第2話 イスラムの美人 ~フィールドワークはただ飯が食える~
みなさん、こんにちは、倉田です。いつもどおり矢羽田教授の研究室に来ると、僕の席には見知らぬ女性がいました。あの理不尽な教授のもとについて研究を始めてすでに5年はたったでしょうか。つまらないギャグにも笑い、酒の席ではお酌をし、頭がおかしくなるほどの量の雑用もやってきました。それなのにこんなに急にリストラされるなんて……。
「ハアィ。あなたが倉田くんね」
落ち込んでいる倉田くんに気付いた女性が振り返って彼に挨拶をする。きれいなあおい瞳に黒のヴェールを頭にかぶっている。見た目からして日本人ではない。
「He,…Helllow」
「日本語で大丈夫よ、私のことはレイラと呼んでちょうだい」
倉田くんはちょっと罰の悪い顔になる。それでもすぐに気持ちを切り替える。こういうことは仕方がないことなのだ。せめて最後の引継ぎくらいはしっかりやっていくべきだと自分に言い聞かせる。
「僕がいなくなった後はたのみます」
「え?なにそれ、どういうこと?倉田くんやめちゃうの?」
レイラさんは倉田くんの言葉に戸惑う。倉田くんになんて声をかけていいのかわからずアワアワとする。
「なんだ。倉田、おまえうちの研究室やめるのか?」
矢羽田教授がそんなことを言いながら、のんきに部屋に戻ってきた。東京の~なんて歌いながら。いつもとなんらかわらない矢羽田教授の態度に倉田くんも自分の勘違いに気付いた。
「え?僕は首じゃないんですか?」
「誰が言ったんだ、そんなこと。それより今日はフィールドワークだ。街に繰り出すからお前もさっさと準備しろ」
矢羽田教授はレイアと名乗る女性のもとに行き、挨拶をする。矢羽田教授とレイラさんは知り合いなようだ。いったいどんなつながりがあるのだろうか。
「やあ、レイラ。今日はよく来てくれた」
「いえいえ、私もプロジェクトに参加させてもらえるなんて光栄です」
プロジェクト。わざわざ研究室外から人を呼ぶほどの計画があるということを倉田くんは知らなかった。
「プロジェクトって何のことですか?矢羽田教授」
「お前、この前に俺がした話を聞いてなかったのか?オリンピック用にサイトを作るって話」
*前話参照
倉田君は矢羽田教授とバレーボールをしたときのことを思い出す。あれからすでに3週間ほどたっている。あれ以来オリンピック用のサイトに関する話は一切していなかったので倉田くんもそんな計画があったことなど忘れていた。
「本当にやるんですね」
倉田くんが思わずそう言う。最近は年度が始まったばかりということもあり、いろいろとばたばたしていた。正直な話、このままなかったことにしてもいいような気さえしている。ただ、ひとつだけ気になるのはLet's Noteから作られた金メダルを手にするアスリートがいったい誰になるのかということだけだ。
「でもオリンピック用のサイトを作ることとレイアさんは何の関係があるんですか?」
倉田くんはレイラさんを見る。正直な話、彼女とそのオリンピック用のサイトづくりになんの関係も見つからない。彼女が外国人女性であることが重要そうに思える。
頭をひねるが何も思いつかない。倉田くんが答えをだせなさそうなので矢羽田教授はヒントを与えることにした。
「彼女はイスラム教徒だ」
「わかりました!!ばれずに神社で記念撮影をする方法をレポートするんですね!そういうことなら準備は任せてください」
他宗教の場所に行ってみるスリルを味わってもらおうというわけだ。段ボールの準備から始めようかなとか倉田くんが考えているが、当然そんな理由で彼女が呼ばれたわけではない。
「お前、その程度の認識で大丈夫か?」
矢羽田教授は大きくため息をつく。残念な発想の助手に対して説明を始める。
