就活、そして就職

翌日から本腰を入れて職探しを始めた波留子だったが、やはり年齢のせいかパートなら雇うと言ってくれても正社員として雇用してくれるという会社は見つからず、仙にナンパされた日からニ週間以上が経っていた。

「やっぱり正社員は無理かなあ。でもパートじゃ大した保証もないし、給料も時給じゃ安いもんなあ。」

溜息を吐きながら一人愚痴っていた。その時、仙の言葉をふと思い出した波留子は彼の名刺を探した。

「何処やったっけ、何処何処… 有った! あゝ良かった有った。もうこうなったらツテを頼った方が確かだもんね。」

そうは言いつつもナンパされてから既にニ週間以上も連絡せず忘れられているのでは、それにその場限りの社交辞令って事もあるし、疑心暗鬼になる波留子。それでも今はその社交辞令にすがるしかないんだ。名刺の表書きなど名前を確かめただけで会社名も肩書きも目に入らず、仙が言っていた名刺裏の直通番号だけに希望を託して緊張して震える指に力を込めて電話を掛けた。

プルルルルッ、プルルルルッ、コール音に心臓がバクバクして電話を切りたくなる想いを必死に堪える波留子。

「はい、九龍ホールデイングス企画宣伝部部長室でございます。」

「えっ、部長室⁉︎」

改めて名刺の表をよく見てみると仙の肩書きは【企画宣伝部部長】となっていた。

「もしもし?」

電話の向こうの声で我に返った波留子は慌てて、

「あ、あの、恐れ入ります。私 、小林波留子 と申しますが、せ先日お話頂いた件で九龍仙さんにお電話させて頂いたのですが。」

と告げた。

「かしこまりました、少々お待ちください。」

と言い残し保留音が流れ出した電話をきつく握りしめて待つ波留子。頭に血が上ったように顔が火照ほてってくるのを感じていた。

「もしもし、仙です。ハルさん⁉︎ 」

電話の向こうから聞き覚えのある声が聞こえて来てホッと息を吐いた波留子は自分が息を止めていた事にこの時初めて気付いた。

「もしもし、」

重ねて呼び掛けてくる仙の声にやっと少し落ち着きを取り戻した波留子は、

「もしもし仙さん、私、小林波留子です。覚えててくれた、良かった。」安堵の為かしみじみとそう口にした波留子に、

「当たり前でしょう、運命の人だって言ったでしょ。電話くれって言ったのは俺の方なんだから。でもニ週間以上も音沙汰なかったから振られたかと思い始めていたところです。有難う電話くれて。」

まさか覚えていてくれた上に礼を言われるとは思ってもいなかった波留子は何故か目元がうるむのを感じていた。

「飲みに行く話? それとも仕事の話?どちらですか。」

そう尋ねられた波留子は正直に仕事の件で、と告げた。すると仙は、

「分かりました。突然で申し訳ないけど今日これから会社にいらして頂けますか。」

と聞いてきた。

「はい、場所を教えて下さい。」

そして波留子はスーツに着替えると直ぐに家を出た。

家族経営していると聞いていたのでこじんまりした会社を想像していた波留子は見事にその想像を打ち砕かれた。離婚前、夫の仕事の関係で海外での生活が中心だった波留子はたまに日本に帰って来るだけの生活を送ってきていた為世間にうとくて知らずにいたが、九龍ホールデイングスは父悠介がその親から引き継いだ小さな商社から始めて観光業、ホテル業、不動産業と事業を拡大し急成長を成し遂げ今や外食産業にも進出し、飛ぶ鳥も撃ち落とす勢いで成長している大企業なのだった。いざ着いてみるとビルの一角ではなくそのビル全部が会社の建物であると知り、その大きさに圧倒された波留子は場違いな所へ来てしまったと後悔しつつそれでも臆するまいと腹に力を入れてからロビー突き当たりにあるレセプションカウンターへと向かった。

「あの、恐れ入ります。小林と申しますが企画宣伝部の」

「お待ち申し上げておりました、小林様。私、仙部長の秘書をしております佐野と申します。来訪者バッジは此方こちらです。部長がお待ちしておりますので早速ご案内いたします。」

