住まい探し


仕事の合間や昼休みを利用して仙の部屋探しが始まった。三日ほど経って仙から就業時間終了間際に呼ばれ部長室へ行くと、

「今日これから部屋見に行くから付き合って。慎がもう直ぐ来るからそしたら三人で出よう。」

「え、でも三人一緒って不味いんじゃ。別々に出た方が良くないですか。」

「何でそんなめんどくさい事しなきゃいけないの。車で行くから地下の駐車場へ直行だよ。そんなに一緒が嫌ならエレベーター別にするけど、必要⁉︎」

「分かりました。それなら結構です。」

波留子を怒らせてしまったかと危惧した仙、

「ハルさん。」

仙は波留子を抱きしめようとしたが、波留子の方が素早く身をかわして、

「いけません。」

とにべもない。悲しげな顔をしている仙を見て、

「ごめんなさい。でも未だ就業時間中です。会社ではあくまでも上司と部下。誰に見られるか分からないでしょ、気をつけないと。」

「そうだよ仙、ハルコが上手く身をかわしてくれたからいいようなもんのそうでなかったら俺がドア開けた瞬間抱き合ってる姿見ることになってたぜ。」

慎がそう言いながらニヤニヤ笑って立っていた。驚いたように慎を見た仙が、

「見てたのか、黙ってるなんて人が悪いな。あんまり嬉しくてつい。ごめんハルさん。」

波留子は黙って笑っていた。

駐車場に下りて行くエレベーターの中で、

「それにしても見つけるの早いね、まさかこんなに早いとは思わなかったよ。ね、ハルコ。」

「うん、自分でもちょっと驚いてるんだ。前にハルさんと話した時に言ってた事思い出したんだ。あゝハルさんこんな感じの所に住んでみたいのかな、って思ったマンションがあってさ。不動産屋に聞いてみたんだ空きがあるかどうか。そしたら眺めのいいフロアに未だ二つ空きがあるって言うから見せてくれって言ったんだ。」

「へえ、ハルコの希望を叶えようって事か。泣けるね仙の努力に。」

「いや努力って程じゃないよ。だって俺自身が住んでみたいって思ってた所でもあるからさ。まさかうちの不動産部には頼めないだろ内緒だから。さあさ、車に乗って。」

そこは隅田川を眼下に見下ろす高層マンションだった。周辺は下町情緒が残っていて散策には事欠かずに済みそうだった。マンションに到着すると担当者と思しき人物が玄関前に立っていた。仙が名前を告げると、

「お待ちしておりました。どうぞ、ご案内します。」

と三人を上階のフロアへ案内した。

「二つ空きがあるというお話でしたけど。」

「はい、眺めが全く異なる場所になりますのでお好みの方をお選び頂けるかと思います。どちらも川は見えますが大分様相が変わりますので、お楽しみ頂けるものと思います。

はい、着きました。先ず此方のお部屋へどうぞ。」

そう言って案内された部屋は、北西方向に窓と西陽が当たりあまり良いとは言えないが大きな窓からは河岸の景色が一望出来るパノラマが楽しめた。キッチンはあまり広くはないが二人で立つ位の広さはあり、部屋はニLDKとなっているが、LD部分がかなり広く取られていてゆったりくつろげるようになっていた。寝室も一つは大きなスペースが取られていて、もう一つは六畳程度の小振りの作りになっていたが、どちらもクローゼットがビルトインされているので部屋はそのまま広く使える様になっていた。

