを好きでいてくれるからだと、それくらいのことは知っている。

 ギリヴはモンゴメリの横顔を見つめた。モンゴメリは唇を引き結んでいる。雨に打たれて抜け落ちた髪の隙間から、彼が厭っている柘榴の眼も見えるようになっていた。とても荒んだ眼差しで、口をきゅっと引き結んで。ケイッティオが話しかけるたびにこんな顔をするのだ。

 馬鹿だなあ、と思った。欲しいなら欲しいと素直に言えばいい。気づいてさえいないなら、自分にもっと素直になればいいのだ。それなのに、彼もまた、頑なに見ようとしない。

 ――醜いなあ。

 あたしは醜いなあ。

 ギリヴは涙が渇いていくのを感じた。

 こんな大変な時に、こんなことしか考えられない。こんな想いしか抱けない自分が、大嫌いだ。

 レレクロエはハーミオネには優しい。ミヒャエロはケイッティオに過保護で、モンゴメリもまた、きっと自分の気持ちを持て余している――いつでも心を閉ざして、生きることを拒んで、声さえ出すのも厭っていたのに、いつしかケイッティオには棘のある言葉もぶつけるようになって。そのうち、段々ギリヴとも話すようになった。それだけだ。それだけのことだ。

 ――あたしもケイッティオが好きだもの。

 これが嫉妬だと知っている。自分の業そのものなのだから。

 ――けど、あたしはきっと、本当は誰も好きじゃないんだ。

 好きになれるわけがない。自分だけが可愛いのだから。

 きっと今も、皆を心配する気持ちは、自分可愛さの裏返しだ――ギリヴはそう信じている。そしてそれを見抜いているから、レレクロエは自分に辛く当たるのだと。

「……ほら、答えてあげなよ」

 ギリヴはモンゴメリの背を押した。モンゴメリはギリヴを睨んだ。

 ――そんな顔したって、傷つかないよ。

 ギリヴは口角をあげた。笑えたかな。ちゃんと、笑えたかな。

「花畑が、」

 しばらく眼を揺らして、たくさんの雨音を聞いて。ようやく、モンゴメリが零した。

「この先に、花畑があるんだ。雨をしのげるわけじゃない。けど、あそこは……俺達を造ったあいつにとっても大事な場所だから、なんだかそんな気がするから――きっとあそこなら、大丈夫なはずなんだ。あれが残っているとしたら、そこは雨に打たれても溶けない何かを施されていることになるから」

「そう……なの」

 ケイッティオが静かに言った。

「でも……」

「残ってるよ」

 ギリヴは遮るように言った。ちゃんと笑えているかな。大丈夫かな。

 ギリヴはケイッティオに抱きつく。

「きっと、残ってるよ」

 モンゴメリがどうしてそんな場所のことを知っているのか、わからないけれど。

 もう追い詰めたくなかった。

 ケイッティオはようやく柔らかく笑った。

「うん……そうだね」

 ――この笑顔にやられるんだろうなあ。

 ふと、そう思う。

 見ると優しい気持ちになれるようなこの笑顔に、やられない方がおかしいじゃないか。あたしだって大好きなのに。

 ギリヴは笑った。つられるようにミヒャエロが笑ったのを見て、ケイッティオは柔らかく目を細めた。

 それからどれくらいの雨を浴びて、砂を踏みしめただろう。

 不意に、モンゴメリがけたけたと笑い出した。目を片の掌で覆いながら。

「あったね」

 レレクロエが静かに、息を吐き出すように呟く。ギリヴは、二人の視線の先を目で追った。

 灰色の空の下で、鈍く、けれど鮮やかに透けて光る、枝の向こうの深い緑。

 その木々の根本を縫うように敷き渡る、紅紫色。

「はは……あいつ、本当に何がしたかったんだよ」

 モンゴメリが力なく呟く。

「大嫌いだ、あんなやつ」

 モンゴメリは嗤い続ける。レレクロエはその場に崩れるように座り込んだ。深く息を吐いて。

「だめよ。あと少しじゃない。ほら、歩いてよ」

 ギリヴはその袖を引っ張った。レレクロエはただ微笑するだけだ。

「安心したらどっと疲れたよ。起こして」

 手を広げて伸ばすレレクロエは、まるで子供のようで。ギリヴは虚を突かれて、やがて嘆息した。

「子供じゃないんだから」

 手を繋いで引き上げる。レレクロエは柔らかく笑った。絵になるような笑顔。ほっとしたから、ちょっとだけあたしにも優しいのかな、と思う。少しだけこそばゆい気持ちだ。どうせすぐにまた暴言を吐かれる日々に戻るだろうけれど。今日だけはこの優しい微笑を見ていたい、だなんて。

 ――たとえ、あたし一人のためのものじゃないとしても。

「浅い沼地だから、足元気を付けて」

 モンゴメリが言う。靴なんかもう意味はなかった。ギリヴは靴を脱ぎ棄てる。濡れた泥は、温く皮膚にまとわりついた。

 足を踏み入れて、言葉を失った。

 蓮華草の花、花、花。

 何処までも続く紅紫の絨毯。ひんやりと冷えた空気。水の匂い。花の香り。緑の香り。

 こんな命の場所が、まだ、この世界にも残っていたなんて。

「なあに、これ。ギリヴがそこらじゅうにいるみたいで気持ち悪」

 レレクロエが呟く。むっとして振り返ると、彼は柔らかく目を細めて、花を見ていた。

 その表情に、心が跳ねる。

 ――あなたは蓮華草のような人だね。

 ふと、ミヒャエロの言葉を思い出した。

 たまらなくなった。ギリヴはわっと泣き出した。その背中をハーミオネが優しく撫でてくれた。


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