第7話 学長の思惑(前編)         ~明かされる真実にあなたは驚愕する~*

 AR。別名は拡張現実。ものすごく簡単に言えば、飛び出す絵本と同じことをパソコンでやろうという考え方だ。ただし、絵本の場合は立体的に浮き出てくるのは紙だが、ARでは光だ。光の情報を目が受け取るときに工夫をすることで見え方を変える。するとあたかも現実の中に非現実のものがあるかのように脳に錯覚させることができる。 

 そして日本は、リオオリンピックから東京オリンピックへの引継ぎのさいにARを用いたパフォーマンスを行い、大成功を収めた。


「でもあんなのはクソだぜ」


 そう言ってARを貶すのは矢羽田教授。彼はとても生き生きとした声でARがクソだと語る。


「あんなのは見栄えだけだ。俺から言わせれば、まだまだ発展途上の技術だし、実用には程遠い。川に蛍でも見に行ったほうがマシだ」


 彼は語る。ARとかどうでもいいからその辺の川に蛍を見に行け、と。ちょっと川に行けばきれいなものをみることができるのになんでARなんて使っているのかと馬鹿にする。


 矢羽田教授はARの欠点をどんどんあげていき、すごく楽しそうに馬鹿にしていく。そんな教授の話を聞いていた日奈子ちゃんは頬を膨らませて矢羽田教授に言う。


「ARを使えば2次元のキャラに会えるかもしれないじゃないですか!すごいことですよ、これは!!」


「ARだと触れないぞ」


 2秒で否定された。


「さ、さわるとか破廉恥です!何を考えているんですか?」


 日奈子ちゃんは顔を真っ赤にする。目をぐるぐるさせて何かぶつぶつ言っている。完全に妄想の世界に入ってしまった。そんな二人を平然と見ている倉田くん。倉田くんからすれば、矢羽田教授と日奈子ちゃんのあんな会話はよくあることだ。

 

「何度でもいうぞ!!あんなのだってな」


 そう言って高笑いをする矢羽田教授はほんとうに楽しそうだった。









 ちょうどそんな話をしていた日の午後。矢羽田教授と倉田くん日奈子ちゃんの三人は学長の部屋に呼び出されていた。まあ、呼ばれたのは矢羽田教授だけであったが、矢羽田教授が二人にもついてくるように勧めたのだ。


「俺が教えてやんよ。泣く子も黙る交渉術ってやつをな。お前たちは俺のを見て学べ」


「教授、カッコいいです!」

  

 ワクワクしている日奈子ちゃんに対して倉田くんは面倒臭そうだった。日奈子ちゃんは今回が初めてだが、倉田くんは以前にも矢羽田教授がを行っているところを見たことがある。


「一人で行ってくださいよ」


「バッカ。倉田。お前は俺の援護射撃をするのが役目だろうが。だいたいお前がいなかったら、右の盃が空になるだろう」


「右の盃?」


 日奈子ちゃんが不思議そうにする。倉田くんはやれやれと思いながら説明する。ほんとうはこんなくだらないことは教えたくないのだ。


「交渉する相手の両側について交互にお酒を注ぐんですよ。僕が右側、教授が左側について相手がをしてくれるまで続けるんです」


 ふつうに話しながら飲んでいるだけなのにターゲットはいっしょに話している人間の倍はお酒を飲まされているという恐ろしい技術だった。


注意・危ないから試さないでね!


「そんなの成功するんですか?」


「杉山教授は面白いくらいに引っかかってくれましたよ。たしか彼の初恋の人の名前は……」


「倉田!…………それ以上はいけない」


 矢羽田教授がまじめな顔をして倉田くんを止める。いくら仲が良くても超えてはいけないラインがある。そこを越えてしまえば友達ではいられなくなる。倉田くんも迂闊だったと思い口をつぐんだ。男にとって初恋というのは特別なものだ。あまりぺらぺら喋る物ではない。


 そんな二人を見て日奈子ちゃんは思う。


(私はめっちゃ気になるんだけど)


 結局二人は口を割らず、そのまま学長室へと行くことになった。




 彼ら三人が学長室に入ると、すでに学長は部屋の中で待っていた。窓から外の景色を眺めている学長は三人が来ても特に何かを話すこともなく時間が過ぎる。学長が話し始めるまで三人はただ黙って突っ立っていた。


