第7話 学長の思惑(後編)         ~逆転の一手~

 オリンピックに関するサイト作りを進めていた矢羽田研究室の3人。しかし、新学科の併設に伴い、予算編成の見直しの波に巻き込まれようとしていた。来年度の予算を手に入れるために矢羽田教授が思いついた逆転の一手は、彼の奥さんに協力を頼むというものだった。


(ま、僕はいまだに矢羽田教授が結婚しているなんて信じていませんけど)


 倉田くんはいまだに矢羽田教授が既婚者であることを疑っていた。



 現在倉田くんと矢羽田教授の二人は別の大学に来ていた。矢羽田教授の奥さんが務めている大学である。


 そして門を越えようとして大学の守衛さんに引き留められた。


「だから俺は矢羽田吉海よしみの夫だって言ってんだろうが!!」


 矢羽田教授は守衛さんに対してそう弁解している。守衛さんはものすごい怪しい人を見る目で彼ら二人を見ている。


「でもアポイントメントを取ってないんですよね」


 守衛さんはそう言いながらタブレットの情報を確認する。


「だから連絡先が分からなかったからだって言っているだろ!」


「夫婦なのに連絡先が分からないんですか?」


 守衛さんの言葉がさらにとげとげしくなる。


「長い間、会ってないんだから当たり前だ!」


「それでは正規のルートでアポイントメントを取ってください。大学のホームページから探せば、連絡先は載っているはずですよ」


 きわめて事務的な対応だ。丁寧ではあるが、対応がめんどうになってきているのが言葉の端々からわかる。


 しかし、矢羽田教授と倉田くんはそれで負けるわけにはいかなかった。


 正規のルートでアポイントを取る?すこしでも早く結果を出すためにそんなことをしている暇はない。一度でもプロジェクトが打ち切りになってしまえばそれを復活させることはとても難しい。学長から正式にプロジェクトの打ち切りを言い渡される前にプロジェクトの継続をさせるだけの成果を得る必要がある。


「それじゃあ遅いんだよ!」


 矢羽田教授と守衛さんが言い争う。


 守衛さんの仕事は怪しいやつを大学校内に入れないことだ。怪しい人間に門をくぐらせることは出来ない。絶対に門を通りたい人間と通したくない人間の話し合いが進むわけもなくさっきから同じ話を何度も繰り返していた。


 倉田くんは、奥さんの職場にすらたどり着けていない時点でますます結婚しているかどうか怪しいと思っている。


「おい、倉田。黙っていないでお前からも何か言ってやれ」


「教授。ここは僕らの大学のIDカードを見せて信用してもらうのはどうでしょうか」


 もちろん別の大学なので、それで門を通れるというわけではないが、とりあえず身分を保証することは出来る。というかそれをしないと矢羽田教授が不審者として警察に通報されそうな雰囲気だ。


「お、その手があったか」


 矢羽田教授がIDカードを探していると、突然、女性から声をかけられた。


「あなたはこんなところでいったい何をしているの?」


 きりっとした顔の婦人が矢羽田教授にそう話かけた。その人をみて矢羽田教授は嬉しそうにする。


「おう、吉海。ちょうどよかった。こいつらに俺を通すように言ってくれ」


 どうやら目の前の女性は矢羽田教授の奥さんである吉海さんだったようだ。矢羽田教授は守衛さんたちに勝ち誇った顔をする。


 自分が正しいと証明されたときのうれしさは、麻薬のようなもの。大学教授とはいわば中毒者なのである。それもとびっきり重度の中毒者だ。矢羽田教授もそんな中毒者の一人だった。


「ねぇねぇ今どんな気持ち。俺が言ってたことを疑ってたのに本当のことだってわかってどんな気持ち?」


 守衛さんは矢羽田教授の煽りには反応せずに吉海さんの方を見て、本当なのか?と目で確認する。吉海さんは大きくため息をついてから、守衛さんにこういった。


「こんな男は知りません。つまみ出してください」


「吉海⁉」

 

