第8話 柔道場見学ツアー ~それが見学だけで終わるはずもなく~
倉田くんは畳の上に大の字で寝ている。目をつぶり深く息を吸い込んだ。イグサ特有のにおいをかぐとすこしだけ気分が落ち着いた。
(このまま立ち上がりたくない)
倉田くんは思った。このまま畳の中に沈んでいけたらどんなに楽だろうか。すでに体はボロボロだ。もう立ち上がることにつかれてしまった。
「頑張って!」
日奈子ちゃんの声が聞こえる。
「倉田、まだやれるか?」
隣にいる矢羽田教授もすでにボロボロだ。しかし、それでも彼は立ち上がる。彼はまだあきらめていなかった。
「ここでやめるわけにはいかないですよね。やりましょう!!」
倉田くんは立ち上がった。畳の上にいる限り、彼らは戦うことを強いられる。それでもここで戦いの場から降りることは出来なかった。
ことの始まりは数時間前にさかのぼる。矢羽田教授の奥さん、矢羽田吉海さんにオリンピックプロジェクトへの協力を申し込みに行った倉田くんと矢羽田教授。矢羽田教授の必死の説得により、彼女が協力を約束してくれたものの、協力することに際して一つの条件が提示された。その条件とは人体実験に参加することだった。
人体実験といっても内容自体はそれほど危険なものではない。スポーツをしているVRの映像サンプルをとるために実際にスポーツを体験してもらうというだけだ。倉田くんたちは柔道のVRの映像サンプルを取るためにとある道場に訪れていた。
道場のなかはとても静かだ。門下生たちは道場の端のほうにずらっと正座をして並んでいる。ただ一人師範だけが、倉田くんたちの前に座り、応対をしていた。
「お話は分かりました。そういうことなら我が道場も協力させていただきましょう」
道場の師範はとても協力的だ。すぐに許可がでたのは行幸だろう。新規のファンや競技人口を増やすことを目指すメジャーなスポーツと違い、技術の映像化を嫌う武道も多い。
柔道は 礼に始まり、礼に終わる。柔道が鍛えるのは体だけではない。精神を鍛え、品格ある人間へと成長を促す。
「武の心を学ぼうとする気持ちに貴賤なし。武の道はつねに開かれています。そこに日本人である必要はありません」
師範はそう語る。すばらしい考え方だった。
「それではさっそく始めましょうか」
そう言うと師範は正座を崩し、立ち上がる。
「矢羽田教授僕らはこれからいったい何を始めるんですか?」
倉田くんはうすうすこれから自分が何をされるのかわかっていたが、それでも矢羽田教授に確認の意味をこめて質問する。もしかしたら自分が勘違いをしているだけであるという可能性を信じて。
「柔道場にいるんだぞ。俺たちがVRの撮影用のカメラを付けて投げられるに決まってんだろ」
「やっぱりそうなんですね」
現状を確認してもちっとも事態は良くならなかった。矢羽田教授と倉田くんは頭にVR撮影用のカメラを取り付けてもらう。作業をしてくれているのはプロレス研究会所属の沢田くんと木村くんだ。
「あの、……僕らはどれくらいの回数を投げられればいいんですかね」
倉田くんはプロレス研究会の二人に訊く。というか体格的にお前らがやれよ、と思った。
「うす。背負い投げだけでは味気ないので他の技もいくつか受けてください。時間のゆるす限りやってもらいます」
(味気ないってなんだよ)
倉田くんは心の中で突っ込む。研究生に当たっても仕方がないことだ。彼らは彼らで吉海さんの指示に従っているだけなのだから。
吉海さんの研究室はVRについて研究している。VRを利用した場合の体への影響やVRシステムの効果的な運用方法などだ。矢羽田教授はそこに目を付けた。VRによるスポーツ観戦については関心が高まりつつあるが、VRによるスポーツの疑似体験についてはまだ手探りで進めているところが大きい。たくさんのハードルを越えなければいけないのだ。
「撮影機材はげしいスポーツに対応できるように通常のものより頑丈につくってあるんですが、さすがに床に直撃したらどうなるかわからないので、受け身をしっかりとってください」
プロレス研究会の沢田くんがカメラに対する注意点を話す。説明の最中もカメラの固定器具をガシガシ引っ張りながら、倉田くんの頭に撮影器具を装着している。カメラの収まりが悪いらしく、なかなかいい位置につけられない。沢田くんもだんだんめんどくさくなってきたようでこんなことを言いだす。
「ちょっと頭剃っていいっすか?」
「やめてくださいよ」
沢田くんはふにゅっとした顔をしてまた作業に戻る。一応聞いてみただけで、剃れるとは思っていなかったらしくすぐに引き下がった。
