囚われの世界
空はどんよりと灰色の雲に覆われている。雲は空高く吹きすさぶ空に流され、ところどころ薄くなったり厚みを増したりする。今日は、ともすれば青い空が透けて見えそうなほど雲は薄く伸びて広がっていた。雨の勢いが少ないうちにと、少女は洞窟から這い出し、ごつごつとした岩に手をかけ足をかけ、洞窟の上に上った。そうしているうちにも雨は少女の肌を絶えず引っ掻き、髪を痛ませていく。
少女の髪は光の加減で青みがかって見える白金色だ。その目は、人類が久しく認めていない青空や海の色をしている。後ろで一つの三つ編みにまとめられた長い髪が、フードの隙間から零れて揺れている。名前は、ハーミオネ。マキナレアの一人、【浄化】の力をもつ少女だ。
ハーミオネはゆっくりと顔を上げて、空を見た。雨で睫毛が千切れ、目の中に入った。けれどハーミオネはそれを痛いとは思わなかった。傷んだ角膜は傷ついた傍から修復されていく。浄化の力を持つから、膿むこともない。
ハーミオネは息を大きく吸って、吐いた。唇は雨で傷つけられ、血が滲み始めた。肌から垂れそぼる赤い血は、洞窟の表面に赤茶色の染みを作った。けれどそれも、雨水ですぐに薄められてしまうのだった。
ハーミオネは両手を空に伸ばして目を閉じた。閉じた目蓋を雨は容赦なく引っ掻き、見る見るうちに赤い血が滲んで薄い目蓋の皮膚が削げていく。ハーミオネは僅かに眉を潜めたが、それを手で覆うことはしなかった。次第に雨の一滴が彼女につける傷の深さが、浅くなっていく。彼女は力を使って、毒の染みこんだ雨を浄化しているのである。やがて、雨が彼女を傷つけるよりも、彼女の身体の再生力の方が勝り始めた。雨で肌が傷つくことに変わりはないけれど、彼女の削げた目蓋はしばらくして殆どもとの状態に修復された。唇も、腫れていたのが僅かにさかむけただけの状態まで回復した。
ハーミオネは目を変わらず閉じたまま、より一層眉根を寄せた。頬を玉のような汗が連なり撫ぜていく。世界に溜まった穢れは多すぎて、均衡が崩れている今は浄化も間に合わない。どうして、アルケミストは――自分達を作ったアルケミストは、マキナレアの六人を同じ場所に眠らせなかったのだろう? 一所に置いていなければ世界の均衡が崩れてしまう。マキナレアは六人で初めて一つだった。安定だった。ハーミオネにはわからない。こうして、束の間このサラエボの地上の雨雲を浄化したところで、風はすぐに毒を含んだ他の雲をよそから連れてきてしまうだろう。ハーミオネのやっていることは、殆ど無駄なことなのだった。そもそも、サラエボの人々は洞窟から決して外に出ない。ハーミオネが雨を浄化しようがしまいが、その恩恵を受ける者は誰もいないのだ。
それでも、ほんの少しでもいいから抗いたいとハーミオネは思っていた。レレクロエ――同じこの土地で目覚めたもう一人のマキナレアは、ハーミオネのそんな行動を非効率的だと言って嗤うけれど。今日も今日とて、ハーミオネは今自分にできるだけの精一杯の力を解放する。本当は、あまりたくさん力を使うことはできない。自分の体が保たないからだ。いつかはこの世界を救いたい。こんな毒の雨なんかなくなって、人が空の下で笑い、夕焼けを美しいと言い、地上に咲く花に水を与えるような、そんな世界に戻したい。でも今は、ハーミオネはまだ倒れる訳にはいかないのだ。だから力を温存する。手を抜いた、自己満足だけの浄化に勤しむしかできない――私の力を必要としている人がまだ残っているから。
浄化の力は、世界の一部を癒すごとに彼女の身体を蝕んでいく。ほとんど毎日のように浄化を試みてはいるけれど、きっと、水溜り程度のものしか浄化されていないのだろうとハーミオネは自嘲している。そうやって抗ったところで、六人が世界にバラバラに散らばっている限り、ハーミオネの努力も虚しい。世界はそれ以上の速さで崩れて行くのだから。
