第28話 まにはんどま

 ぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああ……ッ


 俺はそのよくわからない念仏のような気味の悪い声に見送られるかのように、蟻地獄の罠を思わせる砂の渦の中心にどんどんと飲まれていった。


 おいおい、なんだこれは。俺らはみんなであの山を目指して歩いていたんじゃなかったか? いや、そのはずだ。みんなはどこにいる? ノイ? エラ? ……コーリ?

 なんっにも見えない。誰の声も聞こえ無いし、俺の声もきっとみんなに届いていない。


 ……。おーい。……おーい。

 ……駄目だ、俺しかいない。やばい、さびしい……。


 完全にみんなとはぐれてしまったんだと理解した途端にさっきからかすかに聞こえていきていた念仏の様な声が、次第により鮮明になりまるで頭の中に直接流れ込んできているんじゃないかと思う程の大音量で響き始めた。


 オン ア ボ キャ ベイ ロ シャ ノウ 


 あああ、どうしよう。もうわかる。わかってしまう。『音』の波動が……これはもう、俺の意思が及ばなくなっていくやつだとわかる



 マ カ ボ ダラ マ ニ ハン ドマ 



 なんだろう、温かい。ぐうーと、背中側に体が、引っ張られて、時間が、ど  ん   ど     ん      ゆ     っ               く                       り               に  



 ヂンバ ラ ハラ バ リタ ヤ ウン


 ――そうして、おれをとりまくすべてのものが、またたくまにひきはがされていく!!


「ああッ……アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」


 そのまま俺は自分の後ろ、背中側に体がぐいぐい引っ張られ続け気付けば砂の海の中で仰向けの状態で、そしてその体勢のまんま自分でも信じられないような、聞いた事の無いくらいの大声で息の許す限り叫び続けていた。

 その自分自身が大声で叫ぶ声を聞いては脳内で、なんだ随分と大声で叫んでるじゃないか、どうした大丈夫か、そんなに叫んで辛そうに、とまるで他人事のように呑気に考えていた。


 やがて大音量で聞こえていた念仏の一つ一つの『音』が具現化していく。そうして可視化された23個の梵字が俺に近付いてきて、そして体の至る所に張り付いていく。

 その可視化された『音』達が顔や腕にぐうっとめり込んでくる。その感覚が気持ち悪く、頭がおかしくなりそうだ。ちなみに痛みは無い。


 とと と と と とと と と と と

 オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドマジンバラハラビリタヤウン

   と   とと  と    と   と

 オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドマジンバラハラビリタヤウン

               と       と

 張りついてきたその梵字からそのまま、体の内部に浸透するように念仏が発せられる。それは『俺の生命の音』を上書きするように響いてくるもんだから、俺は何かを考えていないと自我までもが奪い取られてしまいそうな恐怖から逃げ出そうと、必死に思考を巡らせる対象を探す。俺の体はというと今も絶叫を続けていた。ただもう喉は嗄れ切って、声は出ていなかった。


 ――しかし、そのような抵抗も虚しく自我はどんどんと持ってかれているようで、全身が徐々にとろけていくような感覚がそれを物語る。

 とろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろ

 いつしか抵抗する事をやめ、恍惚に浸っていた。あぁいいね。いいじゃん。ふふ。これいいやつだよ、うん。


 あり得ないくらいの気持ちよさにいつのまにやら身を委ね、全身の力が抜けていく。そのまま首を脱力して顔を右に向け、涎を垂らしながらふわふわを楽しみ始めた――ああ、ちなみに実際は左を向いていた。例の脳みそが起こした錯覚だ。

 そして手足はそれぞれ伸ばした先の各方向へと、ゆっ……くりと俺の体を遠く離れていき、心臓の鼓動も次第にどこか遠くへ隠れていってしまった。内臓は気持ち悪いから、もう全部いらないよじゃあねバイバイ。


 俺の生命のとととと音もいつのまにか一切聞こえなくなっちゃった。


 そうして俺は今のこの環境で過ごすにあたって、自分の中のいらない物は省いてとにかく最適化に努めた。なんとなくいればいい。この環境に浸れているだけでいいんだ。幸せだ。いつのまにやら俺の物理的な部分は全て消失していた。完全なミニマリストだな、傑作だ。