「へえ、良いねえ。景色超良いじゃん。どう、ハルコ。」

興奮気味の慎にそう聞かれ、ただ相槌あいづちだけ打って黙って見ている波留子だった。すると仙が、

「バスルームは、何処ですか。」

「此方になります。広さはまあまあだと思いますが如何でしょうか。」

とドアを開け中に入って手を広げて見せた。

「トイレは。」

と波留子。

「あ、はい隣りのドア、此方です。」

そう言うと急いでトイレの灯りをつけて中を見せた。

➖トイレ狭いなあ、マンションだとこんなもんなのかなあ➖そうは思いつつも今一つ納得出来ずにいる波留子だった。

「もう一つのお部屋を見せて頂けますか。」

波留子が担当者に言った。

「かしこまりました。ではどうぞ、ご案内します。」

「ハルコ、この部屋気に入らなかった?」

慎の問いに未だ分からない、とだけ答える波留子。

「此方のお部屋です。此方は東南方向になります。ではどうぞ!」

そう言ってドアを開け三人を先に中へ入れた。

「此方のお部屋も先程と同じくニLDKですが、此方の方は更に床面積が大きくゆったりした作りになっております。」

確かにLDの広さもキッチンの広さも先程の部屋より見るからに広くなったように感じた。主寝室は前の部屋とあまり変わらないようだったが、もう一つの部屋は広くなっていた。バスルームは同じ位の広さだったが、トイレは此方の方がゆったりしていて何より小さくても窓がある事が波留子には嬉しかった。両方の部屋を隅々すみずみまで見て回ると波留子はバルコニーに出た。

「此処からの眺めも結構良いですね。」そう波留子が言っているのを聞いた仙がバルコニーに出てみると、バルコニーが広めに取られていてガーデンテーブルでも置いたらゆったりお茶が飲めそうだ、と心中考えた。波留子の表情から此方の部屋の方が彼女も気に入ったようだと見当をつけた。

「此処のマンションでは現在空いているのは今見せて頂いた二戸と言う事ですよね。」

仙が確認すると、

「はい、左様です。あともう一軒、別のマンションもございますがそちらはオーナー様が売却を希望されておりますので御希望の賃貸物件ではございません。もし買い手が付かなければ賃貸でも仕方ないと仰ってはいらっしゃいますが。ご覧になられますか。其方そちらは此処より低い建物ですので此方程眺望えんぼうは良いとは言えませんが。でも部屋はかなりの広さがございます。南方向ですので陽当たりは問題ありません。購入を検討されていらっしゃるのでしたらお薦めしたい物件ですが、残念ですね。」

「あのう、賃貸か購入かを別にして、通勤の事や生活面、その他総てを考慮した上で貴方ならどの部屋が一番暮らしをエンジョイ出来ると思われますか。」

そう波留子が尋ねた。

「え、私ですか?私は既婚で未だ小さい子もおりますので保育園の送迎やら妻の買い物やらを考えると場所的には此方のマンションの此方の部屋を選びたいですね。家賃は先程の部屋より此方の方がちょっとお高くはなりますが。」

「そうですか、じゃあ場所は此方の方が駅に近いんですね。」

「はい、地下鉄の駅がすぐ近くにあります。」

「案内して下さい。」

波留子はパキパキと担当者にたたみ掛けて行く。仙と慎は黙って波留子の後に従った。

「へえ、五分、ですかね。近いですね。」

嬉しそうに担当者が波留子を見ている。

「これをまえて、もう一軒の方、売却希望の物件も見せて頂いて宜しいですか。」

波留子にそう言われ担当者は意表を突かれたような表情を一瞬浮かべたが直ぐに笑顔を見せ言った。

「かしこまりました。ではお車でご案内します。」

帰りの事もあるから自分の車で後からいて行くと仙が言い、慎は担当者の車に乗りたいと言うので波留子と仙が後から尾いて行く事になった。

「ハルさん。どう、今見て来た二戸。」

「仙さん、会社外で二人の時はハルでいいよ。それか慎みたいにハルコでも。今のマンションニ軒目は全体に広めに出来ててバルコニーも広くて良かった。でもかなり家賃が高かったでしょ。それに担当者が嘘ついてる様な気がするんだ。」

「嘘⁉︎ どんな嘘。」

「自分なら高くても利便性を考えたらさっきのマンションを選ぶって言ったでしょ。その時目が動いたの。だからもう一軒を見せてって言ったの。私の勘違いか覚え違いかもしれないけど確かめないと気が済まなくて。ごめんなさい、あっちこっち引っ張り回しちゃって。」

