解れる世界

 ふわあ、と欠伸をしてみる。眠くはないけれど、退屈だ、と思って。足を組みかえてみたりもするけれど、退屈さに変わりはない。立ち込める湿気と汗のにおいにももう慣れた。待ちぼうけは退屈だ。やることがない。

 レレクロエの退屈を見計らったように、小さな足音が洞窟内に響いて、近づいてくる。レレクロエは視線をすっと横に流し、ぴょこぴょこはねる柔らかい赤毛を見つめた。今日もはねてるな、と思いながら。

 赤毛に緑の目の幼い少年は、零れそうなほどに大きな目でレレクロエをじっと見つめてくる。アビゲイル、という名前のこの子供は、何かとレレクロエに絡んでくるのである。今日も絡み合った赤い毛糸の塊を持っていて、ああ、また面倒だな、とレレクロエは思った。けれどレレクロエは、この子供を跳ね除けたことはないのである。だから、なつかれているとも言うが。

「おい、使徒さま」

「なんだよ」

 レレクロエは眉間に皺を寄せたまま、アビゲイルを見下ろした。

「これどうやればいいんだ」

 可愛くない口調で、毛糸の塊と錆びかけた編み棒を押し付けられた。レレクロエはそれをじっと凝視してから、小さく嘆息した。

「ねえ、聞いていいかな。これは一体何のなれの果てなのかな?」

「う、うるさい!」

 アビゲイルは、髪の毛にも毛糸にも負けないくらい顔を真っ赤にして頬袋を膨らませた。

「僕は貶してなんかいないんだけどなあ。何を作るつもりだったのかわからない限りは直してやりようもないからね」

 レレクロエは整った笑顔を作った。子供相手に嫌味を込めてみる。レレクロエは、子供の跳ね除け方を知らないので。こんな風な物言いくらいしか思いつかないのである。

「…………くま」

 アビゲイルは、口を尖らせて俯いた。

「くま」

「そ、そうだよ!」

「へえ、赤いくま、ねえ」

 レレクロエは毛糸の塊をつまんで、目の前まで持ち上げてみた。アビゲイルの首も赤く染まっていく。

「な、なんだよ! 他に色がなかったんだよ! 悪いか!」

「さっきから突っかかるねえ。僕は悪いだなんて一言も言ってないじゃないか」

「……なんか嫌な感じする」

「そう? 君は聡い子だね。将来有望だ」

「ゆうぼう?」

「将来僕のいい遊び相手になってくれそう」

「それはえんりょしたいんだぜ……」

 引き気味に声をこもらせるアビゲイルを、レレクロエは端目でちらと見た。

「あれ、遠慮なんて難しい言葉は知ってるんだね?」

「う、うるさい! これでもおれはゆうしゅうなんだからな!」

「へえ~。その割に手先は不器用なんだねえ。何これ。毛虫にしか見えない」

「うわぁん!」

 吐き捨てると、アビゲイルはついに泣き出してしまった。反響する大声にびっくりして顔を上げる子供たちと、いつものことだからと気にしない大人たち。今日も雨に打たれず、二人のマキナレアを保護する人々は平和に生きている。レレクロエはつまらないなあと思いながら、アビゲイルに視線を戻した。

「馬鹿だなあ、泣くなよ。正直な感想を言ったまでじゃない」

「使徒さまはいつもしんらつなんだよ!」

 レレクロエは思わずにやっと笑った。確かにこの子供は、色々と難しい言葉を知っているようだ。誰から聞いたのかは知らないけれど。たしか……親なし子のはずだった。レレクロエは一度目を伏せて、閉じた。開いた目の前に、くまのなりそこないが見える。なんとなく可笑しくなって、レレクロエは薄く笑った。

「というかさあ、これ誰にあげるの? まさか君の可愛い弟とか言わないでよ」

「使徒さま……ジルは確かにおれが見てもかわいいけど……まさか使徒さまにそんな趣味があったなんて……」

「君それ意味が分かって言ってんの?」

 レレクロエは嘆息する。似合わず大きな声を出してしまった。アビゲイルは至って真面目な顔をして答えた。

「今度何か使徒さまに言われたらそう言い返せってもう一人の使徒さまに言われた」

 ――ったく、あの人は……!

