凍える世界

「あ、雪」

 隣で、そんな小さな声が聞こえた。モンゴメリは、その声をまるで雪の一粒のようだと思った。それくらい、儚くて、すぐに忘れてしまいそうな小さな音。

 モンゴメリは、空ではなく隣を歩くケイッティオの横顔を、伸びた前髪の隙間から透かし見たのだった。表情も乏しく、声を出したところも今までほとんど聞いたことがない、同じマキナレア。白金色の絹糸のような髪に榛色の瞳、だなんて、お伽噺のお姫様みたいに静かな美を備えた彼女は、自分とは実に対照的だとモンゴメリは思う。薄い紫色の髪に、誰よりも鮮やかな柘榴色の目。人はモンゴメリの姿に惑わされ、愛欲に溺れる。魅了の力は生物の本能を過剰に騒がせ、モンゴメリに愛を問うた。自分に手を伸ばしながら苦しげにつがう人々を見ては、モンゴメリは自分を嫌悪した。人を惑わせるための存在がモンゴメリである。モンゴメリは、自分の柘榴色の瞳が一等嫌いだ。だから隠している。隠していても力が弱まるわけでもなくて、ますます嫌気がさす。

 かといって、自分と正反対にも見えるケイッティオに好意を抱いているわけではない。絶対そうじゃない、とモンゴメリは自分に言い聞かせた。急ぐでもなく、急かすでもなく、のんびりとモンゴメリの歩調に合わせて歩くケイッティオは、モンゴメリにとっては得体の知れない何かに感じられる。モンゴメリは、他人の好意を信じられない。

 こういうとこ――と、モンゴメリは思った。こういう、何も言わずにモンゴメリに合わせてくれるようなところが、ケイッティオはミヒャエロとよく似ている。だがミヒャエロのことならモンゴメリは何となくわかるのである。あれは元々が人に興味がなく、自分にはもっと興味がない。だから、唯一執着するケイッティオに――真偽の程は知らないし、ただの彼の妄想かもしれないが、彼の妹だという――似たような行動をとりたがるのである。そして、それが板にもついてしまっている。

 けれどモンゴメリには、ケイッティオ自身のことはよくわからないのだった。モンゴメリはギリヴにもハーミオネにも毛ほども興味がないし、分析しようとも思わない。だがケイッティオと関わると、何故か胸の奥がざわざわとするのである。わからないことが怖いと思う。なんでこいつ、こういうこと言うんだろう?――だなんて。

 見れば見るほど、彼女はちらちらと降り注ぐ雪に囲まれて、綺麗だった。歯がゆい思いを感じるのはどうしてだろう。これが、毒の雪なんかでなかったら、と思うのだ。雪はケイッティオの髪や頬にも貼り付いて、その白を傷つけ赤で染めていく。ああ、忌々しいな、なんて思っていたら。

「わたしの顔じゃなくて、ほら、雪」

 モンゴメリの視線に気づいたケイッティオが、少しだけ眉をひそめて空を指差した。モンゴメリは機嫌を悪くした。口を引き結ぶ。正直言って、雪なんぞ毛ほども興味がないので。

「あ? 単に俺があんたの力を助長してるだけだろ。だから雨が温度を奪われて冷えきって、雪になっただけだと思うけど」

「助長?」

 ケイッティオはますます眉根を寄せて、首を傾げた。そうすると、彼女の頬にある点状の瘢痕がよく見えて、モンゴメリはなんだか胸がざわついたのである。

「ミヒャエロがなんか言ってた」

 モンゴメリは息を吐きだした。白くもやもやとしたものが唇をすり抜けていく。随分と気温も下がったようだ。遠くを見れば、向こう側には今も尚雨だけが降っているようで、白いちらちらなんか見えもしないのだった。自分たちのいるところだけ雪が降るなんて、雪雲に追いかけられているみたいでなんとなくぞっとする。

「俺たちは六人で一つだから、ばらばらでいると力が偏るんだってさ」

「ああ……どおりで」

 ケイッティオは何か思うところがあったのか、モンゴメリから視線を外して俯いた。モンゴメリはほっと息を吐いた。彼女の榛色の目にじっと見られると、目を前髪で隠しているはずなのに露に見られているような心地がして、なんだかとても不安になるのだ。

 雪は、どんどん増えてくる。視界が白くちらついて、前髪にも貼り付いて。モンゴメリの紫色の髪は、雪に絡み取られてどんどん抜けていった。視界が晴れて行く。その晴れた景色が気持ち悪い。この目を外に晒したくないと思って、モンゴメリは今更のように風で脱げていたフードを被り直し、雪を避けた。

 隣にミヒャエロがいた時はあまり気にしなかったが、なぜかモンゴメリは、ケイッティオにだけは目を見られたくないのである。今も、そしてきっと昔も。自分でもなんでなのかなんてわからない。柩で眠る前の記憶も曖昧だから、その時何かきっかけがあったんだろうとモンゴメリは考えている。その昔の記憶を、躍起になって取り戻したいとは思わない。面倒だ。

 雪は増える。深々と積もる。ブーツはこの害ある雨に耐性があるのか、容易に破れはしないが、それでも積もった雪を踏みしめると足が埋もれて、ちりちりと痛みが走った。ケイッティオは隣で何度か体をぶるぶると震わせた。雨と違って雪は払えるから、そうして払いのけようとしているらしかった。獣かよ、と思ってモンゴメリはついにやっと笑った。

