『🌏手帳に書かれなかった物語』後編
どれくらいの間、目を閉じていたのかわからない。
目を開けたときに、ボクは自分が死ななかったのを知った。
もっともボクの肉体はなくなり、開いたはずの目ももはや存在していなかった。
それでもボクは目を開いた。
ボクは自分がどうなったのかを知るまでに少し時間がかかった。
肉体がないのに、ものを考えられるということがどうも馴染めなかったのだ。
○
もっとも今のボクはすっかりそれに馴染んでいるし、自分がどうなったのかも把握している。
ボクの体は膨張を続け、空気に溶けて消えた。同時にボクの精神、魂も無限に膨張していった。だが魂や精神というものは元から実体がないため消え失せるということがなかったのだ。
ボクの精神はさらに膨張し、やがてこの地球全体を包み込み、引力にひかれてそこで巨大化は止まった。
ボクの精神はこの地球全体に広がり、空気のようにありとあらゆるところに存在することになったのである。
○
ボクは神になったわけではない。
ボクは昔から人間で、スケイプという名前もちゃんとある。
これでボクがどういう存在かお分かりになっていただけただろう。
○
輝男の過去を詳細に記述できたのも、ボクが空気のようにあらゆる時間、あらゆる空間に存在し、その一部始終を見ていたからなのである。
輝男ばかりではない。
ボクは自分の体がなくなった日から、地球上のすべての場所に存在し、それまでに誕生したあらゆる生命の傍らにいた。
○
ボクは本当にたくさんのものを見てきた。
たくさんの命が生まれ、消えていくのを見てきた。
○
ボクはたくさんの戦争を見た。
いやになるくらいたくさんの戦争だ。
最初はどれも小さな戦争だった。棍棒や槍を握りしめ、ちっぽけな領土を巡って殺し合いをしていた。
それから宗教が多くの戦争を引きおこした。あらゆる宗教が命の尊さ、みんなが幸せに暮らすことが大事だと教えながら、その教えを広げるために、剣や弓矢を握りしめて、多くの命を奪っていった。
それから国家が起こす戦争が世界中で繰り広げられた。その時は自由と平等が戦った。人が暮らしていく上でどちらも大切な信条なのに、そのどちらが勝つ必要もないと言うのに、あまりに多くの命が戦争の火の中にくべられた。
○
理由を色々と変えながら、いつも戦争は起こった。
あらゆる戦争の中に潜む大儀や理屈には全く意味がない。
これは昔から変わらない。
理由や口実を変えているだけで、戦争という行為そのものは何も変わってはいないのだ。
だから戦争の理由なんて聞いてはいけない。
それを信じちゃいけない。
それは全て都合のいい嘘に決まっているのだから。
なぜなら人殺しが、同族殺しが正しい道であるはずがないからだ。
○
ボクが嘆くのは戦争ばかりではない。犯罪だってそうだ。
人はいろんな道具を手に入れてから、その生活を飛躍的に安楽にさせた。
だがその安楽さは人に悪い心を生じさせた。
あまりに多くのことができるものだから、人は自分ひとりで生きられると思い込むようになってしまった。他人のことを気遣えなくなり、そもそも他人とともに生きる意志すらなくしてしまった。
○
輝男を取り巻いていた悪い人間達がいい例だ。
自分ひとりの安楽を手に入れるために、平気で他人の心と体を踏みにじる。踏みにじってもそれに気づきもしない鈍感な人間ばかりが増えていった。
ありとあらゆる犯罪の根にこの悪い心がある。
だからよく考えるべきだ。じっくりと想像するべきだ。
自分の事だけでなく、自分を取り巻いているいろんなことを。
そして自分の心と魂を見つめなおすべきだ。人間はそんなことのために生まれたわけではないのだ。人を傷つけてもなんとも思わない、そんな人間を作り出すために文明が生まれたわけではないのだ。
○
ボクはあらゆる人間の傍らに寄り添い、戦争と犯罪のふたつを目撃するたびに心を痛めてきた。
ボクはあらゆる人間の傍らにいて、彼らがその瞬間に居合わせるまでの人生を見てきた。
特に彼らが狂っていたわけではない。みんなが普通の人生を送っているのを見てきたし、幸せに暮らしていた時代も見てきている。
それでも戦争は起こり、犯罪は起こった。
○
織田輝男のいうとおり、そこには集団の低年齢化の問題があるのかもしれない。
今の人間の理性はあまりにたやすく吹っ飛んでしまう。
そして現在、輝男があの収容所を逃げ出そうとしていたこの時代、人類の集団とは全地球レベルにまで大きくなっている。
インターネットは全世界の情報をつなぎ、いまや国家の壁は消えて人類はひとつの大きな世界を作り出そうとしている。
しかし同時にその集団規模はこれまでにないほど巨大になり、いっそうの低年齢化がすすんでいこうとしている。
○
それがもたらすものはいったいなんだろう?