 レレクロエは歯ぎしりした。脳裏にすましたハーミオネの顔が容易に浮かんだ。普段の仕返しのつもりか。そちらがその気なら、こっちも手加減は無用と言うことですかね。

「ジルが、くまのぬいぐるみが欲しいと言ったから。昔の絵本に載ってたんだ。誰も欲しがらなかったくまの話。ジルは『ぼくがたいせつにしてあげるのに』って泣いたんだ。だからあげたかったけど……この辺にはもうそんなものは残ってないから……作れるかと思って……」

「そんなの、そこら辺にいる婆さんに教わりなよ。みんな編み物得意じゃない」

「く、くまの作り方は知らないって言われたんだ」

 目に涙を溜め始めたアビゲイルを見て、レレクロエは再び嘆息した。

「あのさあ、確かに僕は才色兼備で天才だけど、なんでもできるとか思わないでよ。めんどうくさい」

「使徒さまにも無理なのか……」

 アビゲイルは露骨に肩を落とす。

 ――くそ、調子狂うな。

 苛々としながら、レレクロエは前髪を掻き上げる。

「できなくはないけどさあ……」

「えっ」

 アビゲイルが勢いよく顔をあげた。そのきらきらと輝くような笑顔に罰の悪さを感じながら、レレクロエは眉間にさらに皺を寄せた。

「でもさあ、これって兄貴である君が作るから意味があるんでしょう。僕が素晴らしいものを作ったって意味がないでしょ」

「作ってくれるの!?」

「話聞いてた? ああもうめんどうくさいな!」

 レレクロエは頭をがりがりと掻く。

 人のために何かをするのは性に合わない。レレクロエは干渉されるのが好かないし、あまり干渉したくもないと思っている。それなのに、アビゲイルを筆頭に、ここの子供達にはなんだか調子を狂わせられてばかりだった。そもそもアビゲイルは、最初からレレクロエに馴れ馴れしかった。物怖じしないというのか。それ自体はいいことかもしれない。アビゲイルのせいでいつのまにか、レレクロエはこのサラエボで子供たちに異常に懐かれるようになっていた。それをほほえましそうに笑ってくるハーミオネが心底うっとうしいのでやめてほしいのだけれど、子供には理屈も通じない。

 子供は苦手だ。すぐ零すしすぐに転ぶ。めんどうくさいのに、結局何度服の解れを縫ってやったり、怪我した足を洗ってやったかわからない。そして、いらない時でも話しかけてくるーー特に、このアビゲイルが。

 どんな嫌味を言っても通じない。どんな酷い言い方をしても、泣くのは一瞬だけ。次の瞬間にはけろっと忘れたようにまた付いてくる。レレクロエはアビゲイルに対して作り笑いをするのをとうの昔に諦めていた。

「はあ……ああ、もう、作ればいいんでしょ、作れば」

「まじか! ありがとう使徒さま! ジル連れてくるね!」

「は? 待て、やめろったら! めんどうだか、ああ、もうーー」

 子供はそして、行動も早い。

「ほんっとにもう……」

 レレクロエは苛々として髪を掻きむしった。

「くそ……」

 むしゃくしゃしながら、絡まった糸を指でほぐす。

「あーあもう。なんでここまでひどく絡ませるかな。信じらんない。不器用でできないくずなら最初っから何にもやらないで寝とけばいいのに」

 ぶつぶつと悪態をつきながらちくちくと針を動かす。

 ちりちりだった赤い糸が、見る見るうちに、くまの頭の形を為していく。こんなことですら天才的に作業の速い自分に若干辟易する。びりびり、と大地が震えるような音がして、わずかに地面が揺れた。天井からは岩の欠片がわずかに降ってくる。きゃあ、と人々が悲鳴を上げて、駆け回る。レレクロエは、震えた天井を見上げた。ああ、やっときた、と思ったら、なんだか笑いがこみ上げてきた。ハーミオネの澄んだ声が仄かに反響する。大丈夫。怖くないわ。少し待っていてね、なんとかしてあげる。そんな声。

