傷だらけの世界

 それは、唐突で、同時に極純粋な、素朴な疑問だった。

「なんでこんなに、世界、めちゃくちゃになってるんだろうね?」

 ミヒャエロの呟きに、答えられるマキナレアは一人もいなかった。ギリヴはごくりと喉を鳴らした。それは、ギリヴ自身が逃げていた問いでもあったから。

「わからないわ」

 ケイッティオは素直に淡々と答えた。ケイッティオの潔さを、ギリヴは好ましく思う。そして同じだけ、胸に小さな刺が刺さって膿んでいくのだった……自分がケイッティオを羨んでいることを、ギリヴは自覚している。自覚していて、そんな自分が嫌いだ。醜い、と感じる。それでもケイッティオがギリヴの感情の起伏を気にしないでいてくれるから、ギリヴはケイッティオが大好きなのだけれど。

「そっか、ケイッティオにもわからないか……」

 ミヒャエロは、目に見えてしょんぼりと項垂れた。そんな彼の様子を見て、ケイッティオが不意にふわりと笑ったのをギリヴは見た。あ、と小さな声が漏れて、誤摩化すように唇を指でいじった。風の音で多分誰にも聞こえてはいないのだけれど。ああ、この子、こんな風にも笑えるんだ。……そう思い始めたら、ケイッティオの表情からもう目を離せないでいる。

 うらやましい、いいな、うらやましいな、なんで、なんて。そんな気持ちがどんどん心の中に膨らんで、ギリヴはもう一度ごくりと喉を鳴らした。

「逆に、どうしてわかると思ったの、ミヒャエロ。わたしたちが一番遅く目覚めたのでしょう? だったらわたしたちより、ミヒャエロたちの方がこの世界を把握しているのかと思っていたの」

「目覚めた時点で、こうだったからさ」

 ミヒャエロは肩をすくめた。

「まだ、記憶が薄ぼんやりとしているんだけどね、でも、おれたちが造られた頃ってまだここまで荒廃した世界じゃなかったよね、って思ってさ。こんなやっかいな雨も降ってなかった。ちょっと考えたりしてたの、ケイッティオが目を覚まさない間暇でさ。あの時世界を救ってれば今はもうちょっとましだったんじゃないかなあってさ」