カウンターの前に立っていた女性はそう言うと波留子を促しエレベーターで上階へと上がって行く。案内されるままエレベーターに乗り込んだもののどうしてよいか分からずさっきくくった筈の腹の力も抜け緊張ばかりがつのって来て耳鳴りがしている様な感覚に襲われていた。

何階だろうか、緊張していて階数も分からぬままエレベーターが開くと秘書に促されエレベーターを降りて秘書の後に続いた。廊下を進み企画宣伝部部長室と書かれたドアの前に着くと秘書がドアを開けた。そこは小振りの秘書室のようで脇にデスクが置かれていた。その部屋の奥にまたドアがあり佐野はそのドアをノックして波留子の到着を告げた。するとやや間があって中からドアが開きスーツ姿の仙が其処そこに立っていた。

「やあ、お待ちしてました、すみません突然お呼び立てして。どうぞお入りください。」秘書へ指示を出し波留子に中へ入るよう促す仙はパリッとスーツを着こなし自信に満ちていて先日自分をナンパして来たあの時の男性と同一人物には思えない気がした。

「失礼します。」

軽く会釈して室内に入った波留子の後ろでドアの閉まる音、そして自分の直ぐ後ろから、

「あゝ良かった、本当に来てくれたんですね。」

と仙の声。波留子が振り向くと正面から仙にぶつかりそうになった。

「わっ!」

驚いて飛び退こうとしてバランスを崩した。

「危ない!」

そう言って仙が波留子の腕を引っ張った為思わず波留子は仙の腕の中へ。慌てて体を離す波留子の様子にクスッと笑みを洩らした仙が、

「ハルさん、緊張し過ぎ。深呼吸して!はい吸って、吐いて。もう一度吸って、吐いて、どう落ち着いた⁉︎」

そう言って頷いている波留子を優しくソファーに座らせた。が波留子は直ぐソファーから立ち上がり、

「あ、有難う。私…ごめんなさい、やっぱり仕事の件はいいです。こんなに大きな企業だなんて思ってなくて。折角せっかく呼んで頂いたけど、やっぱり帰ります。」

「待って!」

出て行こうとする波留子の肩を掴んだ仙はそのままもう一度彼女をソファーに座らせた。

「ハルさんどうしたの。相談に来てくれたんでしょ。会社が小さくて危なそうだから帰る、って言うのなら分かるけど、会社が大きいから帰るって言うのは聞いたことないよ、変じゃない。」

仙にそう言われうつむいてしまった波留子。その時、ドアがノックされ秘書が飲み物とサンドイッチを乗せたワゴンを押して来た。

「有難う。佐野さん、後は僕がやるからいいよ。彼女と話があるから暫く電話は取り次がないでくれる。それと後でまた呼ぶかもしれないから宜しくね。」

「はい、承知しました。失礼いたします。」と秘書は出て行った。

ワゴンから紅茶とサンドイッチの皿を波留子の前に置くと仙は横のソファーに腰掛けた。

「ハルさん、さっきも電話で言ったけど本当にずっと連絡がなかったからもしかして名刺捨てられちゃったのかと心配してたんだ。あの時も言ったけど俺本当にハルさんの事運命の人だって思ってて、やっと頼って貰えるんだと喜んでたのにどうして帰るなんて言い出すかなあ。‥ハルさん⁉︎ ねえ俺の事見てよ。」

緊張のあまり目をつぶっていた波留子は仙の呼び掛ける声に気付き、ふうっと長く息を吐くと目を開けて仙の顔を見た。

「ごめんなさい。もう逃げだそうなんてしない。私、あまりにも大企業だったんで付いちゃったみたい。何処の会社へ行ってもずっと断られて来てたから。それにこんな大企業の一家があんな下町でナンパゲームしてるなんて考えられないでしょ。だから何かの間違いか、揶揄からかわれたんじゃないかと思っちゃって…ハアッ。」

