瞼閉じる世界

 逃げる。

 ここから逃げ出せばいいと。

 ハーミオネのその言葉を聞いて、モンゴメリはめまいを覚えた。視界が晴れたような心地。否、むしろ、本当はずっと目の前にあった靄を、今更それと認識したような気持ちだ。まだ、その先に何があるのかなんて見えない。

 この世界にマキナレアとして産み落とされ、自我を持ったその時から、他と自分の埋めようのない溝を感じていた。それが何なのか、はっきりとはよくわからなかった。

 例えばそれは、使命感であったり。閉塞感であったり、絆であったり――他の五人に備わっているものが自分にはなくて。

 けれど、彼らが持っていないものはモンゴメリだけが持っている。例えばそれは、焦燥、憎しみ、感情の奔流。

 ケイッティオは、どうしてそんな風に瞳を隠すのかと尋ねた。レレクロエはそんなことをする自分を馬鹿だと嘲った。ミヒャエロは、面白いことをするねと不思議そうに首を傾げた。

 誰もが口々に言うのだ。そこまで自分の能力に対して好きだ嫌いだという些細な感情を膨らますのは奇妙だねと。

 自分の力が大嫌いだという気持ちは、モンゴメリにとっては極当たり前の感情だった。モンゴメリはこの世に生まれ落ちた瞬間から、本能的に人の視線を厭っていた。自分の力が、人間にどう作用するのか、。生きることも厭いたくなるくらい、嫌だった。その感情を理解しない他のマキナレアを、異常だとさえ思った。嫌な能力は、何もモンゴメリに限ったことではない。

 けれど、彼らは口をそろえて、【私達はマキナレアだから】と不思議そうに首を傾げるのである。それがとても恨めしくて、憎くて、けれどその煮えたぎるような想いもやり場はなかった。受け止めてくれる者などいなかった。やがてそんな感情にも疲れて、目を背けることを覚えた。一旦覚えてしまえば楽だったのだ。どうしてもっと早くに思いつかなかったのだろうと思った。前髪で目を隠す。視界を遮る。ただそれだけのことで、この世界はとても居心地がよくなった。見たいものだけ見ればいい。見たくないものは見えなくしてしまえばいい。

その態度に苛立ち、考えるのをやめた。これ以上こんなくだらないことで気持ちをかき乱されるのは不快だ――けれどそれは間違いだったのではないかと。

 逃げるということを思いもつかなかった自分に気付かされて、ふとそう思った。

 ――俺は、いつから逃げることを忘れてた?

 思いつかなかったのではない。思うことを諦めていたというのが正しい。諦めていたことすら、忘れていた。

 何かがおかしいな、と思う。頭の中にはまだ晴れない靄が厚く立ちこめて、それが何かはわからない。

 それ以上考えてはいけないと、頭の片隅で誰かが言ったような気がした。聞き覚えのある声だ。不意に視界が晴れたような心地がした。それはアルケミスト――世界最後の王、レデクハルトを陰で支えた世紀の錬金術師である。レデクハルトって、誰だっけ? どうして、知っているんだっけ。なあ、誰か覚えている? そう、不意に呟こうとして、モンゴメリは気づいた。

 記憶にあるアルケミストは、大人だったのに。

 モンゴメリが彼と認識したその声は、若々しい少年の声で。

 あれ?

 ぶわっと汗が吹き出す。逃げる? 逃げよう、逃げましょう? 知っている。聞いたことがある。同じ言葉を、昔、だれか、に。


【はは】


 頭の奥で、誰かが笑う。


【逃げようと言ってくれたんだ。黄昏の闇の中を二人で逃げた。汽車に乗ってさ。海を渡った。でも逃げ切ることはできなかったでしょう? 俺達を待ち構えていたのは、人の羨望に囚われた純白の箱。その中にいるしかないただのままごと人形。だけど、別に悲しくはなかったよ。逃げたのも気まぐれだったでしょう。逃げる世界なんてないって元から知ってただろ。だってそんな星の下に生まれついてしまったのだし。でも、それでも必死に俺を自由にしようとするが面白かったね】


 頭が混乱していた。これは俺の感情なんだろうか。覚えていないのに、確かに


【箱の中に再び閉じ込められて、やっと気がついたんだ。ああ、俺はこの眼差しの集合体からずっと逃げたかったんだ。でも、逃げられなかった。そのことに】


 おかしい。こんなのはおかしい。こんな記憶は知らない。感情にも覚えがない。でも、思い出していく。思い出したくない。怖い。アルケミストに造られたから俺はこの世に生まれた。でも、本当に?