「例の話はすすんでいるのかね?」


 学長は窓の向こうを見ながらそう言った。例の話というのは当然、オリンピックに向けたサイト作りのことである。


「はいはい。もちろん、進んでおりますとも。報告書はご覧になりましたか?」


 矢羽田教授は学長の質問に答える。実は学長に呼び出される数日前に現時点で進んでいるところまでの報告書が学長に出されていた。とはいえ、まだ活動を始めて間もないので、その内容のほとんどは、今後の計画に関するものだ。


「うーん、あれには目をとおしたんだけどね、何かがたりないとおもわないかい?」


 学長は何かが足りないという。学長の意図するところはいまだはっきりとしない。彼らを自分の部屋に呼び出した以上、何かしらの追加の指示をするつもりなのだろう。


「何か、と言いますと?」


 矢羽田教授は丁寧に聞く。偉い人は回りくどいのだ。すこしづつ聞いて行くことで相手の意図を誤解なく受け取る必要があった。


 学長は言葉を選びながら話す。


「もうすこしこう派手なのはできないか?今のままだと花がないように見える。これじゃあ、なんというか……そこらのブログと大差がないように……感じてしまうのだ。私としてはね」


 学長は現在矢羽田教授がつくっているサイトの内容では、大学の活動内容として周知していくのには弱いと考えていた。オリンピックに大学としてかかわっていくうえでの中核を担ってもらわなければ困るのだ。いままでの価値観を一変させるようなものを学長は求めていた。


「報告書はあくまで途中経過です。中身が仕上がってくれば、見栄えもよくなりますから心配には及びません」


 当然、矢羽田教授は反論する。事実これからどんどん内容が改善されていくことになるし、すぐに完成してしまっては来年度の予算を獲得できなくなる。できるだけ働きたくないのだ。


「矢羽田くん。君はARについてどれくらいわかっているかね」


 それは質問というより確認だった。そもそも学長がオリンピックで使われたARに感動した話をして、自分の大学でもオリンピックに向けて何か取り組めないかを工学部の教授たちに相談したのだ。それを聞いた矢羽田教授が、自分たちにもオリンピックに向けた活動ができるとセルフプロモーションしたという経緯がある。


「大変すばらしい技術と伺っております」


 さっきまでディスっていた人間には思えないほど心の底からでた言葉のように聞こえた。噴き出すのを我慢している日奈子ちゃんの顔がすごいことになっている。


「その通りだ。しかしそれだけではない。AR技術は、たしかにすばらしいが、他にも私たちに一つの可能性を提示した。日本でのオリンピックに単なるスポーツ大会以上の価値を付加することができるという可能性だ。日本にしかできない技術をふんだんに使った新しい形のオリンピックを創造していくことが我々には求められている」


『君たちのやっていることでそれを達成できるのか?』


 そう暗に問いかけられていた。


 ARを使って何かをやれ、という意味ではない。学長はARを越える、もしくはAR技術に並びたつことのできる代物を矢羽田教授が持ってくることを望んでいた。


 でも、そんなの簡単にできることじゃない。しかし、矢羽田教授はうろたえない。


「予算の問題がありますし、さすがに我々だけではこれ以上のことをするのは厳しいでしょう」


 学長は渋い顔をする。新しく一から何かをしようとするなら当然それ相応の予算がいる。地方振興費からちょっと融通するくらいでは足りないほどの額が必要となる。


「機械科のロボット研究は使えないかね?」


 テクノロジーをふんだんに詰め込んだロボットが使えるなら問題はすぐに解決する。大学の技術力もアピールできるし、最高の結果となるだろう。


「学長。あれは民間企業との共同研究によるものです」


 民間企業と共同研究を行うと企業からお金をもらうことができる。そう書くといいことしかないように聞こえるが、研究内容を自由に取り扱うことができなくなる。共同研究を行う際に交わした契約によってその研究成果の取り扱いは異なるものの、たいていの場合は研究成果を勝手に外部に公開することは出来なくなっている。せっかくのスポンサーを怒らせるわけにはいかないのだ。


 特に工学部の研究ではお金がかかることが多く、商業価値も高い場合が多いので企業との共同研究にたよっているのが現状だ。機械科のロボットも同じ大学内で作られた物だから好き勝手に使えるというわけではない。オリンピック向けに改造するならば、当然、協力してくれている企業にお伺いを立てる必要がある。