波留子が洩らした溜息に仙は波留子の切なさを感じた。

「ごめん、ハルさん。こっちこそ急に呼びつける様な真似まねして驚かせちゃって。電話貰えて嬉しくてつい、少しでも早く会いたかったから。ハルさんの気持ちも考えずに‥ごめん。」

言われて波留子は顔を上げてやっと仙を見た。➖一体私は何を期待して此処まで来たんだろう? もしもこんな大企業の親子と知ってたら来ていただろうか?いやそれよりも連絡しただろうか。大企業の方が仕事の世話は確実にして貰える筈なのに何だってこんなに怖じ気付いてるんだ、情け無い➖自分にかつを入れてから仙にこのニ週間余り就活してきたがやはり年齢の事がネックになって正社員としては何処も雇うとは言ってくれなかった事やパートでなら、と言われ果ては愛人にならないかと言う社長までいた事を話した。

「愛人なんてちゃんちゃら可笑おかしくて本気にはしてないけど、でもパートじゃ福利厚生も大して望めないし、時給じゃ病気や怪我をして休んだら無収入になっちゃうでしょ。下手すりゃもう要らない、って解雇されちゃうんだろうし。だからどんなに小さい会社でもいいから正社員として働かせてくれる会社に入りたくて。年齢制限があっても無視して彼方此方あちこち受けまくったんだけど全滅。」

「ハルさん。」

仙はそっと波留子の手を取ると静かな口調で、

「あのねハルさん。さっき案内してくれた秘書の佐野さんなんだけど、来月親父の、社長の車を担当している運転手をしている彼と結婚するんだ。」

顔を上げ仙を見る波留子に微笑んで仙は話を続ける。

「でね、彼女今月いっぱいで退職するんだ。ハルさんと初めて会ったあの少し前に退職届を貰ってて次の秘書を募集しようと思ってたところだったんだ。でね、ハルさんが仕事を探そうと思ってるって聞いて、ハルさん秘書の資格も持ってるって言ってたでしょ。だからあの晩ハルさんの様子を観させて貰ったんだ。」

「はあ⁉︎」

と言いながら判然はんぜんとしない様子で仙を見ている波留子に、

「それで決めたんだ。ハルさんに、俺の秘書をお願いしようって。」

「‥‥」

絶句したままポカンとした表情で仙を見つめている波留子。

「ハルさん、ねえ聞いてた⁉︎」

「私、えっと…⁉︎」

「だから、俺の秘書の仕事はどうかな。もしも嫌なら仕方ない、諦めて募集するけど。でも折角資格持ってるんだし、ハルさんにやって貰えたら凄く嬉しいんだけどどうかな。返事は今直ぐでなくても構わない。考える時間も必要だろうし。けどもし断るなら早めに連絡くれないと俺は秘書がいなくて困る事になる。」

「あのもし、もしもこの話をお断りしたら別の仕事は貰えないって事⁉︎」

「嫌だなあ、そんな意地悪な事しないよ。仕事の世話するって言ったんだから他の仕事を紹介するよ、俺としては凄く残念だけどさ。」

そう言う仙の横顔を見つめながら、

「分かりました、今晩一晩考えさせて貰います。さっき秘書の方に後で呼ぶかもしれないって言ってたのはそう言う事だったんだ。」

納得した様に頷く波留子。

「話聞いてみたい、呼ぼうか。」

「ええ、でもその前に一息ひといきかせて下さい。」

そう言って紅茶に手を伸ばそうとやんわり仙の手を外す波留子の仕草に仙は微笑んで自分も同じ様にソーサーを片手に取り、もう片方の手をサンドイッチに伸ばした。

「あゝ緊張した。」

そう言ったのは仙だった。

「え、何で貴方が緊張するの?」

「だって、スーツ姿のハルさん別人みたいで、この前とはまた感じが違って綺麗で大人の女性って感じに見えて。なのに緊張して顔硬ばっちゃってるからこっちまで緊張しちゃったよ。」