「そもそもオリンピックっていうのは、スポーツの国際大会だ。世界中からアスリートが来るだけじゃなくて観客だって世界中から観光で日本を訪れる。そこでやってきた観光客たちに日本の良さを味わってもらうっていうのが観光サイトとしてはベストなんだろうが、ただ押し付けるだけじゃダメだ。なぜなら彼ら外国人旅行者にとって、日本の文化に触れるのはあくまでついでだ。当たり前だろ。俺だってスポーツ観戦に来たのにむりやり変な民族衣装を着せられて山の中に連れていかれ、自分が普段食べるものとかけ離れた食事が出されたらどう反応すればいいのかわからん。俺だったらそんなところにはいかない」
着物、すし、神社。美しい服、おいしい料理、豊かな自然。たしかにそれを楽しもうとしてきた人たちにはすばらしいものだろう。しかし、未知の体験には魅力もあれば、恐怖もある。ハンバーガーショップがあれば生きていけるアメリカ人とは違うのだ。
「まあ、言われてみればそうですけど、ちょっと大げさじゃないですか?そもそも僕らだってふつうに生活する中で日本文化にふれることもほとんどないですよ。それに探せばたいていのものが食べられます。日本食以外にもなんでも売ってるじゃないですか」
「そうだ。”探せば”たくさんある」
矢羽田教授はにやっとする。彼の意図はそこにあった。実際に外国人旅行者が異国の地でそうやって探すのはかなり難しいことだ。街をあるいても看板の文字は読めない。教えてもらおうにも言葉が通じない。そう言う場合に一番簡単なのは前に日本に来たことがある人に事前にどうすればいいか聞いておくことなのだ。そしてそういう体験をしたことのある人が書いたレポートをサイトに掲載しようというわけだ。今回はそれがレイアさんということになる。
そしてここまで来て倉田くんも矢羽田教授がこれからやろうとしていることにやっと気付いたようだ。
「でもそれなら矢羽田教授も仲が良いMr.スティーブに頼めばよかったじゃないですか。あの人ならこの辺にも詳しいのに」
Mr.スティーブは英語の外部講師だ。学生に英語を教えるほかにも、英語でレポートを書くときに手伝ってくれる。工学部にもよく来るので、矢羽田教授とも仲が良い。最近の趣味はロードバイクにのって市内で一筋の風になることだそうだ。
「あいつはもう日本人みたいなもんだしな」
「まあ、たしかにそうですね」
大学内では英語しか使わないのに、飲みに行ったら日本語をペラペラとしゃべりだしたのでびっくりしたことは倉田くんも記憶に新しい。
「それにあいつはアメリカ人だからだめだ。アメリカにはそもそも日本料理店が多かったり、日系がたくさんいる。もともと異文化に対するふところがひろいんだよ、あいつら」
いや、と矢羽田教授は言いなおす。たしかに自分がいったことは正しくはあるが今回レイアさんを連れてきた理由とはすこしちがっていた。しかし、そこから言葉が続かない。
「……」
なんとなく言いづらくてレイアさんをみる矢羽田教授。レイアさんは苦笑して話し出す。
「気を使わないでください。私たちもわかっていることです。イスラム教徒はほかの宗教よりやってはいけないことが多いんです。私たちからすれば特別きびしいって感じではないですけど」
日本人からすればかつ丼とラーメンを食べられない人生に価値を見出せるかは怪しいところだが、彼女はそれほど気にしていないようだ。生まれた時からあるルールなので守ることが当たり前になっているのかもしれない。
「ともかくだ。異国の地での生活。特に食事に関することはイスラム教徒にとって大きな問題だ。そういうわけで、イスラム教徒でも食べられる飯屋を見つけるのが今回のフィールドワークの目的だ」
倉田くんたちはお店に向かう。矢羽田教授はフィールドワークと言ったが、実際に街を練り歩くわけではない。実は今回の計画に協力してくれるところを矢羽田教授がすでに見つけているらしく、まずはそこに行くことになった。
「へえ、レイアさんはふだん数学の研究をしているんですね」
「うん、杉山先生といっしょに研究しているんだ」
レイアさんは杉山教授の研究室に所属している。それはつまりいつも矢羽田研究室のとなりの部屋にいるということだ。しかし、倉田くんは今日まで彼女と話したことがなかった。見かけたことがあるかどうかも怪しいくらいだ。