波留子の言葉に仙は驚いた。あの会話の最中に相手の表情や目の動きまで見ていた事に。そしてその意味を確かめる為にカマをかけた事に波留子のそつのなさを垣間かいま見た気がした。

「うん?仙さん驚いた。駄目だよ、これ位で驚いてちゃ。三ヶ月保たないよ。」

「ハル‥さん、やっぱり急には難しいや名前。ハルさんこそ俺のことは仙でいいよ。それにしても嬉しい驚きだよ!凄いね、尊敬しちゃうな。」

「分かってるの仙さ…、仙がもし私に嘘ついても私には通用しないって事だよ。私は貴方に隠し事するかもしれない、けど仙は出来ないんだよ。」

「ハルさんがもし俺に嘘を吐くとしたらそれは俺の為にそうしなくちゃならないとハルさんが思うから。俺はハルさんに嘘なんて言わないよ、嘘つく必要なんてないもの。」

「分からないよ、何が起きるか分からない。だから 一寸先は闇って言うんじゃないの。」

「ハルさん、本当は俺が嫌い?」

「なんで?」

「意地悪な事言うからさ。」

「えっ、あっ、やだ私ったら、またやっちゃった。怒った?ホントにごめん、私の悪いくせ。始めると相手をやり込めたくなっちゃうんだ。なんせ私Sなもんで、ごめんね。」

しょんぼりした波留子を見て仙はこらえきれずに吹き出すと、

「プフッ、うん。嫌われてないならいいよ。」

と言った。

「仙‥騙したの。」

仙の左手を取り自分の方へ近づけるとてのひらに優しくキスを繰り返しした波留子。

「わあ、何やってるの駄目だよ、舞い上がっちゃう。嬉しいけど嬉し過ぎて事故っちゃうよ。どうせなら車降りてからしてよ。」

「あら、失礼しました。」

掴んでいた手をサッと放し、舌を出して揶揄うように笑う波留子だった。丁度その時、前を行く車が駐車ランプを点灯しスピードを落としたのでそれにならって駐車場に入って駐車した。

車を降りて慎と合流すると担当者にいてマンションに入って行った。

「確かにこっちの方がちょっと低いけど、でもこっちの建物の方がエントランスなんかはしっかりしてそうでそれ程悪くないんじゃない。」

小声で波留子が二人につぶやいた。二人とも同意するように頷きながら歩いて行く。エレベーターで上がって行きながら担当者から此処の部屋は最上階になる旨聞かされた。エレベーターを降りて廊下を歩きながら波留子が尋ねた。

「此方のマンションはワンフロアに戸数は何戸入ってるんですか。一戸辺りの占有面積本当に広そうですね。」

「はい、最上階は四戸のみで各部屋とも床面積は下階したの三倍以上の広さになっております。着きました、どうぞお入りください。」そう言われ中へ入ると先程のマンションより天井は高く広々と感じられるリビングが広がっていた。キッチンはアイランド式のオープンキッチンになっていて全体的に広く明るい感じがした。寝室もかなり広くてキングサイズのベッドかシングルを二台入れても未だゆとりがありそうだった。加えてウオークインクローゼットまである事に波留子は驚いた。もう一つの寝室もかなりの広さがあった。バスルームもマンションにしてはかなり広々としていてトイレもゆったりしていて申し分ない気がした。L字型のバルコニーも広くて大きくゆったりしている。眺めについても先程のような広がりには幾分欠けるが川の景色も十分楽しめて悪くはないと思われた。

「どうして此方より向こうをしたんでしょう。家賃は確かに此方の方が広いから高くてもしょうがないでしょうし、多少駅から距離はあったとしても不動産屋なら此方の物件を薦めるのが筋じゃないですかね。」

