繋ぐ旅路

 白い砂地が続いている。

 雨によって削られていった人間の家々の名残が、雨を吸い込んでなお、さらさらと宙に舞っている。

 吸い込めば喉を傷める。けれど砂が霧に溶けていく様は、とても儚くて、寂しくて、辛い。

 緑なんてとうの昔に途絶えている。だからこそ水が消えていくのかもしれない。汚染されたまま、巡ることもないまま。

 小さく咳込みながら、ハーミオネは歩いてきた道を振り返った。

 降りしきる雨の中、立ち込める灰色の霧のせいで、何も見出すことはできない。

 確かにそこにあったのに。

 生きている証が。笑い声が。怒鳴る声が。泣き声が。慟哭が。

「……っ」

 ハーミオネは唇をかみしめた。泣かないと決めた。皆の前で涙だけは見せない。それがハーミオネの誓いだ。私だけのルール。

 逃げると言ったのは私。全てを捨てると唆したのも私だから。私だけは、泣いてはいけない。

 ハーミオネは、前を歩くミヒャエロの広い背中を見つめた。

 今もなお、ミヒャエロはケイッティオを庇いながら歩いている。後ろから、そっと彼女が砂に侵されないように、濡れてしまわないように、庇っている。自分のフードを被せ、彼女が砂に足を取られたらそっと手を引く。裾についた砂を払ってやる。目に砂が入ったら抱きしめる。

 ケイッティオはそんなこと望んでいないのに、と思う。

 彼女はミヒャエロを置いて羽ばたこうとしている。それなのに、未だに彼だけがそれを受け入れられていないのだ。彼女はもう一人で歩いている。ギリヴと笑いあい、モンゴメリの毒舌にむくれて、レレクロエのギリヴへの暴言に顔をしかめる。表情が乏しくても、ずっと見ていれば気づける些細な変化だ。

 ハーミオネでさえ気づくのに、ミヒャエロに見えないはずがない。それでもミヒャエロは、見ないふりをしてケイッティオを大切にする。ケイッティオの視線をずっと追って、まるでこちらを見てと体いっぱいで表しているみたいで。

 ――いつまでもあなたは路地裏の子供のままなんだわ。

 ハーミオネは彼をとても痛々しく思った。

 ミヒャエロのことは、ずっと前から知っていた。馬車の窓から見えた小さな骨ばった汚れた腕を、覚えている。忘れられない。記憶は

 ――妹が病気なんです。どうか、パンを恵んでくれませんか。

 パンの一つくらい腐るほどあった。だから、あげたってよかったのだ。なのに、ハーミオネの父はそれをしなかった。彼の小さな体は突き飛ばされ、足を馬車輪に踏みつぶされた。

 その光景を、ハーミオネはどうしても忘れることができないのだ。

 マキナレアとして造り替えられるとき、人であった記憶はほとんど置き換えられてしまったけれど。それでもその日の景色だけが、鮮やかなまま残っている。頭から離れない。

 あの子供はどうしただろう? 死んでしまったのだろうか。病気の妹はどうなっただろう――ずっとそればかりを考えていたあの頃が、どれほど苦しかったか。

 再会して間もなく、ハーミオネは。その後、ケイッティオもまた、まるでハーミオネの後を追うように。彼女が彼の妹だと知るのに、時間はそうかからなかった。やがてミヒャエロもまた、ケイッティオの後を追った。人間だった自分を切り捨てた。ハーミオネはそのまま永遠に、あの時の少年に懺悔する機会を失った。

 混沌と秩序を司るマキナレア。彼が世界に再び生まれ落ちた時の姿を、忘れることなんてできない。汚れているのに鮮やかな黄金の髪、濃い隈の上に光る獣のような金の瞳。ケイッティオしか見えていない瞳。その人だけしか映さないのだと、決めてしまったかのような眼差し。

 彼の眼差しを目で追うたび、心が痛かった。彼は痛々しかった。少しでも、もっと広い世界を見てくれたらいいと願ったけれど、届きはしない。彼はかつての砂の世界で、黄色い世界、暗い汚れた路地裏で、ケイッティオと二人きりで生きてきたのだ。血もつながっていない、捨て子の彼女を、自分の生きる糧として。そうしなければきっと生きていけなかったから。愛されず捨てられ、生きることも死ぬことも許されない――そんな生き方をハーミオネは知らない。理解ができるはずもない。

 何度話しかけても何一つ正しく聞いてはくれない。目を見ようともしてくれない。見えてすらいない――彼の瞳に映るのはただ一人、彼の作り上げた妹だけだ。ハーミオネではない。