仙の言葉に波留子は肩の力が抜けて行くのを感じながらクスクス笑い出した。そんな波留子につられる様に仙も笑い出しいつの間にか二人で大笑いしているのだった。

「あゝ緊張し過ぎて何だか急にお腹減ってきた!」

と波留子が言えばサンドイッチを勧めながら仙が、

「こんなんじゃ足りないね。後で何か食べに行こうか。」

と言い出す。

「じゃあ遠慮しないでおごって貰おうかな。」

と言う波留子の言葉に、

「OK!やっぱりハルさんはそうでなくっちゃ。」

と手を叩いて喜ぶ仙は少年の様に可愛く思えた。そして同時にそんな自分の思いに歳を感じずにはいられない事が悲しくもあった。

「佐野さん、来てくれるかな。」

二人でお茶を飲み一息吐いてなごやかな雰囲気になったところで、仙が秘書を呼んだ。

「佐野さん、此方が僕の知り合いで君の後任をお願いしようと思っている小林波留子さん。引き受けて貰えるかどうかは今晩一晩考えて答えを出してくれるそうなんだ。君の方から仕事について彼女に教えて貰えたら彼女も多少の不安解消になるんじゃないかと思うんだけどお願い出来る。」

「あゝ、部長が先日仰おっしゃっていらしたのは小林様の事だったんですね。承知しました。小林様、では具体的な私の仕事を見て頂きたいので秘書室の方へおで願えますか。」

そう言って秘書室の方へと向かう佐野の後を慌てて追いかける波留子だった。

秘書室で佐野から仕事について説明を受けている間にも幾つか電話やファックス、メールなどが届きその都度つど手際てぎわよくそれらを処理して行く佐野に感心しながら波留子は見聞きしていた。気がつくと一時間以上がっていた。あまり長居して仕事の邪魔をしても申し訳ないので、と波留子が礼を述べて部長室へ戻ろうとした時、佐野に、

「あのちょっと、…」

と引き止められた。

部長室へ戻ると仙は自分のデスクでパソコンに向かっていた。波留子がドアをノックし部屋に入って来たのに気付いた仙が、

「ハルさん、これで今日の仕事終わりだからちょっと待ってて。」

言われた波留子はソファーに座り仙の様子を見ていた。暫くして仙がパソコンを閉じ机の上を片付け、

「さあ終わった、お待たせハルさん。」

と其処へ突然ドアが開いて悠介と快斗が揃って入って来た。

「やっぱりハルさん来てたんだ。仙、抜け駆けはなしの筈だろ。」

と快斗。

「何言ってるんだ、今日ハルさんは仕事の事で来たんだよ。遊びに来たわけじゃないんだから連絡する必要ないだろう。」

「とか何とか言って、お前抜け駆けして一人でハルさんと食事にでも行くつもりだったろう。」

と悠介まで仙にからむ。三人のり取りを見ていて笑い出した波留子が、

「いいえ。私、今日此方へ伺った時に想像以上に大きな会社だったので緊張してすっごくお腹空いちゃったんです。さっき紅茶と一緒にサンドイッチを少し頂いたら逆にもっとお腹空いちゃって。そしたら仙さんがしっかりお腹に溜まるもの食べに行こうって誘ってくれて。それに就活の相談に来た、なんて格好悪い事私が知られたくないって言ったから黙っててくれたんですよ。」

波留子のフォローに嬉しそうな表情を浮かべる仙。それに気付いたのか快斗が、

「どんな理由にせよ抜け駆け禁止。ハルさん仕事探してるなら俺に連絡くれたらいいのに。事業を拡大する為にうちの部署、今募集掛けてるんだよ。」

「ハルさん、ハルさんは事務職の仕事がしたいのかな。」

と悠介。

「もしそういう訳じゃないって言うなら我が家で働いて貰えたら有り難いんだけど、どうかな。」

「家政婦、って事ですか。」

「うん、そんなに固く考えるような仕事じゃない。掃除や洗濯はメイドさんがやってくれるから。ハルさんこの前料理は得意だって話してたから食事の世話をお願い出来たら、と思ってね。」

