仕事始め

翌朝、少し早目に目が覚めた波留子は仙を起こさぬようソッとベッドを抜け出し、ガウンを羽織って朝食の用意をした。冷蔵庫にあったもので味噌汁と卵焼き、鮭の粕漬けを焼いてキュウリの浅漬けを作ってテーブルに並べた。どうにかこうにか自身で簡単な調理が出来るようになり、波留子は少し嬉しかった。

寝室へ行くと未だ眠っている仙の鼻をつまんで、

「おはよう仙。」

眠そうに目を開けた仙は波留子を押し倒すと何度もキス攻めにした。ようやく解放された波留子が朝食の用意が出来ている事を告げると、驚いた仙はベッドを飛び出しダイニングへ走って行き、戻って来ると波留子を抱いてまたキス攻めにした。

「ハルどうしよう。俺嬉しくて、なんか元気になって来ちゃった。」

「ダメ!今朝は重役会議で早出でしょ。お仕事が最優先ですよ。」

波留子は慎の部屋へ行き朝食が出来ていると声を掛けると寝室へ戻って着替えを始めた。ゆったりした物なら一人で着替えられるようになって来ていたので仙の手をわずらわせる事が減ったことも嬉しかった。

三人揃って波留子の用意した朝食を食べるのはこの時が初めてだった。

「美味しい。朝の味噌汁って憧れだったんだ。やっぱり母が居るってこう言う事なんだねえ。」

慎がしみじみと口にすると仙が、

「何言ってる。ちゃんと味噌汁食わせてやってたじゃないか。」

「はい、インスタントのやつ。」

「仕方ないよ、仙は仕事もしながらだったんだから。でも、本当に普通が一番だね。怪我してつくづく思った。」

「うん。ハルコ、ご飯お代わり。」

「はい。育ち盛りだもんね、いっぱい食べて。」

「慎、お代わりは自分でよそえよ。波留子が大変だろ。」

「あゝ、ごめんハルコ。自分でやるよ。」

「大丈夫だよ、もう立ってるし。仙は、お代わり要る?」

「うん、じゃあ少し。」

「はい。」

「なんだよ、自分だってハルコによそって貰うんじゃん。」

「二人とも何言ってんの。はい、どうぞ。味噌汁も良ければ未だあるよ。」

「あ、じゃあそれは自分でやるよ。仙は味噌汁のお代わり要る。」

慎が自分と仙のお椀に味噌汁を注いで席に戻り、また猛然もうぜんと食べ始めるのを見て波留子はまた嬉しそうに微笑んだ。

「いいなあ、その笑顔。」

仙がニヤけた顔でそう言うと慎が横で、

「さっさと食べないと遅れるよ。」

とクギを刺す。波留子が用意しておいた湯でお茶を淹れ仙はそれを美味しそうに飲み干すと慌ただしく歯磨きをして行って来ますと波留子にキスして飛び出して行った。気をつけてね、と追い掛ける波留子の声に、閉じたドアの向こうから返事が聞こえて来た。

「仙たら。誰かの為に食事の用意をするってなんだか楽しいね。今朝は身体の痛みより楽しくて、嬉しくて仕方なかった。」

「ふうん、そう言うもんかな。」

「うん、そう言うもんだった。」

そう言って慎と笑い合いながら食べ終わった食器の片付けを始めると、慎が片付けをするから、と言ってくれたので波留子は二人分のカフェオレを作ってバルコニーに出た。洗い物と片付けを終えた慎も後からバルコニーに出て来て、