風が、また新しい毒の雲を運んできた。肌に刺す痛みの強さに顔をしかめながら、ハーミオネはようやく目蓋を開け、口元に笑みを浮かべて俯いた。雨は勢いを増して、フードから覗く青白い前髪を引き千切っていった。
ああ、不甲斐ない。これほど粘っても何も成し遂げられない自分が、恨めしい。一人きりでは余りにも無力だ。笑えてきてしまう。ハーミオネは唇の隙間から、細い音を漏らした。
「そんなにしかめ顔していると、いつかくっきり皺の痕が残って消えなくなるよ?」
不意に、気怠そうな声が下の方から聞こえてきた。ハーミオネは雨で削られ凹凸さえなくした岩の上を数歩歩いて、下を覗き込んだ。ハーミオネの爪先に白い手がかけられ、草色――鮮やかな黄緑色の髪の毛が覗いた。ハーミオネは彼の手首を掴んで、引き上げた。レレクロエはにやりと笑ってハーミオネに体重をゆだね、洞窟の上に上ってきた。
雨の勢いは強くなっているというのに、レレクロエはフードを被っていなかった。はらはらと、宝石のような草色の髪が束になって抜けていく。透けた頭皮には血が滲んで、髪の尖端から赤の混じった雫がぽたぽたと零れ落ちる。レレクロエの茶色のコートにどんどん赤い染みがついていくのが、ハーミオネはなんとなく気にかかった。
「レレクロエ、血でコートが汚れちゃうわ。フードくらい被ったら」
「どうせ乾いたらわからなくなるよ」
レレクロエは鼻で嗤った。
レレクロエの赤紫色の瞳は、とても蠱惑的だ。ハーミオネはレレクロエにこれっぽっちも気はないけれど、その目でじろじろと見られるとなんとなく居心地は悪い。レレクロエはハーミオネを上から下まで眺めた後、くすくすと笑いだした。
「自分こそ、目蓋にかさぶたができててぼろぼろだよ。女の子だからもうちょっと肌を大事にしたらどうさ。あと、さっきも言ったけどしかめ顔やめとけば? 眉間にもう皺の跡ができかけてるよ」
ハーミオネはため息をついた。
「……誰のせいだと思ってるのかしら」
「ごめんね?」
レレクロエは、悪びれることもなく軽い調子でそう言って、首を横に小照りと傾けた。その目に、好奇の色が浮かんでいるのを見て取って、ハーミオネは疲れた心地で目を逸らした。レレクロエはずい、と一歩踏み出した。その長い睫毛が瞬きで擦れるのが空気の揺れでわかる程に、ハーミオネに顔を近づけた。人のものにしては美しすぎる赤紫色の目が、少しだけ怖いとハーミオネは思った。綺麗だとも思うけれど。これがもしも、ただの人形なら。
「おかしいなあ。君は皆といる時はいつだってへらへらしているのに、僕といる時はあまり笑ってくれないんだね」
ややあって、レレクロエは鼻息混じりにそう言ってハーミオネから離れ、フードをようやく被った。レレクロエの足元に、草色の髪の毛がたくさん散らばって、汚く濡れていた。
「あなたが面倒事を増やさないでいてくれるんだったら、私だっていくらでも笑ってあげるわ」
ハーミオネはそう返して、もう一度空を見上げた。すぐに肌が削げてしまうほどではないけれど、やはり雨の毒は消えきらない。ハーミオネは静かに吐息を零した。今日はもうこれが限界だ。力の解放と、身体の修復に使う力とで、もう既に立っているのもやっとなほど疲労困憊しているのだった。自分の体力の無さには、いつものことながら辟易してしまう。
ハーミオネは、視線をレレクロエに戻した。レレクロエは、口笛を鳴らしながら片足の爪先で落ちた髪の毛を一か所に集めている。
「というか、レレクロエ。虐める対象がいないからって、いつもいつも私で鬱憤を晴らさないでくれる? 冷やかしに来られると少し気分が悪いし、大体私はあなたのお母さんでもお姉さんでもないの。甘えるのもいい加減にしてね」