 だめよ。

 不意に、ギリヴは恐ろしくなった。

 それ以上を考えたら、いけない気がして。耳がきーんとして、心臓がばくばくと鼓動を始める。やめて、昔のことには触れないで。

 あたし、忘れたの。忘れなきゃ行けなかったの。わすれ、なきゃ、いや、違う、本当は……? でも、

「素直に考えるなら、」

 ケイッティオの声に、ギリヴははっと我に帰った。鈴の鳴るような声は、この四人の会話で慎ましやかながら一際よく耳に残る。

「おとうさまが、世界がこうなることを見越して、この世界で私たちが世界を救うことが一番よいのだと判断された、のだと思うわ」

「それがあんたの結論か」

 それまで沈黙を貫いていたモンゴメリが、冷めた声でそう言った。

「いいえ」

 ギリヴは思わずケイッティオを顧みた。淡い榛色の目は、揺れもせず、見えもしないモンゴメリの目を真っすぐに捉えているかのようだった。

「わたしの想像ではあるけれど、結論ではないわ。正直に言うなら、ミヒャエロと答えは同じよ。【わからない】」

「ねえ」

 ギリヴは耐えきれなくなって口を挟んだ。

「そんなこと今話すこと? 六人揃ってからでもいいじゃないのよ。はやく迎えにいこう!」

「そうだね」

 ミヒャエロが柔らかく笑いかけてくれたので、ギリヴはほっと胸を撫で下ろした。

「じゃあ、二人二人で分かれようか」

 不意に、ミヒャエロはそう言って、ギリヴを見た。

「おれとギリヴは左回りに迂回してサラエボを目指すよ。だからモンゴメリとケイッティオは右回りに迂回して。サラエボの洞窟の手前で落ち合おう」

 大丈夫、モンゴメリはそんなに怖くないよ。そう、気にしてないわ。うん、気をつけて。そっちもね。

 目の前で、優しい表情を向け合って、ミヒャエロとケイッティオが簡単に会話を終わらせてしまった。

 モンゴメリの口が不満そうに引き結ばれていたけれど、ギリヴにとってはどうでもよかった。ただ、ギリヴはケイッティオの横顔を見ていた。

 うらやましい、うらやましい。

 なんで、この子は、いつも大切にされて。

 あたしは。

 ああ、考えたくない。考えちゃだめ。覚えてもいないのに、悲しくなるの。

 ギリヴは、両手で顔を覆い、頬を掌で擦って誤摩化すように笑った。

「よし、そうと決まれば行きましょ!」

「なんでその組み合わせなんだよ……」

 モンゴメリのぼやきが煩い。


     ✝


「多分、これはね、勝手なおれの憶測なんだけど、」

 モンゴメリとケイッティオと別れた後、不意にミヒャエロは表情に影を落としてそう零した。

「えっ、何?」

 ギリヴは自分で思った以上に大きな声で振り返ってしまった。恥ずかしいと覆って頬を染めるけれど、ミヒャエロは優しく笑ってばかりだ。

「多分、レレクロエもわかってそうだけど、あの人はおれらにいってくれないだろうから。ただの憶測だけど、あなたには言ってみたいなって。モンゴメリは面倒くさがってとりあってくれなかったしさ」

「うん……? 何のこと」

「あれ、雪が降ってるね。西の方」

「え……あ、本当だ。こっちは雪なんて降ってないのに……不思議」

「うん……たぶんやっぱり、そういうことなんだと思うんだよね」

「もう、なあに? さっきから話が要領得なくて困るんだけど!」

 ギリヴは焦れた。自分が気が短いことは大いに理解しているし、それも自分の【力】の弊害だと諦めてもいる。ギリヴは地団駄を踏んでみせた。ミヒャエロは、ごめん、と謝った。

「おれたちって、六人で一つだよね。六人でバランスをとっているって、アルケミスト……あなたがおとうさまっていうあの人のことだよ。あの人はそう言っていたはずなんだ。覚えてる?」

「うーん……」

 ギリヴは眉間に皺を寄せて唸った。

「……なんとなく、は」

 そうだった気もするし、自信もない。ギリヴは、自分たちを造ったはずのアルケミストの声も思い出せなかった。もちろん、姿も。

「だけど、おれたちは二人ずつ、別々のところに安置されていた……一人ずつばらばらならまだいっそよかったかもしれないよね。でも二人でいると、相乗効果って言うのかな。お互いの力が鑑賞し合って、力が周りの環境にも強い影響を及ぼしてしまっている気がするんだ。たとえば、さっき説明したように、マグダではたぶんおれの混沌の力がモンゴメリの魅了の力を助長して、あの土地は攻撃や悪意の的となったし、マグダ内でも人々が肉欲に溺れてそれはもう酷い暮らしになってるんだよ。そして今度は、モンゴメリとケイッティオ……。多分、ケイッティオの強奪の力をモンゴメリが助長してる。だから周囲の熱が奪われて、あそこはただの雨ではなく雪や霰を降らせ始めたんだ」

 ミヒャエロは、白い雪が吹きすさぶ、赤い空を見つめた。

「もしかして、おれたちが一緒に一所にいなかったから……世界ってこんなに廃れてしまったんじゃないかって……そう思うと、なんか、怖いよね。申し訳ないと言うか。人類は苦しんだのに、おれたちは眠っていたわけでさ」

「考えすぎじゃない?」

 ギリヴは、怯える心をごまかすように、ハキハキとした声で言った。

「ふふ。あなたはいつも楽観的だね」

「そう! それがあたしの取り柄なの」

 ギリヴは仄暗い思いに包まれた。この話、ケイッティオにはしないのね。私なんかよりもあの子の方がずっと強いのに。あの子だったらきっと怯えたりしないのに。あなたはあの子が大切だから、あたしに話すのね。つらい。ひどい。