波留子の側に来ていた仙が、

「親父、ハルさんはそういう仕事じゃなくてしっかりした企業に勤めたいんだって。うちで料理番してもらったからって企業に就職するみたいに福利厚生がしっかりしてる訳じゃないだろ。それにそういう食事の世話とかって時間が不規則になるじゃないか。ハルさんはそんなの望んじゃいないよ。」

➖そんなにズバッと直球で返さなくってもいいんじゃないか。まあそりゃ本音だけどさ➖波留子はぎこちないみを浮かべて三人を見ていた。

「で、何処へ食事に行く。」

快斗が問うと、

「えゝ何、お前一緒に行くつもり。」

「当たり前じゃん。さっき抜け駆けは駄目だって言ったでしょ、ねえ親父。」

悠介も頷き返している。

「ったく、こう言う時だけは上手くつるむんだから。しょうがない、ハルさん、じゃあ四人で行くって事でいいかな。」

仙に聞かれ苦笑しながら頷く波留子だった。➖もうちょっと仕事の事聞きたかったんだけどなあ、まあしょうがないか➖

翌日、昼少し前に仙の元へ波留子から電話が入った。

「もしもしハルさん、考えてくれましたか。」

「はい。あの、やらせて頂きます。でも秘書の資格は持ってても経験はないので何かと至らないとは思いますけど、本当にそれでも宜しいですか。」

「それは大丈夫。徐々じょじょに慣れて行ってくれればいい事だから。それより、そうと決まれば佐野さんから引継ぎをして貰って色々教えて貰っておいた方がいいでしょ。ニ週間あれば大丈夫かな。」

「はい、助かります。」

「じゃあ仕事は来週週明けから、って事でいいね。その前に身分証作ったり事務手続きしなきゃいけないから金曜日にもう一度此方の方へ来社して貰えますか。出来れば十一時頃に。」

「分かりました。では金曜日午前十一時に伺います。宜しくお願いします。」

「此方こそ宜しく、有難うハルさん。」

そして金曜日、午前十一時五分前に波留子は前回同様ロビーのレセプションカウンターを訪ねた。名前と要件を告げると少し待つよう言われほどなくして佐野が現れた。

「お待ちしてました。お引受け頂けるんですね、これで私も安心して辞められます。はい、来訪者カード。今日身分証カード作りますから来週から入社時はいつもそのカードを下げてて下さいね。ではどうぞ此方へ。」

そう言って前回同様波留子を促しエレベーターへ。

「先日小林さんから受諾じゅだくのお電話頂いてから仙部長本当に嬉しそうで、私もそばにいて気分がウキウキしてくるようで本当に嬉しいです。先日もお話ししたように部長はとても気難しい所がお有りになってどんなに優秀な方でも相性が悪いと言うか、気が合わないともう全く仕事にならないんです。私が部長の秘書に決まるまでに一ヶ月で三人変わられたと伺っています。何故私が選ばれたかと言うと部長をおいさめしたから、なんだそうです。ふふっ、変ですよね。でもワザと理不尽な事を言ったり要求して相手の出方を見たりされるんです。そういった時にどんな態度を取るかで本当に会社の為を思っているのかどうかが判るそうで、私はその点で合格したんだそうです。だから結婚しても勤務時間を短縮して継続けいぞくしてくれないか、ってお願いされたんですけど、私結婚したら夫の為に尽くしたいって昔から思っていましたので申し訳ないとは思いつつお断りしたんです。それにもうそんなに若くないから早く子ども欲しくて。でも小林さんにお会いして、部長が心から小林さんを信頼されているのが分かりました。と言うより、部長は本当に小林さんの事がお好きなんですね。小林さんのお話される時の部長のお顔、まるで少年みたいに目がキラキラ輝いてるんですよ。ニ週間、私が御教え出来る事は極力御教えしますので部長の事、宜しくお願いします。」

そう言って頭を下げる佐野に対し波留子は彼女の手を取って、

「仙、じゃない、部長の気持ちについてはよく分かりませんが、此方こそ、ニ週間全力で覚えられるよう頑張ります。でももし何か分からないことや困り事が起きた時は連絡させて頂いても構いませんか。そうならないよう頑張るつもりですけど。」