「レレクロエ!」

 頭上から怒鳴り声が聞こえてきた。レレクロエは目の前の赤い糸に視線を戻した。ああもううるさいな、今日は僕機嫌が超悪いんだけど、と口の中で呟く。その声を聞いたら、なんとなく胸の奥がざわめいた。ああ、ひさしぶり。何年ぶり? 何百年ぶりだっけ。劇的だねえ。

「レレクロエェ! そこにいるのはわかってんのよ! 出てきなさい!」

 うるさいな。うるさいなうるさいな。なんでいるんだよ。なんでここにほんとに来ちゃうんだよ。馬鹿なんじゃないの。救いようのない馬鹿なんじゃないの。レレクロエは、編み棒のさびをぎり、と爪で引っかいた。

「さっさと出てこないとこの壁を壊してやるわよ!」

 勝手にしろよ。知らないよ。

 鼻をすすって、顔をしかめながらちくちくとせわしなく針を動かす。ハーミオネが再び人々に何事かを言ったようだったけれど、ギリヴの声がわんわんと響いて、頭の中にも響いて、よく聞こえない。

「レレクロエェ! あとハーミオネ、大丈夫? 酷いことされてない?」

「呼んでるけど」

 いつの間にかハーミオネが傍らに立っていて、声をかけてきた。相変わらず気配を消すのがうまいなあと、レレクロエは僅かに笑った。

「というか、あなたは何やってるのよ……」

「優しい優しい使徒さまが、今可愛い子供たちのために人形を編んで差し上げてるところだよ。邪魔するなって言ってきて」

「……自分で言いなさいよ。ギリヴったらなんだかすごい剣幕よ」

 ――知らないよ、あの馬鹿。

 レレクロエは舌打ちした。なんなんだあの女は。いつもいつも僕に苛められてべそかいてるくせに。僕に敵うとでも思っているの? 雑魚風情が。

「ちょっと……その手の動き気持ち悪いんだけど……速すぎて……あなたもうちょっと人間規格でいなさいよ」

「うるさいなぁ。気安く話しかけないでよ。僕は優秀なマキナレア様だよ」

 頭上の蔦壁からは、まだギリヴの怒鳴り声が響いてくる。サラエボの住民が、何事かとざわめいている。

「使徒さまー! 何が起こってるの? ジル連れてきたよ……ってすげえ! 何これ! ほらジル、お前のために使徒さまがくま作ってくれてるぞ!」

 アビゲイルが、小さな弟を抱っこして駆け寄ってきた。レレクロエは下唇を突き出してふっと息を吐いた。前髪が少しだけ息で持ちあがった。

「うわぁ……すごい……っ。しとさまありがとう…! あれ? でもこのくま、てあしがないよ……」

 アビゲイルと同じ真っ赤な頭をした幼子は、頬を同じ色に染めて鳴いた。

「後で作るんだよ。黙ってみてなよね」

 レレクロエは吐き出すように言って、立ち上がった。外界と隔てる、レレクロエの作った蔦壁が、轟音を立てて崩れ落ちたのと同時だった。

 石の粉が埃となって巻き上がる。

 咳込みながらこちらを睨むギリヴと、案山子のように突っ立っているだけのモンゴメリ、呆れたような顔をしているケイッティオと、おろおろしているミヒャエロ。久しぶりに見た彼らの姿は、驚くほどに記憶の中の彼らとなんら変わりない。

 レレクロエは作りかけのくまを右手で握りしめながら、裂けるような笑みを口に浮かべた。隣でハーミオネがびくっ、と肩を震わせたがどうでもいい。レレクロエは胸に手を当てて、戯曲じみた声を朗々と出した。