「う~ん?時間が合わないのかもしれないね。私たちの研究室は9時に始まってぴったり5時に終わりにするから。でも教授同士は仲が良いんでしょ」
来たいときに来て帰りたいときに帰る矢羽田教授の高度情報研究室とは大違いだ。研究室のやり方は教授によって大きく異なる。ある程度常識の範囲であれば、どんなスタイルで研究をしてもうるさく言われることは無い。フルタイムで研究をし続ける研究室もあれば、成果さえ出せればそれ以外はみない研究室もある。そういった意味では矢羽田教授と杉山教授は対極に位置している。
「仲が良いといえますかね?」
そう言って倉田くんは矢羽田教授を見る。教授はなんだか顔色が悪い。あいつに借りを作っちまった、などとぶつぶつ言っている。
どうやらレイアさんを借りるために杉山教授に”お願い”しに行ったらしい。よほど”お願い”をするのが嫌だったのだろう。
「そういえば、日奈子ちゃんはいないの?」
「あれ、レイアさん。日奈子ちゃんと知り合いなんですか?」
「工学部は女の子が少ないから……ね?」
工学部は女の子が少ないので女の子同士で集まりやすい。日奈子ちゃんとレイアさんもたまにおしゃべりをするんだそうだ。
「日奈子ちゃんには昨日あったときに言っておいた。現地集合がいいって言っていたから、さきに行っているんじゃないか?」
矢羽田教授はそう言う。顔色はまだ悪い。
「そもそも私たちがこれから行くのはどんなお店なんですか?」
「ここだ」
倉田くんの質問に矢羽田教授は目の前を指さして答える。そこには『うますぎる料理店』という名の看板がある店がある。どうやら大学からかなり近いお店だったらしい。倉田くんがお店のドアを開けようとした時、中から声が聞こえた。
『本当に金持ってんのか?』
倉田くんの手が止まる。不穏な言葉が聞こえた。店内で何か問題が起きているようだ。
『お金ならあります!!』
『それなら今すぐ払ってくれないか?』
『い、いまはちょっと……』
どうやら代金の支払いについてもめているらしい。
「この声、聞き覚えがあるんだけど……」
レイラさんが言ったことに倉田くんも同意する。その声は、同じ矢羽田研究室に所属する日奈子ちゃんの声だった。
「日奈子ちゃんの声ですね」
店内での日奈子ちゃんと店長の言い争いを外で聞いていると、だいたい話がついたようだ。
『もうこんな店いられません!私は帰ります!』
『金を払ってから帰れっていってんだろうがあああああああああああ』
店長が声を荒げる。なんとなく倉田くんは店の入り口で止まってしまったままだ。誰だってこんな状況のお店に入りたくない。
「ったく、あいつは何をやらかしたんだよ。行くぞ、お前ら」
そう言って矢羽田教授は店のなかにずかずかと入っていく。レイアさんと倉田くんも恐る恐るそのあとに続く。
中では店長とおぼしき男性に土下座している日奈子ちゃんがいた。
「日奈子!どうしたの⁉」
「何しているんですか」
「……お、おう」
三人ともまさか知り合いが土下座している姿を見ることになるとは思っていなかった。日奈子ちゃんにドン引きしている三人に気付いた彼女はぱあっと顔を明るくする。
「どうやら形勢は逆転したようす。私の仲間が来たからにはもうあなたには負けません!」
「負けるも何もこっちは食ったぶんのお代をもらいたいだけなんだが……」
「お金なら――ここにあります!」
そう言ってシュビッっと矢羽田教授を指さす日奈子ちゃん。
「おいおい、俺は財布扱いかよ」
自分のところの学生に財布扱いされる教授。ふつうなら怒るところだろうが、矢羽田教授は男だった。財布を取り出す。
「まあ、悪い気はしないがな!!」
「かっこいいです!教授!!」
払ってあげる気満々だ。財布扱いされていることで自分のグレードが上がったような気がして喜んでいるのだ。貧乏生活が長すぎた弊害である。