「は? だったら、僕は一体どうやってこの苛つく気持ちを解消すればいいんだよ」
レレクロエは鼻で嗤って目を細めた。ハーミオネは両手を広げて空を仰いだ。
「知らないわよ! そもそも苛々をため込まない努力をしなさいよ」
「無理に決まってるから、こうして君に八つ当たりしてるんだろ」
そう吐き捨てて、レレクロエはまるで手のかかる幼子のように膨れ面をした。ハーミオネはいつもどおり、呆れてしまった。全く、そんな顔をして可愛いとでも思っているのか。口には出せないけれど、言わせてもらうならば苛つくのはこちらの方なのだ。レレクロエの物言いに晒されていると、我慢していても結局口の端がぴくぴくと引きつってくる。マキナレアの中では自分が一番我慢強いはずなのだけれど。ハーミオネはレレクロエの頬袋を指でつついた。レレクロエは冷めた眼差しを崩さないまま、膨れた頬を元に戻した。
「大体ね、あなたがここの人たちに余計なことを言わなければこんなことにもならなかったのよ。あなたは何にもしないし。人の仕事ばっかり増やして、悪いとはこれっぽっちも思わないわけ。少しは協力してくれてもいいんじゃないの。それとも、よほど私のやっていることはあなたにとって滑稽で笑えるかしら」
「ああ、もう、いいんだよ、そういうのは。これはこれでさぁ。とりあえず今は、現状維持でいいじゃない。六人そろっていない状態で抗うことの虚しさなんて、僕より君の方が身に染みてわかってるだろ? 今はまあ、適当に身体を休めておけばいいんじゃないの? 直にあの四人が僕らをここから連れ出してくれるだろうしさ」
まるで興味なさそう言うと、レレクロエは急ににやりと笑って、右手で右目を覆い、左手をさっと前方に掲げて伸ばした。
「これもすべて、計・画・通・りっ」
ハーミオネは聞こえよがしに溜息をついた。げんなりする。なんなのだろう、その格好は。格好いいとでも思っているのか。決まってない。どや顔をするんじゃない。何が計画通りなのか文脈さえつかめない。
レレクロエのこういう訳のわからない性格を知っているのは、自分くらいのものなんじゃないかとハーミオネは思う。何故かはわからないけれど、まるで愛玩動物になつかれているようなものだ。それも小物感たっぷりの。
他の人といる時は彼は鬼畜ぶることしかしない。いや、それも彼自身の性格ではあるというか、彼の趣味ではあるのだが、実際にはこういうしょうもない男なのだ。けれども見た目だけは、草色の髪に紅紫の瞳、睫毛は長くて密で小顔で、天使みたいな美少年なのだからどうにも惜しい。惜しすぎる。
「計画通りって……。どうしてわざわざ人間同士の諍いに拍車をかけようとするの? 私達は彼らを救うためにここに居るのよ?」
「拍車? 君こそ何言ってるのさ。元々彼らは争っていたじゃない。それが、僕達っていう便利な道具が現れたから利用し始めたってだけだろ? 僕がそれを逆手にとって人間を利用したっていいじゃないか。ていうか、別に僕達の目的は人類っていう種を絶滅させないようにするってだけのことなんだから、人類の欲に縛られておく必要もないでしょ。僕達は僕達で好きに生きていいじゃない。どうせいつかは消えてなくなるんだから」
そう言ってレレクロエは大口を開けて空を仰いだ。よくこの雨を口の中に入れる気になるなと、ハーミオネは半ば感心してしまう。
「……この雨だって、元はそのためのものだろうしさ」
不意に、レレクロエは擦れた声でそう小さく呟いた。ハーミオネは眉根を寄せた。
「そんなことないでしょう。たまたまよ。
「どうだかね」
レレクロエはハーミオネをちらと見て、嘲るように空に嗤った。