 ギリヴは、荒んだ顔で笑った。

 大地が揺れて、土砂が崩れ始める。ミヒャエロは、ギリヴを咄嗟に抱きとめて、瓦礫ごと混沌の膜――黒い影に飲み込んだ。ギリヴもはっとして次から次へと落ちてくる瓦礫を殴って粉にした。地響きは鳴り止まない。ギリヴとミヒャエロの目が合った。金色の目は、ぱっちりと見開かれ、口角をあげて、誰かを蔑むように笑った。

「ね、だから言ったでしょう。相乗効果って。試してみたかったんだ。だから違う二人で分けてみた。これは……おれがギリヴの力を助長しちゃってるみたいだね。ああ、ケイッティオがここにいなくてよかった。あの子をこれ以上自分の力で苦しめたくない」

 ミヒャエロは、恍惚とした顔で笑っている。


     ✝


 泣いてばかりの自分が、本当は嫌いだ。

 心のどこかでまだ甘さを捨てられないでいる。そんなことは許されない身なのに。【破壊】のマキナレア。身をすり減らして世界を破壊尽くし、まっさらな状態にする、そんな罪深い役目のマキナレア。それが、ギリヴなのだ。

 誰よりも壊し殺し尽くす、何もかも壊れてしまえばいいんだ、とそんな欲求に支配されている。けれどギリヴは同じだけ、そんな力など欲しくはなかった、あたしのせいじゃない、あたしは何も悪くないんだと、そう言い訳を繰り返し続けているのだった。

 そうやって、心の均衡を保っている。

 それを崩したミヒャエロを、憎んでいいのかただ悲しめばいいのか、わからなくてもう心はぐちゃぐちゃだった。ギリヴは結局泣いていた。泣くばかりで何もしていなかった。否、どうすることも出来ないのだ。いるだけで世界を破壊するような地震を誘発し、嵐が起きて、落雷。それをミヒャエロは、すべてその身一つで受け止める。まるでギリヴのことをかばっているみたいに。かばうのはどうして?とギリヴはぐちゃぐちゃの頭で考える。あたしを実験台につかった罪悪感? それともあなたは女だったら誰でも守ってくれるの。雪崩も落雷も崖崩れも竜巻も、全部あたしのせいなんだよ。あたしがここにいるから、何もかも壊れていくの。だからあたしなんか守らなくてもいいよ。だってあなたの守りたい人って……ケイッティオなんでしょう? 

 もういいよ、守らないで、と言いたいのに。ギリヴはその言葉を口に出すことが出来ない。守られることは嬉しい。愛されることは嬉しい。ミヒャエロのこれは愛ではないけれど、守られているだけで幸せになる、そんなお粗末なこころでギリヴはできている。利用された恨みと、守ってもらえる喜びとがないまぜになって、自分の本当に気持ちさえわからない。ミヒャエロの広い背中を見つめて、ギリヴがやがて見いだした答えは諦念だった。ぼろぼろになっていくこの人を、あたしは癒してあげることもできない。癒しの力がないあたしはただ、傷つけることしかできない。守られる価値なんかないから、守ってくれなくていいのに。ごめんなさい。あたしに罰を与えてくれればいいのに。

「ごめんね……ごめんね……」

 気がついたら、声が漏れていた。何も出来ないくせに、どうして謝ってしまうんだろう、と頭の冷静な部分はギリヴを蔑んでいる。けれども声は零れ続けるばかりでとまらない。誰かを傷つけるのは嫌なのに、とギリヴはないた。ミヒャエロは、きょとんとして柔らかく笑い、雨で潰れた手で、ギリヴの頭を撫でてくれようとする。ぼろぼろに皮膚がめくれ上がった、手。そんなことしてくれなくていい、とギリヴは思う。その手はケイッティオのためのものなんでしょう? あたしはただ自分可愛さに泣いているだけなんだ。あなたの傷を増やすだけ増やして、治せやしない自分を憐れんでいるだけなんだから。この胸の痛みも、あなたの受けた痛みに比べたら本当に小さいと思うんだ。だから――