「気持ち良いね。」

と景色を一緒に楽しんだ。

昼過ぎ、仙から電話が入った。

「もしもし。」

「仙、どうしたの。今昼休みでしょ。」

と波留子が尋ねるとそうだと答え、今日役員会と部下達へ発表したのだが、結果部の男性社員達からブーイングを受け口をきいて貰えないと言うのだった。

「ハル、どうしよう。まさかこんなに非難を浴びるとは思わなかった。参った。」

「だからもう少し黙ってましょう、って言ったでしょ。言う事聞かないんだから。」

「ハル、それでね、男性社員達に波留子に直に確認したいって言われて、無理だって言ったんだけど納得して貰えなくて、‥どうしたらいいだろう。」

「はあ。分かった。じゃあ、夕方終業間際に会社へ行って私から話すよ。」

「…ごめん。」

「うん、いいよ。でも仙、部下を統率とうそつするのは貴方の仕事でしょ。今回だけだからね。」

「ごめん。後悔してる?」

「してないよ。愛してる、しっかりね。」

「ハル、俺も愛してるよ。じゃあ後で、待ってるから。」

電話を切って溜息を吐いていると慎が部屋から出て来た。

「どうしたの、溜息なんか吐いて。」

「うん⁉︎ ああ、今仙から電話で部下の人達から私達の突然の結婚発表に納得がいかないって苦情が出て仕事に支障をきたしてるって。夕方、私から皆んなに話す事になったんでまた会社行かなきゃならないの。マコちゃん一緒に行ってくれる。」

「ハルコの予感的中って訳だ。行くよ。未だ満足に動けない母を一人で行かせるような事、俺がする訳ないでしょ。」

「良かった。実は一人じゃ不安だったんだ。本当にマコちゃんは優しい子ね、有難う。」

終業間際の午後四時四十分、波留子と慎はタクシーで会社前に到着した。既に松葉杖をこの日の朝病院へ行った際に返していた波留子は慎に支えられ玄関前の階段を上がった。身分証カードを首から下げ真っ直ぐエレベーターに向かいオフィスへ上がって行った。秘書室へは入らず直接オフィスへと向かい、入口に立つと大きな声で挨拶した。

「企画宣伝部の皆さん、遅ればせながらですが、明けましておめでとうございます。会社復帰は来週からですが、本年もどうか宜しくお願いいたします。」

そう言うと波留子は未だ不自由な身体で深々と頭を下げた。すると聞いていた社員達が波留子の元へと集まり口々に挨拶をしたり、彼女の体調を尋ねたりした。一頻ひとわたり挨拶が済むと部の男性社員から今朝部長がハルさんと入籍したと発表したがそれは本当の事なのか、との質問が出た。波留子はその社員を見て頷くと、元々この会社とは全く関係のない所で仙部長とは知り合っていて離婚して間もない波留子が就職先を探していると知った部長がそれなら資格もある事だし、と丁度秘書の佐野さんから退職願を受け取った直後だった事から秘書の仕事をしてみないかと誘われ入社したのだと告げた。あんな事件にった事で部長が責任を感じ彼是あれこれと骨折りしてくれた事や慎君まで一緒になって面倒を見てくれた事で心が通じ合うようになって行ったのだと話した。これまで自身の事を語ってこなかった波留子が自分は娘を二人持つ母親で昨年八月に離婚した事、一人で心細い時に仙が助けになってくれた事、慎が波留子をしたってくれた事などから仙のプロポーズを承諾したのだと話した。怪我をして不自由な状態になって初めて仙や慎の深い愛情を感じ一緒に暮らすということの大切さを知り新しい年の始めに婚姻届を出す事にしたのだ、と。

波留子が話している間に女子社員から報せを受けた仙もやって来て波留子の後ろに立っていた。後ろから波留子のひじに手を差し伸べると波留子が仙の手を握り、

「私と部長は確かに入籍しました。でも会社では今まで通り部長と秘書である事に変わりありませんし、会社ではこのまま小林波留子として勤務させて頂きます。その方が皆さんも私自身もお互い付き合い易いでしょ。それと、皆さんと私とのお喋りはあくまでも小林波留子としてのお喋りなので部長の耳には入りません。」