 つじつまが合わないじゃないか。

 モンゴメリはぶるりと震えた。アルケミストは新しい世界を創ると言った。そのためにマキナレアを造りだしたのだと。だからマキナレアは、細胞の一つ一つに世界の全ての元素と物理法則がそれぞれ埋め込まれていて、だからこそ自然さえ動かす力を持っていて。

 でも人の心は。

 感情は、憧れは、羨みは。

 錬金できない、ということをモンゴメリに教えたのは誰だったろう。遠い昔の記憶だ。幼い頃に、誰かが。

 ーー幼い頃?

 モンゴメリは混乱していた。隣を見ると、ケイッティオがいて。不意に、こいつはこんなに小さかっただろうか、と思った。棺に入る前って、ほとんど目線の高さは変わらなかったんじゃなかったっけ? 

 名前もわからない、ぐちゃぐちゃの感情が、ぶわりと全身をかけめぐった。その中でも一番強かったのは、恐怖だった。生まれた瞬間からこの姿で生きてきて、機功からくりだから成長もないはずなのに。気づいてはいけなかったんじゃないだろうかーーこの先隠し通せるだろうか? このままもっと背が伸びていったらどうしよう? どうしてマキナレアのくせに、一人だけ成長しているのかと誰かに気づかれたらどうしよう。怖い。何が怖いんだろう? ……わからない。

 レレクロエと目が合う。彼だけは、欺けない気がした。最も、目があったと感じているのは自分だけで、向こうにはこちらの目も見えていないはずだが。

『モンゴメリ』

 レレクロエは声には出さず、唇だけを動かした。

『後で話がある』

 ぞっとする。自分の考えが読まれたかと思って。反射的に、頷いてしまった。本当は話なんかしたくもない。元々個人的にもレレクロエは苦手だ。そりが合わないのだから。


     ✝


 ケイッティオとギリヴは、久しぶりに再会したハーミオネと話を咲かせている。

 ミヒャエロは、気を使ったのだろう、モンゴメリとレレクロエから距離をとって、子供達と遊び始めた。レレクロエの言葉を皆は待っている。鶴の一声。彼が、「行こう」と言うのを。

「それで?」

 モンゴメリは、自分達の会話を誰も気に留めていないのを確認して、レレクロエと向き合った。レレクロエは柔和に小首をかしげる。

「相変わらず低い声だねえ。声変わりしたんじゃないの?」

 びくり、と肩が跳ねかける。モンゴメリは前髪を掻き上げ、レレクロエを睨みつけた。それ以上言うな、と思った。レレクロエは大仰に手を上げてみせた。

「おお、怖い怖い。そうそう、せっかく天から授かった瞳なんだから、そうやってちゃんと世界を見てればいいんだよ」

「無駄口はいい。何の話だよ。さっさと言え」

 モンゴメリの言葉に、レレクロエは目を細めた。

「君はきっと嫌がると思うんだ」

 静かに、そう紡ぐ。

「でも、僕は君に君の本分を果たしてほしいんだよね。守られてるばかりじゃ君だって癪でしょ」

「だから、何が言いたいんだよ」

 モンゴメリが低く唸ると、レレクロエは目を伏せた。

「僕らが逃げたとしよう。そうしたら、追手が来るのは目に見えている。ただで逃げられるわけがないんだ。僕達は神の使いでもなんでもない。一人のアルケミストの発明品であり、兵器だ。それが六体も人間を守る使命から逃げて逃亡するとなれば、それは人間にとっては脅威でしかないだろう? 例え僕達にその気はなくとも、ね。君にだってわかるでしょ。 僕らはもともと人間だったのだから」

 モンゴメリは息をのんだ。

「僕、ら……? じゃあ、あんたも――」

「君だけじゃない。僕だけでもない。僕達はみんな、元は人間だった。そして、僕達の遺伝情報だけが書き換えられた。それを壊さないように、外界の刺激から守るように、僕達の身体は内部から機功に守られている。この皮膚の下には青い絡繰りの身体があるというわけだ。緻密に設計された、神様の設計図で作られた、ね。僕達はもう人間でもなければ機械でもない。文字通り神の使いだ。けれど、そんなことは人間にとってはどうでもいいことだろうさ。彼らにとっては、自分たちの身を守ることの方が大事だ。実に単純な、当たり前の生存本能でしょ?」

 レレクロエはモンゴメリを見据えた。

「僕達の役目は、この雨と共に消えること。この雨は、そのためにある周到な罰だ。でもこの力は、僕達の力は、人間を守るためじゃない。僕達が我が身を守るためにある。この雨から、あるいは人間達から」

 ――それじゃまるで、最初から人間と戦うために仕組まれていたみたいじゃないか。

 モンゴメリは歯を軋ませた。

「人間? 我が身を守るための力? で、俺だけにこんな話をして、どういうつもり。なんで他のやつには言わないんだよ。あんたはなんで、知ってたんだよ。俺は何も覚えていないのに」

「そりゃあね。記憶、消されたわけだし」

 レレクロエはつまらなさそうに言った。モンゴメリは再び背筋にぞわりと寒気を感じた。消された? 誰に?