店内のテーブルには食べ終わった皿がたくさん並んでいた。ぜんぶきれいに平らげてある。
「もしかして僕らが来るまでずっと一人で食べていたんですか?」
「ふふん、倉田くん知っていますか?待ち合わせ時間に行ったら解散するまでしかごはんを食べられませんが、待ち合わせ時間よりも前に行けばその分たくさん食べられるんですよ」
確実に間違っている知識だった。日奈子ちゃんはお腹いっぱい食べられたようで満足そうな顔をしている。
「日奈子、お腹タプタプだよ」
「一週間分は食べられました。あ、ちょ、突っつかないでください。レイア」
CLOSED
倉田くんたちが来たので店長は店を閉めた。もともとそのつもりだったらしく、今回のことにかなり力を入れるつもりみたいだ。矢羽田教授が日奈子ちゃんが飲み食いした分のお金を支払ってから話が始まった。
「今回はうちのお店にご来店いただきありがとうございます。店長の原西と申します。それでさっそくお話を伺いたいんですが、私は何をすればいいんでしょうか?電話で話を聞かせてもらっただけではまだ何ともいえないんですが……」
こわもての店長だが口調はとても丁寧なものだ。矢羽田教授はここ、『うますぎる料理店』の店長、原西さんに事前に電話をかけてアポイントを取りはした。取りはしたものの原西さんは矢羽田教授の言っていることの内容が良くわかっていなかった。難しい言葉がたくさん並べられていて理解はできなかったが、新メニューを作る手伝いができるというところに強く惹かれたので原西さんは矢羽田教授とこうして話す機会を作ったというわけだ。
「オリンピックが始まれば世界中から観光客が日本に来ます。しかし、イスラム教徒には宗教上の理由で食べられない食品があります。その食品を取り除いたイスラム教徒でも食べられる料理を作ってもらうことで、イスラム教徒のお客さんを獲得しやすくなるはずです。今回はそういった料理を作っていくうえでのサポートをさせてもらいに来ました。何なら食べても平気で何を食べてはいけないのか。そのあたりの詳しい話はイスラム教徒の彼女から訊いてください」
そういって矢羽田教授はレイアさんにバトンタッチした。
「はじめまして。イスラム教徒の私から説明させてもらいます。まずハラールについてどれくらい知っていますか」
「ハラール?」
原西店長はハラールという単語を初めて聞いた。
「ハラールというのはイスラム教徒が食べていいとみなされている食べ物のことです。逆にハラームと呼ばれるものを私たちは食べることができません。そして禁止されているのは基本的には豚とお酒だけです」
「それだけですか?」
原西店長は驚く。意外と制約がすくない。ベジタリアンの方がよっぽど食べられないものがおおい。お店で出しているメニューもほとんどが大丈夫だろう。
「それなら牛肉ハンバーグはどうでしょうか?」
みんな大好きハンバーグを新しい形で売ることができるというのは魅力的だ。
ソースもワインを使わないソースを使えば問題ないだろう。
「それはダメです」
そう言って指でバッテンを作るレイアさん。すこしだけ申し訳なさそうだ。
「ハンバーグはダメなんですか?」
「いえ、ハンバーグ自体には問題ありません。しかし、それに使う牛肉にもんだいがあります。決められた方法で血抜きをされていない動物の肉はハラーム、つまりイスラム教徒が食べてはいけないんです。一応イスラム教徒が食べられるハラールな肉を購入することは可能ですが、日本ではふつうの肉と比べてかなり高いので……」
イスラム教徒が多数を占める国では決められた手順でしか動物を殺さないので、どの肉もハラールだったりする。(もちろん豚肉は除く)しかし、日本のようにイスラム教徒がほとんどいない国では、特別な手順を挟む必要がある分値段が上がってしまう。
「そういうことならメニューに入れるのは厳しいですね」
材料費にかなりのコストがかかってしまう。他のお客が手を出せない値段になってしまえば、売れなかったときに大損だ。そもそも値段が高くなりすぎてターゲットにしているイスラム教徒のお客にすら買ってもらえなくなる可能性もある。