「じゃあ小林波留子として飲みに誘ったりお昼に誘っても構わないって事ですか。」

「はい。空いていればお付き合いしますよ、勿論。それはお互い納得してますから、ね。」

「え、あ、うん。」

急に話を振られた仙が慌てて返事をする。

「だ、そうですからご心配なく。」

「ハルさん、部長よりイイと思える人がいたら部長と別れる?」

「あのね、入籍して今日で五日目よ。私は彼、九龍 仙を愛してます。」

そう言うと仙の顔を見た。仙はそんな波留子を抱きしめその頬にキスをした。きゃっ、と女子社員から声が上がる一方、ああっ、と男性社員の嘆き声も上がり部内はちょっとの間騒ざわついた。

そんな騒ぎを鎮めるように波留子が、

「はい、見せ場は終わり。来週職場復帰したら今まで通りと言う事で宜しくお願いします。」

そう言って再び頭を下げる彼女を見て仙や慎まで頭を下げたので社員の方が恐縮してしまった。

「分かりましたよ、三人共頭を上げて下さい。なんか部長に抜け駆けされた感はいなめないけどとりあえずハルさんが幸せそうなので俺達は認めますよ。でもハルさん、部長が嫌になったら我慢しないで俺達に直ぐ教えて下さい。」

「うん、覚えておきます。有難う皆んな、認めてくれて。じゃあ来週から宜しくお願いします。」

波留子のその一言をしおに社員達は個々のデスクへと戻り仕事の残りを片付け始めた。波留子と慎は仙の後に従い部長室へと入って行ったが、さすがに波留子は疲れきった様子で、慎と仙の手を借りてソファーに倒れ込んでしまった。

「ハル、ホントにホントにごめん。」

仙は波留子の足元で頭を下げた。

「うん、もういいよ。皆んなも分かってくれたみたいだし。それより重役会議の方だよ。何か言われたんじゃないの。」

「あゝ、まあ、良く思わない幹部もいるから。」

「何? なんて言われた?」

「前に修弥が総務部長にハルをしたでしょ、あれは俺達の婚姻について知っていたからなんじゃないかってさ。修弥には一言も話してないんだから知るわけないのにさ。けど親父がそれに対して社内でのハルさんの評判や人望を考えれば当然の推薦で邪推するような軽薄な人間に重役は任せられない、って猛抗議してくれてまあそれ以上はもう誰も言わなかったよ。」

「そうか、じゃあ悠介さんに感謝しなくちゃね。」

「あゝ、ホントにね。」

「けど仙、今日は爺さんに助けられ、ハルコに助けられでイイとこ無しだね。」

「確かにそうだな、自分でも不甲斐ないよ。」

「そんな事ないよ。夫婦はパートナー、お互いの不備を埋めるのは当たり前でしょ。私が動けない時におぎなってくれたじゃない。伴侶である仙と息子であるマコちゃんが。二人とも私の家族。家族はお互い補い合うもんだよ。」

「分かったよ、ハルコ。」

「本当に良い息子ね、慎は。」

波留子に優しくハグとキスをされて本当に幸せそうな顔をしている慎に仙も心から喜びを感じていた。

仙の仕事が片付くのを待って三人は揃って部長室を出た。エレベーターで地下駐車場に向かいながら仙が、

「これからは堂々とハルを連れて車に乗れるんだな。」

「帰りだけね。」

「どうして。朝も一緒に来ればいいじゃない。」

「それはダメ。だって私の仕事は上司に快適に、スムーズに仕事をして貰う為のいわばベースを整備しておくのが務めでしょ。だから私は今まで通り朝八時半迄に席に着きたいの、分かる。」

「うん。じゃあ俺が一緒に早く出ればいいんじゃないの。」

「車だと時間が読めないし、もし一緒に車で通勤してて事故とかに巻き込まれたらどっちも遅れて部下の人達や関連の方でも困るでしょ。だから、朝は別々で、私は電車通勤するよ。」

「でもハルコ、足と肩の亀裂骨折が治るまでは仙に送って貰って。未だしっかり動けないのにラッシュでまれたらそれこそまた怪我をしかねないからね。」

「あゝそうだった。分かった、じゃあ怪我が完治するまで、運転手、お願いします。」

「了解! 慎、お前偉いぞ、サンキュー。」

仙に礼を言われて慎は苦笑いした。

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