レレクロエは時々、こういう表情をする。それを見ると、ハーミオネはいつも少し不安になるのだった。レレクロエは、本当はどういう人なんだろう。掴みどころがない。理解ができない。けれどそのことについて、深く考えたいわけでもなかった。いくら同じマキナレア同士とは言っても、踏み込んでいけない領域というものはある。
レレクロエとハーミオネが目覚めた地は、恐らく他のどの地よりも荒れ果て、人々は流行病に怯えながら暮らしていた。
この世界でマキナレアが目覚めたのも、サラエボが最初だったらしい。彼らは地下の奥深くで棺に入れられ眠り続ける二人を見つけ出した。その噂が他の二つの地に伝わり、そこでもマキナレアの棺の探索が始まったようだけれど、それも全部レレクロエの差し金だ。レレクロエだけが知っていた。六人が同じ場所にいないこと。二人ずつ、この世界に唯一残った水場の三か所に隠されているということ。
レレクロエはアルケミストに、最後のマキナレアと呼ばれていた。アルケミストが最後に作り、他の五人には伝えていない真実さえ伝えた唯一のマキナレアだ。レレクロエは、マグダとレグドの人間達に、マキナレアの棺の在り処を教えた。それは彼らを救うためなのだろうとハーミオネは思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしいから、レレクロエのことはよくわからない。
ハーミオネが目を覚ました時、目に映ったのは自分たちの前で跪きひたすらに祈りを唱えるぼろぼろになった人々だった。彼らと共にあったのが自分達であったことが、サラエボにとっての救いだっただろう。他の四人の持たない慈愛の力を二人だけが持っているのだから。
ハーミオネは彼らを哀れに思った。戦争で若い男を次々と無くし、女子供と老人だけで、この埃にまみれた廃墟で怯えるように生きるこの人間達を。助けてあげなければ――母性のようなものがハーミオネを強く支配した。ハーミオネの力で彼らの病や穢れを洗い流す。そこにレレクロエの修復の力が働いて、人々を癒していく。そうすることで、サラエボの民は少しずつ元気になっていった。それでも、残りの二つの地から兵士たちが絶えず攻め入ってくるから、その間は戦わなければいけないのだった。けれど戦いにハーミオネとレレクロエは無力だった。人間よりもずっと無力だ。ハーミオネとレレクロエは、攻撃の術を持っていない。人々と力を合わせて、同じ武器を掲げて戦わざるを得ない。
そうは言っても、レレクロエの【修復】と【再生】の力はいささか役には立った。レレクロエは、そこにある緑を育て、成長させることができる。洞窟の壁に辛うじて絡んでいた蔦を育て、洞窟の入り口に簾を作った。その簾に、雨で溶けた岩石の欠片を組みこんで、強固な壁にした。レレクロエだからできたことだ。ハーミオネは、その時も何の役にも立てなかった。
この壁で、人間からの攻撃くらいはなんとか防ぎきることができるようになった。けれどレグドとマグダは、自分たちの力がもはや及ばないと知るや否や、今度はマキナレア達を利用し始めた。ミヒャエロやモンゴメリが攻めてきた時のことを覚えている。彼らはそれが、マグダの人間を救うことだと本気で信じていた。その時のハーミオネの気持ちをわかる者なんて、きっとこの先一人もいないだろう。押し込めていた想いに、胸が張り裂けそうだった。