「やはりそうですよね。実現可能なのは肉ナシの料理になるのではないかと思います」
これではどんな落とし穴がどこにあるかわからない。実際に料理を作りながら指摘してもらう方が早そうに思える。
「まさか、作る方法まで決められているとは……。それじゃあ、大丈夫そうな料理を何種類か作ってみるのでいっしょに厨房に来てもらえませんか。何か問題があったらその都度教えてください」
「わかりました」
そういって立ち上がろうとするレイアさんは自分が立てないことに気付く。自分の膝に頭をのせて日奈子ちゃんが眠っていたからだ。食べるだけ食べて寝てしまうなんてまるで猫みたいである。
「それじゃあ、行ってきますね」
レイアさんは日奈子ちゃんを起こさないようにゆっくりと彼女の頭を自分の膝から降ろす。そして原西店長といっしょに厨房の方へ行った。
2時間ほどたっただろうか。日奈子ちゃんが起きた。起きるなり彼女は言う。
「おいしそうな匂いがします」
さっき食べたばっかりでも彼女には関係ないらしい。厨房から料理が何種類か運ばれてきた。レイアさん監修のハラールメニューだ。
「味見をお願いします」
原西店長がそう言う。いくら新しい顧客を獲得するために作った料理だとしてもそれを商品としてだす以上、おいしくなければ意味がない。三人は思い思いに口に運ぶ。
「あ、これはうまいな」
「こっちのは微妙じゃないですか?」
「……」
感想を言う倉田君に矢羽田教授。もくもくと食べる日奈子ちゃん。いくつか食べていくうちに彼らはあることに気付いた。
「なんか全体的に味が薄いな」
「ええ、もう少し濃くしてもいい気がするんですが……」
「味が薄いというより何かが足りないって感じだと思う」
おいしいことはおいしいのだが何かが足りない。そんな料理が多かった。
「実はつかえない調味料が想っていた以上に多くて……」
原西店長は嘆く。普段使っている便利な調味料に豚由来の成分が混じっているために使えないものが多かった。うっかりいれようとしたところを何度もレイアさんに止められたのだ。使える調味料だけでいつもの味を再現しようと試みはしたもののやはり難しいものがあった。
「まずくはないですよね」
倉田くんが落ち込む店長をフォローする。
「え、ええ、少し物足りないだけです」
日奈子ちゃんが余計な一言を言う。原西店長はますます落ち込む。しかし、実際その通りなのだ。文字通り調味料が足りていない以上、どうしようもない。
「まて、このカレーはふつうにうまいぞ。肉が入ってないけど」
肉類を入れずに作ったベジタブルカレーだ。矢羽田教授がカレーをぱくつく。
「あ、ほんとだ。おいしい。レイアも食べてみなよ」
日奈子ちゃんはそう言ってスプーンをレイアさんにあーんをしようとする。しかし、レイアさんは食べようとせずに苦笑するだけだ。
「ごめん。普段ふつうの料理に使っている鍋で作ったものはちょっと……」
「そっかあ、残念」
調味料に入っているだけでだめなのだから当然といえば当然の話だ。洗えばいいだろといってしまうのもさすがに配慮にかけるだろう。
「いや~好評でよかったです。カレーなら肉を使っていないヘルシーカレーとして一般のお客さんにも出せそうですし、なんとかなりそうです」
普段からオリジナルのカレー粉をブレンドしたものを使っていたため動物性の油分が入っていなかった。あとは料理の工程でほかの料理と混ざってしまったりしないように専用の鍋を用意し、専用のスペースを設ければ実用化できそうだ。
「もうすこし味の研究をしてみますのでまた食べにいらしてください」
これからさらに味を改良しておいしくするのだろう。ふつうのカレーの劣化品ではいけない。作るからには自分のできる最高の料理をお客さんに食べてほしい。それが原西店長のポリシーだ。
「その時は、ぜひうかがわせてもらいます。それでは今日はこの辺で失礼させていただきます」