すこし時間はかかったものの倉田くんと矢羽田教授は撮影器具をしっかりと装備した。見た目は少し不格好なものの、柔道着を着ているおかげかそれなりに様になっていた。
「絶対に頭から落ちないでください。けっこう高いんで」
(頭から落ちたら僕も大けがなんですが……)
沢田くんはカメラの心配しかしていないようである。
「それじゃあ、始めてください」
沢田くんが師範に言う。
「おねがいします」
倉田くんは師範に礼をする。いやいやとはいえ、試合をする以上、相手に敬意をもってあたるべきだろう。しかし、師範はきょとんとした顔をする。
「ああ、いえ、試合をするのは私ではないんですよ。あなたたちには彼と試合をしてもらいます」
「え、じゃあいったい誰と……」
倉田くんの言葉を遮るように師範は大きな声でいう。
「Mr.Steveいけ!!」
柔道着を着た外国人が現れる。その男は……。
「ってMr.Steveじゃないですか。いったいどうしてこんなところにいるんですか?」
Mr.Steveはすっと目をつむり、息を静かに吐いていく。そして目をかっと見開く。
「私もJUDOをやってみたかったのです」
ためを作った割にはふつうの理由だった。
「えっと、これで大丈夫なんですか?」
VR用の体験映像を作ることを目的としてきたのに、相手が素人でいいのだろうか。
「安心してくれ。私たちの道場に訪れて彼は和の心を知った。相手として不足にはならないはずだ」
師範はそう言ってほほ笑む。
「彼は強いぞ」
矢羽田教授がMr.Steveを見てそう分析する。
「そうなんですか?でも始めたばかりらしいですよ」
日奈子ちゃんは不思議そうに首をかしげる。
「柔道ってのは柔を持って剛を制す競技だ。力の弱い人間でも技術があれば相手に勝つことができる。だがもし、力がある人間が柔道の技術を手にしていたらどうなる?」
「……無敵⁉」
日奈子ちゃんの顔が驚愕に染まる。
「そう、無敵だ。Mr.Steveの体格に柔道の技が合わさればその強さは計り知れない」
日奈子ちゃんはばっと立ち上がり、倉田くんにはっぱをかける。
「倉田くーーん、がんばってぇえ!」
日奈子ちゃんの応援に倉田くんは片手をあげて応える。なぜだかひどく落ち着いていたのだ。
「よろしくお願いします」
もともと現役バリバリの柔道家に投げられると思ってきていたのだ。それがMr.Steveにかわっただけである。適当に投げられてデータが取り終わるまで耐えるつもりだ。いや、だった。
「応援されると頑張りたくなってしまいますね」
倉田くんの目に火がついた。
運動は苦手な方の倉田くんだが、柔道というスポーツに関しては別だ。、要は物理学だ。相手を放り投げるのに必要なのは力ではなく、トルクである。必要な場所に必要な力を加えてトルクを最大にしてやれば相手は勝手にぐるぐる回ってくれる。
(僕は現代物理学は秀だったんですよ!!)
倉田くんはMr.Steveにとびかかった。
(いける)
その確信はいままで学んできたことへの自信。
(なにより、相手は素人、敗ける要素がない!!)
しかし、Steveの胴着に倉田くんの手が触れた瞬間。倉田くんに悪寒がはしる。
(まずい)
倉田くんは何がまずいかははっきりとわかっていない。それでもそのままにしていたら投げられるのは自分だということだけははっきりとわかった。いったん距離を取ろうと動いたが、すでに手遅れだった。
(一本背負い⁉)
倉田くんは一瞬で彼に投げられた。
「グハぁっ」
倉田くんは畳にたたきつけられた。
彼を投げたMr.Steveが礼をすると、柔道場の門下生たちが一斉にコールを始める。
USA!USA!USA!USA!USA!USA!
USA!USA!USA!USA!USA!USA!
USA!USA!USA!USA!USA!USA!
USA!USA!USA!USA!USA!USA!
USA!USA!USA!USA!USA!USA!
USA!USA!USA!USA!USA!USA!
「これが”WA"の心でーす!」
「「「「うおおおおお」」」」
それから倉田くんと矢羽田教授は何度も何度も投げられた。ぼろぼろになりながらもなんとか実験終了時間まで耐えきった。
最後に彼に一つだけ聞いた。
「Mr.スティーブ。柔道を体験してみて何か得られましたか?」
Mr.スティーブは目をすっと閉じて語る。
「戦いのなかにある一瞬の静寂、それすなわち和のこころなりけり」
倉田くんは思った。やっぱり柔道ってすごい、と。
*柔道体験コースを受講してもすべての方が同様の効果を得られるとは限りません。結果には個人差があります。
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