 そのままひたすらとボーッとしていた。すると、とても優しい声に話しかけられた。


「ノブルさん。こんにちは。私は――宇宙です」


 ハハ。ついさっき太陽と会話したばかりだが、とうとう宇宙にまで話しかけられた。

 不思議と驚きや疑いの念はほとんど湧かず、それよりも今は話し相手が出来る事がとにかく嬉しい。

 挨拶を返す。

「やぁ。こんにちは」


「ノブルさんが先程から耳にしていた言葉の波動、あなたは念仏と表していましたね。あれは『マントラ』というものです。この地球上でもっとも古い宇宙の言葉、サンスクリット語の音の組合せによって波動を生み出し、現像世界の束縛から解放され全ての災いを取り除く事が出来ます」


 よくしゃべる宇宙だぜ、はは。

「そいつはとてもありがたいですね」


「はい。この波動のパターンは光明真言と言って日本人がインドから持ち帰った最強のマントラです。ですのであなたもどこか懐かしいような親しみを感じているかと思います」


「そうなんですね。今とても気分がいいです」


「しかし、今あなたに聞こえているマントラは――『日本人』が自分達の言葉で再解釈して広めたものになりますので真のサンスクリット語とは言えません。ですので必然的に音のバイブレーションが生み出す効果も半減しているのです。

……ここから先はサンスクリット本来の形で聞いてもらいましょう。

それをもってして、あなたはあなたの心の膿を全て出し切り、あなたの脳とハイアーセルフとの繋がりのチューニングを行い、アセンションによってあなた自身がこの世界を導くのです」


「よくわかりませんが、ワクワクが止まりません。早くお願いします」


 俺がそう返すと、先程まで響いていた念仏が徐々に聞こえなくなっていった。



 ……オーム     アモーガ……

    ヴェイローチャナ    マハームドナー……


 宇宙がそれを唱え始めた。

 その『音』認識するが先かするより先か――


 ビリビリビリビリビリィッ!!! 

「ぎあああ!!」

 得も言われぬ感覚が、激しい稲妻のように俺の体を突き抜ける。そのまま、さっきまでとは比べ物にならない程の音の波動が、俺の体を限り無く薄く伸ばしていく。俺の額があった部分には水が滴り落ちてきているような清涼感が、へそがあった部分の下あたりには熱く重たい質感を感じる。


 宇宙はそんな俺の様子に気を取られる事も無く、そのまま続ける。


 マ

   ニ 

   パドマ    

    ジヴァラ

     プ

      ラ

       ワ

        ル

         ッ

          タ  

            ヤ  フーム


 あああああ……ああ。なんだよこれ、あり得ない。

 さっき感じたよりも更に強く、背中側に体がぐいぐいと引っ張られる。言い知れない恐怖心から仰向けのまま無意識のうちに、体に力を入れて必死に抵抗する。


 そこで宇宙が一喝する。「手放しなさい!」


 次の瞬間、その声に従うかの如く俺の体の力はふっと抜け、俺は俺の体を抜けて――物凄いスピードで落下した。


「わあああああ!!」


 砂の世界を抜けて、さらにその奥……漆黒の世界に包まれる。



 あーあ。こんなに落ちてったら、もう二度と上がれないだろ。上がれるわけがない。絶望とはまた違う。この感覚は『理解』と言ったらいいのだろうか。



 そうしていると突如額の上に――小さな太陽が浮かび上がる。小さいながらに物凄いエネルギーを感じられた。

 こ、これは……お前は俺から生まれたのかァ?


 宇宙の声がまた聞こえてくる。

「ノブルさん。無事、第七の扉を開きましたね。おめでとうございます」

 今度は最初のようにとても優しい声だった。

 俺はその言葉を聞いた途端、溢れ出る感情が抑えきれず、涙を流す。


 そして……目の前に背中から大きな羽を生やした変な格好の男がフワっと浮かびあがり、次第にその像をはっきりとさせる。

 なんだこいつは。そう思いよく見てみると……俺だった。

 変な格好をした、とびきりの笑顔の俺だった。なあ宇宙、こいつが俺のハイアーセルフだと……やめてくれよ。





 おもしろすぎるだろ。

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