「僕は最後に造られたから。そのために造られたから……知っているだけさ。そして君は、僕らの中でも一等特別だから、教えたのさ。その眼はアルケミストが君に与えたんじゃない。君の生まれ持っての才能だったんだよ。神の申し子さん」

「申し子……? どういうことだよ」

「僕がそこまで教えてあげるのは、ちょっと酷かなあ」

 レレクロエは、苦しそうに笑った。モンゴメリは目を見開いた。レレクロエのそんな表情を、初めて見たから。

「知りたきゃ自分で思い出しなよ。できないことはないはずだよ。記憶を消したって言ったってただの催眠さ。別にあのアルケミストが万能だったわけじゃない。使った材料がよかったってだけ。僕達は奇跡と、アルケミストの執念の下できあがったんだから」

 レレクロエは再び目を伏せる。

「君に話をした理由、だっけ。……さっきも言ったように、僕達の能力は自己防衛のためにある。けれど、それを使いすぎているとすぐに摩耗して体が壊れてしまう。終焉が早まるってわけさ。それだとちょっとばかり都合が悪いんだ」

「いったい誰に都合が悪いんだ? 自分にか?」

 モンゴメリは鼻で笑った。レレクロエは何でも知っているくせに、全てを教えない、掌の上で転がして遊んでいる――そんな怒りがこみ上げた。けれどレレクロエは、静かな表情を崩さなかった。

「どうとでも解釈してもらって構わないよ。とにかく、僕はみんなが自分の能力を使いすぎる前に、君にどうにかして欲しいと思ってるんだよ。そのためにも、ついでにさっさとそのうっとうしい前髪を切ってくれないかなあとも思うね」

「それとこれとは別だな。つまり何か? 俺がこの目を使って、俺らを追って来る人間共をみんな惑わせて、追い払えとでも言いたいわけ」

「ご明察。君の能力に関しては僕達まがいものと違って本物だから。後で植え付けられたものじゃなくて、君自身が持っているものだ。使いすぎればもちろん君自身もいつか摩耗するだろうね。けれど僕達よりは君は執行猶予が長いのさ」

 レレクロエは晴れやかに笑った。その笑顔が、なんだかしゃくに触る。

「それで? 俺に何か得はあるわけ」

 ふと、同じような言葉をケイッティオにかけたことを思い出して、モンゴメリは頭をふるふると振った。

「君にも守るものができるってことくらいじゃないの? 言わせないでよ気色悪い。美談は嫌いなんだよ」

「よく言う」

 モンゴメリは鼻を鳴らして、前髪を下ろした。

「自分こそ、慣れないことばかりしてるくせにな。あんたは嘘つきだ」

「そうかなあ」

「演技だらけ」

「心外だなあ。僕は君に本当のことをちゃんと言ったんだけどなあ」

「あんたはすぐ自分の言葉を嘘で塗り固めて、自分を嘘に仕立て上げる。隠し事ばかりでさ。……そんなやつは嫌いだ」

「知ってるよ」

 レレクロエは、嘲るような笑みを浮かべる。

「奇遇だね、君とはそりが合わないって僕も前々から思ってる。そもそもね、君と僕は光と影、蔭と光のような存在なのさ。最初の子供と最後の子供が、相容れるわけがないじゃないか。でもね、僕が一番信頼してて、頼れるのも君なんだよ。君だってそうじゃない? 僕の言うことなら聞く気になるでしょ。それって何でだと思う?」

「知らねえよ」

 モンゴメリは口を引き結んで、レレクロエに背を向けた。しゃくだけど、レレクロエの言うとおりだ。モンゴメリは、ミヒャエロの中身のない言葉より、レレクロエの言葉のほうが信用できる。レレクロエには隠し事があるから。モンゴメリがそうであるように。誰にも、言いたくないと思ったから。

「気は合わない……けど、僕はねえ、君の目つきは嫌いじゃないよ」

 レレクロエがぽつりと呟いたのが、聞こえた。


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