率直な意見を述べる波留子に担当者の返答は要領を得ない。

「もしかしてあちらのマンションを早く貸し出したい訳がお有りとか。」

と聞かれ慌てる担当者。

「さきほどの説明だとでこっちのマンションは賃貸じゃなくてオーナーが売りたいって言うようなこと仰ってましたよね。誰か買おうとしてる人が既にいらっしゃるんですか。」

「あ、はい、いや、私の妻の友人が買おうかどうしようかと迷ってまして、正直私としては宙ぶらりんにされている状態が続いているので借りて頂ける方がいらっしゃったらその方が有難いんです。でもオーナーさんも売却したがっている事を考えますと無碍むげにも出来ませんので。でももしお借りになられるのでしたら仲介にやぶさかではございません。ただ妻の手前此方からお薦めするわけには行きませんで。お気を悪くされたのでしたら申し訳ない事をいたしました。」

「そう言う事でしたか。では候補三軒で考えさせて頂きます。来週前半にはお返事させて頂きます、宜しいですか。」

仙がテキパキと話を進めると担当者は安堵した様子でお待ちしております、と頭を下げた。担当者とマンション前で別れて車を走らせると仙が直ぐに、

「慎、ネットで三軒全部調べてくれないか。何か裏があると困るから。」

と言った。それに応えるように、

「今調べてる。」

似た者親子に思わず笑ってしまう波留子だった。

この日三人は 途上とじょうのファミレスで夕食を取り波留子を家まで送った。

「へえ、ハルコの家大きいんだね。」

「そう、昔は四人で住んでたからさして大きいとは感じなかったけど、今一人だから掃除が大変。」

「ふうん、そうなんだ。寂しくないの。」

「うん、自分で考えてたほど寂しくない。仕事始めてからは特に疲れて家に帰るとバタンキューだもん。逆に疲れてたら何にもしないで寝られるから楽チン。」

「だって、どうする仙。」

そう揶揄うように尋ねた慎に、仙は幾分苛立いらだちを感じながらも、

「どうするって、疲れてたら今まで通り寝ればいいよ。出来る方が出来ることをやればいいんだから。」

「それそれ、それが曲者くせものなんだよね。私は一度その言葉に乗せられて頑張っちゃって。そしたらどんなに疲れてても自分が動かなきゃいけなくなってて…結果が今の私!だから私頑張らないよ。まあどうせ大して頑張れないしね。最近は肩凝りや腰痛もひどいしね。どんなに外見が若く見えても実際歳は食ってるんだから、歳にはかなわないってこと。」

「ハル、駄目だよそんなこと言っちゃ。約束したじゃない。」

仙に注意されると舌を出して見せた。

「はあい、ごめんなさい。でもこれは卑下したわけじゃなくて事実。受け入れなきゃならない事実だから。」

「うん、分かった。じゃあもう家に入って。」

波留子はそう言う仙の手を引っ張ってドアを開けると慎にウインクして仙を中に入れてドアを閉めた。

「さっきのリクエストにこたえて。車降りてから、って言ってたでしょ。」

そう言うと波留子から仙にキスした。長くも短くも感じられたキスの後、お休みの挨拶をして仙を送り出し、待っていた慎にも手を振って別れた。

「仙、物凄く幸せそうな顔してるよ、顔がトロけそうだよ。」

「あゝ幸せだよ。初めて、彼女の方からキスしてくれたんだ。凄く良かった!」

「そりゃあ経験値が違うでしょ。これからみっちり教えて貰ったら。」

「こいつ、ガキのくせにませた事言ってるんじゃないよ。」

言いながら幸せをみしめている仙だった。

翌朝、波留子がいつも通り八時半少し前にオフィスに入ると既に仙が波留子の席に座って彼女を待っていた。

「おはようございます。何かありましたか。」

そう尋ねる波留子に、

「おはようハルさん。ちょっと急ぎで頼みがあるんだ、部屋に来て貰っていいかな。」

「はい。」

仙の後に尾いて部長室に入ってドアを閉めると仙が来て鍵を掛けた。

「これで大丈夫。」

言うなり波留子を抱き締めて、

「昨日の件で話があるんだけど、その前に、もう一度キスして欲しくて。駄目?」

呆れた顔で仙を見ていたが、クスッと笑うと仙を抱き寄せキスをした。仙の身体を離すと、

「はい、スペシャルサービスはこれで終わり。今回限りですからね!で、昨日の件ってマンションの事。あ、口紅着いてます、落として下さい。一度戻ってコーヒー淹れて来ます。それからでいいですか。」