マキナレア同士で戦うだなんて、馬鹿げているとハーミオネは思う。戦うことは確かに、人々にとって一時しのぎの救済に見えるだろう。戦って、滅ぼして、その水場を手に入れさえすれば、しばらくの未来、水には困らないと笑っていられるかもしれない。他の土地の人間達に、いつこの水場が奪われるかと怯えて生きなくて済むのかもしれない。けれどそれは錯覚だ。それを、ミヒャエロとモンゴメリが理解していないとは、ハーミオネには思えないのだった。モンゴメリなんて、きっと心の中でそんな人間達を馬鹿にしているに決まっている。ミヒャエロだって、慇懃無礼そうでその実頭では計算高い子供なのだ。彼らが人間の無謀な命令に従うのは、もっと他の理由があるのに違いないのだった。
人間達の錯覚に付け込んで、彼らは――ミヒャエロとモンゴメリは、戦うことで逃げているのだ。そうしている限り、本当の使命を果たす必要がないから。本当の使命は、マキナレアの死を代償にしている。二人はその、いつか来る終焉までの時間を先延ばしにしようとしているのだ。使命から目を背け、人類からも目を背けている。それが、ハーミオネにとっては何よりも腹立たしい。
そんなことは許されない。許してはいけないのだ。それでは何のためにこうして生きているのか。もうこんな世界は続けてはいけないのに――けれど、ハーミオネには二人を止める術がなかった。
そんな状況の中でレレクロエがやったことと言えば、サラエボの民に、本来人類には必要のない知識を付けさせたことだ。
このままマキナレアをばらばらにしておけば、世界の均衡はいつか崩れてしまうこと。六人は六人いることによって世界の均衡を保つのだ。だからいつかは自分たちは一つの地に集う必要がある。けれど、だからこそこれは好機なのだと。
『レグドとマグダにいる四人は、攻撃的な力を持つ者達なんだ。レグドの二人の力は破壊を助長するし、マグダの二人は人間の快楽と、そしてそれに伴う破滅に繋がっていくだろう。このまま放置していれば、あの二つの地の人間が自滅するのもそう遠くない。僕たちは二人で癒しを司るから、あなた達に害はない。あなた達をこんなにも苦しめてきたやつらなんだ。滅びていいじゃないか。新世界にそんな醜い人間など必要はないよ』
レレクロエは、そう言って笑っていた。
サラエボの民は、防壁を固めて籠城を決めた。事実上の自分達の軟禁だ。今、彼らは二人を外に出すことをひどく恐れている。失うことに怯えているのだ。それでもハーミオネは、蔦の隙間を潜り抜けて時々外に出る。少しでも、今できる範囲で雨を浄化したい。遅かれ早かれ、いつかはやらなければいけないのだから。
世界の歪みはもはや無視できないほどに膨れ上がっている。ハーミオネにはそれを放っておくことはできない。常に全体を見渡せるようにと、使命に忠実に造られた――それはハーミオネにとっての業だ。たとえレレクロエが言うように、何の意味もなくても、無駄でも、徒労でも、何もしないでいられるほど、ハーミオネは強くないのだった。
目覚めてから、大地は見る見るうちに荒廃していた。聞けば、それはずっとずっと昔からなのだという。二人が目覚めてから、マグダとレグドの地の荒廃はさらに悪化した。ミヒャエロとモンゴメリが目覚めてから、豪雨が降るようになった。もしかしたら、六人をばらばらにしたから、世界の荒廃は進んだのではないかとハーミオネは思っている。六人を作り、先を見据えていたアルケミストがそれを予測できなかったはずはないのだけれど……それを考えようとすると、体中に悪寒が走る。ハーミオネは考えるのをやめた。やがて、地震がよく起こるようになった。雨は勢いを増し、砂の世界のどこかで眠る火山が爆発したのを、その赤い光を遠くの地平線上に見た。きっと、ケイッティオとギリヴも目覚めたのだろう。六人が一緒にいないから、世界の均衡は崩れ続けて歪みに歪む。その均衡を修復できるものがいるとすれば、それは【修復】の力を司るレレクロエであるはずだった。それなのに、レレクロエは何もしない。