 それでもミヒャエロは、爛れた喉から一生懸命にかすれた声を振り絞るのだ。ギリヴが欲しい言葉をくれる。だからギリヴは、ミヒャエロを酷いとは思っても、憎むことは出来ない。

「だい……じょうぶ、だよ。少し眠れば、おれは、治る。あなたの、せいじゃ、ないから」

 ミヒャエロはギリヴの涙を拭って、くすりと笑った。ああ、似ている、とギリヴは思った。ミヒャエロの言うことは、ケイッティオとそっくりだ。

 レグドで目覚めたとき、隣にいたのがケイッティオであったから、ギリヴはとても安心した。「レレクロエじゃないのか……」という言葉がつい口から零れて、急いで口を両手で覆った。ギリヴは少しだけレレクロエを苦手としている。そして同じくらい、自分が依存していることも知っていた。レレクロエの口癖はこれだ。「また悲劇のお姫様ぶってるね」。そういう嘲りの言葉をギリヴに投げかけて貶す。

 レレクロエに責められるたび、ギリヴは辛くてたまらない。胸の内がえぐられていって、意地悪だと思うのだ。彼はギリヴに「でもあたしが悪いんだから」なんて考えさせる暇を与えない。意地悪なことばかりを言って、ギリヴが「あたしよりずっとレレクロエが酷い。あたしはなんて可哀相」だなんて自己憐憫に浸れるよう、上手に誘導してくる。言い訳なんて考えている暇を与えてくれない。要は、彼はギリヴに甘いのだ。意地悪の体を粧っているくせに。ギリヴはそれをわかっているから、レレクロエといる時は心ない言葉に胸を抉られながらも楽なのである。だから、レレクロエでないのかと、少しだけ落ち込んで、これでよかったのだとも思っていた。そして、ケイッティオでよかったと仄暗い優越感に浸った。その優越感は、ギリヴを責め苛んだ。

 ケイッティオは、潜在能力が一番高いマキナレアだ。その力は、目の前のものからすべて生きている証を、本気さえ出せば跡形もなく奪えてしまうような残酷な力。ギリヴの何かや誰かを傷つけるだけの嫌な能力よりも、ずっと惨いものだ。自分よりも無慈悲な力を持った子がいるから、ケイッティオのそばにいればギリヴは自分だけが悪いのではないと思っていられた。そうして数えきれない生き物たちを何のためらいもなく殺すギリヴを、その血に染まった手を偽善的な涙で濡らすばかりのギリヴを、ケイッティオはこう言って慰めるのである。


「大丈夫。あなたよりもずっと、わたしの方が醜悪で残虐な性質なのよ。あなたは人を傷つけるけれど、痛みは人の精神にも本能にも必要なものだわ。あなたはまだ制御が効かないだけで、正しいことをしているのよ」


 わたしがもし制御が効かなくなったら、その時はギリヴがわたしを止めてね、とケイッティオは笑った。あなたとなら安心して戦えるもの、だって。一体どこまでお人よし? ギリヴはだから、ケイッティオが悲しい。ケイッティオと似たようなを言う、ミヒャエロも。優しさがそっくりだ。笑っちゃう。笑えない。ああ、この二人をあたしの力で守ってあげられたらどんなにか幸せだろう! 