頷きながらテイッシュで口元を拭う仙。そんな仙を愛おしく感じながら波留子はそっと鍵をはずし秘書室に下がった。➖まだオフィスの方に人は誰も来てないや、良かった。けど用心に越したことはないし、ちゃんとケジメ付けておかないと私の方まで乱れそう➖仙と自分のカップを出しコーヒーマシンでカフェオレを作りトレイに乗せて部長室へ。ドアをノックして失礼しますと声を掛けてから部屋に入った。

「後十分で始業時間ですよ。どうだったんですか、何か分かりましたか。」

「うん、最初に見に行った方は二軒とも同じオーナーだった。どうもオーナーが事業で穴を開けたらしくて資金繰りが上手く行ってないらしいんだ。売買交渉の方が有利に運ぶかもしれない。三軒目の方は確かに賃貸じゃなく売却希望なんだよ。もし売却が無理なら賃貸でも応じるとは言ってたけど本音は売却。こっちのオーナーは海外へ移住するらしくて財産整理をしたいらしいんだ。だから売却価格の方は賃貸料に比べると低めなんだ。どうも知り合いが買いたがってるんじゃなくて昨日の彼の奥さんが狙ってるみたいで足元みて更に値を下げさせようとしてるようなんだ。ハルさんは三軒目が良かったんでしょ。」

「そうですね。でも訳ありって事故物件じゃない事が分かって良かった。後はお任せします。」

「分かった。じゃあ俺に任せて。」

仙の言葉に頷いて見せると波留子は咳払いをして、

「では、本日のスケジュールを申し上げて宜しいでしょうか。」

仕事開始である。

木曜日、朝いつも通り出社した仙にカフェオレを持って部屋へ入って行くと、

「明日の夜、食事に行かない。残念ながら慎も一緒なんだけど。」

「あら、残念なんかじゃないですよ。私マコちゃん大好きですもん。一緒の方が嬉しい。時間と場所は?」

「なんかけるな、ハルさんの言い方。待ち合わせじゃなくて、一緒に行こう、例の屋台に。」

「えゝ、彼処へ行くの、嬉しい。」

「良かった、喜んで貰えて。でも飲み過ぎには注意、だよ。」

そう話している仙の言葉を聞きながらチラッと腕時計に目をやった波留子は仙の脇へ素早く近ずくと、彼の顎を持ち上げキスをした。

「‥」

仙は立ち上がって波留子を抱き締めるとキスを返した。

「ハル。」

仙が唇を離した途端、にっこり笑うとまた素早く離れて何事もなかったかのようにスケジュールを読み上げる波留子。最後に、

「口紅、着いてますよ。では、失礼します。」

ドアを開けながら振り返った波留子は、

「仙部長、後ニ日で週末です。頑張って働いて下さい。」

そう言ってウインクを投げるとドアを閉めた。デスクに座ったままなか呆気あっけに取られていた仙は、後ニ日で、と言われた言葉に気を引き締めた。そう、後ニ日、明日の夜は一緒に出掛けられる。

翌日の午後四時過ぎに早、慎が訪ねて来た。

「Hi, Haruko! How's going?」

「Hi, Mako. Everything is OK. I'm very glad to see you again.」

そう答えて慎とハグを交わした。耳元で慎がささやく。

「今日は一段と綺麗。」

うふっと笑って慎の背中をポンポンと叩いて受け流す仕草に慎は大人の女性を感じるのだった。

「どうぞ、お部屋でお待ちください。部長は只今ミーティング中で不在です。もうそろそろ終わる頃ですので。何か飲まれます。」

「ココア有る? 無ければラテでいいよ。」

「はい、では中でお待ち下さいね。」

仙から慎がココアが好きな事を聞いて買い置きしておいた波留子は、ミルクをゆっくり温め砂糖の替りにハチミツを入れてココアパウダーを丁寧に溶かしてココアを作った。➖随分久し振りだなあ、ココアを作るのなんて。娘達が小さい頃はよく作ってあげたっけ➖出来上がったココアを慎の為に買っておいた丸味のあるカップに注ぐといい香りが立って宣伝部の方から数人がやって来た。