 さらに言えば広告塔として実用性がありそうなら、彼らも自分たちの企業で使いたいと思うだろう。どちらにしろ大学だけが中心になって進めることは出来ない。


「この際、多少は仕方ないのではないか。だめもとで頼むのはどうだ」


「一応、協力は依頼したのですが、断られてしまいまして……。なんでも今はまだ働くときじゃないとか」


 実は矢羽田教授はすでに協力を断られていた。


「いったいどういうことだ?」


「ロボットオリンピックの見通しがはっきりしない以上、下手に動くわけにはいかないらしいです」


 ロボットオリンピック。ロボット同士で競い合わせるオリンピックとして東京オリンピックで実施する可能性が示唆されていた。まだその規模もはっきりしておらず、参加できるかもわからないが、始まってしまえばそちらにかかりきりになる。へたに動いて予定を埋めるわけにはいかないというのが彼らの主張だった。


「どうにもならんな。やはり君の案で進めていくしかないようだ」


(廃案にされる可能性もあったんですね)


 倉田くんは心の中で突っ込む。ようやく提出された報告書の中身へと話は移り始めた。


「ハラールに関する活動についてすこし規模を大きくして進めなさい。必要ならほかのイスラム教徒の留学生を集めるのを手伝おう」


「ありがとうございます。ぜひ協力をお願いします」


「優秀なイスラム教徒の留学生を獲得する一助となればいいのだが……」


 オリンピックとは平和の祭典である。他国への理解を深めるのは本来の目的とも合致する。そして外国人留学生への理解のある大学というイメージをオリンピックを機会に獲得できれば、優秀な人材を諸外国から連れてきやすくなる。


「サイトのデザインについては君たちの方がわかるだろうから私から特にいうことは無い。しかし、福島に関しては本当に必要かね」


 福島第一原発に関する話題をあえて取り上げることに学長は懸念を示した。


「外国人観光客に向けた観光サイトには必須な情報でしょう」


「でも、あえてそこに触れる必要はあるのか?これは我々が考えている以上にシビアな問題だよ」


 要は学長は炎上が怖かった。報告書として提出された以上、何かあったときに責任を取るのは矢羽田教授ではなく、学長自身だ。


「たしかにリスクはありますが、それ以上に得られるものも大きいかと思います」


「とにかく原子力発電所については一切書かないように。自分から火中の栗を拾いにいく必要はないだろう」


 矢羽田教授の意見はにべもなく却下される。下手に扱えば大やけどをするネタを取り扱うのは絶対に避けたいというのが学長の考えだ。


「わかりました。原子力発電所については一切言及しないことを約束します。福島県内の写真があるのでそれを使うことは可能でしょうか?」


「妥当だな」


 そのあたりが学長との妥協点だ。福島第一原発について触れているわけではない。たまたま福島県内の写真があるから、使うだけだ。のちのち何か問題が起きたとしても、こちらは写真を張っただけだ。


「それと君たちが使う写真とはいったい何を使うつもりなんだね」


「何を……とは?」


 矢羽田教授は質問の意図が分からない。いったい学長は何を聞きたいのだろうか?


「報告書に掲載されていた写真のサンプルは……肩車をしているようにしか見えないのだが」


 報告書は重要な箇所以外は倉田くんと日奈子ちゃんに作らせていた。


「…………」


 矢羽田教授は押し黙る。かくかくと首を揺らしながら日奈子ちゃんを見る。写真の選択はすべて日奈子ちゃんに任せていた。日奈子ちゃんはグッドサインを出して矢羽田教授にしか聞こえない小さな声で言った。


「オーダー通り一番楽しそうな写真を選んでおきました」


 日奈子ちゃんはいい仕事をしたという顔をしていた。


「なぜ、その写真を選んだ!」

 

 選ばれたのはみかん先生の肩車写真。みかん先生の恥じらい顔がアップで映っていた。楽しそうどころか遊んでいるようにしか見えない。下手をすれば福島にまでいって何をしていたんだと問題になっていしまう。