 矢羽田教授は守衛さんに腕を掴まれてつまみ出された。




 なんとか守衛さんの誤解をといた矢羽田教授と倉田くんはようやく矢羽田吉海さんの研究室に入ることができた。彼女は忙しいらしく今はすこし席を外している。倉田くんと矢羽田教授だけが部屋に残されていた。


「うちの研究室にあるソファとは大違いだな」


「遊ばないでくださいよ。みっともないですよ」


 矢羽田教授は座っているソファに深く腰掛けたり、ちょっと前に座ってみたり、だらんとしてみたりしている。それはまるでソファの実力を確かめているようだ。


「来年度の予算が出たら良いソファを買うのもありだな」


「なしですよ。何言っているんですか」


 倉田くんもソファに深く腰を沈める。たしかに良いソファだ。しかし、矢羽田教授の危機感のなさにもあきれたものだ。もしかしたら彼の中ではすでに予算打ち切りの可能性は消えているのかもしれない。


(それほどの成果を得られるものがここにあるということなんでしょうか?)


 倉田くんからしても、ここで何をするのかよくわかっていない。奥さんが大学教授ということは研究に関して助けを求めるということなのだろうが……。あまりイメージがわいてこない。なにせ倉田くんは彼女についてほとんど何も知らなかったのだ。


「それより、いままで一緒に仕事してきましたけど、奥さんがいるようには見えなかったんですが」


 聞くなら吉海さんが席を外している今しかない。実物を見た今でもまだ完全に信じ切れていないくらいだ。


「別居しているんだよ」


 それなら確かに見かけることがないのも普通かもしれない。


「それ嫁って言うんですか?」


 結婚しているというより離婚していないみたいに言った方が近い気がする。


「忙しいんだよ、互いにな」


 詳しく話を聞いていると別に仲が悪いわけではないようだ。単身赴任みたいなものなのかもしれない。夫婦ともに大学教授では忙しくて会う時間が取れないのも仕方がないことなのだろう。いや、待てよ、と倉田くんは思う。


「見え張らないでください。矢羽田教授は大して忙しくないんだから普通に会えばいいじゃないですか」


「もうちょっとオブラートに包んだ言い方しろよな。吉海が忙しすぎるんだ。俺のせいじゃねぇ」


 矢羽田教授は子供みたいにぶーたれる。倉田くんはため息をついて矢羽田教授に聞く。


「でも奥さんだからと言って僕たちに協力してくれるんですか?」


「当たり前だ。どっちからプロポーズしてきたと思っているんだ。結婚してやったんだよ、俺がな」


 なんとも先行きが不安になる答えだった。


(奥さんと喧嘩にならなければいいなあ)


 多分無理だろうなと思いながら倉田くんは出されたお茶を飲んだ。




 二人は30分ほど待たされただろうか。吉海さんが部屋に戻ってきた。


「待たせてしまってごめんなさい。私は忙しくって。誰かさんとちがってね」


 吉海さんはそういって矢羽田教授をキっと睨む。


「大変そうだな。ちゃんとねてるか?野菜とかもちゃんと食ってるか?」


「な⁉」


 心配そうにいう矢羽田教授にすこしたじろぐ吉海さん。


「それで今日はいったい何の目的で私に会いに来たの?3年も顔を見せなかったくせに」


 倉田くんに動揺が走る。矢羽田教授と吉海さんが結婚しているのに3年もあっていなかったという事実。電車で2時間もかからない距離に住んでいるくせにだ。矢羽田教授の答え方次第ではここで修羅場になることは誰の目にも明らかだった。


「助けてほしい」


 矢羽田教授はただ一言そう言った。


「私があなたを助けると思うの?」


「うだうだいうつもりはない」


 矢羽田教授はそう言って静かにソファから降りた。


 そして床に額をつけて土下座をする。


「…………………」


 吉海さんは目の前のこいつは何をやっているんだという目を倉田くんに向ける。


(こっちを見ないでください)