「ハルさん、いい香り。ココア美味しそうだね。」

「えゝ、部長の息子さん、慎さんのリクエストで作ったの。みんな飲みたいの。」

三人が手を上げて欲しがった。三人の後ろから、

「私もいいですか?」

と係長まで手を上げていた。

「構いませんけど、そしたら何方か牛乳を、下のコンビニで買って来て頂けますか。いつも一リットルパックを買ってるんですけど四人分作るほど残ってませんから。代金はお支払いします。」

「牛乳位いいですよ、俺買って来ます。」

「じゃあこれと同じ物、お願いします。」

そう言って買い物を頼むとココアを持って部長室に入って行った。

「ごめんね、お待たせしました。ココアの香りいだ人達がココア飲みたがっちゃって。今牛乳買いに行って貰ってるの。はいどうぞ、特製ココアデラックス。」

慎は笑顔でカップを受け取ると、

「可愛いね、このカップ。」

そう言って一口飲んだ。

「あっ!」

と呟くと驚いたようにカップを見つめる。

「うん?どうしたの、お口に合わなかった。」

首を横に振り顏を上げて波留子を見ると、

「なんか凄くなつかしい味がするんだ、涙出そうだよ。ハルコ、最高。これ毎日飲みたい。」

それを聞いて安堵あんどした波留子は、

「此処は喫茶店じゃありません。毎日ココア飲みに来られちゃ迷惑です。あゝそうだ、甘いココアには口直しにこれ、結構イケるんだ。」

そう言ってチーズスナック数枚を乗せた小皿を置いて部屋を出た。丁度牛乳を買って戻って来た社員から牛乳を受け取ると大急ぎで、しかし丁寧に四杯分のココアを作って四人に声を掛けた。オフィスにココアの香りが広がるとまたしても飲みたいと言い出す社員が出てきた。

「今日はもう営業終了しました。飲みたい人は来週月曜日、改めて私の所へリクエストに来て下さい。但し、先着五名様ですからね。今日飲んだ方はご遠慮下さい、しからず。」

「えゝ、次回は駄目なの。このココアめっちゃ美味しい。毎日飲みたいのに。夕方これ飲めたら疲れが吹っ飛びそう。」

➖って冗談じゃない。毎日入れてたら給料なくなっちゃうよ➖思っていたことが読まれたかのように、ココアと牛乳は自分達で代金を持つからまた作ってくれないかとお願いされてしまった。考えておく、とだけ答えて即答をけた波留子。➖顔に出ちゃってたかな。 参ったなあ、なんでこうなるの。唯、娘達に作ってたようにココア作っただけなのに➖と首をかしげていると仙がミーティングを終えて戻って来た。部屋に入るなり、

「あっ、いい香り、ココア入れたの? もしかして慎もう来てる。」

「はい、中でココア飲まれてます。」

「じゃあ、僕にも作ってくれる、ココア。」

苦笑いを浮かべて頷く波留子だった。

仙の為に作ったココアを持って部屋へ入って行くと、いきなり慎が、

「ハルコ、もう一杯。」

とお代わりを要求してきた。

「はい、特製ココアデラックス、どうぞ。マコちゃん、もう今日は勘弁して。さっきマコちゃんにココア作っててその香りで四人が飲みたいって言い出して、仕方ないから作ってあげたらその香りを嗅いだ他の社員さん達まで飲みたがって。今日はもう終わり、って言ったらココアや牛乳の代金払うから毎日作ってくれないかって。私、ココア屋さんに転職しようかしら。」