ギリヴは嗚咽を漏らす。そんな優しさなんていらない。もっとあたしを詰ってくれたらいいの。

 止めどないギリヴの涙の粒を、ミヒャエロは指で拭って微笑むばかりだ。やがて彼は、その体をがくりと折って、ギリヴにもたれかかった。消耗が激しい。髪も皮膚も削げ落ちて、青い頬骨がわずかに見える。曇り空の光に照らされている。

「ごめん……すこ、し、寝る……」

 ミヒャエロはすう、と静かに眠りに落ちた。ギリヴは彼の手を握っていることしかできない。眠りについたというだけで、そのぼろぼろになった体はみるみるうちに修復されていくのだった。ミヒャエロは回復力が一番高い。ギリヴはこれ以上ミヒャエロの体が苛まれないように、その体を抱え、雨を避けて積み重なる瓦礫の屋根の下に潜り込んだ。太腿に、ミヒャエロの頭を横たえる。信じられないほどの早さで修復されていくミヒャエロの体を見つめながら、ギリヴは「ひどいなあ」とぽつり呟いた。

 確かにギリヴは回復力が遅いが、だからといってそれはミヒャエロがいくらでも負担を負っていいという理由にはならないと思うのだ。ぼろぼろになって、苛まれて、それでも簡単に治るからと、痛みを一人で背負う必要はあるだろうか? ギリヴだって、痛みを受け止める覚悟がある。だからこそのマキナレアだ。ミヒャエロは自分がギリヴの力を増幅させていると言ったが、それはそのまま、ここに自分がいなければミヒャエロはこんな風に傷だらけになることはなかったということである。それなのに、ミヒャエロはギリヴをかばおうとする。

 そんな優しさ要らないよ。口の中で呟いたら、また涙がぽろりと零れてミヒャエロの頬を濡らした。もう、骨は見えない。

 あなたの優しさって、ケイッティオだけのものなんでしょ。ついでであたしに優しくしないで。あたしは、危ういあなたたちを守りたいだけ。守れるように強くなりたいの。あたし、ケイッティオのこと大好きだから。あなたのことも、嫌いじゃないよ、ミヒャエロ。足手まといで、ごめんね。ごめんなさい。

「ふふっ」

 不意に、目を閉じたままミヒャエロが笑った。短い金色の睫毛が震えて、瞼が薄く開けられる。彼の傷は見た目にはすべて消えている。早いなあ、とギリヴは思った。きっと、治ったように見えるのは表面だけで、内側はまだ治りきっていないだろう。ミヒャエロは、自分を覗き込むギリヴを見つめて、優しく微笑んだ。ギリヴは先を促した。

「どうしたの?」

 ああ、と言って、ミヒャエロは小さな息をゆっくり吐いた。

「夢を見てたんだ。すごく面白かったから、早く書き留めないと忘れちゃう」

「夢日記なんかつけているの?」

「夢日記というか、なんでも書くよ。これは覚えておきたいなって思うことは全部書いてるんだ」

 胸が詰まる。ギリヴは無理矢理笑った。

「まるで、いつか消えていくあたしたちの軌跡を残そうとでもいうかのようね」

「はは、そうかも。それいいね」

 ミヒャエロも軽く笑って受け流しながら、体を起こした。胸から小さな手帳を取り出して楽しげに筆を動かしていく様は、ほんの少しだけ幼くも見えた。

「何の……夢を見たのか、聞いてもいい?」

 ギリヴは、ミヒャエロの丸まった背中に声をかける。

「うん」

 ミヒャエロは、笑顔で筆を手帳に走らせながら頷いた。

「君とケイッティオがさ、蓮華草の花畑に立っているんだ。雨を気持ちよさそうに浴びてた。けれどその雨は、なんの害もない、ただの水なんだ。二人ともはしゃいで遊ぶもんだから顔中泥だらけでさ、それがすっごく笑えるんだけど、花冠とかつけちゃって二人とも可愛いんだ。そしておれはそれを眺めてたんだけど、ふと振り返ったら、レレクロエが君のことを一心に見てた」