○
残念ながら、この世界の未来をボクは知らない。
ボクが知っているのは、小型化した織田博士たちの子孫がアトランティスというユートピアを作り上げるということだけだ。
ボクはずっとアトランティスという壁の中で暮らしていたから、アトランティス以外の歴史は知りようもなかった。
○
ボクはこのままでは人類が滅びてしまうのではないかと心配だ。
現在人類が手にしている武器はとても危険なものばかりだし、低年齢化で戦争が広がる気配も濃厚だ。
またいつ果てるともない戦争が始まり、何の意味も正義もない戦争がまた繰り返される気がしてならない。
ボクは本当に心配だ。
そして本心を言えば、人類のおろかさに、その成長のなさに腹が立ってならない。
○
ボクは人類という種の愚かさを知っている。
それでも希望を捨てないのは、愚かさ以上によいところがあることも知っているからだ。人類という集団そのものは愚かでも、それを構成する人間一人一人にはよいところがたくさんあるからだ。
その証拠にボクは今でもエイプリルを愛している。
アトランティスに住む彼女の子孫達全てを愛している。
今のボクのお気に入りはサクラという女の子だ。
彼女は昔のエイプリルにそっくりだ。
穏やかで、聡明で、自然を愛し、仲間と共に生き、みんなで生きているということを実感し、生きていることを楽しんでいる。
○
サクラだけではない。織田輝男だって、神城龍次だって、山川鋭子だって、彼らはみな真剣に生きている。仲間とともに楽しく暮らせる世界を作ろうと生きている。
織田博士が言ったように、彼らはまだ子供の段階なのだ。
子供にしては多くの血を流しすぎてはいるが、子供はいずれ大きくなるものだ。
それにはまず自分が大人にならなくてはいけない。
○
さてボクの作文もそろそろ終わりだ。
最後に謎解きをもう少し付け加えよう。
○
まずは海に沈んだ小型化装置のことだ。
ボクが胸の袋から落としてしまったあれは、いまもアトランティス近くの海底に沈んでいる。
そして五千年の昔から約二時間ごとにタイマーが作動し、一筋の光を出し続けている。過去にはその二時間ごとの光を偶然浴びてしまった船や飛行機がいた。穏やかな海を航海中に、晴天の空を飛んでいる最中に、忽然と消え謎の失踪を遂げたとされる一連の事件がそれだ。
彼らは異次元に吸い込まれたわけでもなく、また謎の円盤にさらわれたわけでもなく、ただ小型化し、どこへもたどり着けなかっただけだった。
○
大学生だった輝男と龍次も嵐の中で、この光を浴びて小型化した。
これはまったくの偶然だったが、そこに織田輝男がいたというのは必然だったのかもしれない。
あの日から織田輝男は自分の運命を確信し、それをなし遂げるために生きることになった。
そして彼にそれを決心させたのは、ダイアモンドのつまようじに刻まれた、ボクの書いたあの作文だった。
ボクは自分の書いたあの作文が、歴史上あまりに重大な、あの脱獄事件の引き金になるとは夢にも思わなかった。
○
それからもうひとつ、最後の謎解きを。
織田輝男と神城龍次は小型化装置の光を浴びてアトランティスにたどり着いた。
ではどうやって大型化してもとの世界に戻ったのか?
実はサクラが物質小型化装置を持っていたのだ。
それは遠い昔にエイプリルが持ち込んだもので、ボクはエイプリルからは何も盗み出さなかったから、その装置だけはずっと彼女の手元に残っていたのだ。
彼女はアトランティスの誰に対してもそれをずっと秘密にしていた。
秘密にして代々、アトランティス大陸の秘密とともに、その装置を子孫に受け継いでいった。
そして輝男と龍次がアトランティスにたどり着いたとき、サクラがアトランティスを守るために二人を大型化して送り返したのである。
○
さて、そろそろこの物語も終わりにしよう。
最後に織田輝男の事を少しだけ語っておきたい。
○
ボクは織田輝男がこの脱獄事件の中心であることをはじめから知っていたわけではない。
たしかにボクは地球上のありとあらゆる人間の傍らにいて、耳を澄ませ、目をこらし、二百人の科学者を率いて脱獄する伝説の科学者の出現を心待ちにしていた。
その人間がどんな人間なのかとても興味があったのだ。
どんな風に生まれ、どんな風に育ち、なぜ刑務所に捕らえられたのか?
そこからどうやって脱獄したのか?
どうしてアトランティスのような世界を作り出そうと考えたのか?
ボクは天才がうまれるたびに彼らの人生に付き添い、彼らが成長していくのをじっと見守ってきた。
織田輝男も最初はその天才のなかのひとりだった。
○
だがわたしはすぐに気が付くことになる。
彼だけは特別だった。
○
ボクは織田輝男と言う人間が大好きだ。
不幸を一身に背負いながらも、彼は腐ることなく、正しいことのために生きようといつでも頑張ってきた。
そんな彼だからこそユートピアを作り出せたのだ。
ボクはそこから逃げ出してしまったけれど、
彼の作り出した小さな世界はもっとも偉大な世界だった。
今のボクにはそれがよく分かる。
今のボクだからこそ、それがよく分かるのだ。
終わり
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