「構いません。いつでも可能な限りお手伝い致します。」

「有難う、宜しくお願いします。後、私の事は 小林さん じゃなくて ハルさん で構いません。なんか苗字で呼ばれ慣れてないせいか自分の事だって意識が薄くて。これから結婚される方に申し訳ないとは思うんですけど、私離婚したばかりなので。」

「あら、そうだったんですか、それではハルさんとお呼びしますね。じゃあ私も名前で呼んで頂けますか、涼子です。名前で呼び合う方が親近感湧きますものね。でもハルさん、部長本気ですよきっと。私が部長の秘書になって七年になりますが、今回のように部長が浮かれているのを拝見した事ありませんもの。」

そう言うと佐野は波留子としっかり握手を交わしたが、波留子の心中はちょっと複雑だった。

部長室へ入って行くとそこには人事部の部長自らが仙と一緒に待っていた。人事部の部長もやはり仙と同じ位の若い人物で桐生修弥きりゅうしゅうやと名乗った。手続きをしながら波留子は自分の疑問を口にした。

「あのう、大変失礼な事かもしれませんが、中途ちゅうと採用の者に対していつもこの様に人事部長直々じきじきに手続きを行われていらっしゃるんでしょうか。」

「いえ、今回は特別です。仙部長が直々に是非にとお願いして入社して頂くとの事ですので。何分宜しくお願い致します。」

「あ、いえ、此方こそ。ブランクがありますのでご迷惑おかけしない様頑張ります。ご指導の程、宜しくお願いします。」と波留子は深々と頭を下げた。

「手続きは済んだ?」

と仙が声を掛けてくる。

「はい、今日の所はこれで全部終了です。後は来週中に提出していただく書類をお渡しして、此方です。来週中に私の方へ提出頂ければ結構です。」

そう言って波留子に会社の封筒を渡すと桐生は立ち上がり仙と波留子に挨拶して出て行った。

「ハルさん、よく決断してくれました、有難う。」

「仙部長、来週から佐野さんに付いて教えて頂きます。精々せいぜい足手まといにならない様一生懸命頑張りますので宜しくお願いします。」

波留子は仙に頭を下げた。

「ハルさん…話し方違うんだ。あのね、秘書あっての僕だから僕達は相棒、パートナーだよ。それを忘れないで気を楽にしてね、いい。それと会社では 僕 で通してるから宜しく頼みます。」

「はい、承知しました。」

波留子の話し方に少し距離が開いたようで寂しさを感じる仙だった。

週が明けて月曜日、いよいよ波留子のOL生活が再び始まった。朝八時半に会社に出社した波留子はビルに入ると直ぐに身分証カードを首から下げゲートを通ってエレベーターに乗り込んだ。企画宣伝部部長室と書かれたドアを開けると脇にある秘書用デスクの向こう側にはすでに佐野涼子の姿があった。

「おはようございます、ハルさん。今日は初日だから九時頃いらっしゃるのかと思ってましたのにお早いですね。」

「おはようございます。涼子さんこそお早いですね。いつも何時頃出社されてるんですか。」

「私もちょっと前に来たばかりです。八時半までにこの部屋に入る様にしているので。でも、本当はもう少しゆっくりでも大丈夫ですよ。と言うか部長は私があまり早く来るのを嫌がるんです。でも私は時間にゆとりがないと駄目なたちで。それでも最初は八時までに来ていたのを部長に言われ三十分遅らせたんです。あくせく働くばかりが能じゃない、って言うのがこの会社の方針なんですよ、変でしょう。でも部長ご自身が九時前には仕事の用意をされるので部長の仰る通り九時出社では間に合いませんからね。」

そう言いながら笑う涼子はしかし仕事については細かく丁寧にこなして行くのだった。波留子はそんな涼子に付いて時々小振りのノートに要点を書き込んでは彼女に仕事を教わって行った。涼子に教えて貰いながら秘書の仕事を覚えるニ週間はあっという間に過ぎて行った。