帰ろうとする彼らに向かって原西店長が思い出したように一言だけ付け加えた。
「嬢ちゃん。あんなにうまそうにガンガン食ってくれたのは久しぶりだった。また、来いよ」
金はちゃんと持ってこいよ、なんて笑いながら言う原西店長。
「ふふ、次に来た時には全メニューを平らげてあげます」
「なら、速いとこ新しいメニュー考えなきゃな」
原西店長はこわもての顔をくしゃっとさせて笑う。新メニュー完成とまではいかなかったものの確かな手ごたえを得ることに成功した。
三人はレイアさんと別れ研究室に戻った。倉田くんは今日の出来事を振り返る。
「今回は大きな成果を得られましたね」
日奈子ちゃんはお腹をさすりながら答える。
「はい、お腹いっぱいです」
「ああ、あのカレーすげぇうまかったな」
矢羽田教授も日奈子ちゃんと同じ意見のようだ。
「いや、料理もおいしかったですけど、仕事の方ですよ」
そもそも本来の目的は料理を食べることではなくオリンピック用のサイトを作ることだ。サイトの内容を充実させるための取材の一環にすぎない。
「まだまだ成果は出てないぞ。これから何度もあの店に通う必要がある」
「まだすべてのメニューを食べていないので私もいきたいです!」
「そんなことにお金使っていて大丈夫なんですか?」
倉田くんが心配しているのはほかのお店を回るときに予算が尽きてしまうことだ。イスラム教徒の方が安心して食べられるお店のリストを作ってサイトに掲載するという目的がある以上、『うますぎる料理店』ばかりに行っているわけにはいかない。
「”そんなこと”じゃないんだ。ハラールの食事を出しているからと言ってそれが本当にハラールの基準を満たしているかどうかは食べるほうにはわからない。だから、俺たちのサイトに確認したものとして載せるわけだが、そこに載せていたお店にハラールを守っていないものが掲載されていたら、どうなると思う?」
「サイトが炎上しちゃいますね」
「炎上で済めばいいが、最悪首が飛ぶだろうな、物理的に」
「そこまでですか?」
「彼らにとってはそれだけ大事なことなんだ。シビアなネタを取り扱う以上、きちんとモラルを持ってやらないとダメだ。だから本当に信用できる人間か、俺たちには見極める義務がある」
けっして何度もご飯を食べにいきたいだけではない。信用できない人間の店を紹介して後で問題になれば紹介したこちらも被害を受ける。とても大事なことなのだ。
「あ、教授。つぎはこのお店に行ってみましょうよ。とってもおいしいパフェがあるみたいです」
日奈子ちゃんが楽しそうに雑誌を矢羽田教授に見せる。
「お、どこの店だ見せてみろ」
けっしてご飯を食べにいきたいだけではない……はず。
倉田くんは大学での仕事を終えてなんとなく構内のベンチに座って星を見ていた。春とはいえ、夜なのですこし肌寒いが、酒が体を温めてくれる。こうやって酒を飲みなら星を見るのが倉田くんは好きだった。
「倉田くん?」
たまたま通りかかったレイアさんが倉田くんに話しかける。
「こんばんわ。レイアさんも飲みますか?」
「お酒はちょっと……」
そう言って倉田くんの隣に座る。イスラム教徒はお酒も禁止されているのだ。彼女は鞄からオレンジジュースを取りだして飲み始める。
「この前はすみません。ほとんどレイアさんにやらせてしまって」
「いいんだよ。私も楽しかったから」
レイアさんも星を見ている。会話がつづかない。それでも不思議といやな感じではない。三人掛けのベンチの端と端に座り、二人は無言で夜空を見上げる。
「実は僕、科学者になりたかったんです」
倉田くんは唐突にそう言った。自分でもなぜそんなことを急にいったのかよくわからない。
「夢がかなってよかったね」
「本当に叶ったんでしょうか。子供のころに自分が想っていた科学者といまの自分がぜんぜん違う気がするんです。もっと何かべつのものを夢見ていた気がして……すいません。変なこと話しちゃいましたね。忘れてください」