 それがとても辛くて、悲しくて。

 彼が愛するケイッティオは、マキナレアとなった代償に感情を奪われ、彼の生きる希望だった笑顔も絆も、全て忘れ去っていた。残酷だ、とハーミオネは思った。それでも彼は、一つ覚えのようにケイッティオに食べ物を運んだ。もう空腹で苦しむことはないのに。マキナレアなのに。街を彷徨って、食べ物を盗んで。光のない眼で。

 苦しかった。ミヒャエロに、こちらを向いてほしかった。私を見て。お願いだから。

 何がきっかけだったかは覚えていない。けれどある日、堰を切ったように自分の眼から溢れて止まらなくなった涙は、ミヒャエロの頬を濡らしていった。そして初めて、彼はハーミオネを見た。

 ――どうしたの。

 それがどれだけ胸が痛くて、辛くて、悲しくて、苦しかったか、きっと彼はこれから先も理解わかってはくれないだろう。思い出してもくれないだろう。それからの彼は、ようやく外の世界を見るようになった。生に困らなくていいんだとようやく理解した。彼は次第に穏やかになっていった。元来そういう人だったのかもしれなかった。やがて笑顔を覚えた。貼り付けたような笑顔だ。彼はきっと本心から笑ったことなんてない。

 それでも嬉しかった。ミヒャエロの笑顔は好きだった。ミヒャエロの全てが好きだった。

 ハーミオネは、幸せだった。棺の中での数百年の眠りに、耐えられた。会えない日々にも、苦しさを紛らわせた。ミヒャエロが笑ってくれたから。 

 彼の幸せは、ケイッティオにしかない。ケイッティオが彼を選ばない限り、彼は幸せになることはできないけれど。

 ――それは無理なことなのよ。

 ハーミオネは唇をもう一度噛む。

 ミヒャエロを好きだと自覚して、色々なことが見えるようになった。ケイッティオが本当は、強い子であること。弱いと見えていたのはきっと、病気のせいで。それでもミヒャエロにとっては守りたいたった一人の人だ。

 ミヒャエロの想いは、彼女に届かないけれど。

 彼女の周りを風のように漂うだけだ。それが切なくて、悔しい。

 ふと、背中を優しく押された。振り返ると、血糊のついた睫を揺らして、レレクロエがハーミオネを見つめていた。

「レレクロエ」

「早く歩きなよ。置いていくよ」

「うん」

 レレクロエはそれきり黙り込んだ。ずっとハーミオネの背中を押したまま、静かに歩き続ける。足は砂に埋もれていく。踏みしめなければ先へは進めない。

「……泣いていいんだよ」

 ふと、ぽつりとレレクロエがそう言った。ハーミオネは笑った。

「なあに? らしくないわ」

「そう? でも、僕しか見てないよ」

 レレクロエの声は、優しかった。

「あいつはいつだってあの子しか見てないんだから」

「あはは。人のこと言えないでしょ」

「なんのことだよ」

「ほら、そうやって――」

 ずるい。

 ずるいわ。

 体中が痛かった。手の指先から熱が奪われていく。こんなにも苦しいものだとは思っていなかった。ハーミオネは唇をさらに強く噛んだ。

「私は、泣かないわ」

「そう? じゃあいつ泣くのさ」

「そっちこそ。いつ泣くつもりよ」

「僕は男だよ?」

「その割に女々しい格好だわ」

「美貌と言ってよね」

「ほら、その発言が気持ち悪い」

 ハーミオネはころころと笑い続けた。レレクロエが泣かないのに、自分が泣けるわけがない。

 レレクロエもつられる様にくすくすと笑い出す。いつしか二人は、手を繋いで歩いていた。きっとこの痛みは他の誰にもわからない。

 不意に、モンゴメリが振り返った。ハーミオネは、微かに見える赤い眼になんとなく笑いかけた。彼が背中を押すギリヴも、唇をかみしめながら涙をぼろぼろと流していた。目を擦りすぎて涙が雨水と混ざり合い、瞼が爛れるのも臆しないように前だけを睨みつけながら。

 雨がハーミオネの顔を焦がしていく。隣を歩くレレクロエもぼろぼろだった。

 けれど、それを痛いとは思わなかった。目の前を歩くミヒャエロの髪がところどころ抜け落ち、頭や首がただれていくのを見ている方が辛かった。ミヒャエロが血を吐いてよろめく。回復力は高いけれど、彼の体自体は脆弱で。耳が爛れて、膨れ、縮れた皮膚が落ちた。きっと二人の笑い声も聞こえないほどに、ぼろぼろになって。

 その背中を二人で押した。変わらず笑いながら。大丈夫、もうすぐ辿りつくよ、と言いながら。

 辿りつく場所もわからないまま。



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