「ハルさん、私が教え残したことは多分もうないと思いますよ。ハルさん凄く覚えるの速くて教え甲斐がありました。仙部長の事、呉々くれぐれも宜しくお願いしますね。」

「涼子さん。来週から私一人なんですね、ちょっと怖いけど頑張ります。何かあったら連絡しますから本当に助けて下さいよ。」

「はいはい。でもハルさんなら大丈夫そうですよ、部長もいらっしゃるんだし。それより、仕事絡みじゃなく友人として今度二人で食事にでも行きませんか。仙部長から聞かされたハルさんの惚気話のろけばなしお話しますから。」

「えっ、惚気話って、…お付き合いしてる訳じゃないですよ。でも、食事の方は喜んで。絶対忘れないで下さいね、約束ですよ。」


波留子が秘書として九龍ホールデイングスに働き出してあっという間に三ヶ月が過ぎようとしていた。その間に波留子について色々な噂が社内を駆け巡り、彼女とじかに遣り取りした社員達からは彼女の人柄について好意的な意見が大半を占めていたが、噂の幾つかは彼女を誹謗中傷ひぼうちゅうしょうするようなもので無論彼女の耳にもその噂は届いていた。けれど波留子はどんな噂についても否定も抗弁こうべんもせず噂を無視するように仕事に邁進まいしんしていた。

「ハルさん今日で仮採用は終了ですよ。明日からは晴れて正社員です、おめでとう。」

夕方、仙が秘書室に入って来てそう波留子に告げた。波留子は自身で思っていたよりも秘書の仕事がしょうに合っている気がし始めていたので仙の言葉が本当に嬉しかった。そして波留子が秘書の仕事にいてから仙は波留子に私的な事は何も言わず上司と秘書の立場をつらぬいてくれていた。そんな仙の態度も波留子には仕事がし易く有り難かった。

「ハルさん。実は昨日佐野さん、いや、香山さんからハルさんがうちの親父や快斗のせいで彼是あれきれ噂が立っててつらい立場に立たされてるって連絡を貰ったんだ。彼女にまで噂が届いてるって。どうして言ってくれなかったの、全然気付かないで嫌な思いさせちゃってたね、申し訳なかった。」

「え、あ、いえ部長のせいじゃないですから。」

「今日人事の桐生さんから詳しい事を聞いたよ。なんかハルさんが親父からの求婚を渋ってらしてるとか、快斗がハルさんに交際を申し込んでそでにされたとか。ハルさんが俺達親子三人を手玉に取って天秤に掛けてるとか、好き勝手なゴシップが流れてるって⁉︎ 全く、俺が入って欲しいって頼んだのに。桐生さんには噂流した張本人探し出すように頼んでおいた。どうしてこんな噂流したのかその真意を知る必要があるからね。もう暫くの辛抱しんぼうだから、辞めるなんて言わないでよ。」

「部長、有難うございます。でも大丈夫、私打たれ強いですからご心配には及びません。人の噂も七十五日って言いますから。そのうちこんなおばさんがそんな噂になった事を皆んな笑い飛ばすようになりますって。」

「ハルさん、自分を卑下するような言い方しちゃいけない! それ、ハルさんの悪い癖だよ。」

真剣な面持おももちで注意されて波留子は自分でも気付かぬうちに自分を卑下していた事を知ってやんだ。➖そうだった、前向いて生きていこうって決めたのに自分で自分を否定するような事言っちゃダメじゃん、バカ! でも、悪い癖って言われたって事は私ってばしょっちゅう自分を否定してるの⁉︎ どうしよう➖と焦りを感じた波留子。

「あの部長。」

「もう就業時間過ぎてるから仙でいいよ。何ハルさん?」

腕時計を見ながらそう促す仙。

「私、そんなにしょっちゅう自分の事卑下してます?」

「うん、しょっちゅうって言うほどではないけど、よく『自分のようなおばさんが』とか『私のような中年女』とかって言うでしょ。ああ言うのって聞いてる方が何だか気分下がるって言うかあまり聞きたくないな。」