「え? そこで終わり……?」

「うん、それだけだよ。面白いじゃん」

 ミヒャエロは、振り返ってからからと笑った。ギリヴは眉根を寄せた。

「ど、どこが面白いのかさっぱりだわよ……しかもレレクロエに見られてるとか怖いじゃないの」

「だって、レレクロエって君と話してるときはいつも下種な笑顔しかしてないじゃない。それがすごくまじめな顔してたんだよ。それがもうおっかしくてさ」

 レレクロエに下種だなんて、案外ミヒャエロは肝が据わっているのかもしれない。あたしだったら怖くて無理だなあ、とギリヴは思う。どんな皮肉で返されるか知れたもんじゃない。レレクロエの人を見下すような目つきを思い出しながら、ギリヴはぽつりと零した。

「真面目な顔してて笑われるなんて、ある意味レレクロエも難儀ね」

「そう? でも、ああこんな顔もするのかって微笑ましくてさ」

「微笑ましい?」

「うん。まあ夢だったけど、案外本当のことだったりしてね」

「何が?」

「内緒」

 つい、むっとしてしまう。ミヒャエロはなおもいたずらっぽい微笑を浮かべていた。そして、ミヒャエロはふいにギリヴの髪をそっと手に取った。ぼさぼさ三つ編みだから、ちょっとだけ恥ずかしい。ギリヴは肩をすくめてみる。けれど、よく見ればミヒャエロの髪も、ギリヴに劣らずとぼさぼさで傷んでいた。案外、髪への悩みは共有できるかもしれないなあ、とギリヴはぼんやり考える。ただ、彼の髪は黒味がかって品のいい金髪だ。あたしのど派手な色とは比べ物にならないなあとも思う。こんなところでも劣等感を抱いてしまう自分を、ギリヴは嫌悪した。

「あなたは蓮華草のような人だね」

 ミヒャエロは、そんなことを言った。ギリヴは眉根を寄せたまま、首を傾げた。

「そう?」

「うん。あなたは自分をよく責めているし、自分で自分の後悔とか嫌な気持ちでがんじがらめになって泥沼にはまってしまう人でしょ。レレクロエもよく心配してた」

「えー、レレクロエがぁ? あの人があたしなんかの心配する?」

「するよ。するする」

 ミヒャエロは笑う。

「きっとあなたは、泥沼の中でも綺麗に咲き誇れるね。いつか、あなたは僕たちの希望になるんだろうなっておれは思うんだよ。その髪や眼の色も蓮華草とお揃いだ。鮮やかだから、おれたちはもし暗闇に飲まれても、あなたを見つけて道を見失わないでいられるよ」

 わけがわからない、とか、唐突だよ、とか。

 色々言いたいことはあったのに、ギリヴは言葉が出なかった。ミヒャエロはとても感覚的にものを言う人だ。だから意味なんて深く考える方が馬鹿げているかもしれない。けれどそれが、ギリヴを肯定する言葉であることくらいは、馬鹿なギリヴにもわかるのである。胸が詰まる思いがした。

「れ、蓮華草はそんなたいそうな花じゃないわよ。雑草だもの」

「でも、おれは好きだよ」

 希望、だなんて。

 道を照らす光というのなら、それはむしろあなたの方でしょう。ギリヴは口を噛む。

 混沌と秩序。闇と光に愛された人。

 あたしは今、あなたにきっと救われた。

 ギリヴはまたいつの間にかまた泣いていた。もううんざりしてしまう。ミヒャエロはギリヴをあやすみたいに、頭を撫でてくれる。年下扱いしないでほしい。悔しい。本当に、悔しい。

 いつまで経っても泣き虫ギリヴ。涙にまみれた泥の中でも生きていていいのなら。

 こんな自分なんかでも、誰かの希望になれるだろうか。誰かの心を守れるだろうか。

 そんな日が来たら、きっともう死んでもいい。

 ギリヴはそう思って、鼻をぐすんぐすんと二回鳴らした。それが合図で、二人は手を取り合って外へ出た。

 皮膚を溶かす、残酷な雨が降りしきる世界へ。あと二人の仲間を見つけるために。



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