「でも、矢羽田教授がOK出したんじゃないですか!私はてっきり教授もそれを求めていたんだと思っていましたよ!」


「そんなわけ……」


 そこまで言いかけて矢羽田教授は気付く。矢羽田教授は報告書を作った時のことを思い出す。


「教授、言われた通り作っておきましたよ。内容の確認をお願いします」


「よくやった。今度飯おごってやるからな。今日はもう帰ってもいいぞ」


「さっすが教授!今日もかっこいいですね」


 日奈子ちゃんはうっきうきで帰宅した。そのあと矢羽田教授は完成した報告書をパラパラとめくる。


「よし、大丈夫そうだな」


 中身に目を通していなかった。




「自業自得じゃねぇか!」


注意・部下からもらった資料にはちゃんと目を通しましょう。


 どうごまかすか矢羽田教授が思考を加速させる。しかし、以外にも学長の方から助け船が出された。


「ふ、君のことだ。これも何か考えがあるのだろうな。肩車は平和の象徴でもあるからな」


「そ、そうです。肩車は平和の象徴ですから」


 矢羽田教授はそういってへらへらとする。いったい何が平和の象徴なのかさっぱりわからないが、今回のことは無事に乗り切れそうである。


「いったい何が平和の象徴なんですか?」


 日奈子ちゃんがせっかく丸く収まりそうなのをぶち壊した。矢羽田教授の顔に汗がだらだらと滴る。


「私にも娘がいてね」


「娘がいると……モゴッ」


 また余計なことを口走りそうになった日奈子ちゃんの口を倉田くんがふさぐ。倉田くんは日奈子ちゃんににらまれるがそんなこと気にしている場合じゃなかった。


 どうやら肩車は学長的にはセーフらしいので、矢羽田教授はそれ以上に突っ込まれる前に話題を変える。


「それでは今まで通りに計画を進めていって大丈夫でしょうか?」


「最後に一つだけ、……計画を全体的に早めていくことはできないか」


 学長は彼らを見ない。窓の外を見たままそう言った。 


「いろいろと調整をしているのですが、取材先の日程の都合がつかないこともあり、計画をはやめたくても、こちらではどうにも」


 矢羽田教授は当然それに対する解答は用意してある。仕事を引き延ばすための手段はしっかりと心得ているのだ。


「完成までにいったいどれほどに時間がかかるのかね」


「最終的にはサイトユーザーからの意見などを取り入れて常に成長していく息の長いサイトを目指していきたいと思っています」


  agile(アジャイル)開発。あえて最初から完璧な完成品を目指すのではなく、実際の利用者の意見を取り入れながら内容を改善していく開発方法だ。素早い開発とユーザーの意図を反映しやすいすばらしい開発形式だ。しかし、矢羽田教授はサイトの完成の引き延ばしのために使っていた。


 つまり、開発は終わらないから永久的に自分を仕事にかかわらせろ。当然予算もずっとよこせと言っているのだ。


 学長はそれについては特に触れることはない。ただ静かにこう言った。


「君たち、あれが見えるかね」


 学長はやはり振り向かない。窓の外を見ている。その視線の先では重機が動き、新校舎の建設を行っていた。


「時代は変わる。世間も変わる。いつまでも同じままではいられないのだ。そしてそれはわが校も同じこと。常に新しい物を取り入れ、必要なものを残していくという選択をしなければいけない」


 学長のいう必要なものはいったい何をさすのだろうか。新たな時代を迎えるにあたっての変革の波に消えるものとはいったい何なのか。


「君たちのやっていることは、わが校の新たな活動実績としてアピールしていくことになるんだ。だが、オリンピック関連の活動である以上、実績として使える期間は限られる。できるだけ早くしてくれ。来年は新しい学科も設立されるし、お金もかなりそちらにもっていかれてしまうのだ」


「承知しました」


 学長は初めて三人の方を向き、最後にこう言った。


「矢羽田くん、私は君に期待しているんだよ」


 三人は学長室から退室した。









「いや~よかったですね。必要ない物を切り捨てるとか言い出した時は私たちが捨てられるのかと思いましたけど、どうやら私たちは残す必要がある方みたいですし」

 

 研究室に戻った日奈子ちゃんは嬉しそうにそう言う。反面、倉田くんと矢羽田教授の顔はくらい。


「学長の思惑が見えてきましたね。どうやら僕らがやっていることをできるだけ早く終わらせたいようです」


「ああ、これはまずいな。さすがにあっちも昨日の今日で計画をとりやめにすることはないだろうが、来年度の予算はまず出ないと思っていいだろう」


 二人の意見は日奈子ちゃんほど楽観的ではなかった。


「ちょ、ちょっと待ってください!わたしたちに期待しているって言ってましたよ。そんなことあるわけないじゃないですか⁉」 


 二人の反応を見て焦り始める日奈子ちゃん。二人の顔を交互に見てあたふたとする。


「新学科を併設するなら必ずどこかを削る必要が出てきます。まっさきに削られるのは僕らでしょう。しかし、一度予算を出した以上、ここで切り捨てるわけにもいかない。新学科が作られる前にサイトを完成させてほしいというのが本音なのだと思います」