 倉田くんはそっと彼女から目をそらした。


「わかったわ。助けてあげるから頭をあげなさい」


「よっしゃああ!!その言葉忘れるなよ!!」


 急に元気になりだす矢羽田教授。それにぴきぴきと青筋を立てながら吉海さんは言う。


「あなたはあいかわらずね。学生時代もいつも困ったらわたしに頼ってきて」


「べ、べつにお前ばっかりに頼っていたわけじゃないんだからね」


 矢羽田教授はツンデレみたいに言う。


「そうね。杉山くんにもたよっていたわね」


「あなたは彼が断わらないのをいいことに毎回レポートを見せてもらっていたわ」


 吉海さんは過ぎ去った昔を懐かしむ。矢羽田教授、杉山教授、吉海さんの三人は大学の同期だった。


「それであなたはいまいったいどんなトラブルを抱え込んでいるのかしら」


 矢羽田教授は一から順をおって自分が今置かれている状況を説明した。


「なるほどそれで私を利用しようってわけね。たしかに他大学の人間と共同研究を行っているところからは予算を削りづらくなるしね」


「お願いします!なんでもしますから助けてください、吉海ちゃん!」


 めったに使わない敬語をつかってまで媚びる矢羽田教授。吉海さんは彼のいったという言葉にきらりと目を輝かせる。


「ん?いまと言ったかしら」


 矢羽田教授はあ、やべ、と言う顔をする。


「ちょうど被験者が足りなかったのよ。被験者になってちょうだい」


 吉海さんはにっこりと笑って紙を矢羽田教授に渡す。


「あ、あの、この紙は?」


 矢羽田教授がおそるおそる吉海さんに尋ねる。 


「契約書よ。人体実験をするときは被験者の同意がいるから」


 矢羽田教授と倉田くんは同意書にかかれている内容に目を通す。


 被験者の基本的人権を尊重し、心身への影響を最低限とすることを旨とし、収集されたデータの保護を徹底することを約束する。また、実験中に気分が悪くなった場合には速やかに実験を中止し、病院へ行くこと。実験内容に関する説明を十分に理解したうえで、実験内容に同意する場合のみ同意書に署名をすること。


                            署名欄______

                             

 倉田くんは思った。


(実験内容に関して説明されていないんですが……)


「あたたたたぁ!!!!急にお腹が」


 矢羽田教授が逃げようとする。吉海さんに背中を向けた瞬間彼は肩を掴まれた。ガタイの良い二人の男性に別室に連れていかれた。彼らはいったいどこからでてきたのだろうか。


「いやだああああ!!!!!!!」

 

 それを倉田くんは巻き込まれないように何もいわずに見送った。


「あの、彼らは……」


「ああ、うちの研究生よ。沢田くんと木村くん。プロレス研究会に入っているらしいわ」


「なるほど、どうりで体つきが良いわけですね」


(矢羽田教授逃げるのはあきらめてください)


「まったく。あの男は私がいないと本当にだめなのね」


「だめだだめだ、と言っているわりにはなんだかうれしそうですね」


「あんな言い方をしたけれど、私はあの男を愛しているのよ。私からプロポーズしたくらいだしね」


 すこしだけさみしそうな顔をしている。いくら忙しくてもいくらどうしようもない男でもやはり会えないのは寂しいのだろう。


「たまには連絡するように僕からも言っておきます」


「ふふ、そうしてくれると助かるわ」


 吉海さんはふんわりと笑う。


「これでもけっこう心配なのよ。あれでけっこう撃たれ弱かったりするから。あなたみたいにしっかりした子がついていてくれるならとても安心よ。これからもあの人をよろしくね」


「ええ、任せてください。僕にできることならしますから」


「ん?いまって言った?」


「⁉」


 この流れはまずい。さっき同じような流れをみた気がする。


「サンプルは一つでも多い方がいいわ」


 倫理規定により人体実験を行うには被験者の同意が必要だ。同意してくれる被験者が目の前にいるのに機会をみすみす逃すような研究者はいない。にっこりと笑顔になり、教授が指を鳴らすと、白衣をきたさっきの男たちが入ってくる。そう、研究生の沢田くんと木村くんだ。やはり良い身体つきをしている。両わきをがっしりと固められる倉田くん。


「あたたたたぁ!!!!急にお腹が」


 倉田くんは抵抗むなしく矢羽田教授と同じように別室へ連れていかれた。

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