「そう、なんですか。自分では大して気にも留めずに口にしちゃってましたけど、聞き手が聞きにくいのはやはり良くないですね。これからは気を付けます。」

「いや、そんなに恐縮されても。偉そうな事言っちゃってごめんなさい。」

お互いに恐縮し合っている事に思わず吹き出してしまうのだった。

「一つだけハルさんにお願いしたい事があるんだけど聞いてくれる。」

「何でしょう。」

「あのね、勤務時間外は出来れば初めて会った時みたいに名前で呼んでくれないかな。部長の肩書きで呼ばれてるとずっと仕事してるみたいで。ハルさんにとって俺はもう上司としてしか見てもらえないのかな。前みたいに一緒に食事したり飲みに誘ったりしちゃいけないかな。もしハルさんが迷惑だって言うなら仕方ないけど俺は仕事とプライベートはきっちり分けられる自信はあるよ。それでも名前では呼んで貰えない⁉︎」

仙のそういう気遣いが嬉しかった。

「分かりました。じゃあ就業時間外で二人だけの時か、外でなら名前で、仙さんって呼ばせて頂きます。宜しいですか。他の社員の方々にこれ以上彼是言われたら耐えられなくなっちゃうかもしれませんから。」

それを聞いて仙はハッとした。

「ごめん、そうだった。つい今し方ハルさんに迷惑掛けて申し訳ないって自分で言ったばかりなのに。」

「大丈夫、二人の時なら誰も聞いてませんから。でもさすがに呼び捨てはちょっと。だから仙さんで。」

「有難う、ハルさん。」

「あの、私も一つ伺ってもいいでしょうか。」

「いいよ、何?」

「仙さんお子さんがいらっしゃるって仰ってたでしょ。でも普段お子さんの話もされないからどうしてかな、って。未だ小さいでしょうにと思って、大きなお世話ですかね。」

「ううん気にしてくれてたんだ、有難う。もう小さくはないよ、一人息子。名前は慎(まこと)りっしんべんに真実の真で慎。もう十七歳になるんだ。何故かIQが高くてね、日本で学んでちゃ勿体もったい無いって言われて本人ももっと色々な事を知りたいって言うもんだから十二の時からアメリカで暮らしてるんだ。今マサチューセッツ工科大の大学院で学んでるよ。母似でね、俺より断然ハンサムだよ。」

そう聞かされて苦笑いするしかない波留子。➖どうしてこう天に二物も三物も分け与えて貰える人がいるんだろう、私もあやかりたい➖苦笑にがわらいを隠しつつ、

「じゃああまり会う事はないんですか、親子なのに。」

と尋ねると、

「いや去年までは夏休みと冬休みに戻ってたんだけど今年の夏はバイトしたいからって帰って来なかったな。クリスマスには戻るって言ってたんだけど未だ戻って来ないね。」

「あゝもう直ぐクリスマスなんですね、忘れてた。じゃあクリスマスからお正月は親子で過ごせるんですね。」

「いやあ、今俺も快斗も親父の家に居るから男四人で過ごすんだ。」

にぎやかでいいじゃないですか。」

「そんな事ないよ、男ばっかり四人いても大した会話もないしね。それでもまあ他所よその家よりは賑やかなのかもしれないけど。」

「それでもお互い顔突き合わせて語れるって幸せな事なんじゃないですか。私は娘達が旦那や彼氏連れて来るから用意が面倒臭くて、今年のクリスマスは断りました。お正月はさすがに断れないからせめてクリスマスはゆっくりさせて貰いたくって。なんせパーテイの用意しなくていいクリスマスなんて何十年振りですから。」

「そうなんだ。でも、だったら一人でクリスマスなんて尚更なおさら寂しいんじゃない?良かったらうちに来ない。」

「仙さん、噂に尾鰭おひれがついちゃいますよ。今年は一人で酒盛さかもりでもして過ごしたいんです。」

「ハルさん…。あ、そうだった。今夜桐生さんと三人でお祝いに行かない?」

「はあ⁉︎」

「さっきハルさんの事話しててじゃあ三人でお祝いしよう、って話になったんだ。いいよね。」

仙の勢いに気圧けおされ思わず頷いた波留子だった。

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