「年度末になるまでに十分な成果が出ていなければ打ち切られる。かといってサイトが十分なレベルで完成すれば、それもまた予算が打ち切られる。八方ふさがりだな」


 矢羽田教授は椅子に座って頭をひねる。


「何かプロジェクトを継続させたいと学長が思うようなことを新しく始める必要がありますね」


 倉田くんは匙をなげる。そんなことが思いつくのならとっくにやっているのだから。


 そんなくらい雰囲気のなかで日奈子ちゃんは待ってましたとばかりに自分の意見を推す。


「簡単なことです!朝顔ちゃんとデートできるアプリを作りましょう。観光のついでに嫁が手に入るなんて最高じゃないですか。現地妻みたいなものですから何度も会いに日本に来てくれます」


「「却下」」


 倉田くんと矢羽田教授に却下された。


「なんでですか⁉」


 叫ぶ日奈子ちゃんに倉田くんは冷静に答える。


「そんなことできる予算も人もないですよ」


「予算とかはスポンサー(大きいお兄ちゃん)にまかせればいいでしょ。わたしたちは作るだけです。余裕ですよ。余裕!教授だって手伝ってくれますよね?」


「俺は手伝わないぞ。割に合わん。そもそもそんな真面目に働くなら、こんなことしないで民間に転職している」


 矢羽田教授の行動原理的に楽をしてお金がもらえることがベストなのだ。さすがに日奈子ちゃんのアイディアを実現しようとするには労力がかかり過ぎる。ちょろっとご飯を食べに行くついでに何かをすればいい今までとは明らかに仕事量が変わってしまう。


「でもほかに案があるんですか?」


 二人は日奈子ちゃんの言葉に押し黙る。結局その日は何もアイディアが出ないまま解散した。









 数日後、倉田くんは杉山教授とおしゃれなカフェに来ていた。


「今日はあいつは来ないのか?」


 杉山教授は、倉田くんに訊く。あいつとは当然矢羽田教授のことである。いつもは三人でこのカフェに来ているが、今日は倉田くんと杉山教授の二人だけだった。


「さみしいんですか?」


「さみしい?馬鹿な。………………本当にこないのか?」


「矢羽田教授は今日は来ませんよ。ずっと研究室で頭を悩ませています」


 杉山教授が怪訝な顔をする。


「ふむ、あいつが頭を使うとは、……………明日は槍の雨でも降るかもしれんな。やつはいったい何に悩んでいるんだ」


 倉田くんは学長とした話について杉山教授に教える。


「…………というわけで、それからずっと打開策を考え続けています」


 杉山教授は顎に手をあてて考える。目をすっとつぶりしずかに思考する。


「私はあいつとは学生時代からの仲だが、あいつが失敗をするところをみたことがないのだ。あいつは自分がかかわったものすべてをことごとく成功に導いてきた」


 杉山教授と矢羽田教授は大学時代の同期だ。だからこそ、杉山教授は矢羽田教授のいまの状態に違和感を感じた。


「まるで物語の主人公のようですね」


 倉田くんはすこし皮肉を込めてそう言った。ふだんの様子からは矢羽田教授がそんなすごい人には見えない。


「物語の主人公、か。私も昔はあいつのことをそう思っていた。そしてそれをうらやましくも思っていた」


 杉山教授はコーヒーに砂糖を二つ入れる。カップをスプーンでかき混ぜる。


「しかし、やつはそういうファンタジーな人間ではない。どうしようもないほどに現実主義なのだ。少しでも失敗する可能性のあるものをシビアに切り捨てる。必ず成功するのも当然のことだ。成功までの道筋がすべて頭の中にできてから歩き始めるのだから。一度歩き出したらそれをなぞるだけでゴールにつくのだ」


「それくらい誰でもやっていることなのでは?」


 倉田くんは杉山教授の意見に異を唱える。つまり、予定を立てて実行しているだけだ。特別なことをやっているようには思えない。


 杉山教授は小さく首を振る。矢羽田教授は普通ではないのだ。


「成功するための道はいくつもあるものだ。より大きな成功を得られる道。誰よりも早くゴールにたどりつける道。今まで誰も通ったことのない道。数え切れないほどの数がある。すべての道を調べてから道を選ぶなんてことをしている時間はふつうの人間にはない。最後は自分の勘に頼ってどの道にするかを選ぶことになる」