「ううん、美味い! 気持ちは分かる。このココア美味しいよ。でもハルさんに転職されちゃ俺が困る。皆んなには俺から断るよ。ハルさんは俺の秘書なんだから。」

「はい、お願いします。あ、でも月曜日は作ってあげるって自分で言っちゃったから、先着五人分は作りますよ。」

それを聞いて仙が苦笑するのだった。

仙の仕事が少し長引いて午後六時過ぎ、ようやく出られるようになった。

「玄関にこの前のタクシー呼んだから行こう。」

そう言って仙が二人を連れてエレベーターでロビーに下りて行った。ロビーを横切っている時、真っ赤な口紅の女性が立って波留子達三人を見ているのが波留子の視界のはしに入った。振り向こうとする波留子の肩を抱くように無理矢理直進させながら慎が小声で波留子に、

「見ちゃダメだよ。知らんふりが一番。」

頷いて言われた通り急ぎ足でビルを出る波留子だった。タクシーに乗り込むと慎が、

「やべえ、あれ八尾って人だろ。すんげえ顔してハルコの事見てたよ。ハルコ、もしまともに目合わせてたら石になっちゃってたかもよ。怖かったあ!」

「えっ何?八尾さんがいたのロビーに。」

「仙ってばハルコしか見てないんだから。いい、よおく注意してないとあの人ハルコに何するか分からないよ、気を付けてよ。」

慎にそう脅かされ心配そうに波留子の様子をうかがう仙だったが波留子は何事もなかったかのように運転手に話しかけていた。

「運転手さん、あのおでん屋さん、大当たりでした。親父さんのお喋りも楽しくて勉強になったし、おでんもすごく美味しかった。それにワインがあんなにおでんと合うなんて知らずに損してたな、って思えたくらい。有難うございました。」

「気に入って頂けましたか、そりゃあ紹介した甲斐があったってもんだ。私は下戸げこなもんでおでん食べるだけなんですけどね。時々茶飯ちゃめしもあるから聞いてみてあったら是非食べてみて下さい。細かく刻んだタコだかイカだかが入ってて美味いんだ。」

「へえ、この前はなかったみたい。でも有ったら絶対試してみますね。」

仙は波留子の様子をそっと見ていて彼女が気にしていないようなのでホッとしていた。

「はい、着きましたよ。今夜も美味いおでん食べて楽しんで行って下さい。」

「有難うございます。はいこれ。」

そう言って仙がタクシー代を払い三人揃って屋台へ向かった。

「こんばんは、親父さん。」

「あゝハルさん、来てくれたんだ。おお、今日はイケメン二人も従えて女王様みたいだね。」

「やだ、親父さんたら。此方仙さんの息子さんで慎さん。」

「えゝ、こんな大きな息子さんがいたの、仙さん。あんたホントは幾つなの。こんな立派な息子さんがいるような歳には見えないよ。」

「親父さん、此奴こいつ図体ずうたいは大きいけど未だ十七ですよ。冬休みで日本に帰って来てるんです。」

「初めまして、慎です。親父さんですね、二人のキューピッドって。」

「えっ何、 仙さんハルさんのハート射止めたの。そりゃあめでたいや。慎君はハルさんがお母さんになってもいいんだね。」

「ハルコなら大歓迎ですよ。もう少し自分が大人だったら自分でプロポーズしたい位ですけど。まあハルコには相手にされないでしょうね。俺産んで母が亡くなっちゃったから母親って存在に憧れてたんですよ。優しいのかなあ、とか一緒にいたら楽しいのかなあとか。」