「やあ、ようこそ。相変わらず畜生にも劣るおつむだ。君は猪か? それともただの豚だったかな。ああ、そんなこと言ったら豚に失礼だね。彼らはもっと綺麗好きだ」

「う、うるさいわね! そっちこそなんなのよ! こんな周到な壁用意しちゃって!」

「君ね、僕に口答えしていい身分だとでも勘違いしてるの? レグドで崇められて調子に乗っちゃったかなあ? 君みたいなできそこないでも、ただの人間にとっては神様みたいに見えるだろうからね。特に君はその派手な容姿がまるで空想話の女神のようにも見えたんだろうねえ? 僕はこんな娼婦みたいな女神はごめんだけどね」

「み、見た目のこと言わないでよ! あたしが一番気にしてるって知ってるくせに」

「ああ、でも僕は娼婦は嫌いじゃないよ? 君にお似合いだ」

「レレクロエ」

 ケイッティオが静かな声でたしなめる。

「あなたのその口は罵倒しか出てこないの? いい加減にして」

 レレクロエはにっこり笑った。

「ああ、汚い言葉を聞かせてすまなかったよ。いい? 僕は今取り込み中なんだよ。可愛い可愛い僕の子供たちのために玩具を作ってあげてるの! わかったらちょっとそこで黙って突っ立っててくれる!?」

 レレクロエは右手を振りかざした。

 全員がぽかんと口を開けて絶句しているのが見える。耳がかっと熱くなった。

「大体ねえ君たち。仮にも人間様を救い給う神様気取りの馬鹿どものくせにさあ。これは何? その重い石壁を破壊して、下に人がいたらどうするつもりだったの? それともそんなことも思いつかない外道だったかな? 自己本位の行動しかできないこのごみくず。ああ、こんな言い方は失礼だったね。ごみくずは少なくとも、灰として人様の役には立つよね。で、いつになったらそろいもそろってそのお粗末な思考回路を改めるの? それとも僕に説教でもされに来たのかな。僕がいちいち説教なんかして差し上げると思ったら大間違いだよ。伸びしろもない底辺の君たちに聞かせる僕の美声がもったいない!」

 思いのほか、声を荒げてしまった。息が荒くなる。自分らしくない。

 どっと疲れた。ギリヴに会えたら嬉しいと思っていた。けれど、まさかこんな時に来なくてもいいじゃないか。いつも君を苛めている僕への報復か。

「し、使徒様……で、ございますか……?」

 恐る恐ると言ったような、老婆の声が響いた。隣で成り行きを見守っていたハーミオネが、はっと我に返って振り返る。

「あ、ああ、ごめんなさい。彼らは私達と同じマキナレアよ」

「おお、皆の者聞くがよい! 使徒様がこの地に集われた! 世界が救われる日が来たのじゃ!」

 わあっ、と歓声が上がる。涙を流し赤子を抱きしめる女たち。手を取り合い肩を震わせる老人たち。そして、状況をよく飲みこめてもいないくせにはしゃぐ餓鬼共。

 レレクロエは人間のことなんて好きでもなんでもない。けれど、嫌いというわけでもない。そしてそれは、人間を救うという業のためでもない。

 ほんの短い間でも、彼らと過ごして培ってきた、名もない想いだ。

 レレクロエは視線をマキナレア達に戻す。そうして、少し埃っぽい空気を小さく吸った。

「ねえ。君たちには本当にあの人たちのことが見えてるの?」

 レレクロエは微笑した。

「モラトリアムは十分に堪能したかい? ピーターパン気取りのがらくた」

 誰も何も言わなかった。何かに怯えたように立ち尽くすだけだ。単に自分の剣幕に怯えただけかもしれない。彼らは本当に、何もわかっていない餓鬼なのだから。抱えているものの重さも、儚さも、何も見えていないのだ。

 ――人間の子供にも劣るよ。

 レレクロエは頭を振って髪についた埃を払うと、また座ってくまの続きを編み始めた。



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