 研究において同じゴールを目指すものは多い。しかし、たとえ目的が同じであっても、まったく同じ方法を使って目的の達成を目指すわけではない。


 利益を増やすことが目的であれば、コストを下げることを目指す者がいれば、より高い価値を付け加えることによって値段を上げることで目的を達成しようとする者もいる。もちろんどちらも正しいし、結果として成果は出ている。しかし、その過程を見ればどちらも同じ労力で達成できたとは絶対にいえない。


 まわりより優れた成果をだすには、最善の道以外を通っている暇はない。そしてそれは誰にでもできることではなかった。


「あの男は絶対に正しい道を選ぶ。成功への嗅覚が常人のそれとはちがうのだ。だからだろう。一度始めればあいつは迷わないし、悩まない。やるべきことをただたんたんとこなすのだ」


「それじゃあ今回はいったい何に悩んでいるんでしょうか?」


 杉山教授の矢羽田教授に対する印象がただしかったとしても現に矢羽田教授は絶賛悩み中だ。いったいどういうことなのだろうか。


「この年で耄碌したということもないだろう。すでにやつの中に解決策はあるはずだ。となれば、実行するのに何か躊躇う理由があるというのが一番自然だ」


「なるほど、参考になりました」


 倉田くんは立ち上がる。


「どこかにいくのか?」


「教授の背中を押しに行きます」


 カフェを走って出ていく倉田くんを杉山教授は静かに見送る。一人店内に残された杉山教授は矢羽田教授のことを考える。


 本来研究とは道なき道を切り開いていき、ゴールがあるかもわからないものを探っていく作業だ。その中で味わう新鮮な驚きと興奮こそが研究の楽しみであり、やりがいとなる。ある意味博打打ちに近いその仕事は、矢羽田教授のような現実主義者とは対極的な位置にある仕事だった。


「だからこそ、お前は研究者になるべきではなかった」


 おしゃれなカフェに一人残された杉山教授は矢羽田教授を想いそう言った。彼の言葉は誰にも届かない。届かなくてよいのだ。いまさらどうしようもないことなのだから。













 倉田くんは研究室に飛び込んだ。


「教授」


 座っている矢羽田教授のもとへ詰め寄る。


「どうした倉田?」


 倉田くんはバンと机をたたく。そして思いのたけを矢羽田教授にぶつける。


「こんな中途半端なところで終わっていいんですか⁉ここまでただ働きさせておいてここで終わるなんて僕は許しません!いったい何を悩んでいるのか知りませんが、手があるなら最後まであがくべきです」


「………………」


 矢羽田教授は倉田くんのいった言葉をゆっくりと咀嚼する。


「そうか、お前のおかげで踏ん切りがついた。お前だってここでやめるのはくやしいよな。で始めた仕事だもんな」


 矢羽田教授はゆっくりと立ち上がる。そして逆転の一手を打つ。彼が実行するのをためらいつづけた打開策。仲間たちとの仕事を続けるために矢羽田教授は実行を決意した。


「建設中の新校舎を爆破する」


「そうです!僕らで頑張りましょう!……ってはあ⁉爆破?頭おかしいんですか!!」


 矢羽田教授の打開策は建設中の新校舎を爆破することだった。


「新学科の併設が遅れればリソースをそっちにさく必要もなくなる。予算に余裕があるなら俺たちはいままでどおり続けられるだろうが」


 たしかに彼の言う通りである。それでも倉田くんは指摘せざるを負えなかった。


「常識的に考えて!」


 大学が建設中の新校舎を爆破していいはずがない。倉田くんはそんなことをやらせるために走って矢羽田教授にはっぱをかけに来たのではない。


「ほかに僕たちが仕事を続けられる方法はないんですか?」


「あるにはあるが…………」


 矢羽田教授はなんだか気が進まない様子。大学の施設を爆破することよりもためらうこととはいったいなんなのだろうか。


「教授。僕はここでやめたくありません!」


 倉田くんは矢羽田教授にさらに念を押す。うんうんとうなりながら矢羽田教授は悩む。


「お前に負けたよ」


 しかし、最後には倉田くんの熱い瞳に折れた。


「俺の嫁に助けてもらう」


 矢羽田教授の解決策にたいして倉田くんは思った。突っ込みたいところがいろいろある。さんざん引っ張っておいて人に助け貰うのか、とか。なぜ大学の施設を爆破するほうを嫁に頼むのより、先に実行しようとしたのか、とか。嫁に助けてもらうというだけで、なぜすがすがしい顔をしているのか、とか。そもそも嫁が何者なのか、とか。


 しかし、一番追及したいのはここだった。


「あんた結婚していたのかよ!!」



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