こんなこと人に話すことじゃない、と倉田くんは思いなおす。自分が思っている以上に酔いが回っているようだ。
「変じゃない」
しかし、レイアさんはその言葉を否定した。
「私はもっとその話を聞きたい」
倉田くんをまっすぐにみる彼女の瞳はとてもきれいな色をしていた。
「僕のことなんて何も面白くないですよ。僕はつまらない男ですからね」
「そうかな。自分のことをひとに説明できるのってすごく大事なことだと思う。それに私は君がどんなふうに考えて何を思っているのか知りたい」
倉田くんは何も言えない。自分の考えていることをうまく言葉にできなかった。自分が長年なんとなく感じていた違和感をポロっと口にしてしまっただけで、もともと深い意味はないのかもしれない。
「日奈子ちゃんと初めて会ったときはどういう感じでしたか?」
「なんで話をそらしたの?」
不思議そうにそう言うレイアさん。それに対しておちゃらけて倉田くんは答える。
「酒を飲んでいる人とまともな会話のキャッチボールができると思わないでください」
「ずるいよ、それは」
倉田くんは逃げた。問題に向き合うのも大事だが、ときに問題を見なかったことにするのもまた大事なことだ。それがいつまでたっても問題の答えが得られない理由なのだが、同時に仕方のないことでもある。
「私も……」
レイアさんも何かを言おうとするが、うまく言葉にできないのか詰まる。それでもゆっくりとゆっくりとではあるが言葉を紡いでいく。
「私もどうすればいいのか。自分が何になればいいのかわからなくなるの。小さいころに思い描いていた、あこがれていたものとは今の自分と何かが違っている気がして……。だからうらやましくなったの」
「うらやましく?」
いったい何をうらやましく思ったというのか。
「この前4人でいったお店の原西さんが言ってたの。自分の料理をおいしいって
言ってくれる人を一人でも増やしたいって。そのためならどんなことでもしたいって。自分のしたいことをしっかりわかっていて、それでいて目的のためにどうすればいいのかも見えている。それがうらやましかった」
自分が何をやっていてどこに向かっているのかがわからない。それでも日々をこなしていくしかない。先が見えない道をあるくのはとてもつらい。
「卒業したあとの進路は決まっていないんですか?」
「私は卒業したら国に帰るつもりよ。そして向こうに行けば日本での経験はきっと役に立つ」
「そこまでわかっているなら何も心配することは無いんじゃないですか?」
「ううん。自分のやったことに意味がないって思いたくないだけなの。たしかに価値があることなんだって自分に言い聞かせているだけ。そうしないと不安でどうしようもなくなるから」
だんだんと声がふるえ、小さくなっていく。最後には消えそうなくらいの声でこういった。
「異国の地で独りぼっちだよ。女の子なのに」
その表情はとても儚げだ。守ってあげたい、倉田くんはそう思った。
「一人じゃない。君の研究室の人だってみんな君をきっと仲間だと思っている。他にも日奈子ちゃんがいる。それに……僕がいる」
レイアさんは目をまるくしたあとすこし頬を赤らめる。なんとなくではあるが、倉田くんの想いをさっしたのだ。
「私のために改宗してくれる?」
「それは……」
一瞬言葉に詰まってしまった。そして倉田くんが言葉をつむぐのをレイアさんはまってはくれなかった。
「それじゃあ、私を口説いちゃダメです」
そういって彼女は指でバッテンを作り、ちょっとだけ笑った。それから二人はいろいろな話をした。星座のこと、日奈子ちゃんのこと、自分の国のこと。確かなのはきっと二人が結ばれることはないということ。それでもその夜の会話が楽しくてしかたがなかったのだ。
本当は彼女のためなら改宗してもいいかな、なんて思った倉田くんだが、結局言う事はなかった。きっと美人な彼女にうまいことあしらわれただけなのだから。
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