――何を考えているのか、本当にわからないわ。
ハーミオネは、肌が真っ赤に染まったレレクロエの横顔を眺めた。レレクロエは、口の中に溜まった雨水をあろうことか飲みこんだ。飲みこんで、すぐに嗚咽し吐き出した。赤がうっすらと滲んだ、液体だった。
「自虐的ね」
「モンゴメリほどじゃないけど?」
レレクロエは咳込みながら笑う。
「ねえ、あなた、本当は何がしたいの? そろそろいい加減にしてよね。私を手伝うなり、助けるなり、してくれたっていいのよ。それとも、このまま世界の崩壊を眺めているだけのつもり? まさか、人類を選別するとでも言うんじゃないでしょうね。この洞窟に残っている人だけを守って」
言いながら、ハーミオネの胸中にふつふつと怒りがわき上がってきた。
かつて神が作り出した箱舟の世界のように、嵐の中でサラエボの民だけを守る――そんな権利が自分達にあるはずがない。許されない。そんなの、私は認めないのよ。
レレクロエをフードの奥から睨みつける。すると不意に、レレクロエはぞっとするような美しさで口の端を釣り上げた。
「そうだなあ……ここからミヒャエロ達が囚われの僕達を救い出してくれる、とかいう場面があったら素敵だと思わない? まるで昔のお伽噺のお姫様の様にさ。塔に囚われた美しい姫。長い金髪を編みこんで縄にして、ずっと助けを待っていたけなげなお姫様の話があったでしょ? ほら、君も同じじゃないか、綺麗な三つ編みのお姫様だ」
そう言って、芝居がかった動作でレレクロエはハーミオネの三つ編みの房を手に取り、口付けた。ハーミオネは虚を突かれてぽかんとしてしまった。
「……いきなり何を……それ、もしかしてラプンツェルのこと? あなた馬鹿なの? ……馬鹿なんでしょう。その妄想、本当に気持ち悪いのだけど」
「ひどいなあ。君のために用意した台本なのにさ」
レレクロエはくすくすと笑って、ハーミオネの髪からぱっとあっさり手を離した。三つ編みの房が落ちて、ハーミオネの胸にぶつかった。
「嘘ばっかり。それ、自分のためでしょ? 正直に言いなさいよ。ギリヴに助けてもらいたいのは自分かしら? 大体、助けてもらうって柄かしら」
「誰もギリヴとは言ってないだろ」
レレクロエは、鋭い目つきで顔をしかめた。それを見ていたら、ハーミオネはなんだか可笑しくなってしまった。
「あら、そういうところがまだ餓鬼んちょだって言ってるのよ。もう少し大人の返しを覚えることね。……あなたの気持ちって、正直ばればれなんだから」
「勝手に誤解しないでくれる。もういい。興が削がれたよ」
レレクロエは棘のある声でそう言い放ち、くるりと踵を返して飛び降りた。
ハーミオネは、レレクロエがいなくなった後も、レレクロエの立っていた場所を睨みつけていた。苛立ちを慰めるように三つ編みを撫でていると、ふと違和感に気付いた。
房の尖端に、芥子色のリボン。レレクロエったら、いつの間につけたんだろう。
それを手慰み、ハーミオネは嘆息した。この色なら、ギリヴの鮮やかな髪色に、きっとよく似合うだろう。
――本当に、いくじなしね。
自分も同じなのかもしれないけれど。結局、ハーミオネとレレクロエは、似た者同士ではあるのだ。本当に想う人に、その気持ちを伝えられない。隠すことでしか自分を保てない。
ハーミオネは今は会えない人を想った。また無理していないといい。あの人はすぐ無茶をするから。でも、ケイッティオを傷つけることはきっとできないわね。苦しんでいないといいなあ。
思い出の中の
雨は容赦なくハーミオネの頬を焼いていく。ハーミオネは目蓋を閉じた。このくらいの痛み、どうということはない。
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