「休む? ちょうど岩穴があるわ」

 息が上がり始めたモンゴメリを見て、ケイッティオは不意に前方を指差した。モンゴメリはもう一度強く息を吐いて、忌々しさに歯噛みした。自分でもわかるくらい、顔の周りが白い息で覆われている。どれだけ荒い息を吐いているのか。モンゴメリは動くのが嫌いである。対してケイッティオは、小さな綿毛程度の息しか零していない。それがまた、腹立たしいやら気恥ずかしいやらで、ますますモンゴメリは口をきゅっと引き結んだ。ケイッティオは何も言わずに洞窟へ向かった。気遣われてしまったことがまた腹立たしい。ねえ、それ本心? それとも、あんたも俺の目に惑わされてるだけ? モンゴメリは髪にへばりつく雪を透かして遠のくケイッティオの背中を睨みつけた。雪は小さな粒をモンゴメリの目に落とす。睫毛がぼろっと抜けた。

 外に比べれば幾分かましとはいえ、洞窟の中は冷えた。モンゴメリはぶるっと体を震わせた。それを見て微笑むケイッティオが気に食わない。ただの生物の条件反射だ。仕方ないだろ。あんたのせいで寒いんだ。あ、俺のせいか。モンゴメリは舌打ちしたくてもできないまま、ケイッティオの表情を見なかったことにした。結局ここも、皮膚がただれないと言うだけで冷たさはさして変わらないのである。息は相変わらず白いまま。

 ケイッティオは頬が赤かった。だからだろうか――ケイッティオは生き生きとしているように見える。そもそも彼女の能力は、あらゆるものから熱を奪う【強奪】だ。生き物から行きてる証を奪う強奪。今は奪いに奪って、満たされているのかもしれないな、なんてモンゴメリは変なことを考えた。俺は、この力で満たされたことなんてないけど。

「寒いよね、ごめんなさい」

 俯いたモンゴメリを気遣うように、ケイッティオは静かに言った。モンゴメリは苛立った。

「あんたが謝ることじゃないでしょ。俺と一緒にいるからこうなっているんだろうから」

「そうかもしれないけど……」

 ケイッティオは表情を変えないまま淡々と呟く。

「あなたがわたしと心通わせてくれれば、わたしの性質ばかりが強調されることもないかもしれないなあと思うの。あなたは魅惑の性質をもつ。そしてわたしは略奪。二つを合わせれば人の業の一つである愛欲だと思わない?」

「何それ。恋の病熱とかいうやつ? それくらいでこの雪がやむなら苦労しないだろ。いきなり何言い出してんだよ、意味わかんねえな。大体、俺は愛だ恋だは吐き気がするくらい嫌いだ」

 ケイッティオはそれ以上何も言わなかった。しばらくは、外で降り積もる雪を見つめていた。ケイッティオの横顔を覗き見していたモンゴメリも、やがて雪に視線を移した。どれくらい、そうしていただろう。しんしんと降り積もる雪が大地に触れる度、鈴なりの音が聞こえる心地がする。耳に触れるケイッティオの息づかいが、そう錯覚させているのかもしれなかった。そう思うと、妙に胸の奥が痛くなった。これが毒のない雪ならもっと綺麗だ、と思う。モンゴメリは皮肉に口を歪ませて、鼻で嗤った。それを見て、不意にケイッティオは立ち上がった。外に歩いていく。

「おい」

 ケイッティオは洞窟の入り口から出たところで立ち止まった。一人で空を仰いでいる。やがて、舞いしきる雪と遊ぶように、くるくると廻り始めた。彼女の白い肌に雪が落ち、そこにやけどや切り傷の痕を残していく。

「おい、やめろよ」

 声が届いているのかいないのか。その光景は、目をそらせないほど綺麗だった。雪に愛されるべき少女が、雪によって血の痕を残していく。真っ白な雪原に落ちる紅の雫だ。悔しい。綺麗だ、と思う。

 身体が内側から焼け付く心地がした。痛々しいと思う。見ていて、つらい。

「やめろって言ってるだろ!」

 モンゴメリが喉が潰れるほどに叫んで、ようやくケイッティオはようやく回るのをやめた。静かにモンゴメリを見つめてくる。

「雪がきれいなのだもの」

 淡々とした声。モンゴメリは無性に苛立って、耳の横の髪をぶちりと引き抜いた。ケイッティオは首を傾けた。

「平気よ。治りは遅いけれど、いつかは治る。それに、直にレレクロエにも会えるでしょう。そしたら手当してもらうわ。あの人はそれが役目だもの」

 そう言って、ケイッティオは再び踊り始めた。モンゴメリは簾のような前髪を一束こっそりと掻きあげた。視界が晴れる。鮮烈な白と赤である。ケイッティオは少しずつその顔をただれさせながら一心に踊る。まるでその痛みも愛おしいかのように。それはモンゴメリにはやはり理解できない行動だ。どれくらい彼女は回っていただろう。顔が真っ赤に染まっていく。血だらけ。でもその姿に目を奪われて、モンゴメリもいつしか寒さは忘れていた。


 花弁のような雪はケイッティオと共にひらひら舞い続ける。美しさを嗤うように。


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