「で、ハルさんは?」

「面白い!楽しいし、歳上のくせに可愛いし。でも締める時はビシッと締めるからカッコいいんだ。予想以上でした。」

「そうかい、そうかい。慎君は見る目があるんだなあ。あんたもいずれイイ女捕まえられるぜ。」

「だとイイですね。」

「さあさあ、今日は何にします。慎君は未成年だからコーラかジュース、烏龍茶もあるよ。で、熱々カップルは今日もワインかな。」

「俺、烏龍茶下さい。」

「私、赤。おじさん、今日茶飯の事聞いたんだけど有る。」

「俺も赤。そうだった、美味しい茶飯があるかもって、有りますか。」

「有るよ。ちゃんと取っておいてやるから心配しなさんな。」

楽しい時間はまたたく間に過ぎていった。

「おじさんご馳走様でした。茶飯、滅茶苦茶美味しかった。毎日でも食べたい。また来ますね。」

「本当に美味しかった。親父さん、俺達正月明けからこの近くで一緒に暮らす事にしたんです。そしたらまた伺いますね、二人で。」

「あゝ、俺も入れてよ。ずるいだろ二人でって。」

「慎、人の恋路を邪魔する者は馬に られて死んじまえ、って言うぞ。せっかくのデート邪魔するなよ。」

「だってどうせまた俺はアメリカに戻っちゃうんだもん。こっちに居る間はハルコと楽しみたいじゃん、ねえハルコ。」

「そうだね、可愛い可愛い。マコちゃん可愛いもんね。」

「ほら、だから居る間は一緒に来るよ。」

「はいはい、分かったから。ハルさんにくっつき過ぎだよお前は。」

「面白い親子だね、ハルさん。」

「うん。でもこの二人と居ると幸せだなって思えるんだ、私。」

「明日のクリスマスイブは三人で過ごすの。」

「えっあ、明日イブだっけ、忘れてた。今年は一人でしんみり過ごしたいからって仙さんからのご招待は断った。主婦やめて何十年振りかでパーテイーの用意しなくて済むんだもん。ゆっくりしたいじゃん。」

「そうか、そう言うのも有りだね。じゃあ、三人さん良いクリスマスを。」

「有難う、おじさんも。」

「Merry Christmas!」三人同時にそう言ってお互いを見て大笑いした。

「おやすみなさい。」

最後に波留子がそう挨拶して別れを告げた。

帰りのタクシーを探しながら慎が波留子に尋ねる。

「ハルコ、ホントに明日一人で過ごすの。寂しくないの。」

「うん、多分。過ごしてみないと分からないけどね。」

「うちに来ればいいのに。食事の支度したくしなくていいし。」

と慎が誘うが波留子は、

「うん、有難う。でも、誰にも気を使いたくないんだ。ただゆっくりくつろいでいたいの。」

「ハルさん、俺も…居ない方が良いのかなあ。」

と仙。

「ごめん、誰の世話もしたくないんだ。」

「そうか、分かった。じゃあクリスマスは会える。」

「教会のミサに付き合う気があるならいいよ。」

「行く、行く。俺行く。」

と答えたのは慎。そして仙は、

「ハルさんクリスチャンだったの。俺は違うけど参列していいなら是非行きたいな。」

「私、クリスチャンじゃないよ。でも、毎年クリスマスのミサには参列してるの。だってクリスマスはイエス・キリストの誕生日でしょ。だからイエスへの祈りは教会が一番かなあと思ってね。」

「へえ、そうなんだ。俺は向こうで月一位でミサに行ってる。特別何って事じゃないけど、なんか気持がなごむよね。それに老人ホームのボランティアに行くとご老人達は信心深い人が多いから教会へ行ってると話も合うしね。」

「マコちゃん偉い。ボランティアの為にそこまでしてるなんて見上げたもんだ。じゃあ明後日あさってはプレゼント用意しなきゃね。仙さん、出来た息子だね。」

「俺も今初めて知った。ちょっと意外な気もしたけど。」

「あらそう、なんで。マコちゃんて凄く人の事考えてるし、人との関わり好きだよね。人間観察好きみたいだからミサに参列してる人を観察してるんじゃないの。」

「ハルコ、‥何で俺が人間観察してる事知ってるの。多分仙も知らない筈なのに。」

「えゝそうなのか、全く知らなかったよ。どうしてハルさんが知ってるの。」

「私はマコちゃん見てただけだよ。マコちゃん見てれば彼の言動から人が好きな事も、人間観察好きな事も判るよ。」

「それ見抜くハルコは全然普通じゃないから。仙、凄い人をパートナーにするんだよ、どうする。」

「大人を揶揄うんじゃありません。でも、そんなに高評価して貰えて嬉しいよ。有難う。あっ、タクシー来た。」

「ハルさん送るよ。」

「はい。有難く、おねがいします。」

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